殷周
常にN多数派の一部でしか見つかってないので、O2(M134)がどこに集中して多かったのか?はさっぱり分からない。ただ分かるのはO2はやや西よりの黄河中流部になる。このすぐ下にミャオ族のM7系のO2が長江中流部に暮らしてて、歴史上は南下したと残っていて、部族の伝説でもそれが残っている。O2はおそらく西方北方に行き過ぎない中国内陸に居たと思われる。ただ大集団だったか?は分からない。ここからなら特に内モンゴルと、ウイグルチベットに子孫が拡散したのが良く分かる。
南方への拡散は遅い。玉突き式に北方O2と混血したO1系が南方に移動したのが大きい。そもそもミャオ族と混血してるがミャオ族が逆に南方化してしまったので、後の時代の北方形質というほどは変化して無い。(多分細かく調査したら変化してると思うが、南方全域に与えるような影響じゃなかったと見ているし、そもそもM134が深くN系と混血した事が原因だと思われるので、形質自体南方系の形質が強かったと見ている)
東方がどうか?といわれるとこれが困るのだが、稲作の北上前に広く満州で陸稲が雑穀の一つになっていたのは、黄河起源かもしれない。私はそれをO1B2の拡散に求めたけど、長江での本格的栽培と同時期にすでに黄河に伝わってるのは陸稲だったからってのが説得力がある。そもそも水田後が無い。
ただ黄河の農業がおそらく満州に伝わったのだが、それで陸稲が一緒に来たとは限らない。朝鮮でもそうだが陸稲はあまり雑穀の中に入らなかったのがその理由で、陸稲の広がりはO1B2の拡散の可能性がやはりあると見ている。明確に陸稲を重視するグループの存在なしには廃れてしまうと見ている。この黄河の陸稲。これがポツンと現れるだけで、主要な作物にそこから雑穀の仲間入りしたという話しは聞いた事が無い。
面白い話があって、直接読んだわけじゃないが、研究した人の話しで、チベット高原は東からDとOは広がったとの話が合って、西から来たわけじゃない。これは勘違いしてる人も多いが、西からのコーカソイドの影響で西方の文化が混ざってるだけで、根本的には東アジア集団。歴史的にもハプロも西方の影響の痕跡はある。
以前書いたけど、直接西から入るルートと、パミール高原を通ってタリム盆地から南下するルートが有る。2つとも可能性はある。アリーア人がインドへの侵入を果たしてるので、これが西の直接ルートになる。この時チベット高原を使ったと思われる。ただモンゴル帝国がチベットからのインドルートを諦めたので、アーリア人は騎乗で行ったわけじゃないと思う。この点はスキタイと過去の印欧語族の拡散は違う。
夏でチベットの話がずれたのを戻すと、まあ伝説が出鱈目と言う事なのかと。それと言うのもこの手の出自がどうもしっくり来ない。チベット族が古代王朝に与えた影響は大きいと思う。だが、夏がそうなのか?と言うと怪しいと見ている。東西南北、コーカソイド。すべて加えて。それらの出自がばらばらになってるのじゃないか?と見てる。
秦あたりでやっとまともに見れるかと思う感じになる。すべてが出鱈目じゃない。だから性質が悪い。何か重要な部分で勘違いをしてて、そこが現代人より無知な点でおかしなことになってると見てる。当時の人より現代人の方が真に迫ってる可能性が有る。嘘を書いてるわけじゃなくて、何かしらの常識がずれてると見てる。
殷周がQの可能性があると、ついでに夏もQにしてしまいたいなと思うから。それで匈奴のQ系と繋がる。夏と言う王朝はあって、禹と言う人物も居たが、その人物が夏王朝の始祖だったのか?は間違ってるんじゃ無いか?と見てる。んで、夏が匈奴になったこっちが正しいのではないか?って話し。
どっちかが本当である可能性があって、逆に通常信憑性が高いと言われる神話が出鱈目だと見てる。元々中国は王朝の交代制で神話はそれを示してて、禹から世襲になって夏王朝が始まるとあるけど、これを勘違いしてるんじゃないか?と見てる。桀と禹に父系の連続性は無いのじゃないか?と見てる。それと言うのも殷から突然歴史的王朝になるけど、神話からいつ歴史的記述になるか?この境目がどうも怪しい。
考古学的には夏王朝らしき遺跡は見つかっても、考古学的に王族に関する確かさが証明されたわけじゃない。夏王朝はあったと見て良いと思う。ただ、その王家の系図は殷は当時の記録が残ってて確かさが増しただけで、夏はそんなもの見つかってない。より後の時代の夏が匈奴になったは意外と出鱈目じゃないのじゃないか?って見方。もちろん日本が殷の末裔だとかこういうのは良くある。
ただ初期の遊牧民でQは圧倒的に優勢さを感じる。夏の最後の王族はQ系だったかもしれないというのは案外適当だと思えない。東湖と系統が違う。何故東湖が帝国といえるような領土を獲得できなかったか?ならモンゴル高原を出自とした遊牧民じゃないからだ。東湖と似たような出自で契丹がいるけど、これはすぐにモンゴル高原に支配を広げている。モンゴル帝国の世界支配に元遼のブレーンである耶律家の存在が大きい。
QとともにCも移動してるので、匈奴の時代にはCはもう広がっている。そもそもスキタイ後にバイカル湖に来たグループがC2系だと見ている。もしQが中心だったなら今もっと残っているはずだ。ただ戦車から騎馬へって流れでQからCへ移る時代が来たのではないか?と見てる。
戦車を持ってきた西方集団は誰なのか?ここが匈奴がコーカソイドでは?といわれる部分。戦車を使ったアジア集団の中心遊牧民はおそらくQ系。じゃその文化は混血によってもたらされたのか?そして、混血しなくてもそれをもたらした民族は何者か?スキタイ前の青銅器文化も繋がってる可能性がある。ただ小麦はこんなものじゃない。もっと前。彩陶土器に2系統あって、おそらくこの伝播。
そういえば青銅器と戦車は印欧語族だと素直に思う。ルートが問題になる。モンゴル高原のルートが良く分からん。タリム盆地のルートは、それが今まで話してきた人達だから。ずっとかなり昔から断続的に来てる。過去の国家の範囲は小さいので、北=内モンゴルの可能性がある。ならそこを通じて、タリム盆地と繋がる可能性がある。
ただQは内モンゴルで豊富に出たことはあまり無い。どうしても王族とか明確に遊牧民でも支配層という形でしか古代は出ない限られたハプロ。自由に出てくるならやっぱモンゴル高原になる。コーカソイドがそのまま支配階層になってしまえば良いのに、わざわざ、Qとまざるのが分からない。しかもそういうコーカソイドが来た形跡がハプロに出ている。Rが支配層としてハプロが出てくればわかりやすいし、匈奴もそうなる。
古代中国のQが西から来たはほぼ無い。ウイグルで見つかったものは、普通にアメリカに多い、シベリアに残った少数民族からも出る系統だから。今ウイグルに多く出る系統は後から西方から多分JやRとやってきたQだと見ている。分岐の系統から古い時代に分かれたものと分かるから。そもそもQは南方と北方ルートがあり、北方ルートは東アジアと全く関係無い場所で分岐したものになる。当然元のQが生まれた場所での古い分岐が後から東方で出れば西方起源になる。
ちなみに日本の系統は南方ルートでアメリカでは少数派になる。ただしやっかいなのは、別のデータでは現代ウイグルに多い、西方に多い系統のものがウイグルから出ている。周の貴族から発見されたのは、日本と同様の南方ルートのQであるためこれは東方系だと断定して良い。
そもそも匈奴のQは東方西方がばらばらすぎる。遊牧系の王族が続いていたとしたら、Q系統は中国系統で統一されると思う。なのに、匈奴はでたらめなほどバラバラ。もっと不可解なのは、ばらばらなのにQの割合が高い。全くの偶然で、西方のQが混ざったとするのがシンプルな答えだと思う。他は強い西方起源は無いから。後殷が東夷だって点で、殷は王族が複数系統ある。遊牧系と東夷の部族連合なら有りうる。
ウイグルで初めて文字を持った遊牧民が漢字を発明した事が不可解だから。ただ文字自体は、彩陶文化でも出ていて、より東夷の方が甲骨文字に似てるからに過ぎない。この辺りなんとも言えない。それだけN系の文明に果たした功績は偉大で、文字もそうじゃないか?と思ってしまう。その裏でちらちらと見えるコーカソイドの影。真相は分からないけど。