一寸のゴキブリにも五分の魂
「ゴキブリという名前の由来は、『ごきかぶる』にあります。『ごき』と言っても、小学生のみなさんにはわからないでしょうね」
スタジオの今村晃一が、問いかけの視線を、並ぶ3人の子供に向けた。
今村は50年配で、農業大学の昆虫学教室で准教授をつとめている。大きな頭の両側に綿のような毛を生やし、両目の間隔が狭く、あごが張っている。だぶだぶの白衣をまとい、背が低いうえに、ひどい猫背だ。
夏休みの子供番組『今村昆虫学研究所』の第3回目の放映では、家庭に身近な昆虫としてゴキブリをとりあげていた。今村が立つ教壇の左側には、小学生の男子2名、女子1名をゲストに迎えていた。
司会者が、眼鏡をかけた少年にマイクを向ける。
「きみは、『ごき』がなんだと思いますか」
「えーと。土器とは違うのかな」
「おしいですねえ」今村が少年の答えに応じた。「御器とは食器をていねいに言った古い言葉です。土器は食事ではなく調理に使用されたものです。『食器をかぶる』が語源ですが、では『かぶる』の意味はわかりますか」
小太りの少年がすぐに手を上げた。
「食器をかぶって隠れるという意味だと思います」
「それも正解のひとつです。他にも、食器をかじる、食器のふりをする、という説もあります。いずれにしろ、台所などで古くから見られた昆虫だったわけです」
今村が、柔和な笑みをうかべて見せた。
「わたしは嫌い」みつ編みの少女が眉をひそめた。「表面がつやつやで気持ち悪い」
「ぼくも嫌だな」眼鏡の少年が応じた。「ゴキブリがものすごいスピードで走り、ぼくの顔に向かって飛んできたときには、本当にびっくりしたよ」
「しぶといイメージがあるよね」小太りの少年が口を入れた。「生命力が強く、体が半分にちぎれても、しばらくは生きているらしいよ」
番組のゲストに、ゴキブリは不評だった。
「そんな嫌われものではありますが」と今村が続ける。
「地球上では、われわれの祖先より、ずっと先輩なんですよ。なにしろ、初期のゴキブリがあらわれたのは3億年前なんですから。人類の祖先であるホモ・サピエンスが誕生したのは、ほんの25万年前です。学校でも、目上の人をうやまうようにと習いましたよね。ゴキブリは、3億年近い、われわれの大先輩ですから――」
*
バンッ、とスリッパの底が床に叩きつけられた。
その下から、ぺしゃんこにひしゃげたゴキブリがあらわれる。今村は自分の表情がゆるむのを感じた。何度もスリッパで叩いて、死骸を粉ごなにする。
「――みなさんもゴキブリにもっと興味をもって接しましょう」
録画で放映されるテレビ番組の、今村自身のしゃべり声が背後から聞こえている。今村はソファからリモコンを取り上げてテレビを消した。
フローリングにこびりついたゴキブリの残骸を、ティッシュでていねいにぬぐいとる。消毒薬を床に吹きつけ、たんねんに清掃する。
今村は昆虫が大嫌いだ。
世間では、今村は大の昆虫好きとして知られている。小学生相手のくだらない番組に出演しなければいけないのも、准教授の給料では食べていけないからだ。
まったく、いまいましい――。今村は、ふん、と鼻を鳴らした。
幼稚園児のころ、実家の枯れ井戸に落ちた経験がある。
深さ3メートルほどの井戸で、底の今村はひざをすりむいていた。大声で助けを呼んだが、両親は畑に出ているらしく、誰もあらわれなかった。
やがて疲れて座り込んだ。夕日は井戸の底まで届かず、周囲は真っ暗だった。しんと静まりかえって、恐怖そのものだった。
かさかさ――と音がした。軽く乾いた脚音だ。
今村は、井戸の内側にそって座る位置をずらした。そこからも、かさかさと音が響く。なにか糸のようなものが、むきだしの足首に触れた。うわっと立ち上がり、そのなにものかを振り落とした。
狭い井戸のなかに、逃げ場所はなかった。今村は内壁に背中を強く押しつけて縮みあがった。
耳もとで、かさかさ、と囁かれる。やつらは壁をよじ登れるようだ。暗闇のなかで、右からも、左からも、下からも、いたるところで聞こえる。なにかが、すねを這いあがる。悲鳴をあげ、足を振って払い落した。羽音がした。乾いたなにかが顔面にぶつかってくる。今村は思わずしゃがみこんだ。
やめてよ。ぼくに近づかないで。ぼくに触れないで――。
今村の目に涙がにじむ。恐怖と不快さとおぞましさで全身が震えあがった。
やつらは今村の願いを聞き入れてくれなかった。かさかさ……。いっそう脚音の量は増え、その包囲網をさらに縮めてくる。
今村は声をかぎりに悲鳴をあげた。
井戸から聞こえる泣き声に隣人が気づき、今村が助けだされたのは、それから1時間後だった。
両親がなだめても、今村はなにも応えず、ただ泣きつづけていた。発熱し、3日3晩、寝込んだそうだ。目覚めると、またしても大声で泣きだし、親がどうしたと聞いても、いっさい答えなかったという。
床の清掃を終えた今村は、ソファにどっかり腰を落とした。
幼少時、今村をおびやかした昆虫がなんだったかはわからない。それは一種類ではないだろう。何種類もの虫が、あの井戸に生息していたはずだ。その正体を知りたくもなかった。
それ以来、昆虫は今村の宿敵となった。世界中から根絶やしにしたいと望んだ。そのためには敵を知らなければならない。今村が昆虫学者の道を選んだのは、敵の弱点を突き止め、やつらを根絶したかったからだ。
こうして今村は昆虫の研究をはじめた。その熱意が成果を生み、学会で注目された。テレビ局から声がかかり、昆虫学者として人気を得た。
今村はいまだに独身だ。人生の50年を研究に捧げてきた。昆虫を絶滅させたいという一念で続けてきた。その野望は、56才になったいまも捨てきれずにいた。
翌日の午後、大学の昆虫学教室のゼミを終え、今村は1人、教室に残っていた。ノックの音がして、今村の返事も待たず、ドアが開いた。
顔をのぞかせたのは研究員の細谷恭一だ。やけに黒く油っぽい髪を襟足まで伸ばし、長い前髪の下から、うかがうような視線を向ける。その細おもては不健康そうに浅黒く、とがったあごの先に不精髭を生やす。
細谷は30才半ばで、今村よりふたまわりも若い。昆虫学者のあいだでは、若手のホープとして知られていた。
「どうやら昆虫学会では、ぼくの意見が通りそうですよ」
「おまえの分類に根拠なんかあるものか。学会もついにやきがまわったな」
今村は出迎えずに応じた。
今年になって発見された新種の分類について学会で問題になった。今村は、その昆虫の特異な性質をつきとめ、カマキリ目とした。その意見をくつがえしたのが細谷だった。彼はそれをゴキブリ目に分類する根拠を指摘した。
「近いうちに、ぼくの説が学会で認められるはずです。本当に申し訳ないです」
繰り返し、そう言う細谷に悪びれた様子はなかった。
「人のあげあしとりが研究だと思ったら、大間違いだぞ」
立ち去る細谷の背中に向かって、今村は言葉を投げつけた。
分類に対する細谷の論理はもっともだった。正しいと認めざるをえないぶん、いっそう腹がたつ。それをわざわざ報告に来る了見も気にくわない。そもそも、今村は細谷が嫌いだった。あの黒光りのする毛髪が、ゴキブリの体表を想像させ、虫唾がはしった。
その夜、今村は、旧校舎にある理化学実験室に閉じこもった。
老朽化した校舎は、近年は使用されていなかった。今村は1年前、その実験室を自分の研究に使わせてほしい、と理化学部長にかけあった。世界を驚かせる学説を証明するため、極秘に実験がしたいと説明した。最初はしぶっていた部長だが、今村のテレビでの知名度が効をそうし、ついには認めてくれた。
今村は実験に必要なものを購入した。実験装置を整備し、古いものは買いかえた。今村の給料とテレビ出演料の大半は、その準備のために費やされた。
実験台の四角いガラスケースのなかで、1匹のモルモットがしきりに動きまわっている。今村が近づくと、立ち上がったモルモットが、ガラス面に両手をつき、ピンクの鼻をひくつかせる。なにが始まるかと興味しんしんの様子だ。
今村はバルブをひねり、ガラスケースのなかにガスを注入しだした。バルブに手をかけたまま、慎重に濃度を調節する。モルモットはガスの影響を受けていないようだ。内壁を離れ、狭いケースのなかで、無邪気に跳びはねる。
――問題はここからだ。
今村はガスの濃度を上げた。
ふいにモルモットの体が硬直した。棒立ちの姿勢で倒れると、腹を上に向け、四肢を痙攣させる。効果はてきめんだった。息絶えるのに1分もかからなかった。
だめか、と今村は落胆し、バルブを閉じた。
哺乳動物に効き目があってはだめだ。昆虫の中枢神経にのみ、作用するガスでなければいけない。今村が根絶したいのは昆虫だけだ。そんな夢のような神経ガスの開発は、やはり不可能なのか――。
今村は、顕微鏡の置かれた机の前に座り、頭を抱え込んだ。
午前0時をまわっていた。キャンパスの裏門近くにある旧校舎の実験室は、しんと静まりかえっていた。誰も今村が実験をしているとは思わないだろう。
かさかさ――と音がした。
まわりを見渡すと、机のわきに置かれた書類キャビネットの上からだ。
ガラス板をのせた水槽の内側で、数十匹のゴキブリがうごめいている。ガラス面のあちこちにへばりつき、細い触覚を振りまわす。その黒くつややかな体表から、昼間の細谷との会話を思い出し、いっそう急激に憎悪がつのった。
開発中のガスを詰めた、別のボンベを持ち出し、水槽のガラス板をずらして、ノズルを差しこんだ。わずかにバルブをひねり、ガスを注入する。それはすぐさま効果をあらわした。もがきのたうつゴキブリの姿に、今村は快感さえ覚えた。
水槽からガスがもれたらしく、今村はふいにむせかえった。
慌ててバルブを閉じ、鼻と口を押えて水槽から離れた。換気扇のスイッチを入れて、一息つく。高濃度で人体に影響が出るようではだめだ。上空から散布して、昆虫だけを息絶えらせる殺虫剤、それが今村の目指すものだった。
まだまだ研究しなければならない――。
そのとき、目の端を、3センチほどの黒いものがかすめた。それは、ものすごい速さで床を横ぎり、壁とキャビネットのあいだに逃げ込んだ。
水槽のゴキブリが逃げたか、と今村は疑った。それとも、この実験室にわいたか。1匹いたとなれば、実際は何十匹も繁殖しているだろう。
ふだんはよく片隅のソファで寝ていたが、今晩は、近くに住む同僚のアパートに泊めてもらうことにした。ゴキブリのひそむ実験室では、とても寝起きできない。明日になったら、室内を燻煙殺虫しようと決めた。
翌朝、今村は家庭用の燻煙式殺虫剤を買ってきて、実験室でその準備をはじめた。
実験器具や調度類にビニールをかぶせる。火災報知器が反応しないようビニールでおおう。キャビネットの引き出しや、ロッカーの扉を開けて、煙が浸透しやすくする。窓を閉め切り、燻煙剤を始動させると、今村は屋外に出た。
燻煙中と貼り紙した窓ごしに、もうもうと煙が上がっている。殺虫処理のあと、実験室の換気に3時間ほどかかる。その後、室内の清掃を行なうのだ。
「これは虫好きの先生、害虫駆除ですか」
細谷のにやけた表情があった。白衣に、漆黒の髪と浅黒い顔がきわだつ。何日も髪を洗っていないらしく、細谷の長髪は黒ぐろと油ぎっている。それがゴキブリの光沢を連想させる。今村は、細谷に対する憎悪がいやますのを感じた。
「精密機器だってあるからな。その内部に卵をうみつけられたらかなわない」
今村は、そっけなく答えた。
「新種の分類がゴキブリ目に決定したそうです。よって、その名称はクロゲカマキリではなく、クロゲゴキブリとなります。悪しからず」
それだけ言い、細谷が白衣のすそをひるがえして立ち去った。
実験室の窓枠のすきまから、白い煙がもれている。煙のなかで、もだえ苦しむ細谷の姿を想像し、今村はなんとか苛立ちを抑えた。
その夜もまた実験室にこもって研究を続けた。顕微鏡を前にした今村は、対物レンズの丸い視野のなかで、昆虫の中枢神経を観察する。
憎き虫けらを根絶やしにする――その虫のなかに、細谷の顔が二重写しとなり、今村の闘志はいっそうかきたてられた。
ひと息つき、回転椅子をめぐらせた今村は、自分の目を疑った。
少し先の床に、3センチほどのゴキブリがいた。尻をこちらに向け、しきりに2本の触覚を動かしている。今村に気づいた様子はなかった。
燻煙のあと、今村は徹底的に実験室の清掃をした。掃除機をかけ、部屋のすみずみまであらため、何十匹もの虫の死骸を片付けた。煙のとどかない奥に身をひそめて生き残ったのだろうか。しぶといやつだ――。
今村はそっと立ち上がった。片方の革靴を脱いで構える。狙いを定めて素早く投げつけると、靴底は見事に獲物に命中した。
靴の下から、ひしゃげて床に貼りついたゴキブリの死骸があらわれた。
それを掃除するのも面倒だ。靴をはいた今村は、靴底を何度も床にこすりつける。顕微鏡の前に戻り、研究を再開した。
午前1時を過ぎた。あたりは静寂に沈んでいる。
昆虫の観察に集中していると、接眼レンズにあてていない方の目が、なにか動くものをとらえた。机とキャビネットのあいだを、小さな茶色い物体が駆け抜けた。
またもやゴキブリか――。
今村はレンズから目を離し、視線を背後に移動させる。
ぎくりと体が固まった。そこには、先ほどのゴキブリの死骸があるだけだった。死んだ虫が生き返り、動きだしたと錯覚して、今村の心臓は縮みあがった。
――バカらしい。今村は気持ちを切り換えて顕微鏡に目を戻した。
天井の明かりが明滅して、切れた。停電か。
ブレーカーでも落ちたか――。今村は舌打ちしてレンズから顔を上げた。顕微鏡のライトが、机の上を照らしている。この光があれば、対象の観察は続けられる。
そのとき、今村は視線を感じて振り返った。
それは2メートルほど先の床で、ぼうっとオレンジ色に発光していた。
目をこらすと、姿形は3センチのゴキブリだが、体表は茶色く透きとおり、軟化樹脂の玩具を思わせた。今村に向けた触覚を威嚇的に動かしている。間違いなく本物だ。
なんだ、こいつは? 新種だろうか。
ロッカーのなかに捕虫網がある。捕獲しようと今村は立ち上がった。そちらに一歩踏みだした。光るゴキブリがものすごい速さで走り、実験台の下にもぐりこんだ。
今村はしばらく闇に目を慣らした。
向かい側の壁のすみに、仮眠用のソファが置かれ、その並びに3つのロッカーがある。実験台の下に、開発中のガスを詰めたボンベがのぞく。部屋にもうけられた2つの窓は、厚いカーテンで閉め切られていた。
今村は実験台を迂回して、ロッカーから捕虫網を取り出した。振り返ったとたん、顔になにか小さく固いものが当たった。
オレンジ色のすじが宙を舞っている。光るゴキブリだ。
今村はむやみに腹がたってきた。捕虫網を振りまわす。光は目の前をかすめて飛び、反対側の壁の上方に羽根を休めた。
それを捕らえようと速めた足が、なにかに強く当たった。今村は思いがけずつんのめり、捕虫網を離して床に両手をついた。
つぎの瞬間、今村は目をむいた。
実験台の下から、オレンジ色の光があふれている。無数のゴキブリがわきだしていた。いや、それは分裂しているのだ。音もなく増殖を続け、床の上にオレンジ色の帯を広げていく。
今村は悲鳴をあげた。あわてて出入口に逃げようとして、驚きのあまり足を止めた。
ドアの中央部に、光がわいて、うごめいている。
その正体を知りたくもない。網で追い払ってやる――。床に視線を落とした今村は、ぎくりとなった。捕虫網にゴキブリが群がり、発光していた。
そのとき、ドアの光が無音でいっせいに飛びたった。オレンジ色のすじが飛び交い、渦巻いて今村に迫る。両手でかばった顔に、光の粒がぶつかってくる。たまらず後退した今村は、ソファにぶつかって尻をついた。
無数のゴキブリに占拠された実験室は、いまやこうこうと明るんでいた。
机も、顕微鏡も、キャビネットも、実験台も、いたるところで光がうごめいている。天井にも、周囲の壁にも、床にも、それはひしめいている。これだけのゴキブリが群がっていて、まったく音がしない。
今村の心に、幼少時のトラウマがよみがえった。
井戸の底で逃げ場をうしない、泣き叫んでいた自分が思い出される。あのときは音ばかりが聞こえていた。こんどは、その正体だけが出現したように思えた。
あいつらを絶滅させるため、おれは昆虫研究に人生を捧げてきたのではないか。虫けらなんかに、なめられてたまるものか。子供のおれとは違うんだ――。
細谷のうすら笑いが頭に浮かぶ。いっそう憎悪がかきたてられた。
今村はソファから飛び出した。床をうめつくすゴキブリの群れを踏みつぶし、実験台の下にかがみこむ。ガスボンベを引きずりだすと、ノズルを足もとに向けた。
くらえ――。ガスを噴射した。
噴射音が響き、ガスでなぎはらわれた床が輝きをうしなっていく。どうだ、これが研究の成果だ、と今村は得意になった。床面のいたるところにガスをばらまいた。
さらに天井や周囲の壁にも吹きかけた。光りのすじがつぎつぎに落下しては闇に消える。実験室をおおっていた光が勢いをうしない、しだいに薄れていく。
ざまあみろ――。今村はノズルを振りまわしながら笑いだした。笑いが止まらなかった。
*
翌朝、実験室からもれる刺激臭で、その事故は発覚した。消防が現場に駆けつけ、今村准教授の死体を見つけた。充満していたガスの成分は殺虫剤らしく、夜間、害虫駆除のさいちゅうに中毒死したと思われる。
そのわりに害虫の死骸は、准教授のそばでつぶれていた1匹のゴキブリだけだった。
了