第三部 13
第三部 13
美里は本当に、上総を放っておいてくれた。
約束した以上は三年D組の教室に入らねばならないし、それなりの覚悟もしていた上総だった。どんなに美里が「立村くんはいるだけでいいの」と言ったところで、そうは問屋が卸さないだろう。あれだけ騒ぎを引き起こし、最後には下品きわまるやり方で古巣の評議委員会をひっくり返した張本人。担任、およびクラスメートの思いやりも受け取ろうとせずに引きこもる哀れな元評議委員長。こんな奴を誰が受け入れようと思うか。そう聞きたい。
そして、実際その通りだった。
誰一人上総には声をかけてこなかった。
そっと教室に足を踏み入れた時、誰ひとり、上総に視線を向けてこなかった。
びくつきながらもそっと、かつての自分の席に座り、隣の古川こずえに、
「悪いけど、ちょっと私の英語のプリント、目、通してくれる? 一応今日提出しなくちゃなんないんだけどさ、英語科進級用の補習用なんだけど。立村が問題ないって言うんだったら、そのまんま出しちゃうつもりなんだけどね、ほら」
下ネタとは全く関係のない話題で声をかけられた。それだけだった。
反対側の隣席には南雲がやってきた。
「りっちゃん、おはよ。俺も悪いけど、英語の訳、今日あてられてるんだ。見てくんないかなあ」
単純に英語翻訳機としての活用のみ、してくれた。本当に、それだけだった。
「わかった。順番でやってく」
上総はこずえの差し出したプリント内容を瞬時に読み取り、いくつかの間違いをシャープペンですぐに訂正した。赤ペンなんて使わない。次に南雲の差し出したノートを指でなぞり、半分以上の文章を訂正した。もちろんこちらもシャープペンだったのだが、
「いいよ、りっちゃん、ボールペン使って。それの方が俺、見やすいし」
「じゃあそうするよ」
筆入れから赤ボールペンを取り出し書き込もうとして、インクがかすれていることに気が付いた。まだしっぽまでインクが入っているというのに。何度かノートの端でとんとんペン先を叩いていたら、今度は一気ににじみ、赤い染みをこしらえた。
「なんか、やらしいよね、まるでさ」
目ざとく見つけたこずえは、にんまり笑って赤い点を指差すと、
「ロストバージンの後のおふとんって感じだよねえ」
いつもの調子で漫才をかましてきた。とてもだが答える気分ではない。南雲がかわりに受けてくれた。
「俺たちも成長したっすねえ、姐さん。なんてったって、これが初めてのお赤飯ではないってとこが、みそっすよねえ」
ありがたい。言いたいことはよくわかる。こずえも満足げに南雲の肩をぽんぽん叩き、
「実戦経験、ある奴はやっぱり、わかるよねえ、南雲はあんた、やっぱし大人よねえ。立村、あんたも少し見習いな」
結局はいつもの「朝の漫才」になってしまった。上総は両方に視線をさっと流し、無言で濃く赤ペンを入れ始めた。
美里は、本当に一切話し掛けてこなかった。
さすがに貴史が物言いたげに上総の席へ近づいてこようとするのだが、無意識に身構えてしまうのがわかるのか、
「貴史、あんたちょっとこっち来なさい」
ぴしりと美里がすぐに止める。
「なんだよ、お前何もなあそんな腫れ物に」
「だまらっしゃいっての!」
平手で肩をはたき、美里が素早く貴史の側に近寄り、自分の側に座らせる。
「わかったわあった。ったくなんだよなあ」
上総をちらりと見やると、肩をすくめそれでも素直に天井を見上げ、美里の言う通り話を聞くそぶりを見せた。
心臓の音が少し、穏やかになるのがわかる。
ボールペンの先が少し、固くなっているのか、力が入っている。
「はい、これできた」
まずこずえにプリントを渡し、次に南雲へノートを押しやった。
「サンキュ。いやあん、こんなに一杯間違ってたってわけ?」
「俺が間違ってるかもしれないけど」
こずえは頭をかかえる真似をした。秋に比べるとだいぶ伸びた髪の毛を、つんつん自分でひっぱった。不ぞろいだ。
「なんかねえ、毎日、こうよね。英語科ってたかが英語の点数それなりに取れた奴がいくとこだと思ってたけど、こんな補習地獄に陥るなんてさ、私も思ってなかったよね」
「毎日、こんなプリント出るのか?」
上総は尋ねた。E組に逃げ込んでからというもの、それなりに課題のプリントは渡されていたけれどもそれほど難しいと感じなかったから負担には思わなかった。例外、数理系のものもあるが。反対側で南雲も両手を合わせて、
「りっちゃん、あんがとさん。俺も古川のねーさんと一緒で、ただいま英語の地獄体験旅行中」
「あんたはそれだけじゃないでしょうがね」
「それはまあそうっすが」
けらっと笑い、南雲は素早くノートをしまいこんだ。四角いものを取り出した。
「じゃ、りっちゃんにお駄賃どうぞ」
「何それ」
「去年のベスト洋楽ヒットアルバム。テープに吹き込んどいたんだよね」
ここ数年のものをまとめて貸しレコード屋で借りては自分でカセットテープに吹き込んでいたのだが、どうやら南雲も同じようにしていたらしい。そろそろ欲しいとは思っていたのだが、最近のごたごたでつい忘れがちだった。そうか、もう出ていたのか。
「ありがとう。遠慮なくいただいていいかな」
「いいに決まってるじゃん。ね、りっちゃん、また後で、英語のリーダー訳、よろしく」
上総は銀色のカセットテープをカバンにしまいこみ、今度は自分のノートを広げた。そろそろ今度は、例の英語答辞を準備しなくてはなるまい。本来なら昨日、藤沖から半分無理やりに日本語原稿を奪い取ってくるべきところだったが、そんなことすっからかんに忘れていた。ばかやらかした挙句さっさと飛び出した上総に、藤沖がいくらなんでも喜んで自分の答辞原稿を渡すとは思えない。仕方ない。これは子どもの特権を駆使して、英語の先生経由で手に入れてもらうしかないだろう。その段階で英訳は終わっているだろうし。
──けど、どんな内容なんだろうな。また心にもないこと言わないとまずいのかな。
思いつくまま、英語の単語を連ねていくと覗き込んだこずえがため息をわざとらしくついた。
「あんたと比較されるってのは結構しんどいよねえ。まるでさ、なんか女子が恋する少女のポエム書くみたいなのりで、単語綴ってるじゃん」
「なにそれ、ポエムって」
よくわからないことをこずえは言う。眼を向けず、上総は受け流そうとした。
「別にいいけどさ、あんたもいいかげん気付いてやんなよ。いつものようにガキみたいなことするんじゃないよ」
「いつものようにっていったい」
──あ、そうか。ガキみたいなことやらかしてるか。
言葉を飲み込むと、こずえはしてやったりとばかりにさらに続けた。
「まあ、あんたもそれなりに大人になったのねってことが、この前聞いた話でよくわかったからね。姉としてもそれ以上何も言わないけど、ただね」
一呼吸置き、上総の耳元にささやいた。吐息がかかった。
「卒業までは、美里の立場も汲んでやんなさいな」
「何それ」
低く、上総も尋ね返した。また心臓が震え出す。弱々しい鼓動に聞こえた。南雲の方をちらと見やるが、奴は本気で頭を腕で抱え込み「ひゃー、わからねー」と意味不明な言葉を呟いている。大丈夫、聞かれてない。
「美里、あんたに近寄ってこないでしょ」
「わかんないけどさ」
「近寄ってこないのよ。美里なりの気遣いだってこと、わかってやんなさいよ。それと、他の子たちもあんたに声掛けてこないでしょ」
上総はこずえを見返した。何か、ぴんとくるものがある。
「一切あんたにかかわらないようにって、美里が頼み込んでるんだからね。ま、そのあたりの事情は私の知ったことじゃないけど、それ、受け取ってやるだけの器量を持てって言いたいとこよ。毎日ちゃんと抜くとこ抜いてすっきりさせるくらい大人になってるんだったらね」
「すごい失礼な言い方だよな」
「今更何言ってるの。ほら、先生来たよ」
こずえと相変わらずの下ネタ応酬……一方的にかまされているのは上総の方だが……がさえぎられ、菱本先生が教室に入ってきた。教科書は手元になく、プリントの束ばかりだった。いつものように評議委員に号令の合図を促した。上総に気付いてはいないようだった。
「じゃあ、号令」
──やはり言わないとまずいか。
上総が息を呑んだとたん、すぐに貴史の声が飛んだ。
「起立、礼、着席」
──やっぱり、羽飛なんだ。
三年間、上総の役割だった号令だが、すでに本来やるべき奴が受け持っているということだろう。わかっているくせに、またがくがくきているのはなぜだろう。上総はあえて振り向かず、席に着いた。同時に菱本先生と目が合った。上総の方からすぐに逸らした。また何か言われるのだろうか、わからない。
「今日は全員揃ってるな。よし」
こちこちに身体を硬くして待ったにもかかわらず、菱本先生のお言葉はあっさりしたものだった。上総にそれ以上しつこく声をかけるでもなく、かといって無視したわけでもない。
──前からこうしてくれればよかったんだ。
今までだったら、
「おい、立村、やっともどってきたか。よし、ほら、まずは他の連中にあやまれよ。みんな心配してたんだぞ。お前がいつ戻ってくるか、なんでこんなに傷ついたのか、気になってなんなかったんだぞ」
とか言われていたというのに。学習能力が少し高まったのかもしれない。
──本当に、誰も何も言わないよな。
上総は黙ってそれを受け止めた。やはり美里も、何も言わなかった。
本当に美里は、一日何も、上総に話し掛けてこなかった。
──こんなに呼吸しやすいなんて、思わなかった。
南雲やこずえと会話を交わす以外、全くといっていいほど、クラスの連中とは口を利かないですんだ。もちろん、無視するわけでもないのだが、とりたてて怪訝な視線を向けるでもなく、ただ「ああ、いる」程度のものだった。男子たちに関しては殆どそれが徹底されているのだが、さすがに女子は一部、ひそひそ話をする子もかなりいる。そんなのは以前からのものだから、傷つく必要も特にない。上総はただ、学校を休む前よりも他の連中と交わす会話が少なくなった、それだけのことだった。
いわば、ひとりぼっちの時が増えた。それだけだ。
──しゃべらなくていい。話し掛けなくてもいい。
放課後の鐘が鳴るまでの間、上総の口にした言葉は「はい」「わかりました」それだけだった。授業で当てられることも今日はなくて、黙ってノートに向かっているだけだった。休み時間、本当だったらE組に逃げ込みたいところだったが昨日のことを考えると、杉本に冷たくあしらわれるのも予想がつくのであきらめた。
やはり美里は、ちらと視線を投げるだけ。近づこうとする貴史、奈良岡彰子、その他の連中を制する形で見守っているだけだった。
黙っていることがこんなに楽だとは、思ってもみなかった。
「りっちゃん、今日、これから暇?」
上総がようやく普通の会話を交わしたのは、放課後に入ってからだった。さすがに耐えかねてE組へ向かおうと思った矢先のことだった。
「暇だけど」
短く答え、上総は南雲の笑顔に頷いた。
「そっか。ひとつ、お付き合いしてもらってよいっすか」
「いいよ」
そういえば昨日、やたらと暗い表情で窓の向こうを眺めていた南雲とすれ違ったっけ。その時の様子を上総は思い出そうとし、すぐに断念した。今、ここにいる南雲にそんな重たいものは一切感じない。いつものさわやかな笑顔のまんまでいる。たまたま胃が痛かったのかしたのだろう。
「じゃあとりあえずさ、茶室、いこか」
「茶室?」
上総は雪景色を廊下の窓から眺め、いぶかしく尋ね返した。
だって南雲に似合わない世界だ。茶道の授業は組み込まれているし今年も行われたけれども、結局和菓子の食いまくりのために存在するようなものだった。南雲も女子たちから和菓子の差し入れをたんまり頂戴し、大喜びで食っていた。それだけしか認識がない。
「あすこだと今の時期、人、いないじゃん」
やっと気付いた。そうか、内密の話か。図書館だと人目につくし、校舎内だといろいろトラブルもあるってことか。わかるわかる。上総はすぐに頷き、生徒玄関へと向かった。
──予想外だったな。
誰かが上総にアクションをしかけてくるとは思っていた。貴史か美里、もしかしたら二人で。さらに奈良岡彰子か古川こずえあたりがおせっかいをしてくるかもと。考えが甘かった。南雲は一番、そっとしておいてくれそうな人物だったから気にしてなかったのだが、やはりそういうことになるわけか。
──しょうがないか。言うこと言うしかないよな。
髪の毛さらさら状態で、完璧違反マークがつくはずなのに注意されていない南雲は、やはりクラスの規律委員だった。評議委員が注意できないことも、規律委員ならチェックできることが、確かにある。
雪を踏みしめると、石畳が時折つま先の方から顔を出す。だいぶ凍り付き、泥がほんの少しだけ混じり灰色に染めている。こつこつ鳴るのはスパイクの跡か。上総は南雲の後ろに従ってそのまま茶室に向かった。
──去年か、おととしか。
新井林と決闘の場に赴き、結局こぶしを握り締めただけで終わった日があった。
──その前の年か。
その奥で雨音を聞きながら、美里を膝をかかえ語り合った日があった。
空を見上げるとまた、小粒の雪がはらりと降りてくる。また寒くなりそうだ。
その間、南雲は口を利かず、時折天を見上げてはおちゃらけ調子で「はああ」とため息をつくだけだった。やがて到着した茶室の前には人気もなく、南京錠がしっかりかかっていた。南雲は驚きもせずにさっさとポケットから合鍵を取り出した。どこで手に入れたかは聞かずにおこう。規律委員会たるもの、それなりにルートはあるはずだ。
「ま、入りまひょ。ふたりきり、しっぽりと」
「なんかよくわかんないな」
顔を見合わせ、笑った。かすかに照れているようすだった。
雪囲いを済ませた庭と、その脇の小さなくぐり戸。そこから身体をよじって入る。茶室そのものには鍵もかかっておらず、入り放題。よくここで打ち合わせをしたりもしたものだったけれども、今日はさすがに門に鍵がかかっている。誰かが出入りするとは思っていないだろう。
「ここ、地下室、あるよな」
「りっちゃん知ってるんだなあ」
「一応、話でさ」
確か、畳の一枚をひっぺがすと階段が隠れていて、物置場になっているはずだ。
「本条先輩が教えてくれた」
「ひゃあ、じゃ本条さんきっと、そこでいちゃいちゃしたことあるんだなあ」
雪の白さに土が混じった色がさあっと目の前に走った。そんな気がした。
「わかんないよ、そんなの」
「いちゃいちゃ、できれば、それに越したことないよなあ」
南雲はまたわけのわからない呟きを残した後、先ににじり戸を開き、靴を抱えてもぐりこんだ。
「ばれてももう、高校進学が取り消しになる時期でもないし、まあいっかってとこだけどなあ」
「ばれてまずいこと、してるのか?」
「やっぱし、不純異性交遊ってのはまずいよなあ」
何言ってるんだろう。すでにそちらの方は経験済み、しかも下手したら本条先輩並って奴が。上総も南雲の後に続き、きちんと靴の雪と泥を一緒に落とした。
歩きつづけたせいかそれほど寒くはなかった。轟さんと話をした時よりはさすがに冷えているけれどもまだぬくもりが残っているのは、誰か午前中使ったのだろうか。掃除で出入りしていたのかもしれない。何はともあれ、かすかに種火程度の温かみが嬉しかった。手袋ははめたまま、上総は南雲の斜め前で膝を抱えた。南雲もジャンバーを羽織ったまま、片膝をまず立て、その後で崩してあぐらにした。座禅を組むようにきちんと整え、両手をぺたりと畳につけた。もちろん手袋ははめたままだった。またため息をひとつ。
「高校では茶道の授業ってあるのかな」
「あるらしいよ。言ってたよ」
誰が、とは野暮なので聞かない。
「じゃあまた、正座と和菓子の日々が続くのかな」
「俺、できたら栗羊羹希望」
しばらく南雲に関係のないことを話し掛け続けた。なんとなくだが南雲の態度が、どことなく重たいところがあるのはなんでだろうか。しばらく顔を合わせていなかっただけに上総も解せないところがある。
──なんか、あったんだろうな。けどなんだろうな。
こちらからは聞かないこと決めている。南雲は次に、正座し直し、天井を見上げた。つられて上総も見上げるとみしりと何かが鳴くような音がした。
「誰かいるのかな、ねずみかな」
「雪じゃねえの」
あまり風情のない会話をまた交わした。
「ここ、りっちゃん、よく来るだろ」
「うん、そうだね」
一度は涙を目いっぱいに貯めたまますれ違ったこともあった。思い出したくない記憶が雪ときりきりした風とともに蘇ってくる。思わず目を押さえた。
「わりと人もいないからさ、よく内密の話をする時とかに使うな」
「清坂さんとは、どうなのかなあ」
南雲だって知っているはずだ。あの時、南雲がこっそりクラスの男子連中に緘口令を布いてくれたことを、上総は今も感謝している。あられのようなひゅうひゅう攻撃に遭わずにすんだおかげで、美里との交際を自然に始めることができたから。
──ま、それがよかったかどうか、は、俺が決められることじゃないけどな。
上総が黙っていると、南雲はいきなりひょいと顔を上げた。片膝を立てて、そのまま伸ばした。
「りっちゃんってさ、わりと女子の涙に弱い方かなって、突然思ったんだけどな、どうかなあ」
そんなこといきなり言われてもわからない。南雲は一呼吸「はあ」と吐いた後、また続けた。
「本当はこうしたいああしたい、って思っててもさ、『お願い』って泣かれると思わず頷いてしまうタイプじゃないかって気、するんだ。俺だと泣かれても、『悪い、ごめんなさあい』で逃げちまうけどなあ」
「泣かれると、か」
昨日の帰り際、美里に捕まってコートの胸にもたれられた時。あとでコートに触れてみたら、少し雪とは違った感触が残っていた。涙よりも、密着されたあたたかみか。あえてそこに触らないように、コートをたんすにしまい込んだ。今朝同じコートを着るのが気恥ずかしくて、つい短いピーコートを選んできてしまった。
「弱い、かもな」
やはり昨日の一件はすでに、南雲に届いているのだろう。つっこまれるだろうか。上総は膝をしっかり腕で抱えて防禦の姿勢を取った。いわゆる「あんざ」である。
「俺は、笑顔に弱い」
「え?」
予想を反した答えが返ってきた。思わず腕が緩んだ。上総は南雲の顔をまじまじと眺め直した。またため息をひとつ。これで何度ため息を吐いているんだろう。数えてやりたいくらいだ。南雲がこんなに「はああ」を繰り返すのを、上総は三年間一度も見たことがない。
「笑顔で、さっぱり、答えられると、弱い」
「何かあったのか」
また天井できりきりと音がした。雪の重みかねずみの運動会か、わからない。
「振られちった」
おどけて、にやっとまずは笑った南雲。上総はその目を横からのぞき見た。
「あの人にか」
ゆっくり尋ねた。南雲とは長い付き合いだ。現在の南雲の恋愛状況は気付いているつもりだ。南雲は首を振った。
「違うのか? でなかったら」
──外で出会った人かな。なぐちゃんは結構、外でつきあってる人がいるらしいしな。
まるで本条先輩の恋愛路をなぞっているような気がしてきた。南雲はさらに首を振った。
「りっちゃん、もっと素直に考えよう」
ばらしたいのか、それとも隠したいのか、よくわからない口調でもって南雲は続けた。
「彰子さん、に、振られちまった、ってことよ。要するに」
「え?」
まっすぐ足を伸ばし、一度南雲は背を畳につけた。腰から足をそのまま、直角に天井へ伸ばした。五秒くらいそのままにした後、ゆっくりと膝を曲げながらおろし。睡眠時の体勢のまま、
「こんな話って、ありかよ、ったく、わけわかんねえ!」
右手を額に乗せ、そのまま南雲は最大級のため息を吐いた。そのまましばらく動かなかった。喉仏のところがかすかに震えていた。
──え? だってちょっと待てよ。奈良岡さんのこと、なぐちゃんってもうどうでもよかったんじゃないのか? だってさ。
上総の記憶違いでなければ、南雲は去年の秋以降、奈良岡彰子との交際を仮面で行うように心していたはずだ。一言で片付ければ「心変わり」。もちろん周囲には「青大附中一番のラブラブカップル」に見せかけていたけれどもそれは、奈良岡がいきなり振られて周囲から物笑いになってしまうのを避けるため、むしろ友情に基づいた行為のはずだろう。知っているのは上総と、高校にいる水菜さんという陰の彼女、それからほんの一部の仲間内だけのはずだ。当然、奈良岡彰子も知らなかったはずだ。南雲さえ口走らなければ。
──中学卒業まで待って、そこで自然消滅の予定だったんじゃないのか? 奈良岡さんも、例の医学部進学専用の高校に合格してるしさ。違ったのか?
くしゃみをいきなり二発かまし、南雲はそのままばたんと倒れたまま呟いた。
「本当に好きだったのは、三年間、あいつだったんだとさ」
話が読めず、どうつっこんでいいかもわからない。上総は黙ったまま南雲の顔にかぶさるよう、見つめた。目が合うと、少し潤んだような瞳を向けてきた。
「よりによって、なんで、あいつなんだよ、俺何やってたんだよ、もう」
「あいつって、誰?」
直接答えず、南雲はさらに目を潤ませたまま早口に続けた。
「たまたま、水菜さんと一緒に歩いてたとこ、すいの奴と彰子さんと、すれ違っちまって、ここでもう年貢の納め時かって思って、彰子さん呼び出したわけ」
「それいつ」
「昨日。廊下」
ずいぶんと人目のつくところで、そんな修羅場じみた話をしようとしたものだ。
「二階階段の踊り場か」
「そ、りっちゃん、俺とすれ違ったの気付かなかっただろ」
──気付いたけどそんな声かけられるかよ。
やはり何か不穏なものを感じたのは、正しかったのだろう。上総は頷いた。
「まあ、昔の彼女でってこと言おうとしたらさ、彰子さんの方からさ、『よかった、安心した』だってさ。てっきり強がってるのかと思って、俺なりにきちんと誠意みせねばなって思ったらさ」
南雲はまた、両目に手を当てて
「うわ、まじい、なんだよこれ」
身体をよじらせた。
「なんと言ったと思う?」
上総は首を振り、続きが語られるのを待った。
「『私、本当に好きな人、誰だか、やっと気が付いたんだ。あきよくん、ごめんね』」
「本当に好きな人?」
声音を真似るように、南雲は横たわったまま女言葉を使った。
「『私、入学した時から、羽飛くんのことが好きだったんだなって、今年に入ってやっと気付いたんだ。あきよくん、本当に、ごめんね』だってさ」
──羽飛のことを?
南雲以上に上総の方が混乱してきていた。思わず腕を揺さぶった。
「羽飛のことがって、けどお前たち仲良かっただろ、今はともかく、前からさ」
「俺のことは大切なお友だち、これからも一生友だちでいたいんだってさ。できたら彰子さんファンクラブの野郎たちと一緒にみんな仲良く盛り上がっていきたいんだってさ」
「けど」
「これから卒業する前に、悔い残さないように、あいつにきちんと正面切ってラブレター書くんだってさ、なんだよ、ちくしょう、なんだよいったい。俺、いったいなんだったんだよ、たく、いったいわけわからねえったらねえ!」
膝を抱え、横たわったまま南雲は背を向けた。ジャンバーの肩のところが、揺れていた。