第四部 2
第四部 2
一週間で卒業といったところで、校舎が替わるだけのことであってそれほどの感慨もない。女子たちなどはみな、ノートに寄せ書きをしたりプレゼント交換みたいなことをしているようだが、男子にそんなのは関係ない。一部、男子が呼び出されて、なにやら女子に告白らしきことをされている現場を見かけたことがあるが、それはいつでもやっていることだろうしものめずらしくもない。
──しかし、どちらにしてももうここにはいづらくなるわけだ。
上総はいつものように、E組の教室にいた。
杉本梨南の前に、机をはさんで座っていた。
ロングホームルームが無事終了してから、十分後のことである。
「立村先輩、どうなさったのですか」
卒業間際で好き勝手に遊んでいる三年と違い、二年はそれなりに学業もやることがある。教科書を広げコンパスと定規を斜めに置き、杉本は上総の顔を真正面から見据えた。
「そろそろ卒業式の答辞の準備しないとさ」
適当にごまかし、上総は英文の連なるノートを広げた。すでに藤沖からもらった卒業答辞の英訳は終わっていて、何度か英語科の先生からも朗読のレッスンは受けていた。ほぼ、満点ということであとは予行練習の際に最終チェックをという話になっている。また、大学の大鳩教授にも一応目を通してもらっているので文法からみの間違いはないはずだ。
「まだご準備されてないのですか」
「最後のつめがさ」
ここもごまかした。杉本に話すことでばれるとは思いはしないが、できれば当日まで隠しておきたい気持ちがあった。杉本のことだ、曲がったことは決して許さないだろうし、これから上総がたくらんでいるいくつかのことを知ったら、また厳しく糾弾するかもしれない。
ノートに綴ったものとはまた別の英文を、上総は頭の中に思い描いた。
──大鳩教授にもう一度、チェックしてもらうか。
すでに時間も空いているということで、大鳩教授は快く上総の相談に乗ってくれた。
かなり御歳にも関わらず、上総の考えたひとつの企みに、にこやかに頷いてくれた。
たぶん、気づかれぬうちに、うまくいくはずだ。
「杉本、どちらにしても、卒業式は参列するよな」
「義務ですから」
「そうか、それならいいんだ」
──最後の、俺と杉本との、共同作業だ。
本人がどう思おうが、上総にとって最後の、意思表示の機会だ。
あえて今のところは何も言わず、上総はまず、杉本に軽くちょっかいを出してみることにした。
「あのさ、杉本」
「なんですか」
「あと一週間もしないうちに俺も卒業なんだけど」
「義務教育でよかったですね」
「何か、その、言葉などないのかな」
もちろん冗談。期待などなし。杉本をぽんと叩いて出てくる言葉は、しょせんこんなもの。
「高校は単位を落としたら終わりらしいと伺っております。留年しないように努力なさってくださいませ」
数学でそのあたり、非常に不安な部分もあるのだがその辺は知らん振りだ。
「一応はお前、後輩だろ。何か先輩に対して一言とかさ」
「ずうずうしいことをおっしゃらないでください」
きた、「ずうずうしい」と切り返された。
杉本の口から「立村先輩、この二年間本当にありがとうございました。第2ボタンいただけませんか」なんて展開を期待するわけがない。ブレザー制服でよかったと思う。それに加えて杉本が、涙を流して「蛍の光」を歌うなんて絶対にありえない。ただ同じ敷地の校舎移動というそれだけのこと。センチメンタルな物語なんてお呼びでない。
「あれ、何にもくれないわけ?」
「何がほしいんですか」
「杉本が俺にやりたいと思うもの」
つくづくあきれ果てたとばかりに杉本は、上総をにらみつけた。いつものように、視線は石のように、猫の瞳。
「高校数学の問題集すべて解いた答えを、手書きでノートに写して差し上げましょうか」
「じゃあ俺はお返しに、関崎の生徒手帳表書きをコピーして渡そうか」
唇を尖らせた。一本取ったか。
しばらくくだらないことばかり話し掛けているうちに、杉本の方がだんだんうんざりしてきたらしく、
「立村先輩は卒業式が近づくにつれてどうしてこうも幼児化されるのでしょうか。退化とも申します」
厳しい言葉できっぱり断ち切られた。
「幼児化ってのはないんじゃないのか」
「ならなぜ、こうもあきれ果てるようなことばかりおっしゃられるのですか」
「杉本が面白がるかなと思って」
「私はこんなことで喜んだりいたしません!」
教室には駒方先生がさっきまでいたのだが、上総が現れたのを見計らいすっと姿を消していたのだった。だから教室ではふたりきり。遠慮なく言葉を交わせる。
上総は机に直接座り直し、見下ろした。
「そういえばここには他に、誰もこないのか」
「先ほど霧島先輩がいらっしゃいました」
先輩、ということは、姉の方だろう。二、三度顔を見かけていたけれど、事情が事情なだけに声をかけてはいなかった。
「霧島さん、元気だったか」
「元気なわけがないでしょう。お心もう少しお察しを」
一本調子な声で梨南は答えた。今日の髪型はひさびさのお下げだった。お下げは決して女子の髪型として見かけるのがそう珍しくないのだが、杉本の場合ほつれ毛を一切出さずに、太く編み込んでいるのでいわば編み込みパンを耳からぶら下げているようにも見える。かぶりついてやりたくなる。
「そうか。霧島さんか」
「霧島先輩からいろいろお話は?」
問われて首を振った。
「いや、もともと霧島さんとは評議以外で話す機会少なかったしさ」
苦手ではあった女子である。
「そうですか。ではあのお話もご存知ないのでしょうか」
「あの話ってなんだよ」
少し、握り締められたような厚みのある口調。杉本は頷いた。
「そうですか、ご存知ないのですか」
「だからなんだよ。もったいぶらずに言ってくれよ。どうせ俺は鈍いんだ」
軽口にも杉本は動じなかった。しばらく机の上に手を置いて指先を噛み、
「わかりました。私も先輩にお伝えすべき言葉がございます」
「え、なに?」
もちろん、期待など、していない。
「少しこちらでお待ちいただけますか」
また、堅苦しい言葉遣い。
「なんだよいきなり」
こちらもいきなりで居心地悪い。
「今から参ります。先輩にお伝えするべきことを用意いたしますので」
一度きちっと立ち、一礼をし、杉本は鞄を置いたまま、教室を出て行った。取り残されたのはもちろん上総だけだった。
──何考えてるんだいったい。
外を眺めた。雪が降ったり止んだりまた降ったりの繰り返し。三月にしてはぐずついた天気が続いていた。それでも放課後に入る頃にはうっすらと積もった雪も解け、スニーカーで問題なくあっさり歩くことのできる路だった。
──杉本のことだからな、何するかわからないぞ。
もう一週間しかこの場所にいられない。そのことがわかっているからこそ、上総は日常の拠点を三年D組の教室ではなくE組に定めていた。さっき行われた貴史と美里主催の卒業式打ち上げのことなど、思い出したくもなかった。まずE組にもぐりこめば、しばらくは落ち着いていられる。杉本もどちらにしても二年B組にまだ戻る気配もないので、話す相手はひとりだけですむ。駒方先生は意識の中でいないことにすればよい。
上総は机に置いたままのノートを閉じ、もう一度ぱらりとめくった。
──立村先輩。同じ内容の原稿を読まれるのでしたらたとえば、古文や漢文で読み上げるというのも一つの手ではありませんか」
──古文や漢文?
──つまり、英語と言っても日本語と同じくどんんどん言葉が変わっていっているはずです。どうせでしたら、英語の古文のような形で、原稿を手直しされてはいかがですか?。
──ということは、なにか? 杉本、俺に『平家物語』とか『源氏物語』ののりで堂々と読み上げろってことか? みんなあきれるぞ。さすがに俺もそこまで。
──私は思いついただけです。たいしたことではありません。
確かこの教室で出た言葉だった。今と同じようにふたり向き直って。
せっかく自分なりの英文原稿をしたためて読み上げようと張り切っていたにも関わらず、藤沖のあっさりした内容を先生たちの手で英訳されたというつまらぬ事実。別に学年トップを譲らなかった英語順位を誇るわけではないけれど、昨年の本条先輩の大演説と比べたらスケールも小さい。第一、英語の答辞なんて喜んで誰が聞くかと言いたい。みな、寝るに決まっている。青大附中の生徒だから英語のヒアリングが抜群というのももちろんいるだろうが、興味ある話題ならともかくすでに日本語訳の用意された英文を、もう一度聞きたがる奴もそういないだろう。
どうせ、誰も聞いている奴なんて、いないのだ。
なら、こっちで利用してやろう。
本条先輩の部屋に泊まった次の日の放課後、上総はすぐに大学英文科の大鳩教授を訪ねた。
確かハーディ著「テス」をテキストにして受けた授業で、十九世紀と現代英語とは若干違いが出てきているという説明を受けた記憶がある。ノートにもその旨メモが残っていた。
だったら、当然、英語にも日本語でいう「古文」があるはずだ。
古文とまでいかなくとも、十九世紀くらいだったら、まあ「源氏物語」とまではいかなくとも、漱石、鴎外くらいの古い言葉遣いには近くなりそうだ。
だったら?
──これを言い出したのは杉本だ。
──だから、俺はそのアイデアをいただいて、そのまま卒業式にて読み上げる。
誰も気づくわけがない。気づくとすれば英語科の先生たちか、あとは帰国子女の生徒か、そのくらいだろう。どうせ誰も聞いていやしないし、壇上を降りた瞬間上総はもうお役ごめんなのだ。英語科でももう明るい未来は期待できないのだし、それなら当然、開き直って好き勝手やらせていただくのも、また面白い。誰にも気づかれぬよう、そして杉本にだけのメッセージを伝えるのもよし。もちろん杉本が十九世紀の英語の違いなんてわかるわけもないので、その辺はどうにかして伝えるすべを探すとしよう。
──まずは、卒業式前にメモでも渡しておくか。
上総はその手段を少し考えることにした。まだまだ時間がかかりそうだしと、甘く見積もっていた。扉が再び開くまでは。
「杉本、なんだよいったいもったいぶってさ」
一緒に入ってきた相手を見て、上総は思わず机から降りた。
近江さんが相変わらずのたわし頭で、つまらなさそうな顔をしながら入ってきた。
後ろからすぐに杉本もついてきていた。
近江さんはすぐに上総に気づき、
「あら、委員長、お久しぶり」
あっさりとまずは挨拶をしてくれた。この人は上総が委員長から下ろされた後も、つい口癖で「委員長」と呼ぶ。一度注意したのだが、「だって天羽くんを委員長だなんて呼べないでしょ」とあっさり交わされ、それっきりとなった。天羽経由で聞く話によると、お付き合い状況も上々の様子、さらに深く突っ込んで聞けはしないけれども、例の事件の後遺症も思ったより残っていない様子だった。
「近江先輩、よろしいですか」
上総が返事をする前に杉本が割って入った。
「私、先輩がご卒業される前に、ひとつ確認をさせていただきたいのです」
「なにかしら」
退屈そうな口調は相変わらずだった。暇な時はいつも文庫本をぱらぱらめくり、頬杖つきながら空を眺めているのが近江さん流だった。それでいて授業は押さえるところしっかり押さえているから成績はまんざら悪くない。天羽によると、付き合ってからすぐ、近江さんは落語、漫才、その他日本の伝統演芸をこよなく愛するマニアと化したとか。自分で直接通信販売の専門雑誌を揃えたり、修学旅行では美里とこずえを連れて新人芸人の野外ステージを観に出かけたりしたとか。もしかしたら天羽を越しているかもしれない。
杉本はそんなことを聞きたくて、近江さんを呼び出したのか?
否、それはありえない。
表情を伺うため首を曲げてみると、杉本の口許は完全にとんがり、言葉の弾丸をすでにぎりぎり前歯の位置まで収めているように見えた。
──あいつなに、言おうとしているんだ?
ぴんとくる、激しい冷え。
上総があらためて近江さんを見ると、こちらはいたって冷静沈着。溜息なんぞ着いている。
「杉本さん、私忙しいんだけど、早めに終わらせていただける? 予定があるのよ」
「ではすぐにおっしゃっていただけますか」
女子への態度は穏やかな杉本なのに、近江さんへぶつける言葉はどこか唇の端からつばと一緒に吐き出しているような感じだ。
「話によるけど」
「近江先輩は、西月先輩に、何をおっしゃられたのですか」
問い、ではなかった。確認口調だった。堅い、言い方。
「杉本、お前」
一瞬にして上総は杉本の真意を理解した。
──まずい、杉本、近江さんへ西月さんの仇打ちしようとしている。
続く思惟も、また自然に。
──勝ち目ないぞ、絶対に!
これは止めなくてはならない。
急いで杉本に近寄ろうとした。すぐに杉本から片手で制された。
「おだまりくださいませ。今から立村先輩が証人です」
「やめろよ、こんなとこでさ」
「先輩もお知りになりたいのでしょう。西月先輩と近江先輩との間でどのような会話が交わされたのか。当然ではありませんか」
「でもここで話すべきことではないよ。近江さんも」
近江さんは答えず、でも顔色は全く変えずに杉本を見つめ返していた。悪びれる様子もない。
「言いたければ言えば」
「では言わせていただきます」
上総なんてどうでもいい、とばかりに杉本は片手を下ろすと、近江さんに真正面、一歩、近づいた。瞳はさっきの石のよう、でも脂ぎったようにてかっていた。
「なぜ、近江先輩は佐賀はるみと一緒に生徒会室にいらしたのですか」
「ああ、あれね」
頷きつつ、やっぱり面倒そうに近江さんは答えた。
「佐賀さんたち、話していると面白いし、女子として賢い人だし、そういうわけでお近づきになっただけよ」
賢い、というところにかすかな力が入っていた風に聞こえた。
「そうですか。ではなぜ、西月先輩にあんな酷いことおっしゃられたのですか」
「あら、聞いたの」
「霧島先輩から伺いました」
きりっと唇を引き締め、でも瞳はぎらついたまま、指をまっすぐ指した。
「近江先輩は、西月先輩に、おっしゃったそうですね。天羽先輩だけではなくて他の先輩に対しても、精神的に追い詰めて退学させたではないかと」
「ああ、そのことね」
否定しなかった近江さん。頷きつつもさらに、
「その他に聞きたいこと、なんでもどうぞ」
余裕を持って続けた。杉本に勝ち目がないのは重々承知だけど、上総も今は、観客になることを選んでいた。どちらにしてもいずれは近江さんに確認をしたいことであったし。天羽の顔も考えて時期を見計らっていたとはいえ、向こうから話してくれるのならばそれはそれでよい。杉本をかばうのは後からでもよい。どうせ注意したとしても、止まりはしない。
──よし、言いたい放題、言わせてやるか。
「先輩はおっしゃられたそうですが、これは事実でしょうか」
杉本は目の縁をめいっぱい見開いたまま尋問に入った。
「西月先輩が私のことで生徒会役員たちに抗議に行かれたのは存じております。もしあの場所に近江先輩がいらっしゃらなければ、西月先輩はあんなにもお怒りにならなかったはずです。それに近江先輩が火に油を注ぐような発言をされなければ、西月先輩は傘など持ち出さずに論理的にお話されたはずです」
「論理的、ねえ」
冷笑、ひとつ。杉本だけが言葉を無理やり押さえつけ、重たい石を抱えているかのように話しつづける。
「私が霧島先輩から伺ったことをすべて申し上げます。そのことにおいてイエスかノーでお答えいただけますか」
近江さんは答えず、「さあどうぞ」とばかりに教卓へ肘をついた。
「まず、西月先輩が私のために一生懸命メモで抗議をしていた時に、近江先輩は西月先輩に向かってこうおっしゃったそうですね。『いくら杉本さんのことが可愛いからといって、親切の押し付けのし過ぎじゃないの』と」
かすかに笑いを浮かべる近江さんだが、すぐに表情を元にもどし溜息をついた。
「西月先輩はご存知の通り口が利けませんのでメモで一生懸命言い返そうとしたらしいとのことですが、さらに近江先輩はおっしゃられたそうですね。『一年の頃、登校拒否になった同級生を追い掛け回して、結局退学させてしまったのは、西月先輩のせいなのだ』と」
「正確ね、その通りよ」
顎先で頷いた。近江さんにとっては何も悪いことを言った記憶などない、といった風だった。傍で聞いている上総からすると、これはかなりまずい展開なのではとも思うのだが、女子同士の会話には男子に理解できない細い針が飛び交っているらしい。
「その、退学された方が本当にそんなことをおっしゃったか、証拠もないのにそんなことをおっしゃるのですか。それは名誉毀損ではありませんか」
「名誉毀損じゃないわよ。私、その人のこと、知ってるもの、同じクラスだし。委員長も、ご存知でしょう」
ちらり、柔らかい反応で受ける近江さんに、上総も靴の先を見つめるしかなかった。
──二年の宿泊研修の時のこと、言ってるんだな、この人は。
狩野先生の義妹、そして奥さんの妹、三年A組の生徒。条件は整っている。
上総の脱走事件を、知らないわけがない。
「湊さんのことよ。夏休みに湊さんと会う機会があって、すべて教えてもらったというわけよ。別に私はどうだっていいし、心に納めておけばそれでよかったのだけど、西月さんの言い分があまりにもね、酷すぎたのよ。佐賀さんもあんなこと、メモで渡されたら傷つくはずよ。上級生が下級生に対して、そこまで言っていいのかしら、と思っただけよ」
「でも、その湊先輩とおっしゃる方は、西月先輩を憎んでらしたわけでは」
「憎むというより、怖がってたわね。善意の押し付けで息が詰まりそうだったらしいのよ」
「西月先輩が心から、学校に戻って来てほしいという気持ちで、毎日湊先輩のお家に通いつづけておられたことを、罵倒されたわけですか」
「違うのよ、わかる? 杉本さん」
なんでこんなくだらない話を、と伝わりそうな態度で、ふらんふらんと体を揺らした。
「湊さんはもともと青大附中が肌に合わなかったのよ。でも、同じ中学の生徒がいるのだからがんばって通いましょうと私のように割り切ってたわけよ。そしたらね、西月さんがしつこいくらい湊さんに近づいて、あれやこれや世話を焼くから、彼女まいってしまっただけ。学校を休んだ段階で、早く公立に転校しようと思っていたらしいけれど、もちろん学校側では説得するでしょう。その間、応援なのかなんだかわからないけれど、西月さんは毎日しつこく張り付いて、手紙を渡したり、挨拶をむりやりしたりと、がんばられたというわけ」
「それのどこが悪意なのですか」
怒りを発せず、押さえる杉本の言葉。
「杉本さん、あなたも同じタイプね」
大きな溜息をついたのは近江さん。
「あなたにとって西月さんの『善意』がありがたかったのは、人それぞれよね。でも、中には余計なお世話と振り切りたいタイプの人もいるというわけ。そうね、杉本さんが懸命に、佐賀さんにサービスをし続けたけれども、彼女にとっては苦痛だったのと同じことね」
杉本が息を呑んだ。
──やはり、勝ち目ないって言っただろ!
もう少し子細を聞きたい。しかし杉本をこのまま泣かせていいのか。迷う。
タイミングを計る、という名目で、上総はもう少し黙って様子を伺った。
「湊さんの問題は結局、二年の秋に退学して公立に戻ることで解決したわよ」
きっぱりと答え、また首をくねらせた近江さん。上総にも視線をちらと向けた。
「その際、西月さんには一切湊さんの本心を伝えることなくごまかしたけれども、今思えばあの段階できっちりうちの担任が叱っておけば、第二、第三の湊さんが現れることもなかったのよね」
「どういうことですか」
「そうよ、あの時に、湊さんを退学させた理由のひとつに、西月さんの過剰な親切が挙げられるわけなのだし、そのターゲットとなった湊さんが消えた後次の相手がどうしても必要になるでしょう? わかるわよね」
杉本が黙りこくっている。どうやら、理解しかねるようだ。
「わからないかもしれないけれども、運悪く次のターゲットは、天羽くんと杉本さんだったというわけ。もちろん杉本さんは西月さんの親切をまっすぐ受け止めたようなのでそれはよかったけれども、天羽くんにとっては地獄だったというわけよ」
「でも、純粋な親切をあんな形で仇で返すとは」
「仇ではないのよ。あとで知ったことだけど、A組の人たちみな、わかっていたのよ。西月さんがどうしてあんなに一生懸命自分をアピールしたがったのか。うざったかったのか。だからそれぞれ、うまく防禦していたのに、天羽くんだけどうしても避けることができなかった。だから、可哀想だけど乱暴に振るしかなかった。私のことは別よ」
全く納得いかないといった風に杉本は口を尖らせ目をこわばらせた。
「その後のことは、おそらく霧島さんもご存知ないでしょうね」
自分で話をつなげていく近江さん。全体として怠惰な風情は変わらない。肘をついたままの教卓に手を置くと、
「さすがに三年同士の話を二年の前で話すのは失礼だと思ったので、別の教室に移動しましょうと伝えてそうしたのだけど、まあね、まさか傘を持って振り回すとは思ってなかったわよ。言っておくけど、天羽くんがらみの色気あふれる話題はひとつもないわよ。期待していた杉本さんと委員長には悪いけど」
「近江さん、それ、本当か」
ようやく上総も、言葉をはさめた。
「それが、原因だってことは、狩野先生もみな知ってるわけなのか」
今度は近江さんが上総に向き直り、また微笑んだ。
「そうよ。ちょうど彼女が持っていた傘、先がとがっていて危険だったのよ。これは男子に取り押さえてもらうしかないと腹をくくって、天羽くんたちのいる教室に逃げたのが正解だったわ。私から言わせていただくと、たかがその程度のこと、それも事実を伝えただけで逆上するとは思っていなかったけれど、でも、それはしかたのないことよ。私ももう少し場所と時間をわきまえればよかったし。なによりも湊さんの件に蓋をしたうちの担任にも問題があったわけだし」
ね、と、相槌を求める首の角度。頷きたくなってしまう。こらえた。
「私はその話をきちんとしたことを、間違ったことだとは思っていないし、今杉本さんに問い詰められても恥ずかしいと思わないからこうしてきたわけ。ただ、西月さんにいまさらそんなことを伝えても無駄だというのも感じたわ」
「無駄?」
「そうよ、委員長。どんなに正論を伝えたところで、受け入れたくない人には受け入れたくない現実なのよね。小さな親切大きなお世話、って、わからない人には一生伝わらない。何度繰り返しても学習できない人もいる。今回私が読みを間違えたのは、正論を伝えても、その人にとって受け入れたくないことは相手を叩きのめしても認めない人がいるということよ。そうね、私もまだ、西月さんを、話の通じる人だと思っていたからなのかもしれない」
「通じない人だった、というわけか?」
近江さんの言いたいことがわからないわけではない。上総も菱本先生でいやというほど経験している「過干渉」。西月さんがひとりならずふたり、三人目と犠牲者を生み出していったのだという、近江さんの主張に頷きたくなる。でもここでこくっとやってしまったら、杉本を心から可愛がってくれるやさしいお姉さん像を傷つけることになる。
「認めたくないのよね、きっと。だから半永久的に、彼女は自分の親切が正しいんだと言い続けるわね。別に私にはもう、関係ないけど。でも、余計なおせっかいをしてしまったのは、反省よ。喋りすぎたわ、もう行くわ」
近江さんがこんなに話したのを聞いたのは初めてだった。
杉本の糾弾に一切動揺しないで冷静に交わす、近江さんの姿。
時折たらたらと身体を揺らしつつ、溜息交じりで。
「これ、天羽知ってるのか」
「だって見てたもの、しょうがないじゃないの」
上総は杉本の震える肩を、じっと見やり、
「杉本、もういいだろう」
それだけ伝えた。その後、近江さんに、
「あとで、その時の子細を教えてくれないかな」
真面目に尋ねた。
「明日でいいかしら。今日は用事があるのよ。人と逢う約束があるの」
「いいよ」
近江さんは杉本を一瞥し、扉に手をかけた。とたん、女子がひとり、その向こうに立っていた。上総のよく見知った女子だった。
「近江先輩、ここでお話が終わるまで待ってたんです」
耳の上ふたつ編み上げた髪の毛が中華娘風。ひとりしかいなかった。佐賀はるみ生徒会長だった。用心棒の新井林はセットではなかった。耳元に手を当てるしぐさをし、側にいる杉本梨南には一瞥もくれず、
「一緒に連れてってください」
くうっと顔を見上げ、近江さんに訴えた。近江さんもまんざらではなさそうな顔で、肩に手を置いた。
「そうね、もちろん連れて行くけれど」
「で、思ったんですけれど、私」
次に佐賀が視線を向けたのは、杉本ではなく、上総だった。
「今の話、すべて聞かせていただきました。すべて事実だとわかってます。もし梨南ちゃんが変なことしそうだったらすぐに先輩を守るつもりでした」
「そんなあぶないことないわよ」
美里にもこんな風にやわらいだ表情を見せていたような気がした。やはり、天羽の話した通り、近江さんは女子好きなのだろうか?
「梨南ちゃんはともかく、私、今のお話、きちんと立村先輩に話しておくべきだと思ったんです。これから私たちと一緒に、その説明、聞いていただいたほうがいいと思うんです」
「委員長を連れてくの? 『アルベルチーヌ』に?」
少し鬱陶しそうに首をめぐらせた。上総と目が合った。
「私、それの方が、いいと思うんです。立村先輩にも、きちんと卒業前に、お話すべきことが生徒会長としてありますし」
佐賀はるみはやはり杉本を切り捨てた眼差しで、上総にきりっと見返した。
あの日、とことん叩きのめすため乗り込んだ教室で、ちっとも動じなかった佐賀はるみが、初めて上総に挑戦状を差し出した瞬間だった。
──これは、受けるしかない。
腹をくくった。上総は無言でそれを飲み込んだ。
女子ふたりが相談しあっている中、杉本が、
「佐賀さんは何を非常識なことを!」
激するのを上総は押さえていた。
「杉本、わかった、あれをすべて俺に聞かせたかったってことだよな」
「当然ではありませんか。間違ったままの情報を、立村先輩が認識して、可哀想な西月先輩の名誉を傷つけることにはしたくないのです」
「わかった、俺は西月さんの理由がよくわかったよ」
「だったら、きちんと他の人たちにも発表すべきです、火をつけたのは近江先輩だと」
上総は首を振るしかなかった。
「かえってそれはまずい。今の話聞いた段階だと、たぶん西月さんの方が立場悪いよ」
「どうしてですか。善意を裏切られただけだというのに」
「一般的には近江さんの意見が正しいとされているんだ、だから」
だから、と繰り返し、すぐに続けた。扉付近のふたりに聞こえるよう、両肩に手を置いて、杉本を見つめながら。
「だから、今から、近江さんたちについていって、詳しい話を聞いてくる。それから、ゆっくりこれからのことを考える。杉本、だから、今の話は誰にもまだ言うなよ。必ず、俺がいい方法、考えるからさ」
女子ふたりが、上総と杉本を静かに見やった。
生徒会長の提案、もしかしたらすべて図られていたことなのかもしれない。あまりにもこれは、タイミングが良すぎる。しかも、なぜ佐賀が杉本の件にここまで割り込んでくるのか。杉本が近江さんを引っ張ってきた時に、すでに互いに計算した後だったのかもしれない。そこにはめ込まれた自分、役立たずの元評議委員長。可愛い生徒会長に歯向かって返り討ちされた哀れな評議委員。苦笑するしかかった。
渡されたバトンは受けるしかない。
佐賀はるみに上総は、作り笑いで答えた。
「その『アルベルチーヌ』って、どこにあるのかな。今から自転車でそこに行くけど」
「駅前です、でもわかりづらい場所です」
「なら、どこで待ち合わせする?」
近江さんより先に、一歩早く佐賀が返答した。
「駅前でお待ちしてます」