第三部 19
第三部 19
会話が途切れ、ふたりはただ黙ったまま膝を抱えていた。
タイミングを計りたくともお互い折れる気なんてさらさらなし。
上総がちらっと本条先輩の方を覗き込むたび、一切無視して背を向ける。その向け方は露骨すぎる。真っ正面から背を向ける。
──どうしようかな。
「トイレ借ります」
まずはこちらの方から空気を変えよう。上総はいったん部屋を出た。頭をすっきりさせようとトイレに立った。
「立村くん」
一呼吸おいてトイレから出たら、そこには長髪の里理さんが不安げに待っていた。
「里希に、そうとうやられた?」
上総は頷いた。無理に頬のえくぼをこしらえてみた。うまく行かず泣き顔に代わってしまった。
「そうか」
「すみません」
「それはそうと、まずは腹の中に何か入れた方がいいね。実は今、僕もうどんをこしらえようと思っていたところなんだけど、素うどんでよければ作るよ」
「あ、でも」
言葉をさえぎり、里理さんは首を振った。
「腹がすいたら戦はできないだろ。まずは少し、里希と時間をつぶしてて」
そういえば給食のあとのりんご以外、胃の中には何も入れていなかった。
「すいません」
上総はぶっきらぼうに一言付け加え、戸を開けた。本条先輩の返事はない。出ていけとは言われなかったのだから、それだけでもまだましと思う。「今夜は帰さない」だったのだから、むしろ怒るかもしれない。黙っててもいい。まずは部屋にいよう。
「電気、つけますか」
「付けろ」
冷たい言葉が返ってきた。上総はコードをひっぱった。闇の中だと重たく迫ってくる本条先輩の背が、蛍光灯の白い光に照らされていつのまにか、生々しい姿になって迫ってきた。
「お待たせ、ふたりともまずは水入りだね」
里理さんがどんぶりにほんとの素うどんを盛り、持ってきたのはそれからすぐ後だった。
「勝手にもってくんなよ!」
荒々しく本条先輩が怒鳴った。
「立村くんがおなかすいているってきいたからね」
なんとも思わない風に里理さんは流し、床にそのままおぼんを置いた。三膳。どうやら里理さんもここでご相伴するつもりらしい。
「なんでてめえがこんなとこにいるんだよ!」
「いやね、ちょっとさ、おせっかいしてやろうかなと思ってさ」
ちらっと上総に視線を送ってきた後、里理さんは自分の分のどんぶりを抱え、しゃぶるようにすすった。
「里希、お前さあ、そういえば千草ちゃんのことはどうなったのかな、この前結城くんと話をしていてね、気になったんだ」
「るっせえって!」
「この前、会ってきたんだろ? 千草ちゃんのこと、立村くんに話してないのかな」
上総は目立たぬように首を振った。「千草ちゃん」って誰だろう? たぶん、二股かけている彼女のどちらかの名前だろう。同年齢か、それとも年上か、その辺はわからない。あれから先、別れたかどうかはわからない。上総は決してそのことについて、口にしないようにしてきたから。「恋愛感情」なんてわけのわからないものを、触れたくない。
「里理! いいかげんにしねえとぶっとばすぞ!」
「それはやだ。けどさ、里希がなんで一番めんこがっている立村くんに話さないのかなって思ったんだよね」
「お前女々しいこと言うんじゃねえ!」
「しょうがないよ、俺、女々しいんだからしょうがない」
冷静に交わしつつ、あっという間に里理さんは食べ終えた。まだ上総が一本、二本と、麺をいじくっている間に。
「さっきまでちらっと話を聞いてたんだけどね、里希はどうして本当にしゃべらなくちゃいけないこと、話さないのかねえ」
「なんだよそれ、これは俺とこいつとの問題だ。てめえが割り込むんじゃねえ!」
「だって語りたいことって、結局は、千草ちゃんの話をすることでまとまりそうな気がするけどなあ。立村くんもそう思わないかな」
──だって、千草ちゃんなんて人、俺知らないもの。
里理さんは平らげた後、まだ手のついていないどんぶりを本条先輩に運び、ベッドの上に注意深く置いた。
「こいつみたいなバブバブに何語れってんだ!」
「里希だって本当はバブバブだった時期があるだろう? 思い出して語ればいいよ。盗み聞きした限りで言うとだ」
「盗み聞き?」
声音が変わった。
「里希が千草ちゃんにしていたことは、たぶん立村くんがそのなんとかちゃんにしていたことと、ほとんど変わらないんじゃないかって気がするんだよね。里希、そのことを話せば、いいんじゃないのか」
「根本的に違うってるだろが! 俺に命令するんじゃねえ、男好き野郎のくせに!」
「そうだね、でも、好きな気持ちは誰だって変わらないよ」
後ろを向いたまま、それでも手を伸ばす本条先輩。里理さんと同じように、一気に平らげた。口に物が入っている間に、里理さんはゆっくりと声をかけていった。
「千草ちゃん、知ってる?」
「いいえ」
答え方によってはぶっちぎれそうなので、短く答えた。里理さんも頷いた。
「この子、ご推察の通り、里希の恋人だったんだ」
「どっちの」
吹き出す里理さん。うんうんと頷いた。
「小学校の頃の同級生だった子だよ。里希の初体験の相手」
「余計なこと言うなっての!」
立ち上がり、本条先輩が里理さんの胸倉をつかんだ。でもやっぱり、驚かない。
「千草ちゃんのことでさ、一年の時、結城くんが割って入った時のこと、覚えてるか」
「だからお前出て行けよ」
「出て行かない。里希よりも、立村くんが知る必要のある話だと思うから」
首を振ると、本条先輩はじっと上総をにらみつけた。
「こいつのどこがだよ」
「里希、僕が見ている限り、あの時の里希と今の立村くんは同じ状態だと思うよ」
手を振り払い、里理さんは上総の肩と頭を軽く抑えるようにし、
「千草ちゃんと縁を切れって周囲から迫られて、それでも絶対、最後までお前、千草ちゃんを守ろうとしただろ。結城くんが心配していたけど、しっかり自分なりのやり方で、守っただろ」
「気持ち悪いこと言うんじゃねえ!」
でも本条先輩の態勢が少しずつ緩んできている。
上総にはそれがはっきりと浮かび上がった。細い、ロープが里理さんの手を通じてたらたら揺れているかのようだった。
「AVのお姉ちゃんさせられてた千草ちゃんと青大附属のエリートとだったら、別れろってそりゃあ言われるよ。結城くんも、駒方先生も、」みんな里希を説得してただろ? その時、どうして里希は千草ちゃんを最後まで守ろうとしたか、それを語ってやるべきじゃないかなあ」
「余計なことばっかり言うんじゃねえよ! そんなのこいつとどう関係あるんだ!いいかげん割り込むな!」
とうとう本条先輩は里理さんをすごい勢いで張り倒した。ばしっと音が聞こえた。しかし、恐るべし里理さん、転がるや否や、すぐに立ち上がり、頬をさすりながら、
「それじゃあ、僕の知っている範囲内で、千草ちゃんのことを立村くんに話そうか。立村くんこっちおいで」
おいでといわれたからには近づくしかない。上総はよろよろと里理さんの隣に座った。
「こんな暴力男に殴られつづけるよりも、わかりやすい話をしてやるほうが、君のためにはいいと思うからね」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
里理さん、にやりと笑った。
「立村くん、僕の部屋においで。教えてやろういろいろと」
「やめろ、変態野郎!」
腕をひっぱり外に引き出そうとする里理さんにくっついていこうとした。すると、いきなり本条先輩が上総のもう片方の腕を一気にひっぱり返した。脱臼するかと思った。すぐに里理さんが手を離したので、ぺたっとしりもちをついてしまった。
「てめえ、こいつはな、女が好きな奴なんだ。妙なこと吹き込みやがったら、ただじゃおかねえからな! それとだ、立村」
ぐいと、上総を見下ろした。上総も受け止めた。
「なんだよ、その反抗的な目つき」
「自然な目です」
「ったく、こんななさけねえ顔なんて俺がしたことあるって言いたいのかよ、里理!」
無言で、でも笑みを湛えたまま、里理さんは廊下に引っ込んでいった。
──そういえば、本条先輩から具体的な彼女の名前、教えてもらったことがない。
上総はそっと記憶を巻き戻してみた。そう、いなかった。
どうしてだろうか。一年の頃は、エッチな話を持ち出されるとつい一歩引いてしまっていた。二年の頃は関心だけはあふれ返っているくせにそれを表出しするのが怖かった。そして三年の時は?
──本条先輩から、ハウツーはいっぱい教えてもらった。けど、本条先輩自身の経験は、ほとんど聞いてない。
病気を移さないようにするためにコンドームを使えとか、抜くときはできれば好きな女子の写真でやれとか好きな女子にはもっと積極的になれとか、美里は悪くないが杉本はやめろとか、そういう話はたくさんしてくれた。素直にそれを受け止めていた。南雲は信頼できるからもっと仲良くしろとか、男子連中とは腹を割ってスケベ話しろとか……でも、本条先輩がかつて、どのようにやってきたか、そんなのは聞いたことがなかった。
南雲あたりだといろいろ細かい事情を聞いているらしい。演劇部からみの話もそうだし、恋愛関連の話もちょこっとだけど耳にする。
でも、弟分の上総には、一言も、教えてもらえていなかった。
「本条先輩」
「なんだ」
吐き捨てるように本条先輩は答えた。片方の手で髪の毛をかき回し、もう一度後ろをむいたまま突っ立っていた。
「ごめんなさい」
うまく、どう伝えればよいかわからなくて、思わず詫びの言葉が出てしまった。はたして何にあやまりたかったのかわからなかった。それは本条先輩もいっしょのようで、
「なにいきなりあやまる」
返答が返ってきた。
どう言えばいいのだろう?
本条先輩に、今自分が頼ろうとして、期待した答えを返してもらえる可能性なんてあるのだろうか。
それとも、里理さんの話していた千草さんの話にヒントがあるのだろうか。
「俺が頼るのは、やはり、ご迷惑でしたか」
次に口からこぼれたのは、まったく予想もしていない言葉だった。
「俺は、本条先輩にくっつきすぎて、かえって重荷になってましたか」
「いきなり何言い出す」
本条先輩は振り返った。じっと上総を見下ろした。そのまなざしには、戸惑いの色が浮かんでいた。蛍光灯の下のせいか、さっぱり、汗臭さが消えていた。
「本条先輩なら、何でも知ってると思ってたし、きっとわかってもらえると思ってました。でも、俺がそう思い込んでいただけだったら、ごめんなさい」
「俺が無能とでもいうのか」
「違います!」
何か、自分の考えていた方向とは違う言葉が漏れ出す。上総は首を振った。目を上げたまま訴えた。
「本条先輩は、俺のことを弟分だって言ってくれてたし、評価してもらえてたと思ってたけど、きっと他の奴らより、頼りないって思われてもしょうがないんだって、今やっと気がつきました。思い上がってました。ごめんなさい。俺は」
「おい、もう一度言ってみろ!」
本条先輩がしゃがみこみ、上総の胸倉を再びつかんだ。激しくののしろうとする気配がする。上総はその格好のままさらに首を振った。
「だって、そうじゃないですか。本条先輩、俺に、その人の名前なんて話したこと、一度もなかったし」
「その人の名? さっきあのおかまボケが言ったことか!」
上総は頷いた。千草さんという名が頭をよぎり、そして消える。
「何が起こったかとか、本条先輩がどんなに大変だったとか、今までぜんぜん知らなかったし」
「知る必要ねえことをなんでお前に話すか!」
「けど、天羽や南雲には話してたわけですか! 俺は先輩が演劇部で苦労してた話なんてほとんど、南雲経由でしか聞いてないし」
「俺が苦労? そんなのするか!」
「今、帰宅部だとかいう話も、さっき里理さんが教えてくれたからだし」
「あのボケ野郎があっ!」
いきなり本条先輩は机の上の筆箱を床に叩き落した。
「俺には何にも、そんなこと、教えてくれたことなかったですよね。やっぱりそれは、俺が頼りなかったからですか。もともと評議委員長としての能力が乏しかったってこと、わかってたからですか。だから俺よりも、他の奴の方が」
「黙れ黙れ黙れ!」
いきなり本条先輩は上総を揺さぶった。
「何訳のわからなねえこと言ってやがるんだ! ったく女々しいぜ。里理もそうだがお前、何女の腐ったようなこと言ってるんだ!」
「だって、そうじゃないですか!」
不意にまた、涙がこぼれてくる。
「俺が一方的に信頼してたつもりでしたけど、本当は俺、何も本条先輩から、認められてなかったわけだし」
「信頼? どういうことだ? てことは何か? 俺がお前を信じてなかったってこと言いたいのかよ」
「信じられるだけの、能力も価値もなかったわけだからそれはしょうがないし」
今まで見えなかった本条先輩の裏側を垣間見た時、自分の信じていた姿が少しずつ崩れていくのに戸惑っていた。
本条先輩という、完璧な存在の裏のひび割れ。
千草さんのことも、また、演劇部のことも、上総は上っ面でしか知らなかった。
語ろうとしないから、そのまま知らんぷりでいいと思っていた。
でも、天羽や南雲のように、語ってもいいと先輩が判断した奴にはたくさんしゃべっているくせに、上総には語ることがなかった。
──俺には、何ひとつ、本条先輩の本心を、教えてもらえていなかったんだ。
ぽろぽろ涙が溢れ出す。
自分にとって唯一完璧な存在だった人、その人に認められたい、認められた、そう信じて評議委員会に携わってきた。 期待を裏切ったと思ってきた。
でも、最初から、それは違ったのだ。
──本条先輩は最初から、俺のこと、評価しちゃいなかったんだ。南雲、天羽よりずっとはるかに。
「いいかげんいじけるのもいいかげんにしろ!」
頬をはたかれた。
「しゃきっとしろしゃきっと!」
「だって本条先輩は」
「どっかの女子連中みたく、秘密を打ち明けあうことが友情の証とでも思ったか! ねちねち告白ごっこすることが親友のしるしとでも思ったか!」
本条先輩の手がもう片方の頬を打った。
「いいか、立村、よく聞け」
両手で胸倉を押さえるように、捕まれた。顔を再接近してきた。本条先輩のまなざしには、かすかに光るものが混じっていた。
「過去の女のことなんか話して、なんになる? 俺のみっともねえ過去のことなんかしゃべってお前のなんに役に立つ? 俺が結城さんと馬鹿やってたころの話べらべら話してどこが面白い?」
「けど、南雲や天羽には」
言いかけた。揺さぶられて声が出ない。
「俺はあいつらに評議委員長の指名、したか? お前だけだろうが! お前ひとりだけだっての!」
「けど、それは違うと」
「違わねえんだよ!」
ふたたび、力がえりのところにこもった。本条先輩の声はかすれていた。
「お前、じゃあなにか、俺がだらだらみっともねえがきんちょの頃の話聞かせて、面白いと思うか? 今日はあいつ、昨日はこいつって女遊びしていた頃の話して、露骨に逃げたのお前だろ? 結城さんにみっともねえくらいひっぱられてたなんてこと聞いて楽しいか?」
頷いたけれど、つたわらなかったのかもしれない。本条先輩は続けた。
「だろ、だろが。お前の性格じゃあ、俺の武勇伝なんか興味ねえだろ。だからしゃべらなかったそれだけだ」
「けど、他の奴には」
再び言い募る上総を本条先輩は無我夢中で揺さぶりつづけた。
「俺がそんな奴だって聞いたら、お前、俺についてくる気になったかよ!」
──俺についてくる気になったかよ!
はっと、本条先輩の手が緩み、言葉が途絶えた。
ぱたりと上総は横たわった。同じ衝撃が走った。
──俺についてくる気になったかよ!
本条先輩が、まさか。
おびえていた?
上総に嫌われるかもしれないとでも、思ったのか?
そんなことありえない。だって本条先輩は、完璧な人。こんな完璧な人が自分を必要としてくれるわけがない。その証拠に、千草さんの話もなにも教えてくれなかったではないか。そう思っていた。
けど、違うのか?
本条先輩は、上総に嫌われたくないから、黙っていたのか?
本条先輩の方が、上総の方をうかがっていたのか?
それだけ、大切にしてもらえる存在だったのか、自分は?
混乱する。上総はしゃくりあげながら首を振った。
「そんなことないです。絶対に」
「嘘吐け! おどおどびくびくして、俺の昔の女の話聞いて、こいつばかかって顔してたの、お前だろうが!」
「そんなこと言ってません」
「裏方ばっかやらされてやさぐれてるとでも聞いて、ざまあみろとでも思ったか!」
「そんなこと、絶対に思ってなんか」
「じゃあ俺に何を言いたいんだ? 俺を頼る振りして、実はこいつ何にもできねえのかと物笑いにでもするつもりか!」
信じられなかった。本条先輩の口から出てくるべき言葉ではなかった。上総はかぶりを振った。声を出せず何度も身体ごと揺らした。
「そんなんじゃない、そんなんじゃないから、俺は先輩のこと」
「じゃあなんで、こうなっちまう前に」
上総の肩を無我夢中で揺さぶる本条先輩。その目から、何かが転がり落ちた。確かに見た。
「どうしていっちゃん最初に、俺のところに来なかったんだ!」
隠せないくらいの、大粒の涙だった。
もう、言葉はなかった。上総は息を呑んだまま、ただその頬にかかるものを眺めていた。
──本条先輩が、泣いてる。
絶対にありえないと思っていた。
こんなこと、言われることなんて永遠にないと思っていた。
でも、本条先輩の口元と、瞳に、確かな答えが刻まれていた。
──本条先輩が、まさか。
狩野先生の口にした言葉が蘇った。上総と話をしたがっている、それも友だちとして。そんなありえないこと、信じてなんていなかった。
でも、今目の前にいる本条先輩は、かつて自信たっぷりに振る舞い続けていた青大附中評議委員長のものではなかった。 ──俺に嫌われたくないからって、そんな、そんなわけない。だって本条先輩になんて、俺は評価される価値なんてないし。
静かに上総は混乱していった。中学時代の三年間、もし本条先輩が側にいなかったらと考えるだけで、ぞっとする。もし評議委員になっていなかったら、今までかろうじて自分のものであった人間関係も友情も、なにひとつ手に入らなかったのだから。役立たずの自分でも評議委員長としての価値があると認めてくれた、それがどれだけうれしかったか、たったひとりの人に認められたくていままできた。そんな人がだ、今の、すっかり落ちぶれた自分のことをそんな大切に思ってくれているわけがない。第一、何ができるというんだろう?
上総は顔を上げた。失敗したとばかりに頬をこすってそっぽを向く本条先輩に、何か言わなくてはと頭を回転させた。 うまい言葉が見つからなかった。
でも、選んだ。
「俺、本条先輩と、対等になれるまでは、絶対に会わないと決めてました」
「はあ?」
「認めてもらえるまでは、会わないことにしてました。けど」
まじまじと本条先輩は上総を見返した。
「今の俺でも、本条先輩、話をしたいと思ってくれますか。俺のこと、こんなままでもかまわないって言ってもらえますか」
「何言ってるんだ、お前」
「俺は、本条先輩と、友だちみたいに、話をしてもいいって思ってもらえる日まで会わないって決めていました」
瞬間、本条先輩の手が、頬を直撃した。何が起こったかわからなかった。今日張られた手の中では一番きついものだった。
「ばっかやろう!」
まだ本条先輩のまつげと鼻脇には濡れた跡が残っていた。上総は身体ごと本条先輩が近づいてくるのを感じ、そのままにした。
「お前、一応は後輩だろ」
両手を上総の肩に置いた。さっき揺さぶられたのとは同じポーズだったけれど、重たかった。静かに石のように。
「お前の方から、来たっていいだろうが」
また一粒、二粒あふれ出る。かすれた声、かすかに首を振り覗き込んだ。
「お前の方から、来いよ」
なんで今まで気付かなかったのだろう。
今まで上総は本条先輩に見捨てられたものだと信じきっていた。
価値のない自分はもう、本条先輩に近づいてはいけないもんだと思っていた。
南雲や天羽のように、対等に評価してもらえてないと感じていた。
だから、完璧な評議委員長にならない限り、絶対に会わない、そう決めていた。
違った。本条先輩は、上総に会いたかったのだ。
どう考えても疑いのない想いが、伝わってくる。否定できない。
単純すぎる、ただそれだけのこと。
ただ、上総が一方的に本条先輩を撥ね付けていただけのこと。
傷ついていたのは上総ではなく、本条先輩だった。
──俺に、今、何ができる?
上総はしゃくりあげながら、ようやく一言しぼりだした。
「本条先輩、今からでも、いいですか」
もう一度、涙目の本条先輩に問い掛けた。
「今から、全部、話聞いてもらって、いいですか」
「あたりめえだろ! 今夜は寝させないって、言っただろうが!」
がしがしと再び本条先輩は肩を揺らし、上総の髪の毛に手を置いて激しくかき回した。
「仕切り直しだ、おい里理、なんか食い物と飲みもん、持ってこい!」
その夜、上総は初めて、千草さんと本条先輩との物語を知った。
かつての上総だったら、きっと逃げ出していたような内容だっただろう。
あまりにもエロティカルで、グロテスクで。
ただ、本条先輩の物語るものを黙って受け止めるだけだった。
──それしか俺にはできないけど、いいのかな。
本条先輩は上総を脇におき、ただ語りつづけた。