第三部 18
第三部 18
本条先輩も腹がすいていたのか、まずいったん部屋を出て、台所から何かを持ってきた。ついでに石油ストーブのレバーを「点火」まで回し、ジャンバーを脱いだ。真っ黒のフィッシャーセーターが覗いていた。
「食ってねえのか」
「給食は食べました」
「ったく、どういう生活してたんだ」
「天羽たちの言う通りです」
返事するだけはした。それが礼儀だった。本条先輩は持ってきた箱の中からりんごを取り出し、上総に投げて渡した。
「そのままかじれ。ま、お前みたいにお上品なお坊ちゃんには向かない食べ方だろうがな」
挑発するような眼差しでにらんできた。上総も受け取り、しばらく指先で皮をこすった。
「いただきます」
本条先輩を見据えたまま、上総はそのままりんごの皮に歯を立てた。まだ熟れていないのか、硬くて歯の間がきしきしした。垂れてくる露をなめながら、それでも目は本条先輩に向けたままでいた。そんなの知ったことかとばかりに本条先輩もひとかぶりした。
「さっきも言った通り、俺は全部、天羽たちから事情を聞いている」
上総がりんごの芯まで全部食べ尽くすのを見極めた後、本条先輩は口を切った。
「俺が卒業してからの青大附中評議委員会はどうだっていいことだ。お前が仕切る以上、口出しはする気はない。ないんだがな」
二口目をかじった。
「黙ってても俺の方に全部情報が流れてくるってのはどういうことだ?」
「先輩を信頼しているからだと思います」
尋ねられたことには即答えた。
「俺よりも、本条先輩の方が信頼できるから。だから新井林も」
「黙れ。すべてはお前の推測だろ。事実だけを言え」
「でも、事実は」
本条先輩はベッドに座り込み、床に正座している上総を見下ろした。
「俺の聞いたことがすべて事実だとしたら、お前はどう反論するつもりだ?」
「認めるまでです」
「そうか、あんなことこんなことも全部事実だって認めるのか」
「はい」
「何を聞かされているかどうかも、確認しないでか」
「天羽たちが嘘を言うわけないです」
舌打ちし、本条先輩は枕を上総に投げつけた。受け止め損ねて顔に当たった。こけた。
「腹にそれ、かかえてろ」
言われている意味がわからない。黙ってかかえていると本条先輩は続けた。
「お前の答えひとつによっては、肝心要のあすこが使い物にならないくらい、一発ぶちかますかもしれないからな」
上総はじっと本条先輩の目を見据えた。
──本気だ、先輩は。
本気であろうがなかろうが、上総にはもう頼る場所がここしかなかった。
「いっちょ、いくか」
にらめっこの後、本条先輩はゆっくりと膝を広げ、上総に向かいかがみ込んだ。
「今から俺がお前のやらかしてきたことを一言一句すべて確認してやる。文句言いたきゃその場で抗議しろ。もっともそれを俺が受け入れるかどうかはさだかじゃねえ。話は基本として、すべて正しいという前提のもといくからな。覚悟しとけ」
「はい」
上総は静かに頷いた。
「まず最初に、お前がなぜ、あんなへまをやらかしたのかだ」
本条先輩は一瞬も目をそらさなかった。瞬きすら、気付かない。
「最初はお前にもそれなりに考えがあるんだろうとは思っていた。いきなり評議委員会と生徒会とをドッキングさせたいとか、他の学校と交流したいとか、わけのわからないこと言い出した時に、俺も止めるべきか何度か考えた。だが評議委員会の今後がどういう風になるか、想像つかないものを見たいって気もしないわけじゃねえ。ということで、放置しておいたら、あららなんだこれは」
言葉もない。目をそらさずに耳を傾けた。
「まずお前、なんでさっさと新井林の彼女の本性を暴露しなかったんだ?」
「事実関係が証明されなかったからです」
短く答えた。
「去年の今頃だったな。新井林の彼女が二股かけてるかなんかしてるって噂を、お前が撒き散らして、それでごたごたしたってことあったな」
「はい」
「じゃあ、なんでお前、言うべきことをあの段階で言わなかった」
「あいまいだったからです」
あいまいなんかじゃないけれども、言い逃れされてしまえば何も言い返せない。結果として残っているのは、新井林の前で本条先輩に張り倒されたということだけ。他中学の関係ない生徒を上総がストレートパンチ食らわせたという罪と、後輩の大切な人を罵倒した罪のふたつにおいて。
「俺がそのこと気付かなかったと思ったか」
「話しませんでしたからわからなくて当然だと思います」
端的に答えようとして、舌をかみそうになった。
「そうか、ずいぶん見くびられていたもんだな」
初めて本条先輩は自分から目をそらした。
「悪いがお前の猿知恵はみなお見通しだってわけだ。新井林もな同じってことよ。みいんな、ご存知のことをだ、お前ひとりがかぶってたってわけだ。ご苦労なこった」
挑発すれすれのせりふをぶつけてきた。ここで言い返すべきか、それとも問い返すべきか。上総は黙った。まずは時を待とう。
「まあ、それはお前がそうした方がベストだと判断したのなら、それは俺も口出しする気ない。所詮俺は公立に行っちまった人間だ。後輩連中に口出しする権利はなしだ。さて、次にだ」
もう一度、上総にかがみこんだ。唇結んだまま上総も見返した。
「天羽たちの許可も得てるんでまずは事実関係だけ並べるか。お前、なんで天羽に評議委員長の座を譲ろうとかいう間抜けなこと思いついたんだ?」
「間抜けではありません」
「天羽曰く、ストレスがたまったんだろうって言ってたが、そんなとこか」
「違います」
いったい天羽も何を考えているんだろうか。本条先輩に相談しに行くのは一種の義務だししょうがないけれども、もう少し言い方があるだろうに。憤ったって仕方ないけれど、そう思わずにはいられない。
「まあ、天羽はしっかり自分の勤めを果たしてるしな。お前の途中で投げ出した『青大附中評議委員会、生徒会への大政奉還』も無事やり遂げそうな予感ってやつか」
「はい」
「なんでお前、評議委員会のせっかく手にしてた特権を全部、手離そうとしたんだ? 俺にはそこんところもよくわからんが、難波が言ってたらしいな。『奴はなにかかしら自分が得をしそうになるといっつも逃げ出して、周りの奴らに大盤振る舞いするくせがある』ってな。さっすがホームズ、いいとこついてるもんだ」
さらに難波もまたわけのわからないことを言い出すものだ。ホームズなんて名前を返上しろと言いたい。妄想をぶちかますのはやめてほしいものだ。上総の反論はすべて腹の中で、吐き出すわけにもいかない。妄想そのものを本条先輩はさらに打ち出してくる。
「実際、天羽を長にしたいっつう声があったのは事実だ。お前もそのくらい重々承知していたはずだ。上の先輩どもからも実際、抑えがかかっていたのも認める。だがな、なんで俺がお前を評議委員長に指名したのか、その意味を全く認識してねえのか!」
「申し訳ございません」
「あやまってりゃなんでも片がつくと思うな!」
初めて小突かれた。殴られるかと思ったが、さすがにそこまではいかなかった。
「いいか、少なくとも俺がいた頃の評議委員会は、生徒会の権力なんてどこ吹く風ってことで好き勝手できる楽園だったはずなんだがな。結城先輩の部活動代わりで出来上がったのがなさけねえ話だが、下手なクラブよかずっとましってな。演劇もバンドも茶会もデートも、そりゃなんでもできる、パラダイスだ。しかも顧問なんてセットでついててやりたい放題なもんだから、余計なバリアの張られている生徒会よかずっと面白いってのは当然じゃないのか? お前にもその面白さがわからなかったわけねえだろ。だから三年間も評議委員の座を守ってきたわけだろ? それが不満だったのか」
「不満じゃありません、ただ」
「ただ?」
やっときっかけがつかめそうだ。逃しはしない。指先でつまんだままのりんごの柄を、じりじり回した。
「先輩たちの創立した委員会最優先主義が間違ってるとは思いません。そのままの方がよいと思ってる人もいるはずです。でも、それだと、途中で興味を持った生徒が参加できなくなるし、一年の段階で自分の場所ではないと気付いた人が抜け出せなくなる恐れもあります。だから、あえて、俺はそうしただけです」
「後悔してねえのか、こういうありさまで」
「はい」
言い切った。「大政奉還」、そのこと自体には悔いがない。
本条先輩も戸惑った風に唇を尖らせ、もう二口、りんごをかじった。前かがみのままだった。
「お前のご立派な理想のもと、さて『大政奉還』がなったと思ったら、あっさり女子の生徒会長に乗っ取られて、あららってまに身包みはがされあらたいへん、さてそのあたりはどう言い訳する? お前なりにやることはやった、男子連中も女子連中もよく手伝ってくれた、だが肝心要の委員長を評議委員全員のまん前で否定されちまってどうする?」
「それが答えなんだからしょうがありません。受け入れます」
唇をかみ締め答えた。
「お前、最初から、どうにかしようと思わなかったのか」
「思いません。思ったとしても、委員全員の意思がそうだったし、他の生徒たちもみな同じこと考えていると思います」
「だからなおさら、考えることないのかよ!」
「何を、考えればいいのですか」
「お前が出来損ない評議委員長だというのはよくわかった。わかっているからこそ、どうしてそれを隠そうとしなかった? こういう時こそ、天羽、難波、更科の力を借りて好きなように操って、自分の居場所を守るのが当然じゃないのか?」
本条先輩はどこまで知っているのだろう? 天羽はとにかく、難波と更科のふたりが、最終投票で上総に入れなかったことを知っているのか。力を借りる由もないことをどうしてわかろうとしてくれないのだろう。
「俺がやるよりも、天羽がやったほうがすべてうまくいくからです」
「それは認めよう。あもちゃん、えらいわったく」
あっさり受け入れられると、ちくりとする。割り切れてないのだろうか。
「天羽ひとりで奮闘してるってのはよくわかる。あいつもいろいろ事情を抱えながら、まあ大変だわな。新井林の彼女とやりあうのも、天羽の方が適役だと言うのも認めざるをえねえって奴か」
独り言、「健ちゃんは全然気付いてねえみたいだがな」と、呟き、
「あの佐賀はるみって子、実はとんでもない魔女っ子だな。お前、いつから気付いてた」
「おととしからです」
思わず口に出てしまった。まずかった。
「新井林も今だに信じられねえって思ってるようだが、事実、そうだもんしょうがないわな。二股しっかりかけて、利用できるとこはしっかり利用して、そいでやりたいことをいつのまにかやりとげてく、そういう賢い女子がいたとはねえ。清坂ちゃんも相当なもんだが、あの子はその上を行くな」
否定すべきだろうか。本条先輩もやはり、佐賀はるみを評価しているという事実に、喉がひくひくしそうになる。おととしの冬、杉本がらみの問題で佐賀はるみをじっくり観察した時に感じた、ねばっこいゼリーのような感覚を、この人には理解してもらえないのだろうか。
「そういう子がいるにもかかわらず、なんでお前、警報を出さなかったんだ?」
「出す必要なんてありません。なるべくしてなったのだから、しかたないです」
「気付いてたんだろ? あの子がただもんじゃないってことをだ。もし評議委員長が『せっかく持ってる権限をお返しします』なんて寝ぼけたこと言ってたら丸ごと食っちまうような子だってことをだ。まあ、新井林の四月以降は公私ともに、ストレス溜まるだろうがその辺は心配しちゃいねえ。奴はお前よか、ずっと大人だ。ガキじゃねえ」
いつもの「ガキ」と云う言葉に、またぐさりと刺された。
「更科も言ってたぞ。『佐賀があれだけの賢い子だとわかっていたら、俺たちが二年の段階でもっと打つ手があったはずだ』ってな。『たとえば、キリコ弟と一緒に取り込んで、評議委員会をもっと守り立てるチャンスにすべきだった』ともな。そうだそうだ、キリコちゃんあの子、大丈夫か。自殺未遂だったんだな。そりゃあ、死にたくもなるわな」
天羽も難波も酷いが、更科もそれに輪をかけて残酷なせりふを吐いている。佐賀はるみの賢さを気付いて評議委員の中心として迎え入れるということは、すなわち杉本の能力自体をすべて否定することになる。実際、もう評議委員会は否定してしまっているようなものだが、あの段階で杉本を弾き飛ばすことができるわけない。
「要するにお前は、自分より賢い奴の存在には鋭く反応するが、それを利用しようとか、仲間として受け入れようとか、そういうとこまで頭が働かなかったっつうことだな。そうだろう」
「俺は、そんなこと」
言いかけた。今度は軽くぶたれた。少し力が入っていたが痛くない。
「自分より賢い奴を、味方につけて楽しく過ごすのが本来の評議委員会だろ。それになぜ気づかなかった? 天羽も、難波も、更科も、お前の判断には首をひねってた。なんで自分をあそこまで袋小路に追い詰めようとするんだってな」
「追い詰めてません、あるべき姿に戻るべきだと思ったから、そうしただけです」
「あるべき姿ってなんだ?」
息が詰まりそうだ。吐きそうだ。腹の中のりんごがぐるぐる言っている。
「本来、やるべきことをする奴が、きちんと当然与えられる場所に、行くべきだってことです」
「お前はそういう存在じゃあなかったってことか」
「はい」
「選んだ俺の立場はどうなる?」
はっと息を呑む。喉に染みる。冷たい。
「俺がお前をなぜ押したのか、それも否定するってことか?」
首を振ろうとする、でも動かない。口に出したら壊れそうになる。狩野先生も似たようなことを言っていたではないか。本条先輩を否定することになると。でも、事実なのだ、しょうがない。どんなにあがいても、自分のなりたい自分にはなれない。本条先輩のように人をひきつける力を持てない。何一つ、満足に守れない。こんな奴が評議委員長になんてなる権利なんてない。それどころか、本条先輩の側に近寄ることも許されないはずだ。
「南雲がため息ついてたぞ。あいつもお前のこと心配してだな、いいかげん評議委員会ってとこから解放してやるべきじゃねえかってな。まああいつのことだから、解放された段階でさっそくいろいろと悪さのレクチャー準備をしてたんだろうが、それもまあそれ。南雲の苦労も半端じゃねえからな」
南雲だけは上総の味方でいてくれると思っていたが、やはりそうなのか。ずしんと、心の奥が大きな石で埋もれていき、やがて感情が消えそうになる。
「もうひとつだ。お前、この三ヶ月ほど三年評議連中にとんでもないことが起こってたってのに、どうして自分のことしか考えようとしなかったんだ? こういう時こそ、指名された人間のやるべきことをすべきだったんじゃないのか? 女子同士のバトルやら、自殺未遂やら、ごたごたが起こってるのになんでお前、自分のことしか考えようとしなかったんだ?」
「それは」
責められてもしかたのないことだ。上総はうつむき、指先を見つめようとした。すでに部屋の中は闇で、カーテンなしの窓からは街頭がひとつまたひとつ点き始めていた。
「生徒会もありゃあな、ずいぶんな手を使うとは思ったが、表向きはちっとも悪いことしてないんだ、責められることはない。西月ちゃんもキリコもなあ、悪い子じゃあないんだが、あの魔女っ子後輩に勝てる器じゃあない。しかも、最初から勝ち目のない相手を敵に回そうとしてるんだから大変だ」
「勝ち目のない相手、って」
第一、先輩はどこまで気がついているのだろう? 佐賀はるみ率いる女子生徒会役員たちが、杉本梨南をしたたかに傷つけたことを知っているのか。たぶん本条先輩は杉本に関して高い評価を与えていないはずだし、大したことじゃないというのかもしれないが。
「今の天羽の彼女も、まあなんてっか、女子が好きってあまりいい趣味じゃねえな。里理の女版か。人それぞれまあよろしいが、タイミング悪すぎるなあありゃ。最初は清坂ちゃんがお気に入りだったらしいが、今度は佐賀に接近してるんだもんな」
──近江さんが佐賀さんに接近?
問い掛けたいのに本条先輩はひとり語るだけ。
「佐賀の相談事を女子の先輩としてしっかり聞いてたら、たまたま西月ちゃんに聞きつけられて問い詰められて、最後に傘で追いまわされてって展開とはな。俺も思わなかった。お前のお気に入りががっつりいじめられていると勘違いしたみたいだな。事実はひとつで、天羽の彼女が『親切の押し売りをすることによって、どれだけの人が迷惑を被ったのか反省しろ』らしいがな。天羽の彼女もかなり面白い子だが、ひとつ詰めが甘かったとこだけ指摘しとっか。つまり、人間は感情の生物だってことを気付かなかったっつうことをだ」
「感情の生物?」
「そうだ、お前がよくわかってるはずだ」
指をさっと鼻先まで突き刺した。
「人間はな、事実をありのままに告げられると、逆上しちまうってことだ。西月の場合はまさにその通りだった。天羽の読みも正しかった。口が利けなくなったのは可哀想だが、天羽の方から見れば精一杯だったろう。だがな、どんなに正しくても、言ったらすべてお仕舞いになる言葉があるんだ、わかるか」
「わかりません」
思わぬところで飛び出した西月さんの件。
問われても答えられない。知らなすぎる。
「西月の場合は、わかりやすいよな。天羽の気を惹くために別の男子と付き合って機嫌を取ろうとしてたら奴じゃあなくたってむかつくわな。学校が合わないだけで休んでいるのに、うざったく迎えに来られたらさらに消えろっていいたくなるわな。同じように霧島キリコも同じもんだ。難波に言っといた。『馬鹿を馬鹿といったら逆上するから使うな』ってな。全く効果ないようだが、しゃあないか」
全くわからないことを続ける。そして、
「お前も同じだ」
再び指を差し直した。本条先輩の眼差しが低く伝わり、ぐいと上総に刺さる。
「立村、俺が渡したものよりも、ずっとそんなに、なのか」
「え?」
問い返した。意味がわからない。
「俺と結城さんが作り上げてきたパラダイスを、なんでお前、そんなにあっさり捨てられるんだ」
「だから、俺にはそんなことできない」
「黙れ!」
言いかけた上総が、もう一度口を開こうとした瞬間、
「お前杉本のためにはそこまで、捨てられるのか!」
天井が見えた。頬と耳とが熱かった。たぶん、張り手をかまされた。
完全に暗闇の中、瞬きつづけている電灯が、窓から覗いていた。並んでいる灯りの中で窓の脇から見えているそれは、紫色の芯をちらちらさせながら輝いていた。
本条先輩の姿は見えなかった。ただ、叫んでいる。自分の身体が揺さぶられている。
「お前、前から言ってたな。杉本のことは好きじゃないとか、ただ自分と感覚が通じるだけなんだとか、わけわからねえこと言ってたな。気付かないわけねえだろ! 天羽も、難波も、更科も、他の連中も、可哀想に清坂ちゃんも、みんなとっくの昔に気付いてたってのに、肝心要のお前だけが全然とんちんかんなことばっかり言ってたからな。ああ、俺も気付いたよ。南雲もいいかげん、解放してやれって言ってたしな。だがな、お前だってわかってただろ。あの子に惚れたら最後、すべてがなくなっちまうってな」
「そんなんじゃないです!」
「黙れ! もう聞き飽きたぞ、『好きなんかじゃなくて』って言い訳はもうたくさんだ。他の連中の話を聞いて、どっちの方向から見たところで、答えは一緒だ。『立村が杉本に恋焦がれてすべてをなくしちまった』ほら言ってたな、お前の母さん関係の日舞だったか、それにあるいわゆる『二人椀久』ってのか? 惚れた女に入れ揚げて、座敷牢に閉じ込められて、気がおかしうなっちまって妄想の中で女を追っかけるっていう、あれだ。わかるか、お前、まさにそれなんだ。気がついてねえだろ」
「それは違うんです!」
自分でも驚くほどの声が出た。戸の向こうで耳を澄ませる気配がする。里理さんか。
「ごまかすな! 俺も杉本みたいな子は本当言うともっと誰かが面倒見てやるべきだとは思う。思うが、それは大人の領分だ。お前なんかそんなことしようとしたら最後、せっかく手に入れた評議委員会も、味方になりそうな連中も、お前のことをめちゃくちゃ惚れてくれている清坂ちゃんも、みんな無くすってわけだ。それくらい、お前も気がついてただろ?」
「だから、好きとかそういう感情じゃ」
「黙れ黙れ黙れ!」
床に押し倒された。足をばたつかせたが本条先輩の腕力には勝てない。自然と涙があふれた。押さえつけられたまま、真上に本条先輩の黒っぽい輪郭を見た。息だけが臭い。
「お前は気付かなかったかもしれないがな、杉本のいることでお前の様子がだんだんおかしくなってってることに、早い段階でみな気がついてたんだ。俺だけじゃない。結城さんを始め上の連中がな。お前が杉本をいったん、評議委員長にしたいなどと寝ぼけたこと言い出した時には、世紀末かと思ったが、すぐに現実が凌駕してくれると思ってたし俺はなんも言わなかった。新井林の腕を見てたら勝ち目ないのは見え見えだったからな。お前も杉本のことをあきらめて、素直に受け入れてくれたもんだと俺も甘く見てたのが失敗だったってことだ。もうお前、杉本の存在自体が、逆上しちまうそのものだったんだな」
「だからそんなんじゃ」
「これ以上口利いたら、今度は頭を床に叩き割るぞ」
浮き上がらせて、とんと倒した。
「俺が命賭けて作り上げたもんを女に狂ってぶち壊しやがって!」
「狂ってなんかいません!」
上総の訴えも聞き入れようとしない。本条先輩の腕らしきものが、何度もぶるんとゆれる。
「そんなにお前は評議委員長に指名されたくなかったのかよ、周りの連中がお前をバックアップしようとして懸命だったのも、迷惑だったのかよ、もういじめられないですむようにって他の連中が応援してたのも、すべて、処分かよ!」
何を言っているかわからない。力が抜けた状態で、上総はなるがままになっていた。
「完璧に、俺の読み通り、立村、お前は青大附中で万人に認められる評議委員長になるはずだったってのに、なんで、そうならなかったんだよ! これ以上お前、小学校の頃みたいにおどおどして泣いてたいのか! 完璧にガードを固めて、俺の教えられることは全部注ぎ込んで、清坂ちゃんみたいな可愛い彼女もいて、もう二度とお前はあの頃に戻らないですむはずだったんだぞ! なんでだよ、なんでお前、よりによって素っ裸になっちまった? 貯めてた貯金全部使い果たして、それでもまだ、杉本を追っかけるのか? 今は他の男しか見てないあいつを、なぜお前、そこまでして追っかける?」
「だから俺は、そんな意味で、恋愛とかそういうんじゃ」
声を絞り出した。どんなことがあっても認めてはならない。杉本への気持ちが「恋愛」なんてものではないと。それだけは誤解されたくなかった。あっさり否定された。
「お前はここまで堕ちる男じゃねえんだぞ! ここまで惨めに成り下がりやがって、そんなことしてまで杉本を追っかける気持ちがだ、どうして恋愛感情じゃないって言えるんだ? ふざけるな! お前の辞書ではどう書いてるかわからんがな、ナポレオンの辞書を含めてみな、俺たちはそういうのを、『女に惚れてる』っていうんだぞ!」
本条先輩の言葉はところどころ途切れていた。
「そっか、お前の地雷は、杉本に惚れてるってことか。そういやあ前から、付き合うとかなんとかいうと怒ったよな。じゃあなんで清坂ちゃんを捨てて杉本と付き合おうとしなかったんだ? 杉本がお前なんか興味ないからか? 興味もってもらえないならせめて追っ払われない距離にいたいからか? それでお前は優柔不断とか言われてるわけだ。こんな惨めな思いをしてまで、杉本が欲しいのか」
ふと、腕が緩んだ。静かに上総を横に寝かせた。
「それとも、それがほんとの、お前の欲しいものだったのか」
ぽつり、一言ずつ、かすれた声だった。
「俺が用意したものより、杉本ひとりが、そんな欲しかったのか」
首を振ろうとした。闇の中、本条先輩の表情は読み取れない。ただぺたっと、座り込んでいるのだけが伝わってくる。
「俺は、間違ってたのか」
本条先輩が背を向け、じんわりと何か呟いているのが聞こえた。ただその意味はわからない。横たわったまま、上総はそのシルエットを追っていた。
静かだけど、まだ頭は混乱している。本条先輩の発した言葉と荒れ狂わんばかりの揺さぶり。まだおさまらない涙が、まだ流れてくる。どうして泣いてしまったのだろう。本条先輩の前では死んでも涙を流したくなかったのに。
「先輩」
そっと声をかけた。返事はなかった。上総は身を起こし、もう一度正座した。
「先輩がそう思うなら、思っていいです」
まだ目じりに溜まるものを手の甲でこすった。
「ひとつだけ、最後に教えてください」
「最後、だと?」
声がとがっていた。上総は頷いた。きっと本条先輩は気がついていないだろう。慌ててつないだ。
「先輩はすべてご存知だから、余計なことはもう言いません。ただ、一つだけ教えてください。俺が卒業した後、杉本をどうすればいいですか。どうしたら、うまく青大附中の生活を乗り切らせることができますか」
無言のまま、黒いシルエットが揺れた。
「そんなの知るか」
「俺の頭ではいい方法が思いつきません。もうこれ以上俺は本条先輩に頼つつもりはないし、今日で最後にするつもりです。ただ、卒業までにどうしても、杉本のことだけは俺なりにきちんと決着をつけます。これ以上評議委員会を混乱させるつもりももありません。それだけどうか教えてください、お願いします」
「お前、認めるのか」
動かないシルエットのまま、本条先輩が問うた。
何を認めろというのだろう。
何を、どう、受け入れろというのだろう。
「教えてやったら、お前は杉本におぼれてること、認めるのかって聞いてるんだ」
静かな響きが部屋の中に染み渡った。ふと、気がつくと頬のところにストーブの温みが広がっていた。そういえば本条先輩はさっき、「点火」までレバーを回した後、通常の「中火」に直していないはずだ。がんがんに燃えているはずだ。
──認めれば、教えてくれるんだろうか。
そのために来たのだ。すべてのプライドを捨てる覚悟で来た。最後の最後に残っていた、尊敬する人の存在すら抹消するために、ここに来た。
「その通りです」
だから答えるしかなかった。喉が詰まった。