第一部 7
第一部 7
休み時間に入る前、美里が給食のトレイを片付けながらおっかない顔で上総に言い放った。
もちろん誰もが耳をそばだてている前でだった。
「立村くん、私これからものすっごく忙しくなるの。だからしばらく口利かなくなるかもしれないけど、絶対に怒らないでよ!」
「怒るとかそういう問題じゃなくてさ」
人前で「だから別れるって言っただろ!」と怒鳴ることはできない。美里の出方は上総に読みきれないものだった。側で貴史もきょとんとした顔で、
「美里どうした、何あせってるんだよ」
呟いている。
「立村くんは菱本先生のお祝いの件、賛成してないでしょ。だからこの人はおっぽっといて、私たちだけで進めようよ。彰子ちゃんも手伝ってくれるし。だから!」
上総も口をはさめないでいる。どういう出方をすればいいのだろう。美里には今朝、言うべきことを言ったつもりだけど、かなり手短だったことは否めない。ちゃんと改めて土下座する必要があるとは思っている。クラス全員に「俺は清坂さんと別れたんだ」と表明する必要も、ないような気がする。なのになんでか美里の言動には理解できないところがある。
「とにかく、だから、しばらく忙しくなるけど、余計なこと絶対言わないでよ! わかった?」
机にばしりと両手を置き、上総の顔を見据えた。
怖すぎる。
ほとんど蛇ににらまれた蛙状態。
「わかった、そうする」
──とにかく、もう少し話し合いが終わるまで内緒にしておこうってことだな。
女子同士、いろいろ問題もあるのだろう。上総と美里が付き合うこと自体がひとつの奇跡だと言う生徒もいる。つりあわないカップルだとは昔から言われてきた。やはり、準備が必要なのだろう。異存はない。
「おいおい、どうしたの立村。ずいぶん美里ご機嫌斜めなんだけど、お前なんかした?」
貴史が肘でぐいぐいと肩を押す。返事をせずに上総は立ち上がった。時計を覗いた。まだ時間がある。急がねば。
「悪いけど俺も忙しいんだ。また後で」
決して目を離してはならない、決して一人で行動させるわけにはいかない。
E組めがけて走った。階段をすっころばないように下りて、さっき食べたカレーの匂い漂う廊下を全力疾走した。
「杉本、いるか?」
到着したE組の教室には、駒方先生と狩野先生がふたり談笑していた。
その前に女子三人が机をコの字型にくっつけたまま、黙って給食ナフキンを畳んでいた。
元評議女子三人が顔を並べている。黙って上総の顔を見た。声をかけてくれたのは駒方先生だった。
「どうした上総、英語の準備か?」
「いえ、なんでもないです」
にやにやしながら上総を眺める駒方先生。一年前の評議委員会顧問だった。だから上総のことを名前で呼ぶのだろう。菱本先生相手だったら露骨に無視をこいてもいいのだが、決して嫌いな先生ではないのでしかたなく返事する。上総は義務的返事だけした後、杉本梨南の後ろに立った。目が合うのは残りの二人、元評議委員。西月さんと霧島さん。もし霧島さんがいつもの調子だったら、
「何しつこくくっついてるのよ、立村くん、早く出ていきなさいよ、うっとおしい! 杉本さんがいやがってるじゃない!」
怒鳴られても当然なのだが、全く何も言わないのはやはり、変わっていない状況なのだろう。難波が混乱するのもよくわかる。
用事があるのは杉本だけだ。上総は耳元にしゃがみこみ、できるだけ小さな声でささやいた。
「さっきの手紙、読んでくれたか」
「見ました」
そっけなく杉本は答え、ナフキンをかばんにしまいこんだ。
「何を言いたいのですか」
「だから、ああいう催し物、杉本、好きかなと思ってさ」
「確かに好みではありますが」
相変わらず棒読み口調で杉本が答えた。視界に狩野先生がかすかに微笑むのが見えた。首から上が妙に熱い。
「ですがそれとチケットとどう関係があるのですか。たとえば立村先輩の研究課題などで必要なものがあるとか、私の能力においてお役に立てる部分があるとか」
そんな難しいことは言ってないのに。杉本にとって一番のつぼは「能力」だということを、上総は二年間でマスターしていた。
「まあ、そういうとこだ。杉本の力が借りたいなと思ってさ」
「そういうことならよくわかります。私が勉強したものを、立村先輩にお教えすればよろしいのですね」
感情の篭らない口調だが、かすかに上ずっている。杉本が好意的反応を示す時は、本人の能力や才能を絶賛された時だ。価値がある、能力がある、他の生徒よりも優れた学業成績だ、などなど。学校の中で評価される部分を刺激すると、杉本は素直に上総の方を見つめてくれる。反対に、「この前の珈琲、おいしかったよな」と「学校」とは関係のない能力を褒められても全く喜びを見せない。おいしい珈琲を入れる腕は、杉本にとって価値を認めるべきものでないらしい。むしろ常識にすぎないのだとも。
「そういうことそういうこと。マイセンの食器ってさ、俺ぜんぜんわからないよ。杉本はそういうの得意だろ。テーブルセッティングとか」
「それはそうですが、でもなんで立村先輩がそんなことに関心を持たれるのですか」
「いや、なんとなく」
目の前で霧島さんと西月さんが顔を見合わせている。会話はない。ただ黙って杉本梨南を見守っている。
「とにかく、ちょっとこっちに来てくれないかな」
同期のふたり、しかも女子の見つめる中で上総も、梨南を独り占めする度胸はない。
どんなことがあっても、来週の金曜までは、上総は梨南から目を離す気などない。
──杉本梨南を生徒会役員に立候補させてはならない。
生徒会役員改選は毎年、月曜から金曜昼休み、および放課後に立候補者を受け付ける形となっている。もっとも藤沖が言うには「今まで金曜以外に立候補を受け付けたことは一度もない」のだとか。つまり、月曜から木曜までは自分から立候補する生徒が誰もいないということである。だいたい木曜の放課後あたりから、「これはまずい」と判断した先生たちがめぼしい生徒を見繕い説得し、金曜の放課後四時までに連れて行き、「立候補しろ!」と命令する。これがいつものパターンだそうだ。当然、決戦投票まで持ち込まれることはほとんどなく、大抵が信任投票で決着がつく。実質金曜が戦いの終り。一週間後の立会演説会は全くもって、付けたしに過ぎない。義務を果たすだけの役割だ。
──一瞬たりとも、杉本を生徒会室に近づけてはならない。
藤沖が生徒会長としてどのように、信任投票に向けての役員候補を集めているのか、そのあたりも上総は把握していた。まずは会長に霧島さんの弟。その他今までの生徒会役員たちを持ち上げる形で納めるのだという。たぶん杉本の入る隙間というのは、殆どないだろう。
しかも、生徒会役員と懇意にしている、佐賀はるみの不気味な存在も忘れてはならない。
評議委員だし、しかも次期評議委員長・新井林健吾の最愛の恋人だ。立候補することはまず考えられないが、それでもことあるごとに杉本へのやわらかな攻撃を続けることは予想できるだろう。
杉本はそれでも受けて立つだろう。決して逃げないだろう。
だが、勝ち目はない。
立候補した段階で、生徒会内部の厳しい視線で杉本はずたずたにされるに違いない。
杉本にされた「いじめ」をすべて許すことのできる、佐賀はるみのしなやかな刃でもって。
新井林のように「歯には歯を」ハムラビ法典を使いたがる性格の奴ならば、まだ杉本も血まみれになり噛み付くことができるかもしれない。致命傷を負わせることが、もしかしたらできるかもしれない。
でも、佐賀はるみのように「私は梨南ちゃんの友だちなの」と、誰にでもわかるものさしで持ってすべてを仕切られたら逃げ場がない。誰も責めることもできず、佐賀はるみを受け入れない杉本がすべて悪いと決め付けられたまま、つるされるだけだろう。
──勝ち目のない戦いを、もう二度とさせるわけにはいかない。
正しい人たちに勝てないなら、せめて逃げろ。それしか言えない。
上総はしばらく杉本を独占した後、教室を出た。さすがに一日中見張っているわけには行かないし、一応は自分も評議委員長である。やるべきことはまだ残っている。
「それでは帰り、途中まで一緒に帰ろうな」
めずらしくお下げ髪にしていた。耳がくっきりと出ている髪形、よく似合う。ささやきかけるのもこれだったら楽だ。
「別に先輩の顔を見たいとは思いません。しつこい人間は最低です」
「それでいいんだ」
杉本の罵倒にいじけている暇なんでない。とにかく次は帰り道。さっさとE組からかっさらって、スーパーの試食コーナー回ってどこかで座ろう。
トイレによってその後職員室に駆け込んで先生たちの荷物を預かり、そのまま大急ぎで教室に戻りぎりぎりセーフ。三年D組の教室では、美里と貴史を中心にさっそく内密の相談が行われている様子だった。他のメンバーは古川こずえと奈良岡彰子。男子が貴史だけなのは、秘密が洩れることを恐れたのだろう。ちなみに規律委員長・南雲秋世の姿はなかった。
「いい? 立村くん」
また甲高い声で呼ばれた。美里の方から教卓に向かって寄ってきた。上総は近寄らずに美里の出方を待った。
「今からいろいろ決めるけど、あんたはあまり関係したくないって言ってたから、私たちだけで決めちゃうね。だからしばらくあまりしゃべらなくなるけど、それはそれでいいよね」
「けど、あのさ」
そんな、教室内で響き渡るような声で言わなくたっていいじゃないか。上総は言葉を飲み込んだ。
「それにあんただって、生徒会役員選挙が終わるまでいろいろ忙しいでしょ。話があるならその後にしてほしいのよ」
高飛車に、かみつくように。
「だから、今日からしばらく、委員会以外一緒に行動しなくなるけど、変なこと思われないようにしてよね!」
「変なことっていったい」
美里はじいっと上総の眼をにらみつけた。きりきり、音がしそうだった。他の連中が陰で、「立村も可哀想に」とか「美里も早くわかれりゃいいのに」とか、それぞれの感慨を洩らしている。上総の耳には確かに響いてくる声だった。
「とにかく! いい? 私は今すっごく忙しいんだからね!」
もう一度唇を尖らせて、ぐいと顔を見上げた後、美里は貴史たちのグループに戻っていった。残された上総はそのまま自分の席についた。隣には南雲がにやにやしながら座っていた。
「りっちゃん、毎度のことながらしんどいっすねえ」
「たいしたことじゃない」
次の授業の英語教科書を取り出した。
「悪いんだけどりっちゃん、今日、俺、リーダーの訳が当たってるんだけどさあ、これってまずいかなあ」
どれどれ、と目を通した。三年教科書の訳は、四月に教科書を頂いた段階でもう終わっている。南雲をはじめ他の連中にいつも上総が頼りにされる場面は、もしかしたら英語の時間直前のこの時だけかもしれない。
美里がなぜ、あんなわざとらしいそぶりで上総に噛み付いたのか。
最初はむっとしたけれど、すぐに読めた。
──俺が話したがらないのを、しばらくはなんでもないかのようにクラスへ伝えるためなんだな。
もし、上総が付き合い解消の話を持ち出したとクラスの連中に知られたら、どういう反応がくるだろう? 美里の周囲にいる女子たちはまず、英断と喝采するかもしれない。もともと上総のことを「実力がないくせに、たまたま周りのバックアップで三年間評議委員やらされている馬鹿男子」と思っているのだろう。男子たちは女子たちに比べてまだ、上総のことを評価してくれているとは思うけれども、「まあ、清坂ちゃんは立村にとって、高値の花だったのかねえ」で終わるだろう。
誰が好きとか嫌いとか、付き合ってるとか付き合ってないとか、いろいろあること。クラス内で付き合い相手を替えるたびにそれぞれトラブルが起こる。これだってよくある話。
でも、上総の場合、それだけではきっとおさまらないだろう。美里はきっと、そのあたりを見抜いたのだ。上総が一番恐れていることを、あっさりと気付いて、先回りしてくれたのだ。
ありがたいと思わなくてはならないのだろう。
とりあえずは今のところ、クラスの連中から、あきれた視線を送られることはない。
人気者グループから外れて、本来いるべき一人ぼっちの席でうつむく必要もない。
──もし、清坂氏と付き合いをやめたなら。
授業が終り、評議委員会も生徒会役員改選が終わるまでしばらく中止ということもあり、上総はすばやく教室を出た。貴史に、
「おいおい、逃げるなよ、お前も来いよ」
誘われたが適当な言い訳をこしらえておいた。美里も貴史に向かって、
「いいよいいよ、乗り気じゃない人に何言ったって無駄だもん」
ありがたく受け取り、上総はE組へ駆け込んだ。すれ違う男子連中の声など一切振り切った。
「杉本、いるかな」
教室にはひとりしかいなかった。杉本が黙って分厚い本を読んでいた。息を切らせながら教卓前の席に近づき、指先でその本の表紙を持ち上げてみた。
「失礼ですね。読んでいるものを覗き込むなんて最低です」
「今日はこれで授業終りだろう。早く行こうか」
「なんで立村先輩に近寄らなくてはならないのですか」
また棒読み口調でつっぱねる杉本。
「用事があるのならば早く言ってください。私はこれから用があるのです」
「何の用?」
上総は杉本梨南の机脇にしゃがみこみ、かばんを抱きかかえた。杉本の使っている手提げが膝のところに当たった。それも釣り手からはずして、自分のかばんと一緒に持った。
「別に急ぎじゃないんだろう。これから杉本を連れて少しどこか行きたいんだけどな。つきあってもらえないかな」
「評議委員会はどうされたのですか」
生徒会役員選挙が終わるまで休み、といいそうになり飲み込んだ。
意識を生徒会の話題に持っていってはならない。
「そんなのどうでもいいだろ。俺は杉本とどっか行きたいんだからさ」
「清坂先輩はどうされてるのですか」
「ああ、あの人は今、うちの担任の結婚お祝いイベントで忙しいから任せてる」
「立村先輩もお手伝いされないのですか」
「誰がするかよ」
かなり口汚くののしってしまった。手の早い、女性のことなんて何にも考えてないようなあの男の末路なんて、知ったことじゃあない。
「あのさ杉本、俺は杉本と今、話がしたいんだ。それだけなんだ。だから、とにかく学校から出よう。ほら、やはり関崎のこととかあるだろう。学校で話すといろいろ差し障りがあるだろう」
ちらと、杉本は上総の方をにらんだ。
「学校で?」
「他の学校のことだけどさ、俺も一応評議委員長だし、ここでもし他の評議連中に関崎のこと話しているとこ見られたら、絞られるんだ。天羽なんて怖いからな。本条先輩に告げ口されて、たぶん半殺しに遭うかもしれない」
大嘘だが、方便。
「それに、俺としてはもうひとつ知りたいんだけど、霧島さんの状況をさ」
「霧島先輩ですか」
また声が、かすれた。霧島さんは杉本にとって「やさしく美しい」先輩の一人だった。西月さんと霧島さんは、杉本が一年の頃から可愛がってくれた人たちのはずだ。今、E組で計らずも三人一緒に給食を食べているのも、そのあたりの繋がりがあるのだろう。
そしておそらくだが、霧島さんが現在置かれている状況なども、杉本は女子の特権である程度勘付いているはずだ。鋭い杉本のことだから、なおさらだ。
「霧島さん、いろいろ今辛いところだと思うけど、俺は男子側だから余計なことを言えないんだ。だけど、せっかくさ、三年間一緒にやってきた仲間なんだから、せめてこれ以上傷つけないようにいい方法を考えたいんだ」
上総は杉本の顔を横から見上げた。お下げの髪の毛を杉本は片手でぐいとつかみ撫でた。
「ただ、あまり騒ぎにならないようにしたいんだよな。俺も女子がどういうことすれば喜んでもらえるのかわからないしさ。更科も難波も天羽も、なんとかして霧島さんがこれ以上傷つかないように」
「難波先輩は殺したいと思っているのではないのですか」
思いっきりため息をついた。あいつ、杉本のいる前で霧島さんを「愛の裏返し」で罵倒したに違いない。杉本は言葉の裏を読むことを知らない。とにかく否定だけしておく。
「思ってるわけないよ。みんな一緒にさ、卒業したいんだよ。だけど、どうしてもうまくいかないし、そこでどうしても俺は杉本の力が借りたいわけなんだ」
よかった、やっと繋がった。最初は言うつもりではなかった霧島さんの悲運。でも良く考えれば杉本は、大切な女子の先輩や友だちに対してはべらぼうに甘い。その人のためならば、自分がどんな目に遭おうとも、一生かけて守ろうとするだろう。ああ、一時期は上総もその対象に入っていたはずなのだが、いかんせん裏切り者と思われている以上、その復活もままならない。思い出したくないことにちらと触れ、上総はため息をついた。
「とにかく、そういうことで、外に出ような」
手提げを持ち、杉本のかばんもいっしょにかかえ、上総は廊下へ足早に出た。
「何をなさるのですか。荷物くらい私が持てます」
「今日は俺のたっての頼みだから、とことんサービスさせていただきます」
E組の廊下を出た時、二年の女子たちとすれ違った。ネームプレートで気が付いた程度。顔見知りの人ではなかった。上総が杉本のかばんを抱えている姿を見て、またひそひそ話をしていた。知ったことではない。杉本が戸惑うように扉の前で立ちすくんでいるのを、上総は少し立ち止まり、手で呼び寄せた。
「杉本、早く行こう」
今日はまず、これで大丈夫。明日の予定を今のうちに立てておこう。いや、一週間分、金曜までどうやって放課後の予定をつぶしていくか、それが問題だ。小遣いが正直厳しいところだが、いざとなったら父に頼んで増額を頼むのも手だ。校則違反だがお菓子をこっそり家からくすねて来て、どこかの公園で分け合って食べるのもいい。杉本相手なら、会話のねただって困らない。
──杉本梨南を生徒会役員に立候補させてはならない。
お下げ髪に突然触れたくなる衝動が走った。上総は横顔を覗き込むだけでそれに耐えた。