第一部 8
第一部 8
生徒会役員改選立候補者募集の告示が出された。
藤沖が予想していた通り、二年生たちの反応と動きは鈍いらしい。
「とりあえず役員ポストは、無事埋まって来てはいる」
「立候補した奴の受理は進んでいるだな」
上総の問いに、藤沖はコッペパンを頬ばりながら答えた。
「一応しているが、毎度のことながら明日が山場だ。教師連中が誰かをたきつけて立候補させるかもしれないが、そんなのはよくあることだ」
よくあるったって、たった一年しか経験していないのに。
一通り状況だけチェックした後、上総はすぐE組へと向かった。
候補者の名前は後で調べればいい。杉本梨南の名前が入っていなければ、それで十分だ。
「立村先輩、いったい何か御用ですか」
「昨日は楽しかったよな、杉本。今持ってるか、あれ」
別に内緒話にするようなことではない。給食の残りパンを包み、かばんにしまいこんでいる。杉本の隣にしっかと座り、上総はそのパンを指差した。
「杉本、残したの」
「食べきれません。頭に血が回らなくなります」
「そうか、なら、残り、くれないかな」
「立村先輩、ずいぶん、いやしいのですね」
「給食食べる暇、なかったんだ」
本当のことではある。どうしても今日は先に生徒会室で藤沖と話をしなくてはならなかったからだった。早めに給食を切り上げて、ダッシュで二階に向かい、終わったらすぐ一階に飛び降りて杉本の隣へ座る。一週間、続けてきたこのパターン。どうしても節約しなくてはならないのが給食所要時間だった。一週間、パンは袋を切らないまま持ち帰っている。当然、腹も減る。
杉本はしばらく上総をにらみつけていたが、かばんに手をかけて取り出した。全く手付かずのままだった。
「どうせ家に帰っても、食べる気しませんから」
「感謝する、ありがとう」
上総はちぎりながら口に運び、その合間に話し掛けた。口に入ったまましゃべると、露骨に杉本がご機嫌を損ねるので、そのあたりは上品にするよう心がけた。
「あの絵葉書、どうしたの」
「ありがとうございました」
冷たく杉本の返事が返ってくる。
「私は物をおごられることを快く思わない人間ですが」
「おごるんじゃないよ、だって杉本、欲しそうな顔してただろ」
「確かに私はマイセンの食器の美しさに魅了されましたが」
日常の会話で「魅了」なんて言葉を使うのは、まず杉本くらいだろう。笑いをパンと一緒に噛み殺しながら、上総は耳にささやいた。
「食器の絵葉書なんて誰が買うんだとか思ってたけど自分がな」
「いかにもおごったことを自慢げに話すのはやめていただけませんか、立村先輩」
上総から机を離そうとした。冗談ではない。さらに近づく。そう汚らわしげに見つめることもないではないか。
「私は一言も、『絵葉書を買ってください』などとは申しませんでした。ただ見ていただけです。それを立村先輩が隣からさっさとひったくって、一枚四百円もするものをお求めになられたので、きっとお好みなのだろうと私は思っただけです。まさか私に、無理やり押し付けようだなんて」
「押し付けたんじゃないよ、俺が買いたくなったから買って、杉本にあげたくなったからあげたんだ」
「私とは一歳しか歳が違わないのに、そんな不用な出費をしてどうなさるというのですか」 なさる、ときた。いつものパターン、落ち着き払い上総は受けた。
「俺の懐具合を心配してくれてるんだったらそれは大丈夫。この前の日曜、うちの親にこき使われてバイト代かせいできたんだ。だからしばらくは杉本がほしいもの、ある程度のものだったら買えるくらいの」
あえて説明はしていない。土曜の夜、父に小遣いの増額を申し入れた時に、
「それならお母さんに頼みなさい」
と有無を言わさず日曜、母のマンション部屋掃除を手伝わされただけのことだ。てっきり五千円くらいもらえるものと腹積もりしていたら、なんと現在使われていない五百円札で、
「あんたにはこれだけあれば十分なのよ。ったく、色気づいてもう。上総、あんた、彼女を大切にするのはいいけど、本能で変なことやらかしたらただじゃ置かないわよ!」
嫌味たっぷりに渡された。どうりでずっしり重たい袋だと思ったものだ。
屈辱に耐えて得た軍資金、せっかくだ、有意義に使わないでどうするというのだ!
「いいかげんになさいませ!」
きっとにらみ据える杉本の大きな瞳。声に抑揚がないぶん眼の際がひきつるのが目だつ。
「私は男子から物を施されるようなほど、レベルが低くありません!」
「じゃあもし、同じものを関崎からもらったら杉本はどうする?」
この戦術「困った時の関崎頼み」。上総は密かに名付けていた。
「あのお方と先輩とは格が違います!」
「それなら、関崎からもらったものと思って受け取ればいいだろ。ついでに俺のことも関崎と同じだと思えば、別に何の問題もないのではないかなと」
「先輩、少し頭おかしくなられたのではないでしょうか」
杉本は軽く首を振ると、席を立った。まずい、逃がしてはならない。
「いいかげん私に張り付いてべたべたしたがるのはおやめください。先日、お誘いいただいた件については心より感謝いたします。私もマイセンの食器は眼の保養となりました。しかし、一緒に立村先輩がくっついてこられたせいで、その輝きもだいぶ色あせたことは確かでしょう。しかも、私を見下すような態度まで」
「だから、あれは、俺が杉本に」
「何を考えてらっしゃるのですか。外に出たら出たで、いきなり私の髪の毛を解けなどとおっしゃるし」
「いや、それの方が、杉本らしいなと思ったしさ」
このあたりも、自分がなんでそんな気持ちになったのかがわからないので言い訳しづらい。外に出たら不気味なくらいの夕焼け空が広がっていたので、もし杉本がおさげ髪を解き思いっきりきらきら輝かせたまま歩いたらきれいだろうな、そう思ったから素直に口にしただけのことだ。美の問題であって、別に悪意はない。
「学校帰りだというのに、校則違反を勧めて、いったいなんになるというのですか! もう結構でございます。さっさとお帰りください!」
杉本はさっと指を扉に向けた。と同時に、後ろの方で様子をうかがっていたらしい西月さんと霧島さんが対で近づいてきた。杉本の背中に忍び寄り、それぞれ片手を肩にかけた。西月さんがその片方で杉本のお下げに編みこんだ髪の先を軽くなで、反対側の霧島さんは上総を何も感情のこもらない眼でちらと見つめた。
──難波がいくら罵倒したって、効果ないって証拠だよな。
「先輩、ありがとうございます。別のところできれいな空気を吸わせてください」
こっくりふたりで頷くのがいまいましい。かといって、同期の評議委員・元評議委員の前で、杉本しか知らない会話を交わす根性もない。
それに、女子同士だったらたぶん大丈夫だろう。まかりまちがっても生徒会室へ向かい、立候補の申し込みをするとは思えない。放っておいて大丈夫だ。
「わかった、杉本、放課後また来るから、一緒に帰ろう」
「うるさいです!」
連れ立って静かに廊下へ出た杉本の後姿に、上総はそっと片手を挙げて見送った。
扉が閉まる寸前、ちらと細めの視線を送ってきたのを、上総はしっかと受けとった。
生徒会役員選挙、立候補受付時間は限られていた。毎年そうなのだが、昼休みと放課後十六時までと定められていた。その時間帯、杉本の行動を狭め、眼を離さないようにすることが一番の問題解決方法だった。
そのためにはまず、放課後学校から連れ出し、四時過ぎまで一緒に話ができる場所で時間をつぶす。昼休みはとにかく時間の許す限り、E組で過ごす。もちろん評議委員としての義務や体育の授業前の着替え、トイレに行ったりする時間は必要だし、そのあたりを見極めなくてはならないが。とりあえず一週間は無事、杉本を生徒会室から引き離すことができそうだった。あと一日だけなんとかすれば、うまく乗り切れるだろう。
──あとは、藤沖が全役員を信任投票に持っていければ、完璧だ。
うっかりポストが埋まらなくて、その隙間をついて杉本が「再募集」の時にまた立候補しようとしたらもとの木阿弥だ。だが藤沖もそれほど心配していないようすだったし、あまり心配することもないだろう。
二分間ですること……トイレに寄ることと、次の授業に関係する荷物を先生から預かり運ぶこと……を終わらせ、上総は三年D組の教室へ戻った。扉を開けると一瞬、静まり返り、すぐまたもとのざわめきに戻る。上総が帰ってきたことへの、何か意思表示に違いない。
教卓へ次の授業、社会で使う年表と教科書を載せ、自分の席に着いた。
すばやく美里が目の前に飛んできた。評議委員同士、いつものこととたぶん思われているだろう。無表情で上総は受けた。
「立村くん、生徒会役員選挙が終わってからでいい?」
「なにが」
問い返すと、美里はまたおかっぱの髪の毛をぷるぷると振った。一週間前ほどいらだっていないのは、口調にも現れていた。聞いただけでは、落ち着いた感じだった。
「菱本先生のお祝いのことと、あと、杉本さんのこと」
「杉本のことか」
機械的に繰り返した。さっき杉本がちらと上総に振り返った瞳を思い出した。
「どうせいろいろあるんだろうから、きちんと聞くけど、菱本先生のことが終わってからね」
一週間、美里とはほとんど口を利いていなかった。美里が堂々と教室で「菱本先生のお祝いの件で忙しいから!」と言い放ってくれたから、まだふたりの間に亀裂が生じたことは気付かれていないらしい。まだ「別れた」わけではないと思われているらしい。
ただ、昼休みおよび放課後、E組で飛び回っている姿を毎日見られている以上、ばれるのは時間の問題だろう。現に、一瞬の静けさがよぎったのも、上総に聞かれたくない話をみんながしていたからに違いない。
「でね、杉本さん、大丈夫だった? 元気だった?」
返事に困った。なんでそんなことを聞くんだろう。
「立村くん、そういえば杉本さんのことが心配だから、デパートに連れて行って元気ださせようとしてるんだよね? 大変だよね、立村くん、大丈夫、こんど私も杉本さんのこと見てあげるから」
「そんなのはいいよ」
思わず声が荒くなった。元に戻すため、慌てて舌打ちする。
「とにかく、杉本さんのことは、私も心配だから。小春ちゃんやゆいちゃんのこともあるし。だから、あとでそのことも話そうね」
美里の思惑が読みきれず、上総は黙ったまま頷いた。
──つまり、杉本と昨日「マイセン展」に出かけたことを、清坂氏は知っているというわけか。何を言いたいんだろう?
上総は隣の南雲をちょんちょんとつついた。髪の毛が完全に規律委員長とは言いがたい長さに伸びている。「パール・シティ」のIKUにこの数ヶ月でどんどん似てきたと巷の噂だった。なんとなくだが上総もそれには気づいていた。修学旅行前まではそれでもきちんと揃える形でまとめてはいた。今はもう、髪の先をぴんぴんはねるようにしている。南雲曰く「遊び毛って言うんだよ」。似合っているのかどうかはわからないが、上総はあまり真似をしたくないスタイルではある。
「どうしたのりっちゃん」
「さっきまで俺の噂、みんなしてたのか」
小声で、反対隣の古川こずえには聞かれないように、耳に口をくっつけた。
南雲は、嘘を言わない。
「どうしてそんなこと聞きたいのかなあ、りっちゃん」
「聞きたくないわけないだろ」
にやっと南雲は唇の脇にえくぼをこしらえた。上総の肩をつつき返し、
「ちょい耳貸して」
まず息を吹きかけた。
「なんでりっちゃんE組参りしてるのか、ってそれだけ」
それだけわかれば十分だ。
「ありがとう、そういうことだったか」
「けどさ、清坂さんが説明してくれてるから、別になんとも思っちゃあいないよん」
「清坂氏が説明?」
美里の方を振り返ろうとしたら、南雲にむりやり肩を抱かれた。
「なんかいろいろ、生徒会と評議委員会同士の相談があって、そのからみもあるんだよ、ってこと言ってたよ」
上総はゆっくりと呼吸を整えた。
「それだけか」
「そ、それだけ。りっちゃん安心しなさい。大丈夫、ほんとのことは誰も知らないみたいだよ」
「そうか」
慌てて周囲を見渡した。失言だ。聞かれてないか。
「大丈夫、りっちゃん、心配めさるな」
──ほんとのことって、どういうことだよ!
南雲はそれ以上何も言わず、歴史の教科書を取り出し、蛍光ペンで黒い文字を塗りつぶし始めた。もっと問い詰めたいのに、菱本先生が威勢良く入ってきたため途中になってしまった。
息苦しい時間が過ぎ、帰りのホームルームが終わってから上総はすぐに教室を飛び出した。昼休みと一緒だった。うっかり天羽たちと顔を合わせたら何を言われるかわからないし、評議委員会もまず、生徒会役員選挙が終わるまではほとんど身動きが取れる状態ではない。
「杉本、いるかな」
杉本の姿はなかった。めずらしい。E組の教室はもぬけの殻だった。
──まずい、生徒会室か?
西月さんも霧島さんも、普段は自分たちの教室で過ごしていると聞く。駒方先生もいなかった。狩野先生はまだ三Aの教室から戻って来ていなかった。まずは大急ぎで二階の階段を駆け上り生徒会室を覗き込んだ。なんとまだ、鍵がかかっている。確か選挙準備期間中から開票までの間は、念のために鍵をかっておくのだと藤沖が話していた。
──と、いうことは、まだ申し込んでいないんだな。
もう帰っているということは考えられない。杉本は曲りなりにも上総と約束したのだ。「明日もどこか行こうな」という上総の言葉に、不承不承ながらも頷いたのだ。つまり「約束」をしたわけだ。約束を杉本は意地でも守る子だ。だから、どんなに上総の言葉が理屈に叶っていなくても、杉本は待っていてくれているはずだ。
あと思いつく先は、どこだろう。音楽室か、それとも職員室か。
思いつく場所をすべて探しまくることにした。途中三Dの教室の前を通り、貴史とすれ違った。
「おいおい、立村、どうしたんだよ。ちょうど今、菱本先生のおめでたでさあ」
「悪い、俺は今それどころじゃないんだ」
振り切って、次に図書館、家庭科室、中庭を走りぬけた。杉本がいそうな部屋をしらみつぶしに当たった。三年女子たちが杉本を連れてかくまってやっているような場所を、思いつくまま探していった。
杉本を見つけたのは、中庭を出た渡り廊下の戸口だった。
空がだいぶ曇り加減だった。背中に呼びかけた。杉本が振り向き、九十度の礼をした後、またすたすた歩いていこうとした。追いかけた。
「杉本、ちょっと待ってくれ」
「私には用事がございません。さっさと消えてください」
「いや、俺には用事があるんだ」
また一、二年の男子と女子たちが連れ立って中庭に吸い込まれていく。放課後、図書館よりも呼吸しやすい場所ということで、最近カップルが集まりやすい傾向にある中庭。手っ取り早いということもあって、上総は杉本のかばんを無理やりかかえ、さっさと中庭へと向かった。振り返ってきちんと約束を確認しておいた。
「杉本さ、昨日約束しただろう」
「何をですか」
答えず、広い中庭の端にかたまっている、真っ黒い椅子っぽい石の場所へ杉本を誘導した。どんなに杉本が激昂しても、約束と言う言葉を口にすれば決して逆らわないことを上総は知っていた。
堅くて冷たいところを覗けば、応接間の一人がけ椅子になりそうな大きな石が三個、コの字型に並んでいた。窓からは一年C組の教室札が小さく見える。他のベンチや腰掛けられそうな場所は、学内のカップルたちに占拠されていた。まあここだったら人目にもつかないだろうし、せいぜい気付かれても一年の生徒くらいだ。二年連中や三年の知り合いと顔を合わせたらとんでもないことになる。運がよい。上総は素早く杉本を引っ張り込んだ。
「どこ行ってたんだよ」
「別になんでもありません」
ぴしっと撥ね付けられた。
「教室に行ったけどいないからさ、どうしたのかと思ったよ」
「立村先輩こそ、なんでこんなに私に張り付こうとするのですか」
「話したいことがあったから」
のらりくらりと交わしながら、上総は杉本の顔をそっと見つめた。かなりいらいらしているようすとみた。生理日か、などと予想するのは女子に失礼なのでやめておく。ただ少し、やわらかく扱わないとご機嫌が一気に悪くなるだろう。やはり和風喫茶「おちうど」でおいしいあんみつをご馳走してあげるのが一番よさそうだ。そこで霧島さんの状況についてとか、E組での様子とか、いろいろ聞き出すのも手だ。
「これから、『おちうど』に行くか?」
まずは、お誘いをかけることにした。
「私はやらねばならない用事があるのです」
生徒会室にだろうか。いやいや、それは「やらねばならない用事」ではなく「やってはいけないこと」だ。上総は聞き流しながら杉本を見つめた。言いたいことを言わせておいて、あとで切り札を出すことにする。杉本の眦が釣り上がっている。これは早めに学校から連れ出さないとまずいだろう。
「先輩には関係のないことです。いいかげん解放していただけませんか」
上総は少し間を置いた。
「杉本、昨日約束しただろ? 今日は一緒にどこかいこうってさ。杉本も頷いただろう」
「約束」の単語だけをゆっくりと繰り返した。
「でも昨日十分私はお付き合いしたではないですか。デパートの食器展は楽しいものでしたが、立村先輩が相手であった分感動が差し引かれました」
ああわかってるよ、関崎相手でなかったからだろう。相変わらず杉本梨南の想いは水鳥中学生徒会に向かい一直線だ。なぜか関崎に対して苛立ちを感じないのは、あいつの性格のよさを実感しているからだろう。
──わかった、杉本。俺が関崎の合格をとことん祈願してやるからさ。
心の中でささやきつつも、上総は表情を変えないよう注意しつつ笑みをこしらえた。
「ごめんごめん、けどさ、せっかく招待券もらったしさ。無理やりつき合わせてしまったお礼に、あんみつでもご馳走できればなと思った次第なんだ」
「先輩、暇ですね。評議委員長ともあろうお方が、なぜこんなに暇でいるんですか」
「今の時期は中間テストも終わったし、学内推薦も片付いたし、だいぶ楽なんだ。だから、今からゆっくり行こうか」
難物、杉本梨南。なかなか落ちようとはしない。えさでは釣れないし、もう関崎の噂も種切れになりつつある。明日にでも電話して、新しい話題を奴から引っ張り出してやろう。指先をもみしだきながら上総は杉本がひっかかってきそうな話題を検索した。
──そうだ、花森さんだ! うちの母さんがしゃべってたことあるじゃないか!
現在、とある花街で芸の路を極めようとしている、花森なつめの情報がある。
母に部屋掃除を押し付けられていた日曜、向こうからぺらぺら話してくれた。
杉本とは文通しているらしいが、ここ数日の話題などはまだまだ耳にしていないだろう。
「ほら、ひさびさに花森さんの話もうちの親から聞いてきたしさ」
「どうしてますか」
思った通りだった。杉本の大きな瞳がくるんと動いた。関崎の話をする時とは違う、赤ちゃんっぽい表情だった。こんな顔を普段からしていればいいのに。
「だから、その話を『おちうど』でしようって言ってるんだけどさ」
少し杉本は首を傾げた。ぷるんとお下げ髪を振った。まっすぐに上総を見つめた。
「先輩、私なんかになぜそんなしつこく張り付くのでしょうか? 立村先輩がお暇で、時間を持て余しているのはよくわかりました。私の数学能力を買って勉強を教えてほしいというのでしたら、授業の合間にいくらでも教えます。ですが放課後、少しここまでしつこくするのは、女子に対しても失礼ではありませんか、一種の変態とも申します」
「変態、とまで言うかな」
ぐさりと傷つくストレートの言葉。思わずめげそうになるが、こらえる。杉本とこれからずっと話をしつづけるのだから、ささいなことで傷ついてなんていられない。
「まあ、それも杉本らしくていいけどさ」
「なによりも、先輩、もっと大切なことをお忘れではないのでしょうか」
両手を重ね、背をぴんと伸ばし、目と肩両方に力を込めて杉本の言葉が続いた。
「そんなにお暇でしたら、立村先輩は清坂先輩にもっと尽くしてあげるべきではないのですか」
──やはりそれか。
「立村先輩のように頭が悪くて顔も不細工な男子に、あれだけ一生懸命尽くしてくださる方に対して、失礼すぎるのはないでしょうか。何よりも、清坂先輩が誤解して泣いてしまわれたら、私の立つ瀬がございません」
上総はそっと杉本の眼を見返した。
おのずと背筋を伸ばしたくなった。
うす曇の雲がだんだん分厚くなり、今にも雨が降りそうな湿り気を感じた。それでいて全身が火照ってくる。自分の見えない心のどこかに、火を点された。ゆっくりと燃え上がっていくのがわかる。
──誰よりも杉本に伝えなくてはならないのに。
一週間ずっと、マイセンの食器やオペラや紅茶の話ばかりしてきた。決して離れてはならないと心に決めて、杉本を追い掛け回してきた。でもまだ、真正面から美里に告げた言葉を話したことはなかった。どこかで忘れてしまいたかったからだろうか。
杉本梨南に伝えるべき言葉は、これだということを。
上総は身体中の熱くほとばしる炎をすべて、言葉に託した。
「清坂さんとはもう話が終わっている。俺は杉本と一緒にいたいから、こうしている。それだけだよ、杉本」
杉本の瞳は全く揺れなかった。一瞬だけ視線をそらしたが、
「何をふざけたこと言っているんですか」
上総の方をもう一度見返し、あっさり答えた。
「それよりも、花森さんのことですか」
「そう、一緒に行ってくれるなら話すよ」
「本当に、今回だけです。花森さんの話が終わったら私はお金を払い帰ります」
「だから、俺がおごりたいって言ってるだろ?」
背中あたりから誰かに見られているような気配を感じた。周囲を見渡すと、女子ふたりが一年廊下の窓からちらと頭だけ見せてすぐに消えた。気のせいだろうか。どちらにしても、これ以上の話は杉本とふたりきりで語るべきもの。かりそめの王子として姫をエスコートする最後のひと時、少しでも長くふたりでいたかった。
花森なつめの話を一刻も早く聞きだしたいのだろう。杉本はいそいそと玄関まで急ぎ、素早く靴を脱いだ。そろそろブレザーだけでは物足りない、ベストを中に着込みたい季節だった。さっきまで燃え広がっていた上総の中の炎も、少しとろ火になったようだった。
杉本梨南は上総が砂利道に降りるのを待っていた。
ゆっくりとお下げ髪のゴムをはずすしぐさをした。一方、もう片方と黒いゴムを取り、胸ポケットに納めた。まだ三つ編みに形作られたままの、胸のふくらみにぶつかる程度の髪を、片方ずつ広げた。なめらかにその髪が風になびいて広がった。上総をまたぐいと、にらみつけるように見つめた。
「杉本?」
「先輩はこういう形がお好きなのでしょう。花森さんの話を教えてくださるお礼に、今だけは立村先輩の好みの髪の毛にいたします」
くい、と唇をかみ締めたまま、杉本がまっすぐ校門まで歩いていく。
──やはり、似合うよな。
決して杉本の前では口に出せない言葉を、上総は雨待ち雲に呟いた。