第一部 6
第一部 6
十一月に青大附高の進学内定が現三年生たちに出る予定となっている。退学ものの大事件を引き起こした奴や成績が芳しくない生徒ならともかく、一通りはみな、進学が決まっているはずだ。もちろん霧島さんのような例もないわけではないので気を抜くことはできないけれども、公立の三年生たちと比較すると今の時期はかなりのんびりしていられる。
──関崎も毎日、真夜中まで勉強していると言ってたよな。
一週間前、水鳥中学生徒会副会長の関崎と電話で話をした時、ちらとそんなことを聞いていた。関崎の第一志望は青大附高、滑り止めに公立の青潟東を受験する予定だそうだ。もっとも担任からは、公立高校を一ランク落とせと言われているらしい。学年トップに対してそれはないんじゃないかと上総は思うのだけど、いろいろ公立には事情があるのだろう。
──なんとか、受かりたい。だからやるべきことは、すべてやるんだ。
「がんばれ、俺も協力するからさ」
──受験するのは俺だ。立村になに協力してもらうんだ。
ぶっきらぼうな口調は相変わらずだった。真っ正直で一本気、それでいて不器用で純情。人一倍友だちを大事にする性格の、学年万年トップ。いい奴だ。たぶんカンニングさせてやるなんて言ったら、奴に友だちの縁切られるだろう。そういうタイプだ。関崎は。
「俺ができることって言ったら、そうだな、青大附中の過去問題集とか、学校の雰囲気とかそういうのを教えることくらいかな」
──小細工したってしょうがねえ。俺は真っ向から勝負する。三年間やってきた積み重ねを全部ぶつけてやるつもりでいるんだ、俺は。
「そうか。じゃあ俺も、祈るだけにしとく」
──立村。
いきなり言葉が沈んだ。何かうっかり気に障ること言っただろうか。
──お前も、がんばれ。
何をだよ、とは言い返さず、上総は素直に受け取った。
「ありがとう」
関崎がなぜ上総に「がんばれ」と伝えたのか。
理由はだいたい勘付いていた。
──きっと俺の馬鹿さ加減が、水鳥中学にも筒抜けなんだろうな。
上総はぼんやりと机に向かい、教科書を広げた。来週の金曜が生徒会役員立候補者受付締め切りとなっている。杉本梨南をめぐる頭の痛い問題がないわけではないが、この前藤沖会長が堂々と受けて立つと言い切ってくれたのだ、おそらくなんとかなるだろう。あとは上総自身が取るべきスタンスを、選ぶだけだ。
──先延ばししててどうするんだよ、俺は。
さっき風呂からあがった後で、父からもらった二枚のチケットを財布にしまった。明日からデパートで開催される「マイセン食器の歴史展」の入場券だった。大人八百円・学生五百円。自分の金ではまず行かない催しものだ。まず中学生男子が興味を持ちそうにないイベントチケットをなぜ上総に渡したのか? 理由は簡単だ。美里と一緒にデートしろという父なりの思いやりなのだ。
──父さん、すっかりお気に入りだもんな。
去年のクリスマス近くに、こっそり美里を家に招いてふたりきりのお食事会を開いたことを、父はしっかりと記憶しているらしい。もちろん周囲が誤解するようなことなどしていないし、だからこそ父は笑顔で、
「ほら、上総、男なんだからきちんとエスコートするんだぞ」
などと頭の痛いことをほざくのだろう。顔から火が出るほど恥ずかしいとはこのことだ。しかもペアチケットをもらったのはこれが初めてではない。今年に入ってからもう十回くらいだろうか。もう父から見たら、息子の恋人は美里なのだと認識がすっかりなされているのだろう。いや、もしかしたら父の好みなのかもしれない。なんとなく、
──清坂氏って、変なとこ、母さんと似てるかもな。
ぞっとするのは、湯冷めしたからか。くしゃみを三回繰り返し、上総はぼんやりと天井を見上げた。
──どちらにしても、もう話さないとならない。清坂氏には土下座して謝らないとな。
三年近く、ずっと上総の味方でいてくれた、たったひとりの女子だった。
周囲から「立村なんかのどこがいいの」「どうして羽飛にしないのさ」とか馬鹿にされても、一瞬も揺らがず、
「私は立村くんのこと、信じてるんだからね! 絶対にね!」
そう、言いつづけてくれた、たったひとりの女子だった。
来週、生徒会立候補者問題が片付いたら、美里を連れてこのイベントに連れて行こう。精一杯、できる限り、レディファーストに努めよう。これが最後だ、揺らぎなく。
喉に詰った石がおなかに落っこちたような気がした。来週までは、何も考えず、ただ杉本梨南の行く末だけを見守ることにしよう。
上総は数学のノートを広げ、狩野先生に言われた通り、問題を五回書き写すことにした。解き方がわからなくても同じことばかり書いていると、自然と心に染み込んでくる。修学旅行の時やらされた「写経」に似ていた。そうだ、あの時美里はずっと意気消沈していたんだった。身体の変化に伴う不安定な精神状態で、初めて上総の前で弱さを見せた時のことを思い出し、また胸が苦しくなった。
次の朝、上総はいつものように自転車を駆って学校に向かった。少し早すぎるかとは思うのだが、近所の中学生たちと顔を合わせるよりはましだ。品山町近辺を通る時はペダルを強く踏み、息が切れかける頃青潟駅前に到着する。そこいらで少し息を整えて、また一気に青潟大学附属中学へと向かう。このあたりは自動車が多くて、うっかり気を抜くとひっかけられそうになる。あえてスピードを市街地では落とし、いつも通り朝七時五十分に到着した。
昨夜寝不足だったせいか、息苦しい。軽い眩暈がする。
──そうだ、杉本もそろそろ来ているかな。
杉本梨南も結構早起きで、八時五分前には到着していることが多かった。
この前は難波と霧島さんのからみもあって顔を見られなかったけれども、今ならうるさい外野もいないし、少しくらいなら話もできるだろう。生徒会改選の件についても本人の口からある程度話を聞きたい。評議委員長としては、当然のことだ。早めにE組の教室で待っていてもいいだろう。
空を見上げるとかすかな白い光がたらたらと滴っているように見えた。
上総は腕時計でもう一度時刻を確認した後、生徒玄関まで走ることにした。
E組の教室は一階の元「教師研修室」だった。一年教室が並ぶ一階の最奥にあたる部屋だ。以前は名前の通り、教師たちの自主学習室だと聞いていた。諸般の事情により現在は、いろいろと問題を抱えている生徒たちの「隔離室」扱いされている。杉本も、また上総もE組に通う一人だった。放課後、狩野先生とまた、個人面談が待っている。
廊下を足早に進む。ふと、人影を見た。もう杉本、学校に来ているのだろうか。早い。
「杉本か?」
口の中で小さく声を掛けようとした。すぐに違うと気が付いた。髪形と姿形が全く違う。杉本はどこか遠めでもふくよかに見えるのだが、目の前で一礼している女子はいわば「なよやか」。竹から生まれたかぐや姫、とでも言った雰囲気だった。髪形でだいたい誰か目星はついた。取り立てて会いたい女子ではなかった。近づいていくと、あどけない顔立ちで上総の苗字を呼んだ。
「佐賀さん? 何か、用?」
二年B組・女子評議委員。佐賀はるみだった。
ちらと杉本が近くにいないかを察してみる。まだ教室にはいなさそうだった。評議委員長として何気ない風に口を開いた。
「はい、今少しよろしいですか。梨南ちゃんのことなんですけれども、先輩はご存知ですか?」
「杉本のこと、ってなんだろうな」
「はい、私、友だちから噂で聞いたことなのですけど、これお話しておいた方がいいと思いまして待ってました」
「人前では話せない内容か?」
佐賀は少し首を傾げるようなしぐさを見せた。髪の毛のほつれ毛をいじろうとしていた。目は一切そらさない。もともと佐賀はるみという女子は、上総に対しておどおどした態度を取ることが全くなかった。失礼なことを言うわけではない。ただ、天羽たちに対するような気の遣い方が上総に対しては全く感じられなかった。
「梨南ちゃんが、生徒会長に立候補したいという話を聞いて、私、心配になったんです」
「生徒会長?」
──どこでばれたんだ?
ばれたもなにもないか。喉もとがまたひくっとする。まずい、読まれないようにしなくては。頭の中で「クールに、静かに」そう唱えた。
「はい、私も梨南ちゃんに確認しなくちゃと思って、心配になったんです」
──まさか。なんでこの人が知ってる?
天羽たちからもらった情報のファイルを、素早くめくった。ひっかかるところ、どうして気が付かないのだろう。時間稼ぎのために上総は尋ね返した。
「なんで佐賀さんそんなこと、杉本に確認しないといけない?」
「だって、私は……。私、梨南ちゃんの友だちだったから。友だちならちゃんと、本当のこと言ってあげないといけないと思ったんです」
──誰が友だちなんだ?
不意に熱いものが胃から逆流するような感じがした。うっとむかつきを押さえたくなる。でもつばを飲み込んで耐えた。目の前で佐賀はるみが語る言葉を、上総は唇をかんだまま聞いた。
「新井林くんに話そうかと思ったのですが、 二Bの生徒にまで広まってしまうと大変なことになってしまいそうな気がしますし、それにできたら、梨南ちゃんにこれ以上恥をかかせたくないんです」
──なんでそこまでかぎつけてるんだ?
上総はもう一度時間稼ぎの質問を投げかけた。
「恥をかくってどういうこと」
「はい、生徒会改選で圧倒的不支持で落とされる可能性があるということです」
生徒会か。もしかしたらこの前轟さんが話していたことだろうか。ようやくたどり着いた答え。ここで少し、きつく出てもいいだろう。上総は少し穏やかに尋ねてみた。
「そういえば佐賀さん、最近生徒会室でよく話をしているようだけど、噂はそのあたりからか?」
ちろっと佐賀はるみの瞳に、鋭いものが光った。
「友だちに迷惑がかかるので、内緒にさせてください」
ぼろを出さないようにと言葉を控えたか。やはり只者ではない。同時にもうひとつの道筋が引き出される。これはやはり、あいつが絡んでいる可能性、大だろう。まだ誰も廊下を通っていない。どこで切り札を出すべきか。
「それはどうでもいいけどさ。とにかく杉本が立候補するなんて話は、俺も聞いてないな」
ここはフェイントだ。生徒会から流れた噂を、いくらなんでも評議委員長が知らずにいるなんてこと、まずありえないはずなのに。よく考えれば上総の大嘘だということがわかるはずなのに。いや、佐賀はるみからすれば上総は出来そこないの評議委員長。何にも知らないで仰天しているとでも思っているんだろう。ならばそれでいい。馬鹿になりきることにした。
「佐賀さん、わかる範囲でいいんで、教えてくれないかな」
「立村先輩は、梨南ちゃんを止めてくれますか?」
思った通り、佐賀はるみは要求してきた。計画的言動だと確信した。
「止めるもなにも、それがデマかどうかわからない段階で何も言えないよ」
「私も、噂しか聞いていないんです。だからわかりません。でも、梨南ちゃんがこれ以上傷つくのはいやなんです。だから約束してくれませんか。梨南ちゃんを守ってください」
──どこまでほんとなんだろう。この人。
「私、新井林くんや二年B組の人たちや、その他梨南ちゃんに迷惑をかけられた人たちのことを考えるとこれ以上、彼女を守ってあげることはできないのですけど、やはり、ずっと友だちでいてくれた梨南ちゃんがまたずたずたになるのを見るのはいやなんです。お願いします、梨南ちゃんを助けてあげてください」
──本当に、そう思ってるのか。心の底から本当に?
うがった見方をしてしまう。杉本の方が悪いことは過去の出来事総ざらいでよくよく上総も理解しているつもりだった。幼い頃からの横恋慕、それゆえの「いじめ」、そして失恋と同時に奪われた評議委員の座。それは決して、理不尽なものではなく、当然といえば当然のものだろう。それはわかっている。素直に佐賀はるみへ共感できれば、今ここにいなくてもいいはずなのだ。それでも上総は動きたくなかった。いらだちながら話を進めた。
「事実だけでいい。杉本が来る前に早く話してくれないかな」
「はい、梨南ちゃんはE組で、駒方先生に推される形で、生徒会長に立候補することになっているそうです。普通の生徒会改選だったら問題なく信任投票で決まると思うのですが、今年はすでに何人か会長候補がいるそうです。だから、その人がいる以上、梨南ちゃんに勝ち目はありません」
「どうしてそんなこと聞いてるの」
「友だちに迷惑がかかります。言えません」
「それに、杉本に勝ち目がないと、どうしてそう言い切ることができるんだ?」
「梨南ちゃんはもう、嫌われているし、みんなから馬鹿にされているからです。先輩、学校祭の時に、他の学校の生徒が梨南ちゃんをひっぱりだして走り回っていたことを覚えておられますか」
「ああ、あったなそんなこと」
ちらと、心臓あたりが痛くなった。確か学校祭の時、杉本梨南のことを心から慕っていた小学校時代の同級生男子がやってきて、じっとくっついて離れなかった時のことを思い出した。あの時の男子はなんとなく、一年時のお子さま秀才・水口要を思いださせるものがあった。杉本も最初は嫌がっていたけれど、「りなん、りなーん、一緒に行こうよ!」と騒ぐ男子に負けたのか、黙って連れられるままになっていた。慕われるお姉さん、というには相手の男子の体格が大人すぎた。
「あの時、周りの子や梨南ちゃんを知っている人たちはみな言ってたんです。やっぱり、ああいう程度の男子が梨南ちゃんには合っているんだって」
「それは失礼じゃないかな」
どうしてここでひっかかってしまうのだろう。佐賀はるみの言い分は決して間違っていることではないのに、つい、頬が引きつってしまう刺を感じてしまう。普通の人なら何にも思わないことを、どうして自分は噛み付きたくなってしまうのだろう。気付かなかったのか佐賀は気にもせず続けた。
「はい、人間は平等ですから当然です。あのことがなければ、まだ梨南ちゃんは生徒会長として評価される可能性があったと思うんです。梨南ちゃんのことを知らない人たちがたくさんいるうちは、うまくすれば当選するかもしれません。だけど、あの時、梨南ちゃんという人をたくさんの人たちが評価してしまって、見下してしまった以上、それ以上の扱いをしてもらうことって難しいと思うんです。もし立候補しても、対抗候補の人は梨南ちゃん以上に知られていないですし、嫌われてもいないはずですからずっと有利です。どうでもいい人たちは、嫌われ者よりも、知らない人の方に投票するはずです。そうなると、梨南ちゃんはどう見ても不利ですし、さらに選挙中、顔を全校生徒にさらけ出してしまいますのでさらに嫌われてしまいます。私、思うのですがたぶん駒方先生は、梨南ちゃんをたっぷり傷つけて反省させるために、立候補させようとしているんだと思うんです。大人ってひどいです。落選確実なのに、さらに傷つけようとするなんて酷いです。梨南ちゃんが覚悟しているならそれはしょうがないと思いますけど、ただ煽り立てて、可能性があるとか言っておだてて、実は陰で舌を出しているなんて、最低だと思います」
──杉本、まさか聞いてないよな。
上総はそっと背後を確認した。いなかった。外から朝練を終わらせた部活動の生徒たちがしゃべっているのが、かすかに聞こえた。杉本の姿はなかった。声をひそめようとしたがうまくいかなかった。
「それ、誰から聞いた?」
「友だちからです。言えません」
──友だちのことは隠せて、杉本のことはあからさまかよ。
自分でもちっとも筋道が通っていないことくらい承知している。でも湧いてくるのだ、しかたない。佐賀がいじらしさを目元にあふれさせて訴える様を、上総は冷めたまま耳に流していた。
「私はもう、梨南ちゃんから嫌われていますし、何を言われてもしかたないと思ってます。私のことを嫌うならそれでいいです。でも、これ以上梨南ちゃんが傷つくのを見るのは私、辛いんです。たぶん新井林くんに話しても止めてくれるとは思いますけど、やはり、梨南ちゃんを大切にしてくれる人に止めてもらった方が納得すると思うんです。だから、お願いします。立村先輩、梨南ちゃんを止めてください」
──杉本が傷つくのを見て、本当に辛いと思っているんだろうか。この人。
傷つけられたのは佐賀はるみ。小学校時代無理やり親友扱いされてふりまわされて、おそらく杉本を憎みつづけても許されるのは、この人だけだろう。なのになぜ、「梨南ちゃんが傷つくのを見るのは私、辛いんです」なんだろうか。上総がもし、佐賀はるみと同じような立場に立ったとしたら、一生杉本を許さないだろう。憎むことこそ、最大の礼儀。この人にはそのしたたかな生き方が通じないのだろうか。
上総はじっと佐賀はるみの大きな瞳を見つめつづけた。時折、訴えるようににらむ視線に退きそうになったけれど、耐えた。それが杉本への礼儀じゃないかという気がした。
「わかった、佐賀さん。どうもありがとう。佐賀さんから聞いたとは言わないで、杉本に確認してみる」
しゃべると言葉が滑っていく。どうしてかわからない。
「佐賀さんの言う通り、杉本は生徒会長に不適格だと思う」
自分に言い聞かせた。もう、杉本の逃げのびる場所はない。
佐賀はるみがすでに生徒会の役員たちと情報を交換し、これから先杉本梨南の行動を監視しようとしている以上、もう袋のねずみ。逃げ場所はない。二年B組評議委員の佐賀はるみは、次期評議委員長の新井林健吾の陰に隠れているように見えて、実は三学年の女子中一番の評価を与えられていることを、上総は知っていた。水鳥中学の交流会で、誰もが絶賛したさりげない仕切りと心配り。三年女子たちの存在を記憶しなかった他中学の連中が、「あの佐賀って女子、すっごいいい子だよな」と口走ったことを、上総は聞き逃していなかった。ただ髪形が中国娘風のかわいらしい雰囲気だとか、おとなしそうで守りたくなるような風情だとか、そういうのとは別の部分で評価されている事実、上総は受け入れなくてはならなかった。
「ただ、あくまでも噂である以上、あまり広がらないようにしたほうがいいな。とにかく、今のことは、他の人たちに決して話さないようにしてくれないかな。理由はだいたいわかっていると思うけどさ」
立ち位置を変えることはない。上総は一呼吸置いた後、ゆっくりと生徒玄関ロビーまで目を向けた。女子がばたばたと玄関に入ってくるのが見えた。杉本が混じっていても不思議ではない。
「杉本がそろそろ来る。佐賀さんは教室に行ったほうがいい。それとさ」
佐賀はるみは上級生向けの、丁寧な礼をして背を向けた。背筋がぴんとのび、誇り高らかに歩いていこうとしている。その背中に上総は、言わずにはいられなかった。
「佐川に伝えておいてくれないかな。他校のことで口出しするなってさ」
──関係ないってわかってるけどさ、しょうがないだろ。
全く動じなかった。聞こえなかったのかもしれない。佐賀はるみは歩みを止めることなく、突き当たり左側を曲がって行った。ようやく一年生たちが教室に吸い込まれていくのを、上総は突っ立ったまま眺めていた。
さっきまで滴っていた光は、いつのまにか黒い裂け目に覆われていた。窓辺から銀色の空が広がっていた。
──俺は救いようのない大間抜けだ。
なぜ、轟さんが佐賀はるみの言動に疑問を抱いていたという事実をもっと重要視しなかったのだろう? 藤沖会長だって、轟さんの言うことには一目置いていたというのに。上総にだけこっそり教えてくれたであろうことを、どうして聞き流していたのだろう?
佐賀はるみが生徒会に出入りしている以上、杉本梨南の生徒会立候補情報が耳に入らないわけがないだろう。藤沖会長が考えている以上に女子たちの情報網は濃い。もしかしたら杉本の、決して誰にも知られたくないような過去の話すら、流されているかもしれない。
藤沖は堂々と杉本の立候補を受けて立とう、そう言ってくれた。
男子としての、上総に対する思いやりだろう。
だが、女子たちは違う。藤沖にただでさえ反発している二年女子副会長が、もし佐賀はるみの言葉を鵜呑みにして杉本に立ち向かおうとしたのならば、何が起こるかだいたい想像がつく。杉本がいくらつっぱり通したところで、後ろには佐賀がいる。「いじめられた被害者」がいる。「いじめられた」にもかかわらずあたたかい心で許すことのできる、信じられない感覚の持ち主がいる。
憎みつづけることすら許されない、そんな場所に杉本が閉じ込められたとしたら。
──地獄だ、それって。
許せない人間を憎みつづけ、かみ締めながら、杉本は強く生きようとしている。
誰にも負けたくない、それだけ信じて前に進もうとしている。
それをあっさりと「私は梨南ちゃんのことが心配なの」と、杉本の感じ方を百パーセント否定しようとする佐賀はるみ。青大附中の人々……桧山先生も、狩野先生も、駒方先生も、たぶん美里も、誰もがその姿に拍手を送るだろう。でも上総は、決してそちら側に立つことはできない。なぜなら、杉本梨南は、「許される立場」に立つくらいなら、死んだ方がまし、そう思いつづけているから。そして上総も、「憎みつづける場所」そこに立ち続けることを選ぶ。だから、十五年間生きてこれた。馬鹿にされたっていい。青大附中という場所にしがみついてこれたのだ。
──待ってられるか。
上総はE組の教室に入った。杉本がいつも座っている席に向かった。自由席にはなっているが、常駐者の杉本には専用の机が与えられていた。教卓の真正面だった。たぶんここは変わらないだろう。かばんから財布を取り出し、少したわんだ「マイセン食器の歴史展」チケットを取り出した。ノートを一ページちぎり、三つ折りにしてチケットを包んだ。
──杉本へ 昼休み説明するので持っているように。 立村──
それだけ記し、上総は机の中に押し込んだ。
反対側の階段を一気に三階まで駆け上り、三年D組の教室にたどり着いた。
八時十分、すでに半分近くのクラス連中が揃っていた。
「立村くん、おはよ!」
美里の明るい声が迎えてくれた。いつもなら「おはよう」と自然な返事をして席につくのがいつものことだけど、そんな流暢なことやっていられない。隣で奈良岡さんとにこやかに語り合っている美里。上総は足早に近づいた。ふたりの女子、顔が少し怪訝そうに揺らいだ。
「どうしたの、立村くん。なんかした?」
「清坂氏、悪い、少し付き合ってくれるか」
「なあに?」
話途中の奈良岡さんには悪いが、謝っている時間の余裕はない。息があがっている。
「どうしたの、彰子ちゃんに悪いじゃない」
「すぐに終わる」
上総はすばやく廊下に美里を連れ出した。だいぶ人通りも激しくなり、男子連中がけったいな声で「ひゅーひゅー、相変わらずお熱いねえ」などとからかい声を掛けていく。もうこれも今で聞き納めだ。
「理由はあとできちんと話す。とにかく、俺がすべて悪い。清坂氏が悪いんじゃないんだ。だから、これから俺が何しても、黙っていてくれないか」
なにがなんだか自分でもわからない。美里の顔はしばらくきょとんとしたまま、口を尖らせてじいっと上総の方を見上げていた。夏過ぎてから上総も少しは背が伸びたらしく、美里よりこぶしふたつくらい高くなった。
「なにあせって言ってるの。ちょっと今、彰子ちゃんと菱本先生のびっくりお祝いのこと、相談している最中なんだから、後にしてよね。急ぎじゃないんでしょ。もう」
「清坂氏、申し訳ない」
無理やり窓辺に引き寄せ、上総は美里へ一気に告げた。真正面から顔を見つめた。
「今を持って俺たちの『つきあい』を終りにしたいんだ」
美里の反応は、上総が想像していたものとは全く異なっていた。
怒られるだろう、泣かれるかもしれない、殴られるかもしれない。
「ばっかみたい、何勘違いしてるんだろ。立村くん、根本的に間違えてるよね」
答えが見つからず口を開く間もなく美里は畳み掛けた。
「ひとつめ、まずそういう話はこんなところで済ませることじゃない。ふたつめ、今私すっごく忙しいの。菱本先生の結婚お祝いのことで手一杯だしそんなことで時間取ってる暇ないの。みっつめ、きっと杉本さんのことが心配なんだろうけど、立村くんがまた余計なことしたら本人困っちゃうよ。だって杉本さん関崎くんのことしか考えてないんだから、かえって迷惑してしまうってわかってるでしょ?」
たんたんと、それでもあきれ果てた風に美里は、指を折りながら続けた。
「悪いけど今の話、聞かなかったことにするから。ほら、さっさと教室に戻って、朝学習やってなさいよ。ったく、何かと思ったらほんっと、ばっかみたい」
美里のすたすた歩いていく姿を、上総は何も言えないまま見送るだけだった。