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騎馬民族

 Cがいつ移動したのか?は分からない。ただ中国の文明に遼河付近に徐々に南下してくるので、その時期にはモンゴル高原に住んでいると思われる。だがこれ複雑で、今冷涼で乾燥してゴビ砂漠すらある内モンゴルと外モンゴルを含めた地域は過去森林地帯で、気候変動で今のような植生に変化したのが大きい。Cがいつ狩猟採取民として、モンゴル高原に入ってきたか?は分からない。だが夏家店上層文化が始まる頃にはO系とC系の侵食が激しくなってくる。


 歴史的には、ここを占拠したのが東胡だと言われている。夏家店下層文化の頃は雑穀牧畜主流で、この頃になると、牧畜中心になっていく。これは気候変化によるもので、次にそこにN系が減ってC系の割合が多くなる。遊牧と言うスタイルであったか?は分からない。それと言うのも鮮卑の元になる東胡はベタなモンゴル高原の遊牧民達とちと違う。後の時代になるが、女真や扶余などのツングース系のなりたちと重なる部分がある。


 このCは中国に多いC2Cが中心だったと見ている。狩猟採取と牧畜農耕をベースにいきなり騎馬民族化した集団が多いので、東胡はその中間的な性質をもつらしい。例えばわかりやすいのは、遊牧と言うスタイルをとっていても馬にのって羊達を追うのが典型的なモンゴル高原の遊牧になるが、このスタイルは西方から持ち込まれたもので、平地の少ないツングースの地域じゃちょっと意味合いが変わってくる。騎馬民族化してるので、馬が使えないわけじゃない。ただ早い段階から馬に乗って遊牧ってスタイルを西方から取り入れたモンゴル高原の騎馬民族とは成り立ちが違う。


 武力としての騎乗が最初から確立していたとなる。これを確立したのはスキタイだと言われている。だから騎馬民族と馬を家畜化した民族じゃちと意味合いが違う。どちからと言えば戦車と馬の組み合わせの方が古い。まず馬の家畜化がスタートで、次に騎乗して遊牧が第2段階になる。そして最後に騎乗したままの戦闘する民族が最後に誕生する。


 東湖がどういう民族だったか?良く分からないが、夏家店上層文化を占拠した時期のちょっと後にスキタイ登場になるので、当初は牧畜中心の生活から遊牧と言う形で、時期的にちょっとスキタイ登場より早い。馬を使っていたか?は分からない。ただ、馬はかなり早くから中国で導入されてる。それは戦車の歴史は長いから。当然遊牧民はもっと早く使っている。


 馬は元々乳と肉と言う牛みたいな使われて方が長くて、車輪の発明から牽引の役割が出てくるけど、これも牛を使った例も多くて、本格的に馬に特化したものは戦車の登場を待たないといけない。速度の問題だろうと思われる。代表的なグループはヒッタイトだが、そもそも印欧語族はすべてこの文化を持っていた。


 何故スキタイが特別なのか?と言うと騎乗と軍事を組み合わせた最初の集団だから。後スラブ人の祖先はバイカルスキタイ以外も多分いたと思う。スキタイはトルコと似てて、東西に分布が広すぎて人種的には余り繋がりが無い。しかも、言語的にトルコ語という共通性も良く分からない。騎馬民族=スキタイとして文字を残す人に記録されたのが大きいと見ている。ただし混血スキタイが西方までやってきていたのは事実。それとすべての当時の騎馬民族がスキタイという同一民族で括れるか?は別問題。


 Cがいつ広がったのか?は分からないが、スキタイの西方移動と同時にCがおそらく拡散してる。その中で重要なのがバイカル湖になる。このグループがおそらくNの後追いでウラル方面に行くグループだと見ている。かなり早い時期にN系以外のグループがバイカル湖に来ている。歴史でも残ってる中国人を連れ去れって奴隷として農業や手工業させる地区がバイカル湖だったと残っている。


 それというのもあそこ閉じ込めやすい。特に冬に閉じ込められるのは有名で、それでバイカル湖起源説が出たぐらいだから。例え逃げても、死んでしまうため無人島の様な形になりやすい。ただ今O2系が豊富に残ってる痕跡は無い…。ただ中国から外れた地区の系統以外のベタ中国系も多数モンゴルに居るのは、そういう人の子孫が騎馬民族に同化した可能性もある。


 さて問題はトルコの領域となるウイグルのアルタイ方面辺りはいつだったか?で、これは難しい。過去にモンゴロイドとの混血が誕生してるが、それはN系であったのか?が分からない。O2系とN系が初期の中国で西方よりに住んでいたグループだが、かなり後に分岐したものなので、ルーツ的には東方起源じゃないか?と見れるので、黄河文明のO2は大半南下したと思ってはいる。


 鮮卑の伝説を疑うなら、東から来たんじゃなくて、西から東に行ったとすれば分かり易い。それと言うのもウイグルのカザフ族に偏って多い集団で、東から西に行ったという鮮卑の伝説は間違いで、西から東に来たんじゃないか?と思われる。どちらにしろCと合流したのは後からになる。鮮卑はO2よりCの方が多い。たまたまO系が中国で王になっただけで、そのせいで良く分からないが、鮮卑の居住区だった遺跡ではCの方が出ている。O2は北魏の系統だけ多かっただけじゃないか?とは見てる。


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