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第一部 9

第一部 9


 噂になるのは覚悟の上だった。美里の機転で今のところ上総の意味不明な行動をごまかしてもらってい るようなもの、おそらく生徒会役員選挙後にはすべてが明らかになるはずだ。その後のことを上総はまだ 、考えていなかった。

 ──とにかく、杉本を一切かかわらせないようにすれば、すべてはなんとかなるはずだ。あとでまた考 えればいいさ。

「あのなあ、立村、お前って意外とお気楽野郎なんだなあ」

 生徒会役員選挙立候補締め切り最終日、上総は天羽に呼び止められた。

 機嫌は悪くなさそうだ。E組へ行こうとする上総に、片手をかけて、

「とにかく明日、お前の口から評議の連中に説明してくれるんだよなあ」

「もちろん、そうするさ」

 とっくに情報は流れているはずなのに、天羽のひょうひょうとした態度は変わっていない。本当だった らもっと「あのな、立村、もう少し考えろよな。お前は評議委員長なんだぞ! 本条先輩に申し訳立たな いぞ!」くらい言われそうなものなのに。

「用事あるんだろ、さっさと行けよ」

 一刻も早くE組へ駆け下りたい上総の気持ちをあっさり汲み取ってくれた天羽。上総にはそこも腑に落 ちなかった。

 詳しく考え込むひまなんてない。まずは杉本を押さえねば。


「杉本、いるかな」

 教室の扉に手をかけ、上総はそっと覗き込んだ。杉本だけだった。いつも侍女のように見守っている西 月さんの姿はなかった。

 杉本はちらと上総をにらみつけた後、黙って窓辺に佇んだ。全身、隙だらけ。安心して傍らに立った。

「昨日は、ごちそうさまでした」

「いや、たいしたことないよ」

 空を見上げたまま杉本はお礼を言ってくれた。昨日の放課後、必死の思いで「おちうど」へ連れて行き 、抹茶クリームあんみつをおごったかいがあった。上総もつられて杉本の視線を追い、真っ黒く染まった 雲の色に見とれた。

「これから台風が通過するそうです」

「そうなんだ」

 今朝の天気予報でそんなことを聴いた記憶がある。傘はもちろん持参している。

「かっぱでお帰りになった方がよろしいと思います」

 杉本はいつもの一本調子な声で、つぶやいた。

「そうだな、杉本もそうしたほうがいいと思うよ。歩きだろ」

 杉本の家は徒歩で通える距離だった。自転車通学をしない主義の家庭に育っている。

「かさが使えないと大変だろ。帰り、送るよ」

「結構です」

 それでも杉本の口調には、かすかなやわらぎが感じられた。昨日までの会話には一切ないものだった。 厳密に言うと関崎の話題を持ち出すことでもなければ、上総には得られないものだった。

「立村先輩、お伺いしたいのですが」

「なに」

「先輩は、評議委員長として評価されることがありましたか」

 視線を向けず、台風待ちの重たい空を眺めながら杉本は尋ねてきた。

「評価?」

「はい、先輩は評議委員長でなければ、評価されることもなかったはずでしょう」 

 ──評価されたのか、俺は。

上総はそっと横顔を眺めた。視線を交わそうとしない杉本の耳元へ答えた。

「評議委員長になったって、評価なんてされなかった。それでいいと思っている」

 言葉にしたとたん迫ってきた息苦しさに、上総はかろうじて耐えた。

「そうですか。評価されなかったのですね」

「杉本は評価されたいと思ってる?」

「あたりまえのことをお聞きにならないでくださいませ」

 また違和感のある言葉遣いをする杉本に、上総は次ぐ言葉を見つけられずにいた。

 ──俺が杉本を評価するだけだったらだめなのかな。


 杉本がなぜ、生徒会や評議委員会のような、青大附属における肩書きにこだわるのか、わからないでも なかった。

 この学校が少し特殊なのも、輪をかけているに違いない。

 青大附属において評議委員会が実質的学内での権力を持ち続けている現実と、生徒会という場所が曲が りなりにもトップクラスの生徒の集まりという事実と。そしてその肩書きさえ手に入れれば、どんなに役 立たずの人間でも「あの評議委員長が」「あの生徒会長が」と丁重に扱われるわけだった。上総も評議委 員長という肩書きを、思いがけず手に入れた時の高揚した気持ちを忘れたわけではなかった。天羽や新井 林のように、明らかにトップクラスの男子生徒がそろっている中から自分を選んでもらえるなんて、これ はひとつの奇跡だった。

 ──でも、結局は変わらないんだよな。

 「評議委員長」という名の肩書きはただの単語にすぎない、そう気付くのも早かった。

 顧問の先生も、高校に進んだ先輩たちも、またクラスの女子たちも。

 「評議委員長」に選ばれたからといって、今まで以上の評価を上総に与えてはくれなかった。

 「頼りない、なに考えてるんだかわからない」「美里も早く振っちゃえばいいのにね」「本当は天羽く んみたいな男子がトップに立つべきだったんじゃないの」「本条が意地で推した弟分だからなあ、しょう がないだろ。本条の顔を立てねえとな」

 立村上総に対する評価の厳しさを、自分自身気付かない振りをしてきたのかもしれない。

 肩書きをもらえても、結局、上総は自分自身を評価されるだけのことだった。

 ──ろくにものも数えられず、成績も運動能力も人並み以下、人をひっぱる力もない、結局は良くでき る仲間たちがフォローに回ってくれるからなんとか面目を保っているようなものなんだしな。天羽や清坂 氏がいなければ、今ごろ俺は。

 振り返れば、四年前の泣き虫だった自分がじっとこちらを見つめている。

 寒くもないのにひとり震えながら、カーテンの陰でおびえていた自分がいる。

 ──評議委員長? だから?

 せせら笑う声と一緒に泣き顔が浮かぶ夜。


「杉本、俺は杉本のことを評価しているつもりだけどな」

 上総は杉本の横顔に直角に接した。

「本条先輩は俺のことを過剰評価してくれたんだ。だから、今までやってこれたんだ」

「本条先輩がですか」

 杉本の声がかすれていた。

「本条先輩が評価してくれれば、他の生徒たちに何思われたって俺はかまわないんだ」

「私は立村先輩に評価してもらえてもちっとも価値を感じませんが」

 ──関崎だけか。

「それなら、どうすれば杉本に価値、認めてもらえるかな」

「今答えなくてはいけませんか」

 ようやく杉本は上総の目を見つめてくれた。じっと見入った黒目がちの瞳には、かすかな揺れが浮かん でいた。

「急がないよ」

「そうですか」

 杉本は教室の扉へすぐに視線を逸らし、

「西月先輩がいらしてます。失礼します」

 直角に右向け、右とやったあと、小走りにE組の教室から出て行った。黒い雲が薄く、ゆっくりと広が っていた。


 杉本梨南がほしがっているものが何か、上総はずっと前から知っているつもりだった。

 ──トップクラスの人間から与えられる、最大級の評価。

 成績は誰にも文句を言わせないものなのに、誰一人認めてくれない。

 「人格こそ大切、成績だけがよくても人間としては最低」と軽蔑される日々に、唇をかみつづけていた のだろう。

 そして杉本から見れば、トップクラスの人間とは新井林健吾であり、佐賀はるみでもある。

 このふたりに最大級の評価をされない限り、杉本梨南は自分を認めることなんてできないだろう。本人 がどう思っていようが、周囲からはその姿が丸見えだということも気付かずに。また、新井林健吾も佐賀 はるみも、一滴たりとも「評価」を与えたいとは思っていないだろう。ふたりがけちなわけではない。ふ たりにとって、杉本梨南は魅力のない存在だから、それだけだ。

 だから杉本には、あのふたり以外のトップクラス人間からどうしても高い評価を与えられる必要があっ た。

 今にも飢え死にしそうなほど、欲している。

 ──せめて関崎が与えてやれればいいのにな。

 その希望も今はほとんど残っていないことを上総は知っている。

 ──せめて俺が、関崎くらい能力があればな。

 何が食べたくて何を着たいか、上総の目にはすべて見えているのになぜ、杉本に受け取ってもらえるだ けの能力が自分にないのだろう。どうすれば、杉本は上総の言葉に価値を見出してくれるのだろう。生徒 会に入ったって、誰も評価してくれるわけでもなく、軽蔑する人間が増えるだけなのに。上総でよければ 、杉本のほしい誉め言葉はすべて、毎日、いや毎時間言ってやれるのに。

 上総は教室から出た。杉本を囲んで西月さんと霧島さんが何かを話し掛けている様子だった。あのふた りがそばにいる限り、生徒会室へ駆け込むことはないだろう。軽く手を挙げて、上総は三階に向かい階段 を昇り始めた。

 いつもと変わらぬ時間が三Dの教室で過ぎた。あと一時間だけ、杉本の時間を上総の手で押さえておけ ばいい。

  

 六時間目の鐘が鳴った。

「先生、今、少しだけいいですか」

 いきなり美里が挙手をした。帰りの会の最中だった。なんだか顔色も優れない菱本先生、少し寝ぼけ眼 で、

「おお、どうした清坂」

 無理に明るくした笑顔を見せた。そろそろ結婚式も近いとあって、ストレスたまっているんだろう。上 総の本心は「どうせ自業自得」の一言でしかない。

「来週のロングホームルームなんですけど、そろそろ委員も後期改選の時期なので、少しみんなから意見 を聞いておきたいなと思ってるんです。評議委員会もそうなんですけど、生徒会とか、規律委員会とか、 その他みんな」

「そうだな、でもあれだろ、どうせ後期たって、お前らはもう予約済みなんだろ」

 笑いが起こった。ほとんどの場合、一年からの持ち上がりパターン……例外あり……という現実を教師 もよく理解している。

「そうですけど! でも、何が起こるかわかんないし! だから来週のロングホームルームは、私たちに 仕切らせてほしいんです!」

 ──私たち、か。

 いつもの美里だったら「評議の私たちに」とか「立村くんと私に」とか言うはずだった。今まではそう だった。ささいな言葉の違いだが、上総にはその意味がつつっと通じた。そうだ、「私たち」だと相棒が 立村上総でない可能性も大だということだろう。

 特別反応を示した奴はひとりもいなかった。鈍感教師の菱本先生がもちろん気付くわけもない。こくこ く頷き、ちらと上総の方を見やった。当然、上総は一切無視した。

「わかったわかった、そうだな、まずは三年折り返し地点だしな。よし、言いたいことをみんなで言わせ るとするか」

「ありがとうございます! じゃあ、これから放課後、ちょっと相談に乗ってくれるみなさん、残ってく れますか」

 上総は時計をじっと見つめていた。もちろん、残る気はまったくない。美里も上総の方へ身体を一切向 けなかった。

「よっし、俺、乗ったぞ!」

 黙っていても、ちゃんと羽飛貴史がいるじゃないか。元気良く両手を挙げて意思表明をする奴が。

「美里ちゃん、私も手伝うね」

 とっくの昔に話を煮詰めていたのだろう、奈良岡彰子もふっくらした頬を緩ませて片手を挙げた。

「うれしい! ありがとう! じゃあよろしくね。他のみんなもいいかな?」

 このクラスの流れとしては、美里と貴史のふたりが提案し、その上に南雲や奈良岡、その他の連中が乗 っかっていき、いつのまにかうまく行っているというパターンがほとんどだった。大抵の場合、上総の役 割は仔細を詰めたり事務を片付けたりする程度だった。だから、ほとんど反応を示さなくても対して気に なる人はいないはずだった。

 ──どうせ俺はいてもいなくても変わらないんだしな。

 今はそれがプラスに働いている。上総は帰りの会が続いている間にかばんへ教科書を放り込んだ。隣の 南雲を見ると、やっぱり同じようなことをしているではないか。ちなみに古川こずえはしかめっつらして 上総と南雲を眺めている。何か言いたげだが、言わない以上こちらも答える義務はない。「なぐちゃん、今日残るのか」

「いや、ちょいとやぶ用で」

 南雲はいつものさらっとした笑顔で答えた。やはり奈良岡彰子と合同で作業するのを避けている、そん な気がした。

「りっちゃんも急いでるんだろ、さっさと抜けたら」

「そんなわけいかないだろう」

 思わずため息が洩れた。帰りの号令は評議委員である上総の担当だ。この二語を発しない限り、教室か らは飛び出せない。

「起立・礼」

 さようなら、と続く挨拶までの間が、上総には長く感じられた。


 すでに廊下には人が乱れていた。階段を駆け下りる途中、他クラスの先生から呼び止められること三回 。めったにないことだった。多すぎる。休止符が否応なしに入るたび、上総は片手を強く握り締めた。う っかり「悪いけど今忙しいんだ」と交わせない内容ばかりだった。

「台風が来ているからみな、早く帰りなさい」

 ──それなら早く解放してくれよ。

 上総が一階に下りて、E組教室に到着したのは、帰りの会が終わって三分後だった。

「杉本、いるかな」

 いつものように脳天気な声をかけながら、扉を開いた。ふたり、女子生徒がいた。良く知っている二人 だった。

「何か用なの」

 隣り合っていたのは西月さんと霧島さんだった。暗い声で尋ねてきたのは霧島さんの方。西月さんは額 を出したまま上総をじっとにらみつけていた。嫌な予感どころの話ではなかった。杉本がいないのだ、当 然だ。


 元評議委員と現評議委員のふたりは、じっと上総を見据えている。

「あのさ杉本どこ行ったか知らないかな」

「知ってどうするの」

 霧島さんの重たい声は、じわじわと腹に響いた。ヒステリックに叫ぶでもない。あの台風交じりの空に 似ていた。

「いや、台風だからさ」

「杉本さんをばかにするのもいいかげんにして」

 霧島さんと西月さんは立ち上がり、上総の両脇にそれぞれ回った。両手に花、とは決して言えないこの 状況だった。なんとかしなくては。乗り切り方を考えたが、思いつかない。いや、この二人に用はない。 杉本を捜さねば。

「ばかにしてないけど、あのさ、杉本どこに行ったか知らないかな」

 上総は繰り返した。少しいらだってきた。ふたりを思いっきり払いのけたい衝動が走った。そんなこと できるわけもない。じとっとしたまなざしに胸がむかむかしてきた。

「杉本さんをこれ以上傷つけないで」

 感情のこもらない声で、霧島さんは答えた。ふたつわけにした子犬のような髪の毛が、その口調とは不 釣合いだった。

「杉本さんをなぜ、立候補させちゃいけないの」

「立候補って、杉本そんなこと言ってたのか!」

 一瞬身体がこわばる。でもかまっていられない。霧島さんの隣で瞳に涙をいっぱいためた西月さんが頷 く。霧島さんがさらに言葉を発した。

「杉本さんは、私たち三年女子の惨めな思いを訴えたくて、生徒会に立候補しようとしているの。どうし て立村くん、杉本さんが女子だからって理由で立候補を止めようとするの」

「そんなこと、言ってないだろ。そんな誤解してるんだったら解かねばなんないし、だから杉本、どこ行 ったんだ?」

 とうとう西月さんの両眼から涙があふれ出た。二列、つーっと流れ落ちた。

「杉本さんのように頭がよくて、かわいい子がなんで、男子に邪魔されなくちゃいけないの。生徒会長に なっちゃ、どうしていけないの。私みたいに頭の悪い子だったら存在する価値なんてないけど、杉本さん はもっと高く評価されていいはずよ。どうして、邪魔するの」

 埒があかない。ぼろぼろ涙をこぼしたまま見つめつづける西月さんを、霧島さんはそっとひきよせるよ うにして、

「女子が生徒会長になっては、どうしていけないの」

 震える声で、訴えた。


 このふたりに何を言ったって今は無駄だ。上総はふたりを振り切り教室から飛び出した。追いかけてこ ようとする霧島さんを手で軽く押しのけようとした。止めたいのか、上総の腕をつかもうとする。一応は 男子の腕力、突き飛ばしたら怪我させるかもしれない。そのくらいの理性は働いた。と、そこへ見覚えの ある男子がひとり立ちすくんでいるのが見えた。小柄な男子で、どんぐり眼。

 ──英語で二番のあいつだ。

 上総はすばやくそいつに近づき、できるかぎり早口でささやいた。

「今、西月さんが泣いてるんだ」

 最後まで言う間もなく、その男子がE組の教室へ血相変えて飛び込んでいく。霧島さんがそちらに気を 取られている間に、上総は一年教室を一気に駆け抜け、生徒会室に一番近い階段を二段とびで駆け上がっ た。


 生徒会室へ様子見しようとした。引き戸の側には、現二年男子生徒会役員が待ち構えていた。上総を認 めると「評議委員長」宛ての礼をした。

「杉本は来てないか」

「大丈夫です」

 なにが大丈夫なのだろう。藤沖会長がどういうスタンスで見ようとも、やはり生徒会役員にとって杉本 梨南は唾棄すべき敵。

 ちりちりと焦げていく胸奥の何か。上総は頷くことで言葉を飲み込んだ。

 ここで待っていればたぶん、来るだろう。

 時計を覗き込んだ。思わず時間を食ってしまった。今三時五十分を過ぎたところだった。あと十分、杉 本がどこかで足止めされていれば、すべてが丸く収まるはずだ。職員室か、それとも友だちか。

 ──来るな、絶対に来るな。

 ──ここには、杉本を評価しようとしてくれる奴なんて、誰もいないんだ。

「会長、呼びますか?」

「いいよ」

 返事を待たずに生徒会役員はそっと引き戸を開けた。その隙間から、大人数の気配が感じられ、女子の 声で誰か、

「佐賀さん、来てくれてありがとう」

 話し掛けているのが聞こえた。

 もう疑うことはない。時計の針が四時を示すまで、上総はここから離れないことを決意した。


「まずい、すいません」

 二年教室方向をじっと眺めていた生徒会役員たちが、いきなり大声をあげて生徒会室へ飛び込んだ。上 総もつられて身を乗り出した。二年C組付近で立ち止まっている女子がいた。上総の顔を見つけ、一歩退 こうとし、その後ものすごい勢いで強行突破しようとした。

 昼休みとは違う髪形だった。お下げだったのに、今はポニーテールだった。いつ直したのだろう。

 「杉本、やめろ! こっちに来い!」

 手を伸ばし、腕をつかもうとした。変態と言われるかもしれないが、いざとなったら背中に抱きついて もいい。つかみ損ねて思わず、つんのめりそうになった上総の隙を突き、杉本は生徒会室の引き戸を一気 に開いた。

 扉の向こうには、生徒会役員を含めた男女が群れていた。杉本の長いポニーテールが鼻先に触れそうだ った。このまま無理やり階段から引きずり降ろせればいいのに。杉本の立ち位置はちょうど、戸の敷居す れすれだった。まだ入っていない。上総の方を、いつものように九十度きちっと回って向きなおり、

「いいかげんにしてください。私にしつこく付きまとうのは一種の犯罪です」

言い放った。

 ──犯罪? どうせ俺は、杉本からしたら変態だろう。

 「変態」扱いとっくにされている。だったら「犯罪者」扱いされたって痛くも痒くもない。

  「だからもうやめろって言っただろう、杉本はこっちにいる方が絶対にいいんだ」

「要するにこうやって私がやろうとすることを、先輩は邪魔しようとするのですね」

「時間がありません。消えてください」

「だから入るなって言ってるだろう」

 両手で杉本の右腕を引っ張った。振り払いはしなかった。まだ脈はある。

「立村先輩、どうしてそんなに私が立候補するのを止めようとするのですか。私だけではなく、先生たち も高く評価してくれたからこそ、私は」

「違うんだ、だからこっちこい。説明してやるから」

 何度言ったらわかるのだろう。杉本の求める評価と先生たちの考えている本音とが天地ほどの差がある ことを。あと十分、早く過ぎろ。腕時計の針を早く回したい。杉本の腕にかかっている細い銀色の時計を ひったくり、四時に合わせて終わらせたい。

「時間がなくなります。あと十分ありますね。失礼します」

「だから話を聞けよ」

「時間がないのです、だから離してください。先生を呼びますよ」

「呼びたいなら呼べよ。聞かれて悪いことなんてない。全部説明するよ」

 あと十分だけ、なんとか口げんかで流したい。すばやく計画を変更し、上総は荒っぽい口調で杉本に言 い返した。日常、決して使わない言い方だし、ふだん杉本相手にそんなしゃべり方しようものなら一発で 縁を切られるだろう。それはわかっている。でも、杉本の触れてはいけない部分を露骨に触ることによっ て、時間の感覚を失わせることによって、たった十分が風のように去るだろう。あとで怒鳴られようが殴 られようが、かまわない。その上で、責任を絶対に取る。

「杉本、お前何も知らないんだろう。いいか、駒方先生も狩野先生も、杉本を落とすために立候補させよ うとしているんだ」

 上総はまず、事実をさらっと述べた。杉本の顔にほんの少し、迫るものが消えた。手ごたえあり。

「それは先輩の勝手な思い込みです」

「俺だけならそう思うだろうな。けどさ、それは生徒会の人たちも、評議も規律も、どの委員会もすべて わかっていることなんだよ」

「何をふざけたことおっしゃるのですか。先輩でもあるまいし」

「知ってるだろ、生徒会が過去三年、全部信任投票だったってこと。つまり、みな立候補の段階で決定す る形になるんだ。たぶんほとんどの役職は埋まっているはずだ。立会演説会はほとんど信任するかどうか を決める場だってことも、わかってるよな」

「立候補していけないわけがないではありませんか。だから生徒会役員告示というものがあるのです」 一本調子の声が少しだけトーン高くなった。いける、大丈夫だ。平常心をなくすなと言い聞かせる。「そうだよ、これが建前なんだ。杉本、もしもだよ、自分が投票する立場においてだよ、今まで生徒会役 員をやってきた人たちが立候補してきたのに、知らない奴がいきなり顔を出して、安心して票を入れられ ると思うか?」

「できのよしあしです」

「杉本、お前自身、どう思ってる? 立候補して、評価されると思うか?」

「それはやってみなくてはわからないではありませんか」

 杉本は首を振った。太いポニーテールが激しく揺れた。震えている。上総は畳み掛けた。

「新井林や佐賀さんが、杉本のこと、評価してくれてると思うか?」

「あいつらには私の価値などわからないのです」

「そうだよな、わからないよきっと。けど、全校生徒も杉本の価値を理解しているとは限らないよ。二年 B組の人たちだってそうだろ。杉本がいなくなってもちっとも引き止めたいと思わなかっただろ。新井林 と佐賀さんが評議になって喜んでいるだろ。水鳥中学の人たちだってさ」

 これは言うべきか、迷う。一瞬のためらいの後、上総は口にした。

「佐賀さんのことを高く評価して、ぜひ水鳥中学の交流会にきてほしいって言ってたんだよ。杉本の時は まったく反応なかったのにさ」

生徒会室には佐賀はるみがいる。

もしかしたらここでの会話を聞き耳立てているかもしれない。すべては計算づくだった。


「全校生徒の評価など、ひとりひとり確認したわけでもないのに」

「そうだよな、直接杉本と話をした奴はほとんどいないものな。けどさ、そうなんだよ。確認しなくたっ て、リーダーになる素質のある奴にはみな、黙っていても支持する人が集まってくるんだ。俺を見ればわ かるだろ。俺が評議委員長だってことみんな知ってるのにさ、重要な話はみんな天羽に行くだろ。へたし たら新井林に持っていく先生もいるんだ。水鳥中学だって俺と直接接したいといってくれるのは関崎だけ なんだ」

 無意識だった。杉本のほどけた口元があどけなかった。

「杉本、どういうことかわかるか。どんなに立派な肩書き持ってたって、人はみんなそいつの価値を見抜 くんだ。杉本が生徒会役員になったって、新井林や佐賀さんが杉本を見直してくれる保証なんてないんだ 」

 

 自分を攻め立てる幼い上総の視線。突き刺さった。

 ──結局みんな、天羽に流れるくせに。

 ──結局俺は、本条先輩が無理やり推しただけの評議委員長なんだ。

 

「昼休みも言っただろ。こんなできそこない評議委員長がなぜ、なんとかやってるか」

 声が裏返る。時計盤を覗き込む余裕なんてない。杉本の瞳をただかじりつくように見つめるだけだ。「本条先輩が認めてくれたってことだけが、俺にとってはたったひとつの支えなんだ。あの本条先輩が、 新井林や天羽や難波や轟さんや更科や清坂氏を差し置いて、俺を評議委員長に選んでくれたっていう、そ れだけでやってきたんだ。他の奴らよりずっと価値のない俺みたいな人間を、認めてくれた相手を裏切る ことなてできないよ。杉本、約束、破ることなんて、できないだろ。それと一緒だよ」

 自分の声は、評議委員長の立村が発しているものではない。いじけて泣いてばかりいた、泣き虫上総の 声だった。

「全校生徒が杉本を認めなくたってさ、俺が百パーセントの価値をやるって言ったら、どうしてもだめか ?」

 一歩、もう一歩近づいた。

「生徒会役員にならなくたって、E組にいたって、何したって、俺は杉本の価値を毎日認めるから。それ だったらだめか?」

「だから、清坂先輩にあんな失礼なことをおっしゃったのですね」

 杉本は片手をポニーテールの根元に触れながら、きりりとしたまなざしのまま答えた。

「霧島先輩がおっしゃってました。私を生徒会役員に立候補させないために、立村先輩は清坂先輩にひど いことをおっしゃられたと」

「そういうんじゃない、それはつまり」

 もういい、本当のことを言ってしまおう。周囲に人垣ができている。評議委員長が生徒会室で、かの問 題児である杉本梨南を相手に意味不明なことばを口走っているのだ。明日はもう噂だろう。台風のごとく 、駆け巡る。

「女子がトップになるのは許せないことだからという理由で、男子の誇りを傷つけられるからという理由 で、私を無理やり、ただの恋愛沙汰好きな女子として、見下すために」

「ふざけるな、違うって言ってるだろ!」

 霧島さんはいったい何を勘違いしていたのだろう。怒りなのかそれとも絶望なのか、すべてを吐き出し てしまいそうだ。

「俺をそこまで腐った人間だと思っていたのか!」

 時が止まった、一瞬言葉が詰まった、その時だった。


「あんたたち、さっさと消えなさいよ!」

 生徒会室から、見知らぬ女子が杉本の真っ正面、鼻先へ指を突きつけた。

 三角屋根を思わせる髪型の、細い目の女子だった。胸ポケットの名札には「風見」とあった。

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