第四部 9
第四部 9
前もって貴史には、
「まかりまちがってもはやしたり掛け声かけたりしないように」
と、言い含めておいた。ついでに南雲にも。舞台上から壇に向かい、さっと体育館内を眺め回した時、誰一人そのようなことをする奴はいなかった。新井林、そして藤沖、ふたりの送辞答辞勝負が強烈で場の盛り上がりも半端でなかっただけに、その静けさは際立った。いわば、ごく普通の集会に逆戻りしたというべきか。
フライパンに残っている油がたちたち鳴る程度の、ささやき声のみ。見知った顔ばかりが並ぶ三年席、ぽつりぽつりと知った顔が覗く二年席。上総はすぐに、二年女子席の二列目中央に目をやった。そこしか、視線を向ける気はしなかった。自然と身体が斜めに向いた。
片手に持っていた二通の答辞原稿を台に置き、うち一通を黒塗りの盆に載せた。
新井林がへたくそに畳んだらしい膨らんだ送辞と、藤沖が一切手をつけなかった答辞とが二通重なっていた。その上に上総はきちんと、そろえて載せた。
──俺は、自分のやりたいことを、し通すだけだ。
全校生徒のことなどどうでもいい。クラスの連中がどう思おうが関係ない。いっそ白けてみな眠ってしまっても構わない。ただひとつだけ、自分のできること、残せることをするだけだ。
上総は原稿を開かぬまま、マイクに向かい、原稿をそのまま暗誦した。
ごく簡単なことだった。
英語に限らず他国語を話す時には無意識のうちに、言葉の周波数を切り替えてしまう装置が、自分の中に備わっている。それさえきっちりとあわせれば、口で話していることとは別のことをひとりで考えられる。誰でもそういうものだと思っていたがどうやらそれは上総だけの能力らしかった。
──僕はこの学校に入り、たくさんの思い出を得ることができました……。
藤沖が本来、壇上で話すべき内容だが、あまりにも簡単でかつあっさりした内容に拍子抜けしたのを覚えている。結局、新井林に挑発されるような形で内容としても完璧すぎる答辞を返した藤沖。本来話すべき内容がついさっき語ったものだとするならば、今上総が無意識のうちに語りつづけている内容は全く意味ないものに違いない。
──学校祭、体育大会、修学旅行、そこで語り合った友との語り合い、また先生たちから教えてもらったたくさんの学び……。
現代英語とは異なる前置詞と熟語をいくつか取り混ぜつつ、もう一方の意識で上総は様子を伺った。観客たる三年生は特に上総の企みを見抜くでもなく、ぼんやり拝聴しているだけ。また、二年たちも「あいつ違う発音してるぜ」みたいなつっこみを入れる気配もない。おそらくこの学校には帰国子女がかなりいるはずだし、わかる奴には明らかに違いがわかるはずなのだが、まったく反応する気配もない。
──僕は、この学校に入ることができて非常に嬉しく思いました……。
頭の中のテープレコーダーを回しつつ、視線を三年席女子に向けた。ひとり、しっかり耳を澄ませてくれている人がいるはずだった。
──僕たち三年生は、あなたたちが教えてくれたたくさんの教えと愛情を胸に、三年間守ってくれたこの学びやから旅立ちます。お父さん、お母さん、そして先生諸氏、僕たちをいつも見守ってくださってありがとうございます。また一緒に学んだたくさんの友へ、どうかこれからも歩いていきましょう。
実に単調で、つまらない内容だ。藤沖よ天晴れだ。よくぞこんな意味のない美辞麗句を破り捨てて、自分の言葉で答辞を述べたものだ。素晴らしい。勝手に回る口をそのまま動かしつつ、上総はもう一度、三年と二年それぞれが座る席に目を走らせた。
何度か、評議委員長として見下ろしたことのある光景だった。
高みから見下ろす快感に、いつのまにか慣れていたのかもしれなかった。マイクにしっかとおさまり響いていく声は、自分が聞きなれているものと違っている。練習どおり、張りのある声で体育館内に響き渡っている。
そろそろ締めだ。上総はもうひとつ息を次いだ。
ここからの部分はあえて、手元の答辞に記述されていないものだった。
大鳩教授にも、あえてこの部分は十九世紀の英語訳をいれてもらわなかった。あくまでも上総のアドリブで行くつもりだった。誰にも見せていない、中学二年レベルの英作文程度。難しい単語なんてひとつも使っていない。青大附中の英語授業でヒアリングをそれなりに経験している生徒ならば、かならず伝わる言葉のはず。
現代英語、きわめて教科書通りの言葉で、きっちりと伝えたい言葉だから。
上総が口を開こうとしたその刹那、いきなり右側の教師席に動きがあった。発しようとした声よりも、その動作にみな、どよめいた。
──何があった?
喉を震わせる直前で止めた。
誰かが貧血でも起こしてぶっ倒れたのだろうか。最初そう疑った。次の推理に移る前にその立ち上がった教師が、天敵・菱本守だと認識し、ターゲットが自分だと確信した。
──最後の最後まで、なに邪魔する気なんだ!
菱本先生が上総にからんでくる時はいつも、正義の味方らしい顔を用意してくる。だから周囲の連中はみな、受け入れない上総が悪いと一方的に攻め立てる。違う、菱本先生は誰もが納得いくような用意をすべてした後で、たっぷりと上総を幼児なみに扱おうとするだけのことだ。三年間、飲み込まれぬようありとあらゆる策を練ってきた上総だけども、今この演壇でたったひとり、取り残された自分、どうやって身を守ればいいのだろう。
放送委員に声をかけ、素早く司会用のマイクを受け取っている。
二階席でもまた、父母の囁き声が降り注ぐ。
「今、会場にいらっしゃるみなさんに、どうしてもお伝えしたいことがあります」
聞き飽きた、鬱陶しくも暑苦しい、青春野郎の発言が響く。教師の言葉には誰も逆らえない。上総も最後の言葉を伝えられないまま、立ちつくすだけだった。
「会場のみなさんの中には、今、立村くんが暗誦した英語答辞の言葉遣いに一部、疑問を感じた方もいらっしゃるかと思われます。実は今回、英語答辞を作成するにあたり、青潟大学文学部教授でいらっしゃる大鳩先生のご教授を仰ぎ、現代英語とは若干異なる、十九世紀初頭の古い言葉遣いを用いることにいたしました。そのため、現在の英語教育では学ぶ機会のない古い単語なども混じっております。このアイデアは、読み上げた立村くんの発案です。教師として、また、担任として、非常に、嬉しく思うことのひとつであります」
ひとりで感極まっている様子は、口許のがさがさ音でもって伝わってくる。髭、きちんとそってきたんだろうか、マイクが雑音をしっかり拾っている。呼吸の音すらくっきりと聞こえるのが耳障りだ。
「父母のみなさまおよびご来賓のみなさまからも、なぜ今回、英語答辞を、というお声をたくさん頂戴しましたが、三年担任たる私といたしましては、青潟大学附属中学において、素晴らしい語学能力を持つ立村くんに最後をきちんと締めてもらうことにより、ひとつの学びの集大成をみなさまにご覧いただきたかった、その思いがあります」
全身がこわばってくる。しかし動けない。上総は片手を机に置いた。二通の原稿のうち、一通は持っておりる予定のもの、しっかり持ち直した。ざわめきとかすかな拍手の気配を感じるが、まだしゃべり足りないであろう菱本先生の言葉を館内一同、みな待っているかのようだった。
──あの野郎、最後の最後まで邪魔しやがって!
殺意とは、この刹那に沸いたものを意味するのかもしれない。
身体の中でふつふつと沸いてくる荒々しい心臓の鼓動と、顔まで昇ってくる血液の流れとが混じりあう。あと一センテンス残っているというのに、なぜ菱本先生はこんなわけのわからないことを言い出したのだろう? いや、なによりも。
──なんで大鳩先生と相談したこと、ばれてるんだ? 誰が、ばらしたんだ?
考えられないことではない。もちろん大鳩先生は青潟大学の教授であり、当然中学教師たちとも接点はあるだろう。確か、英語科の桧山先生が大鳩先生のもとで卒論を書いたとも聞いている。「E組」が学校不適合者の溜まり場だけではなく飛び級授業の受け皿として考えれば、そこから大学の先生たちと話を通じさせることが、ないわけでもないだろう。
もちろんそれはしかたないのかもしれない。しかし、なぜ。
──なぜこんな場で、こんなお涙頂戴のことしゃべらなくちゃならないんだ。
──壇上では何もなく、終わらせるつもりだったのになんでだよ!
あくまでも壇上では、静かに十九世紀初頭の英文で読み上げ、気付かれぬうちに舞台から降りるつもりだった。しかし、このままでいくと上総は、「優れた語学能力を見込まれて、今回あえて用意した卒業式用の余興」として見られることになる。それも担任、菱本先生が三年間苦労して育て、なんとかここまで育ってくれたという感動のもとにだ。
わからないわけでもないし、しかたないことでもある。覚悟はしている。ただ、あの天敵・菱本の手のひらで転がされたままというのだけは。
──冗談じゃない。あいつにだけは幕をひかせたくない。
上総は握り締めた片手をゆっくりと緩めた。
──俺がすべての片をつける。邪魔するな。
備え付けのマイクを両手で外した。
「菱本先生、まだ終わっていないのですが、続けさせていただいてよろしいですか」
腹の奥底まで怒りを押し込み、上総は呼びかけた。
本当の意味での驚きなのか、天から地から、沸いてくるざわめき。
片手に持ち替えたマイクを近づけた。本条先輩から習った通り、口を近づけ過ぎず、雑音を拾わぬように、そして息を吸い込む音が響かないように。
英語はもう使わない。日本語でいく。
「今、菱本先生にご紹介いただきました通り、僕が今、読み上げた英文答辞は、大鳩先生のご指導のもと、書き上げたものです。大鳩先生には僕のわがままを受け入れていただくことができて、大変感謝しております。ありがとうございます」
いきなり日本語で語り始めた上総に、また私語交じりの空気が揺れた。
「ただ、これだけは付け加えておきます」
英文にまとめた一センテンスを、日本語訳にして即興で述べた。
「国語における古文のような文体で答辞を作成してはどうか、と提案してくれたのは、二年B組の杉本さんです。僕自身はただ与えられた英文を読むだけでは満足できないという感情しか持っておりませんでしたが、具体的な形として提案してくれたのは、杉本さんのお蔭です。誰よりも、この場で杉本さんに感謝を述べたいと思います。ありがとうございます」
二年女子席、舞台から見下ろして右側前方中央。
杉本の姿は探さなくてもすっきり見えた。
いつものポニーテールで、きっと無表情のまま舞台をにらみつけていたに違いない。
目の雰囲気も口許も、上総の視力では捉えきれないけれども、それだけは感じ取れる。
「三年D組、立村上総。以上」
言い切った後上総はマイクを両手で、元に戻した。机から一歩足を引いて、一礼をした。片手には一通分の答辞原稿を持ち、もう一通は黒い盆の上に残したまま。拍手が父母席中心に鳴り響いているのだけは背中で感じ取れた。あの中に両親が混じっているだろうか。はたして帰ってから母に妙なこと言われないだろうか。知ったことじゃないが、今日はひとりで街に繰り出して時間をつぶして帰ろうと決めた。父母席および教師席、来賓席の先生たちがスタンディングオペレーションをしてくれている中、生徒たちの席だけが質の悪い不協和音交じりの拍手を溢れさせていた。拍手の質、それはさっき、新井林と藤沖、また卒業証書授与の際の盛り上がりと比較すればよくわかる。大人には理解できない程度の、あきれ返った雰囲気と哀れみとが交じり合った、壊れた空気だった。
──あとは、俺の計画通りだ。狂いなし。
正面の階段を降り、来賓席と教師席に一礼をした。
菱本先生がいきなりハンカチを取り出し目を拭っているのに呆れかえった。完全に勘違いしている。訂正してやりたいところだがそんなの計画に入っていないので無視した。ちらと、狩野先生と目があった。笑いはないが、やわらかいものがすうっと流れてきたような気がした。一度背を伸ばし、上総はこげ茶色のじゅうたんを踏みしめた。一切、横に視線を逸らすことなく、ただ一点の場所を目指した。
早朝に確認した、杉本梨南の席。
女子二年生席、向かって右側、だいたい中央。隣の席は佐賀はるみだから空いているはずだ。目印はいらない。
杉本の姿がだんだん近づいてくる。顔もくっきりと見える位置に近づいてきている。
上総は両翼の三年生席までまっすぐ突っ切り、一度立ち止まった。平和な明るさに満ちている二階席に比べてなぜ三年席の、特に女子席が不穏げなのか、理由がわからないわけではなかった。しかも三年女子席の最後尾はD組だ。美里が座っている。おそらく、上総を見つめているに違いない。それをわかっていて、なぜ今からそれをしようとするのか。
──清坂氏、これで本当に最後だ。許さなくていい。ごめん。
何度も繰り返した詫びの言葉を、もう一度心に呟いた。
──みんな、俺のことを受け入れてくれるとか、何もしなくてもいいとか、そのままの俺でいいからもどってこいとか、やさしい言葉をかけてくれた。それはありがたいと思っている。三年間、仲間に入れてくれたことも、本当の俺には手に入れられなかった夢みたいな学校生活を送らせてくれたことを、感謝している。それは本当なんだ。だけど。
美里に言うのでもなく、誰に言うでもなく、それは杉本以外の館内参列者すべてに。
──けど、俺はどんなに努力しても本条先輩のようにはなれなかった。
切々と響く、重たい言葉。
──今の俺のままでいいって羽飛、清坂氏、南雲、天羽、他の友だちみなそう言ってくれたけど、俺はそれが耐えられなかったんだ。贅沢かもしれないけど、俺は、やはり本条先輩のような、りりしい、人の上で堂々と歩いていこうとする、そんな人になりたかった。
胸が詰まる。言葉はぐるぐると頭の中を回転しつづけている。どこか切り離された自分の身体が二年女子席正面まで向かい、二列目にちんまり腰掛けているポニーテールの女子の前に立っていた。もちろん、一列、A組が邪魔する格好になる。
──どんなに、まわりの素晴らしい友だちがみな、俺を認めてくれても、俺だけはどうしても許せなかった。それがわがままだって、みな言うけれど、喉から手が出るほど欲しいものが得られない惨めさはたぶん、俺自身と杉本しかわからない。
杉本梨南がどんなに自分の能力を認めてほしかったか、切望していたか、どうして誰も気がついてやれなかったのだろう。懸命に面倒をみてくれた駒方先生すら、結局は杉本の求めていない「刺繍の腕」「家事能力」「美味しい珈琲や紅茶の淹れ方」などを褒めるにとどまり、学年トップの成績は一切評価しようとしなかった。成績よりも、人間性。それはおそらく正しいことなのだろう。それはよく承知している。でも、今の杉本が欲しいものはそんな奇麗事じゃない。上総が代わりに用意しようとした甘ったるい慰めでもない。杉本はただ、自分の持つ学業能力であり、明晰な頭脳を周囲に認めてほしかっただけ。できるならば、なりたい自分であった佐賀はるみと、その自分であれば愛されたはずの新井林健吾、そして完璧な理想像である関崎乙彦に、評価してほしがっていただけなのだ。
初めて出会った時から、わかりきっていたこと。
上総では身代わりになれないことだった。
──俺だったら、杉本に全部、欲しいもの、用意してやれるのに、俺ではだめなんだ。
──あいつが欲しがっているもの、全部、俺はわかっているのに。
──杉本が欲しいのは、能力があるっていう、そのお墨付きなんだ。俺が欲しがっていたものと、一緒なんだ。
わかっている。わかっている。それを求めること自体がふたりの我儘だと。
「ありのままの立村くんが」「ありのままの梨南ちゃんが」みな素晴らしいと口々に言う。
その人たちが見る自分像が、どれだけ上総と梨南の求める姿とかけ離れているか、どれだけそれが絶望的なことか、きっとわからないだろう。
その現実を上総は静かに諦め、大嫌いな「ありのままの自分」を受け入れてくれる人たちと接し続けることになるだろう。いつか本条先輩のようになりたい、その夢を忘れるよう勤め、貴史や美里が評価してくれる大嫌いな「ありのままの自分」に慣れるよう努力するだろう。それが大人になるということならば、それもしかたのないことだ。新井林や天羽、藤沖が見せた男らしさを見据えた今、上総ひとりが足踏みしているわけにはいかないのだから。欲しいものはもうもらえないのだ、しかたないのだと。
杉本にこれから与えられるのは、佐賀はるみに代表される「守ってあげるべき存在」としての友情、そして思いやりのみだろう。佐賀は生徒会長として、また元親友として心配りをしてくれるだろう。そして、誰もがその行為を認め、拍手することだろう。どんなに杉本が「そんなものほしくない!」と叫んでも、大人にならなくてはいけない以上、受け入れるしかない。悔しいけれども、それが現実だと上総は気付いている。自分が満足できない「思いやり」であっても、これから先杉本は、溜息とともに受け取る笑顔を身につけなくてはならない。百パーセントの「頭脳への評価」の代わりに、「手芸の才能」「お茶の才能」といった杉本にとってはどうでもいい能力への評価でもって、がまんしなくてはならない。どんなにくやしくても、これから大人になっていく上で、受け入れなければこの社会では生きていけない現実なのだ。
上総はこれからそれに耐える覚悟を持ち、生きていく。おそらく杉本も続かざるを得ないだろう。だけどせめて卒業式というこの場において、欲しくて欲しくてならなかった「価値」を杉本にだけは渡したい。しょせん幻かもしれないけれども、新井林の言葉にも、関崎の眼差しにも、しょせん届かないだろうが、上総は欲しいものの姿かたちをすべて知っている。だから、全力でかき集めて、手渡したい。。
──ここにいる奴らが誰もお前のことを馬鹿にしようとも、俺だけは、杉本のことを百パーセント、認めているから。
言葉にすれば陳腐になるだけ。だから控える。それから。
杉本梨南に声をかけた。
「杉本、立って」
素直に二列目の杉本が立ち上がった。式典中だ。さすがに罵倒はされないだろうとは思っていた。感情のない顔のまま、杉本は上総へまっすぐ視線を向けた。想像していた通り、厳しくにらみつけるような眼差しのままだった。
気の利いた言葉なんて、口にする気もなかった。
挟まれているA組の女子たちがげげんそうに上総を見上げている。その頭越しに上総は腕を伸ばし、片手の答辞原稿を差し出した。
「ありがとう。感謝する」
そこまで言ったとたん、背中の重たい空気とさっき余計な茶々を入れた菱本先生への怒りと、ほんの少し残っていた照れとが一気に拭われたような気がした。
杉本が口をゆっくり開き、大きな瞳をぱちぱちさせながら、
「ありがとうございます」
抑揚のないまっすぐな発音で答えた。口許には笑みもない。いつものままに見えた。
ただ両手で押し頂くように答辞原稿を受け取ってくれた。
胸のリボンに触れるくらい、抱きしめるようなしぐさをした。今まで上総が見たことのない動作だった。じゅうたんの上で踏みしめてきた菱本先生の無作法なフェイントも、両翼からなる三年生たちの微妙な空気も、これから自分が与えられるであろう軽蔑も、その瞬間すべてがとけさり、ふうっと杉本とふたりだけ包まれてそこにいるような気がした。
天と地、それぞれ温度差のある拍手がふたたび館内で溶け合った。
肩の力が抜けたまま思わずこぼれた笑みを残し、上総は自席に戻った。あえて三年D組女子席に視線は向けなかった。向けなくともそこからもれる薄雲のような湿気は背中にまとわりついてきていた。女子たちが決して上総のした行為を許していないのは覚悟の上だった。隣の貴史が厳しい顔でもって口を開いたが、すぐに閉じた。
──もう悔いはない。ありがとう。
上総は目を閉じ、背中でまとわりつく薄雲を斬り捨てた。