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第三部 14

第三部 14


 まずは、波乱のきっかけを訊ねなくては。沈黙が長く続きすぎると、身体が氷柱になってしまう。

 横たわったまま果てている南雲を横目に、上総は斜め方向を向いたまま質問した。

「先輩と一緒に歩いているところを見られたのか」

「まあ、そんなとこ。厳密に言うと、向こうもすいと歩いていたからおあいこ」

 ──そういう問題じゃないと思うけどな。

 胸に納めるべき言葉は納め、上総は短く問うた。

「ばったりってわけか」

「そう。水菜さんが気を利かせてフォローしてくれたんだけどさ、やっぱりそろそろこれはまずいんじゃないかって思って、俺なりの判断で彰子さんを呼び出したってわけ」

 ──それならやっぱり、さっさと別れるつもりだったんじゃないのか?

 上総にはどうも解せなかった。

 すでに南雲は中学三年・夏の段階で奈良岡に対して愛想尽かしをしていたはずだ。もちろんいろいろなからみもあって、卒業まではこのままにしておこうという考えはあったかもしれない。しかし、もう卒業間際だ。奈良岡は青潟を離れる。南雲は自由になる。それならば、それでわりきっていいのではないだろうか。若干トラブルが発生するかもしれないけれども、そこは南雲なりにうまくごまかすこともできるだろうし。少なくとも後腐れなくことはすむはずだ。

 ──なんでこんなに落ち込んでるんだろう?

 謎だった。

 気持ちの残らない相手に浮気現場を見られたからといって、そこまで脱力状態になるものだろうか。目の前で転がっている南雲ときたら、見るからに人生終わったような顔をしている。放置しておいたら干からびてしまうんでないかと思うくらいに。

 あえて奈良岡彰子の話題を振らず、上総は水菜さんについていくつか訊ねることにした。

 話は時折出ていた人ではあるけれども、実際に存在するのかすらあやふやな存在だった。南雲の本命とは言うけれども、中学一年の頃に一度付き合いその後自然消滅してしまった関係、それが縒りを戻すのならば相当な理由があるのだろう。

「彼女は、何か言ってたのか?」

「『気にしなさんな』って、頭、ぽんぽん」

 南雲の狼頭をぽんぽんする、女子高生。なんだか想像すると笑える。思わず笑いを噛み殺した。

「それなら、もともとそういう関係だったってこと、知ってるのか」

「知ってる。俺、全部話したもん」

 南雲は大の字に寝そべった。寒くないのだろうか? 気になる。身体を縮こまらせている上総ですら、足先、指先が凍りそうだというのにだ。

「うちの事情もさ、いろんなこともさ、ぜーんぶ、しゃべってる」

「それなら、かなりいろいろと知っているってことなんだな」

「そ、ほんっと、この半年で俺と水菜さん、裏表全然ない付き合いしてる」

 ──だから、かえってよかったんじゃないのか。

 やはり納得いかない。水菜さんの話で少し光が差してきたような口調も、すぐにかちんと凍る。たとえば池の水面に映った太陽が光り、また曇る、そんな感じだ。

「でも、それならいいきっかけだったんじゃないのか」

「だよなあ、俺もそう思ってたんだ。だから、呼び出したってわけ。さっさと本当のことしゃべって、そのあとで今までありがとうって言うつもりでいたんだ、俺なりにさ。そしたら、あの笑顔満開な顔でさあ」

「羽飛が好きだと言われた」

「そういうこと。よりによってだぜ? 俺と奴との関係をよく知ってるはずの彰子さんがだぜ? これって嫌がらせとしか思えないだろ? 俺もそう思ったよ。思ったけどさ、話聞いたら全然そんなことなくってさ。俺、撃沈しちまったってわけ」

「嫌がらせじゃない?」

 ますますわからない南雲の言い分。奈良岡彰子の性格を考えると、今までやさしくしてくれた南雲へ感謝を込めて、あえて振ってあげただけと考えた方が自然だ。しかし、そう考えるとさらに謎が深まる。

 ──なぜ、羽飛なんだ?

 奈良岡彰子という人はもともと、ぽっちゃりふっくら一重瞼のお嬢さんで、性格もまんまるの笑顔と愛嬌の持ち主だ。よっぽど女子趣味の悪い男子でなければ、きっと嫌いにはならないだろう。誰にでも明るく呼びかけて、落ち込んでいる子がいれば近づいていって肩を抱いて慰めて、その一方で笑顔満開に周囲を和ます。今まで上総の知っている限り、奈良岡彰子に悪印象を持っているのは三年C組の女子一部と、杉本梨南くらいだろう。三年C組の女子集団に関しては、単に南雲の恋人というやっかみ感情が殆どだが、杉本は奈良岡の性格そのものをすべて「白々しい」と看破している。恐らく周囲からは「お前の方が心ゆがんでいる」と斬られているだろうが、上総には杉本の感じるものがなんとなくわかる。

 ──いい人だから、悪い人の気持ちが、きっと永遠にわからないんだろうな。

 いじめられたらかばうこと、それは正しい。

 でもあえてかばわれたくない子の気持ちはきっと彼女に理解できないだろう。

 「お願い、ほっといて」そう冷たく答えたくなる人間の感情が存在することなんて、わからないだろう。

 それがいいとか悪いとか、そんなのはどうでもいい。上総はただ、ほっといてほしい時に百パーセントの想いでほっといてくれる人の方を選びたい、それだけだ。

 ──ほっとかない主義の羽飛なら、確かに合っているかもしれない、けどさ。

 でも、なぜ、羽飛貴史なんだろう。

 南雲とは三年来の天敵、一年時の宿泊研修夜からトラブルが発生していることを上総は聞き知っている。いまだに三年D組の男子グループそれぞれの首領としてメンチきり合っている状態は、卒業まで続きそうだ。

 奈良岡彰子ももちろん、そのことは知っているはずだ。

 なにせ、南雲にとことん愛されていたはずの、彼女なのだから。

 それをあえて敵方の羽飛に走るとは。

「なんで、羽飛なんだろう」

 思わず唇から洩れた言葉を、南雲が拾うように指先でつまむ真似をした。

「彰子さん曰く、入学式からの一目ぼれだったらしいんだよなあ。俺の出番、最初っからねえ」

 どうしてこんなにぺらぺらしゃべりたがるのか、南雲は逐一丁寧に説明しだした。天井が相変わらずみしみし言うのは、どこかで誰かが聞き耳を立てているのだろうか。そんなわけ絶対ないからこそ、上総は頷いて聞いた。


「俺が彰子さんに、目、つけたのは入学式の時だったっての、りっちゃんにはしゃべったろ。けどさ、たまたま彰子さんは羽飛と隣り合ったかなんかしてたんで、一発で好みだって思ったらしいんだ。今思えば、って言ってたけどなあ。けど、小学校の男子連中がファンクラブをこしらえるような状況においてだよ、そんな意識できる状態じゃねえってことで封印しちまったらしいんだあ」

 そんなのよく記憶しているものだ。女子の認識が上総にはよくわからない。黙って聞いた。

「そのうちさ、彰子さんと水口がふたりで勉強し出しただろ。家庭教師とかいう名目でさ。彰子さんち、いろいろ家庭の事情があるんだけど、水口の父ちゃんが彰子さん一家の人柄に惚れてなんとしても息子と同じ高校に進学させたいって、奨学金出すって話をし出したんだって。すげえよな。で、受けてみたら受かっちまったと」

 それは知らなかった。単純に奈良岡は母の眼科病院を継ぐために進学するのだと思っていた。もちろん修学旅行時の大事件は知っていたけれども、それ以上の関心は持たなかった。

「まあ、水口やその他のみなはんたちと話しているうちに、彰子さんもいろいろ考えるところがあったみたいでさ。自分が青大附属でやりのこしたことがないかどうか考えてたら、あらら、本命が羽飛だったってことに気付いちまったってわけ。彰子さん、丁寧にぜーんぶしゃべってくれたよ。隠せよ、おいってつっこみたくなるくらいにさ」

 水に浮かんだ太陽がすぐに雲で覆われた、そんなため息ふたつ。

「彰子さんのやり忘れたことってのは、大好きだった羽飛に告白することだったんだってさ」


 ──羽飛に告白ったって、でも、あいつの趣味は鈴蘭優だろ?

 ますますわからない。貴史の女子趣味が三年間全く変わっていないことを上総は知っている。大親友と銘打つ美里は例外としておいても、女子のタイプはひとえにアイドル・鈴蘭優ひとすじ。過去三年間、「羽飛先輩、好きです!」コールを何度されたかわからないが、全部振り切っている現実を、奈良岡彰子が知らないわけないだろう。

「鈴蘭優に勝とうとした、わけないよな」

「そりゃあ、ああた」

 南雲は口をぱっくり開けて笑った。いきなり咳き込んだ。

「彰子さん、言ってたよ。付き合うとかそんなのどうでもいいんだってさ。まずは言いたいことを全部伝えて、すっきりしたいだけだってさ」

「じゃあ、振られること覚悟で?」

「それも全く問題外。彰子さんはただ、『好きです!』を伝えて、それで完結させたいみたいなんだよなあ。女子って考えてること、さっぱりわからねえ」


 ──いや、そういうことなら、なんとなく。

 不意に蘇った記憶。

 修学旅行四日目、朝。

 ──私は立村くんのことが好きなの。ただそれだけ。付き合うとか付き合わないとかどうだっていい。

 轟さんが、前歯を少し剥き出しにして言い切った時の記憶だった。

 あの時以来、轟さんは上総に恋愛的なにかを一切求めてこなかった。

「あのさ、なぐちゃん」

 上総は恐る恐る自分の意見を発することにした。

「きっと奈良岡さん、誰も傷つけたくないんだよ」

「へ? 俺もう、ハートブレイクずったずたなんですけど」

「誰にも、重たいもの、残したくないんだよ。付き合うとか付き合わないとか好きとか嫌いとか、そういうもんじゃなくってさ」

 もう一呼吸。喉がかすかにひりっときた。

「俺が羽飛の立場だとしたら、伝えられただけでそれ以上のもの何にも求められない方が、気楽だし、助かるよ。それになぐちゃんだってさ、もう、関係ないってことになってるならそれの方が楽だろうしさ」

「思いやり、ってことか?」

「さあ、俺にはよくわからない」

 わからない、と口には出しておいたけれども、上総なりの答えは出ていた。

 はたして奈良岡彰子が、永年の恋人だった南雲に対してどういう感情を持っているかは判断しかねるけれども、少なくともA組恋愛事情のような修羅場にしたいと思っているわけではない、それだけははっきりしている。同時に、気持ちよく卒業できるような形を、自分なりにこしらえておきたい、そういう思いやりも隠れているような気がする。

 頭の中だとどんどん湧き出る言葉が小さく固まっていってしまう。口に出すだけ出してみよう。


「まず、相手がなんで羽飛なのかってことだけど、これはすべて俺の憶測だけど」

 いったん断った後、思いつくまま並べた。

「たぶん、あとくされがない奴だからじゃないかな。一番自然なのが水口とか、そのファンクラブの連中とか、そういうラインだろうけれど、もしそうなったらあとあとやっかんでしまうというか、トラブルになりやすいというか、そういうのが、あるんじゃないかな」

「やっかみ?」

「そう。羽飛だったらまず、奈良岡さんがタイプじゃないことくらいみな知ってるし、もし話を持っていったとしてもすぐに『俺は鈴蘭優一筋だから』の一言で終わるだろうし」

「鈴蘭優、ねえ。ロリコンとしか思えないなあ」

「その辺の事情はノーコメント。羽飛の性格を考えると奈良岡さんをずたずたに傷つけるような振り方はしないし、たぶん普通の友だちとしてうまく流していけるんじゃないかって気がするんだ」

「そうなのか?」

 疑問ありげな口調だが、もともとの天敵同士なんだからしかたない。

「奈良岡さんもそのあたりをまず考えたのと、あとなぐちゃん、個人のこともそうかな」

「だからなんでそんなことする必要あるんだよなあって」

 このあたりも憶測のみ。そ知らぬ顔で上総は続けた。

「たぶんだけど、奈良岡さんはなぐちゃんに高校生の人がいる以上、その人と仲良くしてもらった方がみんな幸せになると判断したんじゃないかな。だって、大切な友だちだとか言ったんだろ? 俺には少し理解しがたい思考回路だけど」

「理解しがたいって一体なんだかなあ」

「とにかく、みんなが仲良く、誰一人落ちることなく、暖かい気持ちで卒業式を迎える方法として、奈良岡さんはすべて計画し、なぐちゃんに自由になるよう、プレゼントしたって考えた方が、俺としては自然だな」


 ──自由。

 どれだけ渇望しても、なかなか手に入れにくいしろもの。

 上総が何度も求めても、結局あいまいなまま手をぶら下げるだけにとどまったしろもの。

 はたして奈良岡彰子の頭の中に何がうごめいていたのかはわからない。現場で何が起こったのかも見ていないのだからしかたない。上総が記憶しているものは、今目の前で南雲が、思わぬ伏兵に元恋人を奪われてしまったと、頭を抱えている姿のみ。

 どうしてとっくの昔に心の離れた恋人を追いかけたがるのか、正直、上総にはわからない。

 ただ、それが、急所蹴り一発食らわれた以上の衝撃として、南雲に残っていることだけは、痛いほど伝わる。

 ならば、せめてある程度の救いを見出すことが、上総にできる唯一の行動ではないだろうか。人一倍、感じなくてもいいことばかり感じてしまう自分が、大切な友だちの闇に手を伸ばす、たったひとつのやり方ではないだろうか。決してずかずか入り込み慰めあうのではなく、自分なりに見出した答えを、告げるのみ。


「だからなぐちゃん、今から水菜さん? その人と連絡取って、のんびりすればいいんじゃないかな。そんなに話をし合っているんだったら、かえってそれの方がいいだろうし」

 ──それに、たぶんそういう関係なんだろうし。

 南雲は首だけ上総の方に回した。背を向けたままの上総も、ほんの少しだけ顔が向かい合うように座り位置をずらした。

「まあなあ」

「もしあれだったら、今日これから、街に行くの付き合うよ。俺は見てるだけだけど」

「街?」

「ほら、正月に行ったとこ」

 屈辱の過去だが、今の上総には無理にそこへ顔を出してどうのという気はなかった。

 そんな手間のかかることするくらいだったら、暇見つけてE組に出かけて杉本梨南を捕まえ、話し掛けている方がずっと楽だ。

 ──きっと、それなりに楽しい過去だってあるんだろうし、そこで気を紛らわせるのも。

「りっちゃん、あのさ」

 しばらく黙ったまま、南雲は足を数回、ばたばたさせた。口を切った。

「やれるんだったら、やってるけど、やれないから、こうしてるわけ」

「やれない?」

 かなり露骨な言い分に、上総は全身、南雲に向けた。

「そ、やれないの」

「なんで」

「やったら、病人増やしちまうから、やっぱし、それはまずい」

「病人ってなに」

 南雲はいきなり身体を起こし、片膝を立て、早口に口走った。

「早い話、そっちの病気、持ってるわけ。ストレス解消、しようがねえよ、ったく」


 言われている意味が最初、全くわからなかった。

「そっちの病気って、何かまずいのか」

「やることによって相手に移してしまう可能性大、ま、命には別状ねえけど、女性には確実にやばい置き土産、やっちまうからなあ。りっちゃんも保健体育、やったろ」

「置き土産? 移す? 保健体育?」

「本条さんにもさ、早く病院行って来いって言われてるけどなあ。やっぱし、やだろ。あすこもろに医者に見せて、弄繰り回されて、すっげえ痛い思いするらしいしさあ」

 指差した後、南雲はまた膝を素早く引っ込めた。

「どういう事情にせよ、俺はこれ以上、どうしようもないってわけ」

「ちょっと待て、つまり、そういうことか」

 南雲の明るい口調がそぐわなすぎる。上総は声を潜めた。天井の雪による軋みにも、聞かれたくない。たどり着いた答えを口に出すだけ、出してみた。

「いわゆる、性病って奴か? まさか、梅毒とか、淋病とか、そういう奴か?」

 答えが返ってこない。上総はもう一度天井を見上げ、白い息を吐いた。


 もちろん保健体育の性教育部門はしっかり勉強している。青大附属の保健体育は他の中学に比べてかなり深いところまで……たとえば、行為の方法うんぬん……しっかり試験に出すし、性病に関する問題も学ぶ必要がある。照れもあってなかなか友だち同士でも口には出さないが、なんてったって上総にはその手の話には大先輩たる本条里希がいる。当然、具体的な事情や話題も、こちらが求めなくても出てくるわけで、上総は自然とその手の話を耳にすることが多かった。それはよい。いいことだ。

 しかし、話と実際とは、違う。

「なぐちゃん、非常に聞きづらいんだけどさ」

「いいよ、なんでも聞いてみ」

 開き直っているのかどうかわからない。南雲は他人事のように頷いた。当然、いつものさらっとした笑顔なんてない。

「鼻とか、耳とか、大丈夫?」

「なんで?」

「いや、あの、崩れてないからその辺が」

「りっちゃん、いきなりすごい想像してるなあ」

 膝を叩いて笑う南雲。首を振った。ふんわり顔が和んだ。

「そんなことになってたら、俺、とっくにここになんていないじゃん」

「それから、やたらと、痛いとかそういうのもないのか? ほら、なんというか、膿がつくとか、なんとかって」

「ああそれも大丈夫、ってか、やたらと小便する時、ちょこっとひりっとするだけ。ちょっと前まではまあなんかな、ってとこあったけど」

「いつくらいから?」

 南雲は指をくわえるようにして目をあちらこちらにさまよわせ、

「修学旅行の後、かなあ」

「ってことはかなり前じゃないのか? まだ、その状態が続いてるってことだろ?」

「うーん、そうだけど、原因はわかってる」

 とりあえず一番怖い、梅毒でないことは判明した。ちなみに保健体育の教科書には、鼻が露骨に変形した、目を隠した顔写真が掲載されていた。あれは怖かった。

「原因って?」

「ちょいとはめはずしちゃってさあ。修学旅行の後さ、ばあちゃんが死んじまって、ちょっと、ストレスたまってたってのもあってさ」

 不謹慎なことを言うものだ。だけどもう半年以上経ったのだし、南雲を可愛がっていたばあちゃんも許してくれるだろう。見た目にはそれほど衝撃もなく、葬式の際も笑顔だった南雲だが、やはり、くるものはあったのだろう。責めることはできなかった。

「ま、あれが初めての経験だったもんでさ。なっさけねえことに。ついつい味しめちまったのが今思えば、まずかった」

「相手は」

「知らん。どっかのOLさんか女子大生か、わからねえ。顔も覚えてねえもん。ただ、その後片手の指以上の女の人と、ってのは、やっぱしなあ」

「そんなのって、そんなにって」

 こういう時の反応を、どう返していいのか上総にはわからなかった。 

 南雲がすでに女性経験を済ませているのは知っていた。相手が奈良岡でないことは確信していたし、たぶん水菜さんか街の年上女性だろうとは思っていた。しかしシュチュエーションまでは聞いていなかった。時期も子細は聞いていない。祖母の死で打ちのめされた南雲が、自暴自棄になったとしても、不思議はない。ないがしかし。

「……そのこと、誰か知ってるの」

「かの大先輩にご相談」

「本条先輩か?」

 南雲は頷き、股間を軽くはたくようなしぐさをした。

「どうも思い当たる節があったみたいでさ、思いっきりここんとこ殴られた」

「急所を狙われたのか」

「まあ、無事。ちゃんと仕事はしてくれる」

 ──仕事かよ。

 頬がてらてらしてくるのを覚えた。念のため確認したい。

「もう、することないのか」

「できねえよ。自覚症状あるのに、罪もないおねえさんたちに病原菌撒き散らせませんわな。あとはずうっと自家発電。あ、もちろんちゃんと手を洗って消毒してまっせ。やはり人間として、まずいしねえ」

 ──やっぱり、なぐちゃんは、いい奴だ。

 上総は肩で深く息を吐き、少しだけ口元をほころばせた。釣られて南雲もいつものさらりとした笑顔を見せてくれた。


 しかしだ。

 ──それって、半年間放置しておいて、いいのか?

 過去に学んだ保健体育知識をひっかきまわしてみる限りだと生命の危険を脅かすものではない病気らしい。もし鼻がもげるような状態だとしたら、こうやって笑っていられるわけがない。南雲の性格を考えてもそれほど大事件だとは思っていないようすだ。

「病院、行ったの」

 重たい雰囲気ではないので、軽く訊ねられた。

「やだよ、行けるわけねえもん」

「そういうのって、どこで見てもらえばいいんだろうな。いや、別になぐちゃんのこと責めてるわけじゃなくて、俺自身も今後、そういう時どうすればいいかな、とか思って」

「泌尿器科行けって本条先輩言ってたよ」

 ──本条先輩も言ってたのかよ!

 あの本条先輩が勧めるくらいだ。上総は絶対的確信を得た。

「なぐちゃん、余計なこと言ったらごめん」

 冷たい空気を口の中で少しだけかみ締め、はっきり伝えた。

「病院、行ったほう、絶対いいと思う。本条先輩の言う通り」

 南雲はまじまじと上総の顔を眺めり、今日何度目かのため息をまたついた。

「なにされるか知ってんの、りっちゃん。もろ、見られるんだぞ。いじくりまわされるしさ、薬飲まされるしさ、それに、金かかるしさ」

「どのくらいかかるの」

「わからねえけど、一万以上かかるんじゃねえかなあ。俺、そんな金、ないんだよなあ」

「保険証使えば」

「りっちゃん、保険証の裏にもろ、『泌尿器科』って判子押されるしさ、なによりも今切実なのは、俺、うちのどこに保険証しまってあるのか、わからないんだわ、はああって感じ」

 ──そういうことか。

 腑に落ちた。当たり前だ。風邪と同じ感覚で、親に保険証貸してもらえるような状況じゃない。

 次にため息を吐いたのは上総だった。

 上総の家では、いつでも保険証を取り出して病院に駆け込めるよう、置き場所もきちんと決まっていた。母がいた頃はそうでもなかったのだが、現在男二人暮し、しかも上総のようにしょっちゅう熱を出してはひっくり返っている場合、父がいない時に万が一のことがあっては大変だ。両親の了解のもと、かならず保険証を居間の食器棚引出し二段目に納めてある。しょっちゅうお世話になっているものだから、保険証の裏は見事に判子の羅列である。もっとも泌尿器科が載ったことはなく、ほとんどが内科・消化器科だった。

 しかし南雲の場合、親が保険証をしっかり管理しているわけだから、本人が理由を告げて貸し出してもらう以外に方法はないはずだ。もし上総が南雲の立場だったとしてだ。まさか「どうもあすこが痒いんで、検査受けに行ってもいいっすか」なんて聞くことが普通できるだろうか? 一発二発どやされるのは覚悟としても、「どうしてそういうことになってしまったのか?」と問われた場合、見られたくない過去がぼろぼろ湧き出てくるわけだ。

 ──そりゃ、知られたくないよな。

 だけど、このまま南雲が知らん振りしつづけるのも、やはりあまりよくないような気がする。女子たちのように「早く行きなさいよ!」とわめくのは上総の趣味じゃないし、かえってむかつかれるのが関の山だ。だが、やはり知ってしまった以上、いい方法をつい探してしまう。男子のプライドを損ねないようにして、お勧めする方法は。

 白い息に浮かんだ思いつきを、上総はふんわりと言葉にした。


「俺のうちにある保険証、なぐちゃん、貸そうか?」

「貸すって、おいおい、いったいなんざんすか」 

 ふざけてごまかそうとする南雲に、そのままほわりと上総は続けた。

「うん、なんとなく思いついたんだけど、俺の父さん名義の保険証、今すぐ持ってこれるから、使えばいいかなって。どうせ裏は病院の判子でいっぱいだし、ひとつかふたつ泌尿器科が入ってても、ばれないよ。それに、もしばれてももう俺、この学校で札付きだって証明されてるから、父さんに張り倒されるだけですむし。そのくらい、慣れてるから」

「それって思いっきり法律違反だと思うなあ」

 さらにふざける南雲に、上総はそのまま頷いた。

「思うけど、使い物にならなくなる前に直した方が、たぶん、高校入ってからストレス溜めずにすむよ。もう何も気遣いする必要なくなったんだし、やりたいこと、したほうが楽じゃないかなって、ちょっとだけ思ったんだ」

 

 南雲はしばらくけげんな表情をした後、茶室入って以来の満開な笑顔を浮かべた。

 いきなりだった。雪の中から桜の花がいきなり咲き乱れたようだった。


「りっちゃん」

 立ち上がり、膝と尻を払うようなしぐさをした。上総の隣にしゃがみこんだ。

「ありがとさん」

 また、今度は甘えた風に首を傾げた。いきなりの幼いしぐさに上総は戸惑った。顔に見入るだけだった。背中に回って来て、いきなり肩をぽんぽん叩いた。

「本条先輩にも、りっちゃんにも言われちまったら、やっぱし、年貢の納め時ってとこっすか」

「いやそんなこと言ったつもりじゃ」

「法律違反をりっちゃんにさせるわけには、やっぱりいかないなあ。規律委員長としてはさ」

 まったくその肩書とは似合わない口調で南雲は続けた。

「やっぱしそろそろ、いろいろまじいかなと思ってたんだわな。けど、りっちゃんのお言葉で覚悟、ついたってとこで」

 立ち上がり際に靴を持ち、膝のところでまた払った。

「うちの親に、保険証請求することにする。決心、たった今、ついた」

「決心って、けど」

「いいのいいの、りっちゃん、いいの」

 なんだかかえって上総が余計なことをしてしまったような気がしてきた。一番自分でされたくないことを、よりによってなんで南雲にしてしまったのか。頭がぐるぐるする。頬が火照ってくる。首を振って上総も、後追い立ち上がろうとした。手を差し伸べられた。ぐいとひっぱられ、しっかと立った。

「感謝、感謝、サンクス」

 小さい声で南雲は床に向かって呟き、ゆっくり顔を挙げるとささやいた。

「りっちゃんがもどってきてくれて、よかった」

 もちろん、笑顔は満開のままだった。凍り付いて今にも雪に押しつぶされそうな茶室の中で、桜吹雪が南雲に降り注いでいる幻を見た。南雲がその苗字の通り、まだ青潟にはたどり着かない桜前線を、苗字で背負ってこの茶室に持ち込んでくれた、そんな気がした。

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