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桜人(さくらびと)

作者: 一ノ瀬 澪

     *


 どこまでも続く細長い暗闇のなかに、靴底の鳴る音だけが清らかに響いていた。

 ところどころ壁の剥げ落ちた古いコンクリート造りの校舎は、歩くたびに足の先が沈んでいくような気がした。視覚や嗅覚はいっさいの役割を果たさない。群青色をした深い海の底に子どもの手にした小さな鈴の音が響いている、閉じ込められているような、それは息が詰まるような苦しさだった。

 光はなく、目を閉じると、通りすぎる開け放たれた扉の奥に、汗や生活感の染み込んださまざまの道具が転がっている姿が鮮明に浮かびあがってきた。斜めに大きく折れ目の入ったタイム表、籠いっぱいの色褪せたテニスボール、羽の折れたシャトル。突き当たりを左に折れたすぐのところには野球部の部室がある。三年前の今日、俺は将来きっとここにいるのだと疑ってなかった場所だ。

 左には曲がらず、かわりに右にある扉のほうを向いた。取っ手に引っ掛けられた白い長方形のプレートには、暗室、とかすれた字で大きく印字された跡がある。

 掌で包み込むように取っ手に触れると、滲み出た汗の熱であいだに挟まれた空気がわずかに膨らむのが分かった。耳を澄ませばひゅうひゅうとか細い口笛のような声が聞こえてくる。威圧感があり、それは一秒でも早く俺が胸に飛び込んでいくのを待っているようにも思えた。息を吐き、瞳を大きく見開くのと同時に踏み出した。

 光の海だった。

 四方に暗幕の引かれた狭い部屋、黄金色の光を盃いっぱいの水のようにたたえた窓は開かれて、その奥に一本の太い桜の木が立っていた。心のなかで俺はひざまずく。瑞々しさを先端に残した細い枝は落ちそうな空を受け止めるように上を向き、この世に生きていることの歓びに溢れている。風に舞い上げられた無数の桃の花びらは泳いでいるというよりは、切り取られた写真のように等しい間隔で静止しているようだった。

 す、と、俺は窓の外に向かってまっすぐ手を差し伸べた。すると静止していた花の桃色たちがたちまち動き出し、打ち上げられた花火のようにぽんと膨れあがって、そのうちのいくらかが部屋のなかに流れ込んできた。主を見つけた妖精のように優しく俺の身体にまとわりつく。

 フェンスを挟んだ向こう側、暗室の窓に背を向けるようにして置かれたベンチの上に、背中に黒い大きな模様のある縞猫が横たわっていた。俺はうっすらと目を細めた。静かで、何もかもが穏やかだった。包み込む母のような、降り注ぐ雨のような、しかしそこにあるのは、ただ、孤独だった。

 桜。

 他のどの木々よりも早くに花を付け、他のどの木々よりも早くに散っていく。

 校舎の東の端に位置する築五十年の部室棟。その隣に、フェンスを挟んで寄り添うようにしてまるい形の公園が設けられている。取って付けたように置かれた真っ赤な色のベンチがひとつある以外には遊具の類は何もなく、だから放課後や休日に遊びに来る子どもは一人もいない。その中央にひっそりと、しかしおごそかにたたずむ樹齢一〇〇年の寒桜。三月の上旬には満開になり、高校が入学式を迎える前には散ってしまう。通学路を上から覆い隠すようにして花開く若木たち、その内側を満たす祝福されたざわめきから離れて、まちがえたように青々とした葉を茂らせている。

 ――早すぎたのだ、俺も、この桜も。何もかも。

 部屋の隅に放り出されていた椅子を引き寄せ、背もたれを壁に付けるようにして置いた。それに跨り、窓枠の上に頬杖をつく。舞い散る花びらに重なって、どこからか合唱の声が聞こえてくる。

 右手と左手、両方の親指と人さし指を開いてフレームを作り、覗き込む。遠くから響いていた歌声が止んだ。かわりに俺の胸を満たしたのは、世界を変えた彼女の弾けたような笑い声だった。

     

     1


 罰があたったのだ。そうでなければ、あんな事故が起こることはまずなかった。

 空は塗りつぶしたような瑠璃色で、その下で艶のない薄桃がお互いをくすぐり合うように指先だけで揺れていた。俺は目を細め、校庭をぐるりと取り囲む無数の桜から焦点をずらした。澄んでいた視界がぼやけて横に伸び、校舎の白い壁やフェンスの緑が一本の線のように繋がった。

 すると視界の両端から、白い綿毛のようなものが何かに吸いつけられるように集まってきた。瞬きをひとつするとそこには人がいた。つば広の白い帽子をかぶり、羽のようなワンピースに包まれた、純潔を絵に描いたようにきれいな女の人だった。

 ――あの人は何を見ているのだろう。

 心のなかで呟いた。つま先立ちをして覗き込むのと同時に、どこかで俺の名を呼ぶ声がした。

 振り返り、上を向いてぼんやりと目を見開いた。頭上から灰色の溝鼠みたいな塊が降ってくる。そういえば今まで俺は何をしていたんだっけ、そう胸に問いかけるのもつかの間、鼻梁に裂けるような痛みがして左目にまるいものが重なった。


 目を覚ますと、真っ先に視界に飛び込んできたのは病院の白い天井だった。視界の左側は布でもかぶせられたように闇だった。

 すぐに医者がやって来て、俺は四時限目のスポーツテストの最中に、ペアを組んでいた同じクラスの宮藤君の投げたボールが左の眼球を直撃して、その場で昏倒したことを知らされた。そこで、ここからが問題なのですが、と医者は続ける。前面からの強い鈍的外力によって眼窩が変形して、眼窩床という、骨のまあ薄い部分があるのですが、そこに罅が入りました。軽いものですので、手術をする必要はありません。二週間ほどここで安静にしていていただければ結構です。

 はあ、そうですか。慣れた医者の口調に俺はただ頷くことしかできず、しかもひたすらに受け身だった。医者はそれから後遺症のこと、退院した後のリハビリのことなどを大して感情もなさそうに話すと、尻についた埃を払うようにして病室を出て行った。

 しばらく一人にして欲しかった。しかしそれを乞う間もなく、胸に大きな紙袋を抱えた宮藤君が見舞いに来た。

「一生償います」

 俺がパイプ椅子を勧めてやるなり宮藤君は言った。俺は大袈裟に手を振った。

「いやいやいや、男に一生償いますとか言われても気持ち悪いだけだろ。今回のことは百パーセント俺の前方不注意だった。だから君はひとつも負い目を感じることはないし、もちろん賠償金を支払う義務もない」

 宮藤君はいじめられていた。白粉で洗ったような長細い顔と燃料の切れた街灯にしか見えない体躯がいかにも弱そうで、登下校のたびに蹴られ、大量のガムを押し付けられる薄い背中がいつ直角に折れ曲がるのかとはらはらした。そうあることがあたりまえのように狭められた肩の上で、梳いた長髪がそよいでいる。

 気の毒に思ったのではなく、ただ純粋にかかわるのが嫌なだけだった。しかし宮藤君は自分を庇うような返答をされたことより、俺がまともに言葉を喋ったことに驚いているようだった。何度も何度も瞬きし、身体を上から下まで舐めまわすように見る。それから急に打ち解けた口調で、

「でも、野球の選手だったんでしょう」と言った。

 あー、と、俺は口を半開きにしてだらしない声を漏らしてしまった。ああ、そうだ。そうだよ。

 だからあんたの死んだ溝鼠みたいな球を受けて病院に担ぎ込まれた自分が悔しくてたまんねえんだよ。同情するなら代わってくれ。それが無理なら一刻も早くここから出てってくれよ。

「あー、それね。もういいんだよ。野球は中学でお終いにするって前々から決めてたんだ。どうせ村西か誰かが喋ったんだろ? それで見舞いぐらい行ってやれよって強引に勧められたんだろ? ほら、あの単純野球バカを黙らせるうまい口実を言うのはなかなか難しいからさ。でも俺は俺でちゃんとわかってるつもりだ、自分に才能がないっていうことを。そうだ。俺には光るものがない。このまま野球を続けていくことで開かれる明るい未来が見えない。うっかり坊主にする前でよかったよ」

 よほど目の前の敵を追い出したくてたまらなかったのか、俺はいつになく饒舌になっていた。ぽかんとする宮藤君の表情がおかしくてたまらない、それはおそらく、泣き笑いだった。

「だからこう見えて俺は君に感謝してるんだぜ? そんなことより、もし佐藤や親に今回の事故のことを聞かれたら、宮藤君が俺に向かって一四〇キロの豪速球を投げたことにしておいてくれないか。実は僕中学のときリトルシニアのピッチャーで、四番でエースで、つい癖で投げちゃったんです、ってさ。そうだ、そうしよう。それならあいつも、……俺もきっと納得するからさ」


 宮藤君は言われたとおりにした。

 その結果、いじめられていたはずの宮藤君はすっかりクラスの人気者になってしまった。体脂肪率六パーセントの天性のいじめられっ子が一四〇キロの豪速球を投げ、その証拠に無口で体格のいい俺を病院送りにした。男子はともかく、女子にはそのギャップがいとおしくてたまらないらしかった。担任の佐藤は俺のことを「一年一組の救世主」と呼んだ。俺は佐藤の顔を思い出せなかった。

 入学式直後の健康診断でたしかに一・二あった左目の視力は、事故後、〇・〇三まで落ちていた。片方の視力が極端に落ちると、もう片方の目がそれを補うために過当な働きをする。残されていた右目の視力が失われるのも時間の問題だと思った。

 何もかもが曖昧だった。目覚めて意識の定まらない東雲に、湿気を含んだ夜の空気が優しく皮膚を弾いている。どこにいても何をしてもベランダで春霞を見ているような世界のなかに、どれが嘘でどれがほんとうなのか、その区別すらまったくつけることができなかった。


 約束の日が来ても、俺はリハビリには行かず、紅に染まる放課後の教室に何時間も居座り、教卓の正面の席を巣を抱く親鳥のように大切に守っていた。クラスメイトや教師は何も言わなかった。不慮の事故で視力を失い、六年間ともに歩んできた野球まで失った、孤独な少年からこれ以上居場所を取り上げてしまうことを不憫にでも思ったのだろう。

「なあ、落ち込んでいるのは分かるけどさ、何もすっぱりやめてしまう必要はないんじゃないか」

 ある日、白墨の粉かも分からぬ霧のかかった黒板を見上げていると、村西が教室を訪ねてきた。村西は元リトルシニアのピッチャーで、四番でエースだった。

 俺は軽く頬杖をついたまま、村西から視線を逸らして言った。

「村西君。俺は別に落ち込んでいるからこんなことをしているわけではないのだよ。ただ、今、俺の世界はこんなにぼやけているけれども、生きていくのに不自由はひとつもないことに感心しているだけなのだよ」

「今すぐに復帰しろと言っているわけじゃない。おまえの野球に対する情熱は、野球だけじゃない、すべての周りに存在するものに対する誠意は、こうも簡単に切れてしまうものなのか。あんなに楽しかった日のことを忘れたのか」

「生産性のないものに楽しさなどない」

 俺は野球がなくても生きていける。それは今回のことではっきりした。視力の衰えについてはあのとき唐突に起こってしまったわけではなかった。緩やかに、穏やかに、まるでふやけた半紙にじわじわと墨汁が染みていくように、もっと遠い以前から始まっていたことだった。

 スポーツの最中は頭を動かすな。ボールから決して目を離すな。

 それは野球にかぎらず、どの球技でも必ず一度は言われることだ。俺にはボールが見えない。投手の指先を離れたボールは正面ではなく横を通る。その角速度は投手の近くで遅く、手もとでは一〇〇キロを優に超えている。さながら光の澪筋のようなそれを、最初から最後まで見失わずに目で追っていくことなど、俺でなくとも不可能だ。

 しかし人は一〇〇年という悠久の時を経て、数え切れないほどのホームランをフィールドの外に送り出してきた。そこにはたしかに光があった。理性ではなく本能で、計画ではなく衝動で、常に彼らは視線を跳躍させてボールがバットの先へ飛び込んでくるのを待っていた。俺はそれができなかった。視点が目的の場所へと跳躍するあいだ、本人にはものがまったく見えていない。ボールは俺の魂であり、勝利へと結ばれていく魔法がいっぱいに詰まった結晶だった。そんなかけがえのないものを一秒でも意識の外へ行かせてしまうことが恐ろしくてたまらなかった。

 おそらく、村西の言うとおりなのだろう。野球を心の底から愛している人間ならそんなことは考えない。目先のことばかりに視線を落とさずに、常に気持ちを飛躍して、遠い光のなかで羽ばたいてくる自分を受け止める。

 村西、と俺は低い声で奴の名を呼んだ。

「最近はちゃんと眠れてるか?」

 皮肉を言ったつもりだった。過去に何度も甲子園の土を踏んでいる野球の強豪であるこの高校は、一方で県内有数の進学校としても知られている。日々の練習がいくら厳しいといえ、宿題を一度もやってこないどころか、最前列の席で堂々と居眠りをする村西の勇姿は今や学年中で評判だったのだ。

「ああ、それな。聞いてくれよ」村西はほどけたような笑みを浮かべて言った。「野球場は駅から遠いし、試合前なんて深夜まで当然のように練習をしてるから、よく終電を逃すんだよな。ぎりぎり間に合ったとしても寝過ごして気付いたら終点でしたっていうことがほとんどだし。そういうときは仕方なくタクシーを呼んで帰るんだけどさ、最近あんまりそれが多いものだから、しびれを切らした母親が、『今度終電を逃したらタクシー代はおまえの小遣いから引く』とか言ってるんだぜ。別に俺は遊んでいて帰りが遅くなるわけじゃないんだから、そうやってむやみに息子の夢を削ぐような真似をしないで欲しいよな。じいちゃんなんかはさ……」

 夢って、何だ。このまま高校、大学と野球を続けていれば必ずプロになれるのか。それで一生食べていけるのか。

 俺は村西が眩しかった。いつになく饒舌に物を語るのは、日々の練習で汗にまみれ、つい母親に咎められるほどの充実した青春を生きている自分が好きだからなのだと分かっていた。夢を現実にしようと死に物狂いでもがいているわけではない。

「おまえは気楽でいいよ。俺はおまえが羨ましい」

 散々村西の自慢話を聞かされたあと、俺は苦笑交じりにそう言った。それが精一杯の言葉だった。興ざめして冗談を言う気も起きないほど、俺は変わってしまっていたのだから。


 俺は野球を捨てるのと同時に美しい世界を失った。現実と夢を双子のように抱きしめる心のやわらかさを失った。これは罰だ。俺はもう二度と、この世の美しいものの姿を見ることはないだろう。そう諦めていたときだった。

 彼女に出会った。

     

     2


 次に彼女を見たのは一年の終わりの春休みだった。

 高校に進学し、野球を捨てて見違えたように勉強に取り組み始めた俺は、誰に急かされるわけでもなく毎日せっせと学校の図書室に通い詰めていた。勉強に逃げ道があるのはありがたかった。卒業後は一流の大学に進学して教師になると言えば、邪魔する人間は誰もいなかったのだから。

そんな四月のある日、室内の自習スペースにいた俺のもとに村西から一本の電話がかかってきた。教室前のロッカーに新しい運動靴があるから、暇ができたら部室まで持って来いというのだ。

 それならいったいおまえは今まで何を履いて練習をしていたのか。思わずそう言い返してやりたい衝動に駆られたが、俺は相槌ひとつだけ打って電話を切った。何となく、村西が気を遣ってくれているような気がしたのだ。

 しかしそれは杞憂だった。村西は俺に電話をかけたことなどすっかり忘れて、早々にチームメイトとともに練習に出かけてしまったのだった。俺は靴の入った袋を扉の前に投げ捨てた。そして途方に暮れてしまった。このままここに来たことも告げずに引き返してしまうのはどうも負けを認めるようで気に食わず、かといって転がっていたボールを窓の外へ投げるような気力もすでにない。

 部室の前にひとつの空き部屋があった。

 そこは俺が入学する何年も前に廃部になった写真部が残した暗室だった。接着剤で固定したような扉を押して入ると、なかは埃の海だった。空気全体にグレーに色を付けたような煙たさで、部屋の奥にかすかに滲む光が吸いこまれるように遠かった。

 ようやくブラインドまで歩み寄り、それを上げ勢いよく窓をスライドさせると、流れ込む風の冷たさに俺は一瞬目を細めた。冷たく、しかしやわらかく前髪を掻き上げるそれは、そっと導くように顎を上に向かせた。部屋中の埃のせいなのか、それともただ俺の目が遠いせいなのか、視界は白く霞んでいた。視線の先には満開の桜があった。

 夢じゃないかと思ったのだ。

 それから、俺はその桜をずっと見ていた。何日も何時間も、ときには背後に野球部員たちのゆかいな喚声を聞きながら、俺は自分でもうんざりするほど長い時を感傷に浸っていた。早朝の六時や、夕方の四時、誰もいない暗闇で、誰も見たことのない季節のなかで、霞んで二倍にも三倍にも膨れあがった桜を見るのは最高だった。風が吹くたび部屋に舞い込む花びらの上の水滴や、それに反射する光の粒のひとつひとつを、俺は手に取ってなぞってみた。揺れる雫に冷えた心が共振した。血を涙で溶かしたようなその色に、心臓が縁から凍らされていくのを感じた。

 それは一生ここに孤独でいてもかまわないとさえ思わせる妖しさだった。

 しかし俺がその景色をいとおしむことができたのは最初の一週間だけだった。一週間後、校庭に植えられている五十本もの桜が満開を迎えると、公園の桜は花びらの一枚一枚が競うようにして散っていった。三日後には三分の葉桜になった。美しさとも違う、爽やかさとも違う、優しすぎる孤独に包まれた夏の始まりを、俺は見捨てることができなかった。


 いつのころか、俺はその桜を眺めているのが自分だけではないことに気付いていた。そして、その人の視線はたしかに緑の混じった枝の先端に結ばれているが、その瞳の見ているものが、桜ではない、別の何かであることにも気付いていた。

 ある日の午後、俺は部室棟に行くより先に公園を訪れた。桜の幹を囲うように立てられた高さ三十センチほどの柵を爪先で蹴っていると、左手から声をかけられた。

「写真に興味があるのかね」

 ポケットに手を入れたまま、首から上だけで振り向いた。

そこには一脚の赤いベンチがあり、端に膝に一匹の猫を乗せた老人が腰かけていた。老人の横には彼女がいた。

「いつもあの部屋からこっちを見とるだろう」そう言って老人はフェンスの向こうを指で示した。「たしかあそこは写真部が使っている暗室だった、違うか」

「よくご存知ですね」

 低い声で俺は言った。もっとも、その写真部は今はもうありませんけどね、とは言わずに。

「私は五十年前に部を創設したメンバーの一人だった」

「そうなんですか」

 写真部やその部員がどうだろうが俺にはとんと興味がなかった。もちろん彼らが今どこで何をして過ごしているのかということも。老人は豊かな白髪を黒目の上で分けており、その下の、引き締まった目尻の先に延びる皺の鋭さが、遠目にも映えていた。

 五十年、俺には想像もつかない時間だ。

「昔は焼き付けや引き伸ばしなども部員たちで自らやったものだが、どうだ、今もやるのかね」

「さあ、やるんじゃないですか」

「君は写真にいちばん大切なものは何だと思う?」

「綿密に計画を練った構図とかですか」

「そうだな。もちろんそれも大切だ。だが写真は生き物だ、人間の力で目の前にあるものを動かそうとしなくとも、一瞬カメラを構えるだけで、鮮やかな花のそよぎや、葉に降る驟雨が、心に思い描いたように姿を変えてくれる。いや、心が自然に語りかけるのではなく、自然が心に語りかけるのだ。写真は、ファインダー越しに自分の見ている景色が、この世でいちばん優れているのだと思わせてくれる素晴らしいものなのだよ」

 老人はまるで何年も親しんできた愛読書でも朗読するようにそう言った。そして俺のほうを見た。「君はなぜこの葉桜を見るんだ」

 俺は答えに詰まってしまった。ポケットに入れていた右手を握りしめ、顔を逸らすように空を見上げる。

 老人も俺につられるようにして揺れる花の海を見上げ、それから瞼を撫でられたように落とすと、膝に眠る猫のやわらかな背を撫でた。その手付きには悲しみが宿っていた。

「……君はすでに分かっているんじゃないかと思ったんだ。文学も自然もスポーツも、何事も美の頂点を迎え、低下を予想させる直前に終わるのが、もっとも『美しい』のだと」

 そのとき、老人の膝でやすらかに寝息を立てていた猫が、ビー玉のような目をかっと見開き、空中に弧を描くように跳躍した。目の前を黒い星のような模様が過ぎる。

「あなたは」思うよりも先に呟いた。今老人はたしかに、終わり、と言った。「あなたはもう、この桜を撮るつもりはないんですか」

「私の見たいものはもうここにはない」

 そう言って、老人は鞄から黒い四角形の塊を取り出すと、俺を手招いて差し出した。それは使い古した一眼レフだった。迷った末に受け取る。カメラのあらゆる角の部分には割れてざらついた断面が覗いており、表面には刻んだような指紋が無数に付いていた。十年やそこらのものじゃない。

 なに、安いものだ、自分はもっといいものを山ほど持っている。そう言って老人はベンチから腰を上げると、俺と目も合わさずに公園の入り口に向かって歩いて行った。杖をついていたが背筋は戦場に向かう兵士のように伸びていた。

 ――ひょっとするとあの人は気付いていたのかも知れない。

 ぼんやりと思いながら、カメラを目の高さまで持ち上げ、曇ったファインダー越しに桜を見る。

 ゆっくりと視線を下ろす。影と光の境目にきちんと爪先を添えるようにして、傾きかけた桜を見るともなしに見つめている彼女がいた。その陶器のような脛に首を巻き付けるようにして、先ほどの縞猫が頬ずりする。

「一緒に行かなくていいのか」

 俺は半ば独り言のように声かけた。身にまとった白い服だけを優しくなびかせて振り返る彼女の姿は、まるで春風そのもののようだった。

「気付いていたの」

「いくら目が悪くてもそこに人がいるかどうかくらい分かるさ」

「あなた、目が悪いの?」

 質問には答えずに、俺は会話を自分のペースに引き込むように、

「俺の記憶が間違ってなければ、たしか去年の春もここに来てたな」と言った。

「昔の人は私のことを桜の妖精だと呼んだわ」

「ふうん」

「毎年この季節になるとその人の理想の姿になって現れるんですって」

「そうか」考え込むように顎に右手を触れる。「さっきの老人も同じようなことを言っていたな。それなら、さしずめ君は桜人といったところだ」

「だから、あなたも私のことを『見たい』と思ってくれたのね」

 歌うように吐かれたその一言に、思わず俺は感嘆のため息をついてしまった。そうか、今まで俺の見たいと願ってやまなかった景色はこんなものだったのか。自分で思うよりもあっさりと、俺の脳はその現実を受け入れた。

 視力を失ったことで見えなくなったものは山ほどあった。教師が書き付ける黒板の文字や、空を染め抜く青と雲の境目、洗いたてで抱きしめたくなるようなユニフォーム。そのすべてが白だった。霞ではない、むせ返るような純潔だった。だから、これはたしかに俺が望んで描いた景色なのだ。見たいと思って自ら呼び寄せた幻なのだ。桜が散ればすべて終わる。

 和紙で透かしたような日和のせいなのか、俺は随分と楽天的になっていた。そうか、ともう一度息だけを吐くように言う。そして小さく歯を見せた。

「だが、俺がこんなに夢見がちな男だとは知らなかったけどな」


 その後も老人とは何度か話をした。年寄りは話すのが好きなのか、初対面同然の高校生に昔話をすることにもほとんどためらいはないようだった。

 老人は昨年の春に妻を亡くし、現在は近所に住むひとり息子の一家と同居しているらしい。良家のお嬢だった妻とは学生のころに出会い、窓越しに一瞬目が合ったそれだけで、彼女は運命の人に違いないと思ったそうだ。絵空事だろう、と老人は言う。人間誰しも美しいものを見たらそう思うものなのかも知れないが、自分のことを何ひとつ分かっていなくても、微笑みひとつですべてを溶かしてしまえるところがあの人の素晴らしいところなのだ。

 それからいろいろあって、卒業してすぐ老人と妻は駆け落ちしてしまうのだが、十六の俺にはあまりにも浮世離れしすぎていて踏み入ったことは言えなかった。「ふうん」「へえ」「そうなんですか」などと適当に相槌を打ちながら、思ったのは、この桜の下ならそういうこともあるのかも知れない、ということだった。どんなに些細な出来事でも桜の下なら奇蹟になる。優しさに包まれて、すべてのことが許される。

「幸せだったんですね」

 話がひと段落して俺は言った。だが、老人はわずかに顔を曇らせただけだった。


 彼女はいつも踊っていた。無数の花びらに身を委ね、それでいて決して自分の歩調を見失うことなく慣れた社交ダンスを踊る彼女を見て、人はほんとうに穏やかなときこういう表情をするのだなと感心した。それは嫉妬にも似たものだった。

 しかし俺は自ら彼女に声をかけたり、あからさまな視線を送ったりはしなかった。ただ肩と首のあいだや腋の下、腰のくびれのわずかな隙間さえ余すことなく満たそうと降り注ぐ桜色の洪水を、その花びらを、俺は譲り受けたカメラを望遠鏡のかわりに覗き込みどこまでも追っていった。そこにはいつもまどろみがあった。まるでバラードの歌詞は追わずに旋律だけを意識の隅でたどっているような、甘い夢心地に気付くといつも眠りのなかにいた。気持ちを焦らせるものはどこにもなかった。

「あなたは普段何をしてる人なの?」

 あるときフェンスの向こうで彼女が訊いた。そのあいだにも桜は確実に散っていた。

「何してるって、普通に学生だけど」

「普通に学生って、なんだかおかしいわね」

「そうかな」

「スポーツはやらないの?」

「昔、幼心に野球をやっていた」

「今は?」

「今はやってない」

「それは目が悪くなってしまったことが原因なの?」

 俺は一瞬動揺した。真実を語ることがよりいっそう自分を苦しめるのではと思ったのだ。でも、どうせすぐに忘れるだろう。

「いや、単純に俺の実力不足だ。最後の一年はとにかく打率が悪くてさ、ぎりぎりレギュラーを落ちるか落ちないかっていうところだったんだ。まあほかにも実力のある選手は大勢いたから文句を言うやつは一人もいなかったけどな。でも年下のやつらはきっと思ってたはずだ。こいつは三年だから優遇されているだけだ、俺なら必ずこいつを抜かせると」

 彼女は黙って俺の話を聞いていた。

「どんな困難も必ず乗り越えられる日がやってくる。大人はみんなそう言うな。漫画やドラマの見すぎで、実際俺もそういう青写真を描いてた。けど今なら分かる。どんなに努力をしても所詮、才能のない人間はある人間にはかなわない。どんなに努力をしても俺は野球で一番になんてなれない。引退前最後の試合のときはとうとうすべてを放棄したよ。もうバットを振る必要なんてない、打席でただひたすらボールを目で追うことに神経を集中して、今になって思えば、あのときの俺はいったい何がしたかったんだろうな」

「それはきっと、楽しくて仕方なかったのよ」彼女は息を切らしながらそう言った。「楽しくて楽しくて、試合の勝ち負けよりも、すべてを記憶に焼き付けておきたくて仕方がなかったのよ」

 楽しい?

 スポーツは勝たなければ意味がない。勝たなければ誰も褒めてはくれないし、安心は勝つことでしか得られないものだ。

 それから、彼女は今までの気迫などどこかへやってしまったように微笑んで、今どき質問したことに素直に答えてくれる男の子は珍しいと言った。そんなことないよと俺は答えた。声が掠れて唾を飲むたびに、心臓がきりきりと痛んだ。


 十六の春は彼女で始まり、彼女で終わった。

 花びらの最後の一枚が地面に足を付けるまで、俺は何枚も桜を撮った。桜を背景にした彼女の写真だ。構図が決まるまで何時間も窓際に待ち続ける余裕も、暗室で一人写真部の活動を再開する情熱も俺にはなかった。ただ気の赴くままにシャッターを切り、店で現像してもらった写真をいちばんに彼女に見せた。それらはすべてぶれていたが、弾けたような笑みを浮かべて彼女が言った。

「あなた、昔私の好きだった人に似てるわ」


     3


 三年に上がる前の春休み、野球部が甲子園に出場した。三回戦でサヨナラホームランを打たれて敗れたが、延長十五回を一人で投げ切った村西のスタミナと球速は高く評価された。

 新学期を迎えても校門の横に掲げられたままでいる選抜出場を祝う幕。地元の新聞では九人のレギュラーが一面を飾り、補欠をふくめ登板した選手全員が校長から表彰を受けた。

 けれども俺はそんな彼らの試合を球場で直接応援するなんてことはしなかったし、当日はテレビのコンセントを抜き携帯やラジオの電源もすべて切って、あらゆる情報が入ってこないようにした。

 そして年の初めに野球部の選抜出場が決まってから、俺はひたすら村西を遠ざけていた。登校時に駐輪場で居合わせた村西が笑顔で右手を上げてみせても、無視をして通りすぎる。村西に落ち度はひとつもなかった。しかしそれでも、俺には奴が自分を裏切ったのだという気がしてならなかった。


 俺は授業を抜け出して暗室で桜を眺めていることが多くなり、そういうときは決まって自分の存在について考えた。この時間のこの授業が終わるまでにクラスメイトの一人でも俺を連れ戻しに来なかったら、匂いも声も誰にも届かないほど遠い場所にいなくなってしまおう、そう思ったこともある。

「今年ももうすぐ散ってしまうのね。相変わらず気が早いわ」

 春と夏の境目があいまいで分からないように、彼女がいつ現れて、いつ消えていくのかそれは俺にも分からなかった。しかし今、俺はまちがえようもなくわかれ道に立っているのだと思った。

「……あのとき、老人は葉桜とは低下の予兆、終わりなのだと言ったな」

 感傷じみたように俺が言うと、例のごとく彼女は頬を撫でる春風のように振り返った。

「俺はあのときこの場所に自分を見ていた気がする。花が咲けば多くの人に喜ばれ、花が散ればそれがかつて美しかったことも忘れられて、自分だけはその場所から消えることもできないこの葉桜に」 

「私はそんなふうには思わないわ」

 そう言った彼女の声には悲しみも、自分の正しさを押し付ける強さもなかった。

「花の白や赤みがかったおしべやめしべ、濡れたような新緑の多くの色を一度に味わえるのは、少なくとも不幸ではないと思うの。それに、なんだか新しい季節が始まるようでわくわくしない?」

 俺は何も言い返すことができなかった。窓枠の上に浅く頬杖をついたまま、無数の四角が合わさったフェンスをとおして、ただそよぐ緑の葉を見ていた。そのぼやけた視界の奥にはたしかに豊かなものがあるように思えた。そして日を増すごとに見たこともない彩へと姿を変えていく桜が俺は決して嫌いではないということ、それだけは事実だった。


 風の強い夜だった。

 それは家全体が揺れているのではないかと思うほどの轟音で、ときおりそのなかに赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえるのは、気のせいに違いないと思っていた。たとえそれが誰かに虐げられて生まれた心からの叫び声だったのだとしても、俺には助けるすべがなかった。

 扉をノックする音が聞こえたのは、そんな夜が続いて一週間ほど経ったころだった。眠いようで実は言うほど眠くもない、ぼんやりとした目をこすりながら出て行くと、パジャマ姿で胸にくまのぬいぐるみを抱えた妹が立っていた。

「あめちゃん」

「お兄ちゃんと呼べ、お兄ちゃんと」

「猫ちゃんが泣いてるよ」

 猫ちゃん? もう何年も口にしなかったその単語は妙に新鮮で、俺は目を見開いた。そして導かれるままに自分の部屋を横切ってベランダに出ると、上半身を乗り出してその下を覗き込んだ。

「何も見えないけど」

「あめちゃんには見えないのかも知れないけど、わたしにはちゃんと見えるんだよ。苦しんでいるあの子の姿が」

 何をそんなに怒ってるんだ、俺が言う前に、妹はいいから行こうと乱暴に手を引いて玄関まで連れ出した。春の夜の冷えた空気に触れると、よりいっそう耳が研ぎ澄まされていくのが分かって――叫び声は空気と空気の狭間をつんざいて、一本の針のように鋭く天を刺していた。

「おまえ……」

 ベランダの真下の、からからと音を立ててまわり続ける換気扇の影にうずくまるまるいものを見つけたとき、俺は胸を撫で下ろしてしまった。キャンバスに引いた水彩絵の具のような淡い茶と白の縞模様に、背中にはチョコレートで塗ったような黒い染み。最近ずっと見かけないと思っていた、それは公園のあのベンチで老人と一緒にいた猫だった。

 そのことを妹に話すと、

「きっとあめちゃんの匂いを嗅ぎつけてやって来たんだよ」

 と満面の笑みを浮かべて言った。俺はかぶりを振った。

「そんな犬じゃあるまいし、どうせこの辺の誰かに餌付けでもされたんだろ」

「あめちゃん、その人のところまで連れて行ってあげなよ」

「冗談」

 当然のことだが俺は老人の家のありかなど知らない。それに部屋を出る前にたしかめてきた時計の針は、ようやく五時半を過ぎたところだった。夜さえまだ十分に明けていない。

 地面にうずくまったまま一点を見つめて逡巡していると、ふいに妹がズボンのポケットから銀色に輝く鍵を取り出した。それは自転車の鍵だった。日曜のしかもこんな朝早くに自転車を漕ぐのは嫌だと俺が言うと、これはママの電動自転車のやつだから大丈夫と言って笑った。それから、

「あめちゃんは女の子には弱いから」

 抑揚のない声で付け足され、俺は断る余地がなくなってしまった。古びた換気扇が吐き出す空気は生ぬるく、このまま当たっていたらきっと体調を崩すと思った。


 夜明け前の住宅街の空気は青白く澄んでいて、光の滲んだ空が深海に似ていた。子ども部屋のカーテンを引かれた窓や、その横に延びるくすんだ白い壁、投げ出された桜の枝のすべてが呼吸を止めているようにひんやりと冷たく、いつもより広く長く思える並木道にはこの先も自分以外誰もいないような予感がした。あるいはこれは夢で、俺は精巧に細工を施された箱のなかにいるのかも知れなかった。同じ風が壁にぶつかったように何度も身体にまとわりつき、涼しさのなかにはっきりとした輪郭を伝えてくる。音をさせるものがひとつもなく、閉じた瞼の裏に映るすべてのものが鮮明だった。

 いくつかの青信号を通りすぎ、やがて道が急な下り坂に差し掛かると、俺はペダルから足を浮かせて追い風に身を任せた。張り詰めたアスファルトの中央にはあらゆる重力が感じられず、白く線を引いて後ろへと流れていく視界の奥には何があるのか分からなかった。握りしめる拳のあいだには茶色のぼさぼさ頭が微動だにせず覗き、暗闇のなかで少しでも多くの光を取り入れようと瞳孔をめいっぱいに開いている。そしてときどき思い出したように産声みたいな声を上げた。

 猫が籠を飛び出すのと、俺がハンドルを右に切るのはほぼ同時だった。

 横転した自転車から有無を言わさず上半身を引きはがされ、絡み付いたままの下半身を軸に倒れて顔の右側をガードレールに強打した。すぐそばでオートバイがけたたましい声を上げながら大量のガスを吐き出していく音がする。地面の冷たさを直に感じる頬には血の匂いしかない。

「……おまえはいいな、見たいものだけを見て、見たくないものは見ない」

 震える右腕に力を入れて起き上がり、背中をガードレールの足に預けたまま、俺は固まってしまった猫を抱きしめた。猫の双眸はこれ以上ないほどはっきりと見開かれたまま、瞳孔だけが細長い。

「こんなものを見なければならないなら、いっそあのとき視力をすべて失っておけばよかった」

 視線の先にはいくつもの光があった。隊列を組んで無心に走る部員たちの背中を照らす、それは野球場の照明だった。

 彼らが毎朝毎晩死に物狂いで練習に励んでいるのは知っていた。嫌というほど知っていた。しかし今、俺はあきらかに孤独だった。妖しい色をした木々はどこまでも伸びて絡み合い、天井を覆い尽くして、影ひとつない暗闇の底に俺を閉じ込めた。箱の内側から彼らの生き生きとした姿は見えても、こちらの声は届かない。

 これは罰なのだ、と俺は思った。

 俺は自分には才能がないと思い込んでいた。多くの人に追い抜かれ、悔しさを噛みしめるぐらいなら、低下を見る前にやめたほうがいいと思っていた。未来は現在の延長で、積み上げても積み上げても、いつそれがまた崩れてしまうかと思うと明日の自分が信じられない。焦りと、不安しかそこにはなかった。そして停滞している自分を一瞬でも信用できなくなってしまった時点で、俺は野球をやめるべきだったのだ。

 ――けれどももし、あのとき俺が野球をやめていなかったとしたら。まだ何ひとつ始まっていなかったとしたら。

 立ち上がり、手の甲で乱暴に鼻のまわりの血を拭うと、俺はふらつく足で歩き始めた。目的も行き先も頭にはなかった。ただ右足と左足を交互に出すという動作だけが、使命のように心のなかを満たしていた。


「君が俺を呼んだのか」

「終わってしまうの」

 彼女の姿を視界に捉えると、猫はためらうことなく俺の腕を飛び降りた。表情を変えず俺は言った。

「……終わる?」

「私の好きな人はね、その昔、若くして写真家になったの」

 それは俺にあることを思い起こさせた。「いろいろな人にそれはもう素晴らしい評価を受けたわ。デビューしてまだ間もないのに雑誌で特集まで組んでいただいて。本人も、自分の写真は最高の写真だと信じてやまなかった。でも、そういう若くして才能を開花させた人にかぎって厳しくする人が必ずいるのよね。単純にあの人の若さが羨ましかっただけなのかも知れないけれど、これは学生の趣味の範疇を超えていないって、性格や育った家庭環境、何から何まで引っ張り出してとりあえず批判されたの。若いあの人にはそれが耐えられなかった。そしてデビューしてからわずか二年で、プロの道を断念してしまったの」

 なびく黒髪に顔を埋め、右手をそっと胸に当てると、彼女は風に浮かぶすべてのものを受け止めるように両腕を伸ばした。純白に包まれた仰け反る身体は今にも砂になって消えてしまいそうで、そんな彼女の顔立ちや雰囲気を、俺は初めて間近で見た気がした。

「それでも私は幸せだったわ。大切な人の苦しんでいる姿を、これ以上見ずに済んだんだもの。そしてそれはあの人自身もきっと豊かにしたはずだわ。それまで歓びしかなかった写真に、初めて悲しみの表情が生まれたから」

「……俺もなんだ」

考えるより先に、口が勝手に動いていた。

「俺はな、今でこそ意気地なしのヘタレだと思われているかも知れないが、昔はそれはそれはすごかったんだぜ。といっても五年六年の話だけどな。小学生のころは監督におまえはチームのホームラン王だと謳われて、弱小チームを全国大会まで導いたこともある。村西を野球に誘ったのも俺で、お世辞ではないが、あいつは間違いなく優勝投手になるだろう。卒業文集にはこう書いたっけな。『いつか甲子園でサヨナラホームランを打つのが夢だ』と……」

 言うのと同時に、思い出が洪水のように頭のなかに溢れてきた。そうだ。あのころの村西はボールの握り方もまともに分かっていないような男だった。そしてそれは遠い過去の話だ。今の俺とはひとつの繋がりもない、泣いて引きとめるようないとおしさなど微塵もない、それは赤の他人の話だ。

 耳を掠めた声のあまりの平板さに、自分でも驚きを隠せなかった。内容とは裏腹に心の底から込み上げてくるものはひとつもない。ただ過去の出来事をつらつらと述べているだけのことで、そんな俺に彼女は眉をしかめることもせず、悲しみや悔しさのあらゆるものをいっさい省いて、

「夢をもっていることがあなたを苦しめるなら、あなたはその夢を、あきらめてもいいのよ」

 と言った。

 それは俺のずっと聞きたかった声だった。言葉ではなく、声だった。風が鳴るのと同じ波長で吐かれた彼女の言葉を、俺は一度さえ反芻することができなかった。

 ――俺は、自分には才能がないと思い込んでいた。多くの人に追い抜かれ、悔しさを噛みしめるぐらいなら、低下を見る前にやめたほうがいいと思っていた。それで安全な場所にいるつもりだった。けれども今、分かった。分かってしまった。

 俺は早すぎた。

「俺は早すぎたんだな。まだ何も始まってはいなかったのに」

「始まっていないからこそあきらめられることもあるわ」

「自分がこんなに物分かりのいい人間だなんて知らなかった。でも、俺は夢を捨てても、周りの連中はどんどん夢を追いかける。そしてそれをかなえる人はこれからごまんと現れるだろう。俺にはそいつらを純粋に応援してやれる自信がない」

「できないんじゃなくて、あなたは最初からできてたわ」

 しゃがみ込み、丸まって毛づくろいをしている猫の背を撫でた。彼女の声は雨のようだった。雨のようにどこから降り注いでいるのか分からず、雨のようにどこからも響いていた。

「だってあなたはあの場所で、あの暗室で、野球部の子たちの声を聞いて一緒に笑っていたもの」

 顔を上げると、そこには見たこともない世界が広がっていた。

視線の先には彼女がいた。しかしそこには誰もいないように身体が透けて空気が澄み、向こう側には桜があり、先端に真珠のような光を宿した葉があり、はっきりとした輪郭をもって、それは光り輝いていた。視界を邪魔する霞などは少しもなかった。存在するすべてのものが意思をもって眼前に迫っていた。

 しかし、それは初めて目にする感動とは違っていた。ただ裸眼で見る景色よりいくらか輪郭がはっきりしているというだけで、心に与える感動の量は同じだった。俺は自分がカメラを構えているところを想像した。それがいくら安物でも、写真に関する知識がなくても、彼女がそこにいるだけで俺は目の前の景色を美しいと思うことができた。ボールが打てなくてもそこにいるだけで楽しかった。庭の植木鉢に埋もれているおもちゃのボールを拾ったとき、チャンネルを変えたテレビでプロ野球の中継を見かけたとき、指先が見えない糸で結ばれて、そこには自分のいちばん好きな自分がいた。負けることが恐ろしかった。でも、俺は野球を楽しくないと思ったことは一瞬もなかった。

「みんなみんな、自分にはこれしかない、自分からこの夢を取ってしまったらこれから先生きていくことなんてできないと言うけれど、そんなものは嘘よ。ほら、願い事がひとつだけなんて神様が退屈しちゃうって、そういう歌あったじゃない」

 ずいぶん最近の歌も知ってるんだな。

「居場所は決してひとつじゃないし、大切なのは夢を持ち続けることよ。あなたには何かを『見たい』と思う心がある。『見たい』と思えるものがある。それは夢のない生き方とは言わないし、かけがえのないものを失っても、私があなたの光になる。私に出会えたあなたは絶対大丈夫」

 自分で言うなよ。

「……ねえ、私、もうそろそろ行かなくちゃ」

 背中を向けて彼女は言った。白みはじめた地面にひざまずいて彼女の服を見上げたまま、俺には気に掛かっていることがあった。

 どうして今さら過去の人の話などしたのだと訊きたかった。君はほんとうは誰なのだと問いたかった。けれど、そんなことを質問している時間はもうなかった。もうすぐ花びらの最後の一枚が散る。そうすれば彼女は消え、次に現れるまでの一年を俺は憂鬱に過ごすのだ。それは何年も前に分かりきっていることで、今さら引きとめる必要はなかった。

「君、名前は?」

 俺はまっすぐな声で呼びかけた。彼女は振り向いて帽子の縁を持ち上げると、笑ってはぐらかした。


 実際のところ、葉桜は終わりなのではなく、始まりの予兆だった。

 翌日の昼休み、俺はワイシャツの袖を捲し上げ、いつものように窓枠に肘をついて公園の桜を見るでもなく見つめていた。風が吹くたび濃い色をした葉がかさかさと音を立て、表面をすべるように照り返す光の眩しさは、まるで一足先に夏が来たようだった。あまりの強さに三秒以上続けて目を開けていることができず、俺は何度も瞬きを繰り返した。

 そうしているうちに、桜の巨大な獣のような影とは反対の方向に、別の一本の細い影が伸びているのを見つけた。手もとの紙と葉だけになった桜とを交互に見つめているようだった。

 こちらの視線に気付いたのか、影は一瞬俺に目を合わせると、じゃりじゃりと大きく砂を擦りながらフェンスの前まで寄ってきた。額に手を当てて覗き込む仕草をする。

「げ」

「村西」

 それは村西だった。

「なんだよ、最近授業で見かけないと思ったらこんなところでさぼってたのか」

 素っ頓狂な声を上げて村西は言った。俺はむきになって顔をしかめた。

「そうだ。それがどうかしたのか」

「ということはあれか、いつも暗室から桜を眺めてる無気力で頬杖ばかりついてて、女性にもてなさそうな少年っていうのはおまえのことか」

「何の話だ」

 まったく心当たりがない。そもそも女にもてないことはここでは関係ないだろう。

「ほら、去年の秋ぐらいまで、毎日昼にベンチで桜を見てる年寄りがいただろう。あの人、実は俺のじいちゃんなんだ。冬に体調を崩してからずっと入院してたんだけど、とうとう昨日死んじまってさ」

「亡くなったのか、あの人」

「うん。なんだ、おまえそんなに仲よかったのか」

「別に。……そうか」

 それは彼女と初めて言葉を交わしたときの心境にとてもよく似ていた。澄んだ水が滞ることなく腹の底まで落ちていき、喜びも悲しみもないままに、ただ事実を事実として受け入れる。俺はますます冷静になっていく。

「死んだあとでこんなこと言うもんじゃないんだろうけど、ほんとう嫌なじいちゃんだったよ。若いころから欲望という欲望をいっさい噛み殺して生きてきたような人間でさ、期待をするな、期待をすることは負けを認めることだって言って聞かないんだ」

「悲しい人だったんだな」

「それで自分を守ってたんだ。期待するなって言うのはさ、ほんとうは自分がいちばん誰かに期待をしていたかったからなんだよ。そして分かってたんだよ。たとえ期待が現実にならなくても、描いてきた夢を自らの力で壊してしまっても、自分には帰れる場所があるってちゃんと分かってたんだ」

 俺には見たいと思えるものがある。俺には帰りたいと思える場所がある。それに気付かせてくれたのは彼女であり、村西であり、そしてこの桜だ。

 村西はひとつ大きなあくびをすると、腕を頭の後ろにまわして言い捨てた。

「あーあ。でもおまえに聞いてもしょうがないかなあ。おまえ女に関しては若干贔屓目入ってるしな」

「だから何の話だ」

「昨夜じいちゃんの部屋を整理してたらさ、押入れのいちばん奥にいかにも『触るな!』って雰囲気の古い箱があって、そのなかに一枚の写真が見つかったんだ。ティッシュで二重にも三重にも包まれて。気難しそうな顔してたけど、あの人もやっぱり男だったんだな」

 そう言って、慣れた手付きで指先に挟んだ写真を差し出す。ところどころインクの剥げたセピア色で、優しさのない人が触れたらきっと崩れてなくなってしまうだろう。そう思ってしまうぐらい、繊細でごまかすことのできない時間の流れを感じさせるものだった。

「な、きれいだろう。一応俺にも同じ血が流れてるんだぜ」

 村西は心から嬉しそうに微笑んだ。俺は目を見開いた。

「俺のばあちゃん」

 それはあの日彼女が初めて笑顔を見せたときに撮った写真と同じものだった。

     

     *


 俺は生きているものは撮らない。いや、正確には、自然のもつ自然なままの瑞々しさを、いっそう引き立てるような撮影の仕方はしないということだ。ただありのままのものを撮る。ありのままの彼女を撮る。

あの写真を見て以来、俺には彼女の姿がまったく見えなくなっていた。今までに撮った何百という数の写真を机の上に並べても、彼女の姿が、匂いや気配が、そっくりそのままいなくなっている。

 悲観的な気持ちにはならなかった。それは彼女が消えても、フレームのなかの桜は変わらず舞い続けているからだった。彼女は今も教えてくれる。耳の後ろでそっと静かに語りかけ、迷ったら、ただ自分の信じたいものを信じればいいのだと。彼女がそこにいるだけで、命は芽吹き、季節はずれの吹雪のように花が散るのは、そこに彼女がいる証だ。

 俺が初めて彼女を見たのは十六のときだった。それから、まもなく三年が過ぎようとしている。そして三年目にして、俺は気付いたことがある。

桜は他のどれよりも早く散ってしまうのではなく、卒業式に合わせて咲くのだと。

そのとき、背中でぎいと扉の開く音がした。響いていた笑い声が途切れ、風の流れが変わる。

「……あ、やっぱりここにいた。先生が、集合写真を撮るから、呼んで来いって」

「そんなの俺なしで撮ればいいだろ」

「カメラマンがいないのに写真なんて撮れません」

 窓枠の上に顎を乗せたまま、ひゅう、と、俺は浅く息を吐いた。そして思い出す。生きているものは撮らないんじゃなかったか。

「なあ宮藤君、俺はなぜこんなにも君に好かれているのか未だに分からないのだが」

「それはあなたが救世主だからですよ」

「そうだっけ」

 細かいことは気にしないことにした。感受性が強すぎるのは生きていくうえで不利になるし、ほんとうに大切なものには、理由など必要ないと思ったのだ。

 宮藤君は許可も取らずにずんずんと部屋の奥まで歩みを進めると、横から俺の顔を覗き込んだ。

「あれ、いつもは眼鏡なんてかけてないのに」

「別に。ただちょっと、俺も大学デビューしてみようかなと思っただけだ」

「デビューなんてまだ気が早いですよ。三十一日までは書類上高校生のままなんですから、やらなくちゃならないことは山ほどあります」

「おまえこの三年でずいぶん悪くなったな」

 俺は眉をひそめ、仁王立ちする宮藤君に視線をやった。小柄な体躯はあいかわらず燃料の切れた街灯にしか見えないが、その表情は、どこか誇らしいようにも思える。

「まあいい、調子に乗っている君に俺からのプレゼントだ。俺と君、それから村西を誘って、三人で校庭でキャッチボールをする。一四〇キロの豪速球のほんとうの恐ろしさを身をもって教えてやるよ」

「そんな……」

「もちろん、」

 と口を開きかけたところで、扉の向こうからすさまじい足音が轟いてきた。噂をすれば、だ。

「おい、俺今ちょっといいこと言うところだったんだぞ」

「そんなのあとで言っても同じだろ。そんなことよりさ、毎年桜が咲くと会えるんだろ? あの人。校庭の桜はまだ全然だけど、こっちのは今日あたり見ごろじゃないか?」

「うるせえよ」

「あ、もしやすでに見えてる?」

 どいつもこいつもせっかくの感傷を台無しにする。俺は椅子が引っ繰り返るぐらいの勢いで立ち上がると、右足を村西の下腹に突き出した。

「うるせえよ。あの人は俺にしか見えない特別なんだよ。しかもおまえさっき後輩に告白されてたじゃねえか」

 村西が大袈裟に腹を抱え込みながら呻く。

「なぜ知っている」

「ボタンが全部ないだろうが。どんだけだよ」

 今どきそんな風習が残っているとは知らなかった。卒業だからと浮かれすぎだ。それだけ俺が内に籠っている時間が長かったということなのかも知れないが、残念ながら今は顧みる気にもなれない。

「……なんか、いつもとキャラ違いますね」宮藤君が背を丸めて耳打ちする。

「違うっていうか、これがあいつの本性なんだよ」

「いつもは無気力で頬杖ばかりついてて、」

 俺は何年か振りに声を張り上げた。

「おいアシスタント、撮影して欲しいなら必要なもの全部持ってこい。それに村西、おまえハブるぞ」

 ああ怖い、そう言いながら野次馬二人は立ち上がると、のろのろと部屋の片付けと道具の準備を始めた。倒れていた椅子を起こし、ていねいに気持ちを込めて机を拭く。最後に窓を閉めようとフレームに手を掛けたとき、背中を向けた村西がふいに漏らしたのを、俺は聞き逃さなかった。

「でもまあ、俺たちにはもててるからいいんじゃない」

 迷いはなかった。この場所で桜を見られなくなることにも、もう一人ではない廊下を歩くことにも。

 それから、俺たちは息の合わない礼をして暗室をあとにした。わずかに塩の味のする唇を舐めながら、足りてるな、と俺は言う。何が、と呟いた村西の声は上着についたでかい足跡を見つめて今にも泣き出しそうだった。それを一生懸命掌でこすってやる宮藤君はいい嫁になるなと思う。長い廊下には褪せたような色がよみがえり、机や椅子に染み込んだ汗の匂いがする。すべてのものが満ち足りて、息苦しさを感じることは、きっともうないのだろう。


 俺はすべての写真に名前を付けている。そのときにあった物語も綴ってある。それはとても断片的なもので、すべてを記憶する必要はない。すべてを追っていかなくてもいい。自分が好きだと思った記憶の断片を、写真のようにときどき繋ぎ合わせていけばいい。

 外に出ると、混じり気のない春風がゆっくりと吹いていた。秒速五センチメートルの散華に抱かれ、俺は静かに名前を呼ぶ。「桜人」。それが君の名前だ。


(了)

10年前、高校1年生の時に、部活を辞めた自分を励ましたくて書きました。

当時見ていたアニメのエンディングが「さくらびと」という曲で、メロディーを聞いたときに、「一本の満開の桜と、純白の女性」という情景がふっと降りてきたことを思い出します。

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