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モンゴル

 さてモンゴルとは何かをやろうと思う。契丹はモンゴル系だけどモンゴル族じゃない。ここがキー。モンゴル語ってのが扱いが難しい。私は否定的なアルタイ語系だけど。モンゴル語はモンゴル祖語から派生したものって流れがある。印欧語系の伝統的な言語学的な見方になる。アルタイ語系は批判的だが、これはまあありじゃないか?と思ってる。アルタイ語系が何故おかしいのか?でおそらく分岐年代が古すぎるせいだと見ている。それを言ったら人類皆アフリカ語なんじゃないか?となる。


 実際神話などを見ていると、例えば天孫降臨が様々な民族で似たものがあるのは、外の神話を取り入れたものと、後は分岐して形を変えて伝わったからと見ている。アジアの場合ちとこれが怪しいのは、様々な民族が横に文化伝播してるから。言語でもこれがあるけど、借用と言うのが有る。起源に見えて全く違うものになる。日本語のカタカナにあたる。


 で契丹を調べると専門家は準モンゴル語と位置づけてるようだ。祖語の考え自体は間違ってない。それを言えばツングース諸語も無い事になる。東アジアすべてを似たタイプでアルタイ語系で統括するのはおそらく無理。


 何故欧州が可能だったのか?が単純。欧州は大半の遺伝子がクルガン文化の民族で摩り替わってしまったからで、言語がこれでさらに摩り替わっている。ノルウェーは知らないが、Nが残ってる北欧などはウラル言語になる。血族そのものが入れ替わってる。これは欧州の研究者自身もあまりに変わりすぎと驚いてたのでそうとう酷いのだろう。


 もちろん古いハプロは残ってる。日本の兄弟ハプロであるC1A2も、その一つ。だが多数派がどの国でもRの影響が見られる。南欧あたりはJ2の影響が強くて一応残ってるけど、欧州は逆に中国の方言の逆に方言みたいな母国語になってるようだ。モンゴル祖語って考え方はまあ間違って無いと思う。そもそもハプロから民族に偏った分岐が近代に生まれたものだと分かってるから。


 モンゴルってのは、モンゴル語を話すもので、統一した血族集団じゃない。トルコはもっと話しにならない。そもそも部族の上に統括した大部族みたいなものがあって、この点は何々村の村長さんみたいな流れもあるので、この大部族として蒙古族が居る。例えばモンゴル系のタタル部って部族が居る。これはチンギスはんのいたモンゴル部とは違うがモンゴル系。


 何故こんなややこしいのか?と言うとちんぎすはんの誕生で多分モンゴル語系となづけらたけど、もしタタル部が大帝国を作っていれば、タタル語族、タタル系と呼ばれていたんじゃないか?と見てる。この蒙古が歴史に出たのはすごく遅い。モンゴル系はすでにタタル部も有名な部族でこれは西方に住んでいて、元々居たアムール川の辺りからはかなり離れている。蒙古の前身となる部族がいて、これがアムール川から広がったからだといわれてる。


 ただここで難しいのは、じゃそのグループだけがモンゴル系なんだってならない。トルコでもなくツングースでもなく、そのグループではないが、モンゴル語に近いとすると、それはモンゴル系になる。それが契丹だし、東湖がそうではないのか?と言われてる部分になる。チンギスハンと戦ったメルキト部と言う部族は、支配地域からN系じゃないか?と予想されてる。服属後独立せずに同化してしまう集団もすごく多いから。その中で突厥は匈奴から独立して別集団になったグループだけど元々トルコ語にちかったんじゃないかと予想されてる匈奴の中でそのまま匈奴族になっていた可能性も十分にある。


 例えば烏桓なんていつの間にか歴史から消えてしまったけど、中国人化したのと、残りは鮮卑に吸収されたんじゃないか?と話されてる。この場合元東湖で同族なので結びつきやすいけど、この2集団仲が悪いのでそういう事があったのか?は不明になる。


 C2BとC2C。どっちが多かったのか?これが難問。それと言うのも蒙古の前身の室韋この系統だとされてる。ここC2BとC2Cの境目でかつ、モンゴル高原に近い内陸部になる。場所的にすでに進出してるC2系と混血しやすい。匈奴はQの直系集団じゃない。あくまで、権力を持つ中心人物でQが良くハプロとして出るだけ。C2も普通に出る。それにスキタイの時代にC2がスキタイの領域に進出して無いと、後の西方への移動にC2が混ざるわけが無い。


 ただ今の様にC2がびっしりいるような状況とは全く違うと見ている。当然年代が遡ればますますC系の割合は低かったと見ている。C系の代表ハプロである蒙古族の西方進出はかなり後になる。唐の付近なので、漢や秦と争っていた匈奴から較べるとずいぶん後の時代になる。歴史上ここまで分かっているのに何故C2が埋め尽くされた想定をしてしまうのか?ならトルコのせいだと思う。


 ただ問題は古トルコ系とも言えるようなQが中心だった匈奴の時代まだまだC2系ばかりの騎馬民族の時代じゃなかった。モンゴル高原をC2一色にしたのはおそらく蒙古族や前身の室韋。このグループだと思う。


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