第三部 12
第三部 12
コートを羽織るとかえって身体が冷えてきたような気がした。
「杉本、いたか」
一階E組の教室に向かい、扉を開けた。駒方先生も狩野先生もいなかった。暖房がよく効いた部屋の中で杉本だけが、ぽつんと席に着いたまま本を読んでいた。
「ひとりでいたのか」
「はい」
上総は腕時計を覗き込み、あの修羅場からまだ三十分も経っていないことを確かめた。
「待っててくれた?」
「そういうわけではありません」
相変わらずそっけない返事だが、上総が来るのを待ってすぐにかばんの整理をし始めたところみると図星のようだ。本をしまい込み、黒いコートを羽織り、その上に白いストールを重ねた。
「帰ります」
「一緒に行こう」
杉本はそっと顔を見上げた。特に何らかの表情は窺い知ることができなかったけれども、拒絶はしなかった。
「終わったのですか」
「うん、終わった。本当に終わった」
次いで出た言葉は、勢いだった。
「髪の毛、ほどけば」
また杉本は怪訝な顔をして上総を見上げた。くいとかみ締めたような口元と、それでいてまっすぐな瞳とがかすかに揺れていた。
「わかりました」
「ほら、寒いからさ」
「脈略がありません」
そう言いながらも杉本は耳元に手を伸ばし、ゴムをゆっくりとひっぱっていった。一気に解けた髪が広がり、ふんわりとウエーブを描いた。先に扉を開き、上総はそっと杉本を先に押し出した。廊下に出たとたん、目の前の窓枠いっぱいに張り付いた白い膜のようなものが飛び込み、いつのまにかうっすらと蔭をこしらえているように見えた。
──たった三十分しか経ってないのに、こんなに降ったのか。
生徒玄関まで出て行ったが、まだ評議連中も他の委員の連中も見かけることがなかった。
かすかに吹奏楽の音色が聞こえるだけで、人気もなく静まり返っているだけだった。
当然、三年A組の教室で見かけた奴らもいない。
──これは弾劾裁判にかけられるな。
二年生側のすのこから降りてきた杉本を待ちながら上総は、廊下の奥を眺めやった。
自分が今回しでかしたことは、おそらく評議委員会始まって以来の大顰蹙であっただろうし、しかも元評議委員長の醜態というすさまじい副題までついてしまう。生徒会と評議委員会との共同活動を目的としたにもかかわらず、結果としては生徒会側の大勝利に終わってしまったというオチがつく。元評議委員長がいきなりチンピラまがいの言葉を口にしつつ、可愛い女子の生徒会長を脅し、周囲を硬直させ、評議委員会自体に泥を塗ったありさま。これは許されることではないと思う。
「杉本、今、女子で友だちとか誰かいるのか」
「学校の中で、ですか」
雪に覆われ、時折つま先がつるんとすべりそうになる砂利道を歩きつつ、上総は尋ねた。杉本も流したままの髪の毛を軽く押さえながら答えた。
「花森さんとは文通してます」
「あの人がんばってるよな」
共通の話題。花森なつめのその後は上総も知っていた。
「あと、他には誰かいるのか」
「いたはずですが忘れました」
いないとは答えなかった。
「西月さんと霧島さんとは」
「おふたりだけかもしれません」
杉本は小首を傾げつつ、白い手袋に覆われた指を三本折って見せた。
──これは、まずいな。
三年たちの評議委員会騒動によって、失われたものが大きすぎたことを、上総は改めて感じていた。佐賀はるみが顔色一切変えずにやってのけたことは、決して杉本梨南の想い人から遠のけることだけではない。すべての友だち、女子との繋がりをも断ち切らせてしまうようなのだったのだろう。
──あと一ヶ月、そのことについて少し考えないとな。
評議委員会を混乱に陥れた張本人としての自分は、天羽なり難波なり好きなように弾劾にかけてもらてかまわない。喜んで受け入れよう。しかし、まだやるべきことが残っている。
「杉本、それならいつもひとりってことか」
「そうです。でも平気です。本があります」
「いつも本ばかり読んでいるわけにはいかないだろ。西月さんも霧島さんも卒業してしまうしさ」
「そうですね、おふたりはもう、青潟には戻ってこられません」
杉本は断言した。やはり、気付いているのだろう。
「ふたりがそう言ってたのか?」
返事をせず、杉本はうつむき、そのまままっすぐ校門に向かって歩いていった。
──俺が卒業するまでに、杉本にもっと居心地いい場所を見つけてやる必要がある。
いい方法はないだろうか。上総はしばらく無言のまま、杉本と肩を並べて歩いていた。空から舞う雪が杉本の髪の毛に降りて、そのまま留まっていた。まだ、手を伸ばして払ってやるほど、今の自分は杉本の側に近寄れない、それが歯がゆかった。
──立村くん!
誰かが窓辺から叫んでいる。上総の苗字だった。
「立村先輩、お呼びです」
杉本が立ち止まり、くるりと周囲を見渡し、すぐに声の発信地を見つけ出した。
女子の、それもはっきりしていて少し甘い、聞きなれた声だった。誰かはすぐに気付いていたけれども、答えたくない。上総は首を振って杉本を促した。
「いいよ、さっさと行こう」
「いいえ、呼ばれたら当然お返事されるべきではありませんか」
杉本は固い表情を崩さず、さっと指を指した。自転車置き場の最奥、職員室の隣窓だった。
「でも、いいよ」
「くだくだおっしゃらないでください。呼ばれたらきちんと返事をすべしと、先輩は習わなかったのですか。すぐにお戻りください。しかも」
さらに杉本は上総の腕をひっぱり、自転車置き場からずるずると窓辺まで引きずっていった。もちろん男子の腕力で引き剥がせる程度のものだが、それでも杉本の握り締める指先がちくりとする。
「痛い、やめろよ、お前なんでそんなに力あるんだよ」
「とにかくいらしてくださいませ!」
さっきほどかせた髪の毛で今度は杉本の表情が読み取れない。
「清坂先輩がお待ちなのですから、万難拝しても行くべきです」
──清坂氏か。
上総は観念した。やはり、これ以上逃げるわけにはいかない。
評議委員会、生徒会、三年D組の前で上総はぶっ壊れた男として行動してきたけれども、杉本の前だけはみっともない真似をこれ以上さらしたくなかった。
「わかったわかった。杉本、ちゃんと話すから、少し待っててくれないか」
「なぜですか」
そっけなく杉本の答えが返った。
「いや、一緒に帰るつもりだから」
「おふざけにならないでくださいませ。清坂先輩があんなに叫んでいるのに、どうして立村先輩はそんなに非常識なことができるのでしょうか。先輩、ご存知ないのですか。一番立村先輩を心配されてらしたのは、清坂先輩なのです」
抑揚のない静かな言葉でもって、それでも杉本は彼女なりの腕力でもって上総を引きずっていった。上総が真正面から受け止めたのは、職員室隣・一階の窓から身を乗り出さんばかりに叫んでいる美里の姿だった。
五メートルほど近づいたところで、美里がひょいと窓を乗り越え、外に飛び降りた。
動けず、上総が立ち止まり、杉本もそれに従った。
美里の足元は白い上靴のままだった。
「立村くん」
真正面から見据えた美里の瞳は、鋭く、大きく、潤んでいた。
「なんで呼び止めたか、わかってるよね」
上総も頷いた。杉本をちらと横目で見た。腕から手を離し杉本は美里に目を向けた。
「話、聞いても、いいよね」
「もう話すことなんてないだろ」
口だけあの時の不良っぽさに戻そうとした。うまくいかなかった。杉本と目が合ったからだった。美里は口元をほんの少しだけ上げて、笑った。
「無理しないでいいよ。もう、わかってるのにね」
「無理なんかしてないだろ」
コートのポケットに手を突っ込んでみた。新井林や本条先輩がやっているように、雪を蹴飛ばしてみた。杉本のきつい視線が飛んできた。やはりうまくいかない。
「悪ぶったって、似合わないよ。ばっかみたい」
美里は素早く駆け寄ろうとして、ふと足を止めた。杉本の方に顔を向けた。
「杉本さん、これから帰るの」
「はい。私ひとりで帰るつもりです」
上総から一歩離れて、ぐいとにらみつけた。いつものまっすぐな眼差しだ。そのまま美里の側に駆け寄ると、その手を取り両手で握り締めた。
「あとは清坂先輩のお仕事ですね」
「ありがとう。杉本さん、でも、本当にいいの」
わけのわからぬ顔のまま杉本は頷き返した。本当によくないのは上総の方だということを、どうして気付かないのか、単に鈍感なのか、わからない。いらだつのも上総の方だった。
「帰るなって言ってるだろ」
「いいえ、帰ります。私の仕事は終わりました」
「仕事って、どういう意味だよ」
「はい、清坂先輩と仲直りするための、お仕事です」
白いショールを杉本はしっかりコートの衿までもっていき、ぐいと締め付けた。上総の側にもう一度寄ると、反り返るくらいのけぞりながら、
「清坂先輩のお気持ちをお察しできない立村先輩でしたら、もうお話する気はございません」
きっぱり言い放ち、そのまままっすぐ歩いていった。
「おい、杉本、待てよ」
一切振り返らず、かといって走ることもなく、杉本は毅然と背を向け立ち去っていった。雪が時折降りかかる解いた髪の毛、少し風で乱れていた。
そういえば、杉本は美里と陰でいろいろと打ち合わせを行っていたというのを聞いたことがあった。この前杉本とふたりで逃避行しようとした時も確かそうだった。美里に連絡を入れて、青潟駅へ迎えにきてもらうように頼んだこともあったらしい。ちらと聞いてはいたのだが、あえて聞き流してしまったのは無意識なのかもしれない。上総は頭をひとふりして、もう一度美里の前でチンピラ風情を演じることに決めた。
「どうせもう話すことなんてないだろう」
少し藪にらみにしてみた。美里は全く動じず、カバンをかかえたまま上総の正面に立ちはだかった。
「立村くんがなくても、私はあるの」
「もう、俺は評議委員会にこなくていいってことになったんだから、もう用はないはずだろう」
「あるよ、あのあとどうなったか知りたいでしょ。評議委員として、話すことだってたくさんあるのに。どうして正面から見ようとしないのよ。立村くん、こっちを見なさいよ」
「見る必要なんてないから」
あえて横を向いた。美里の視線を受け止めてしまったら最後、自分が崩れてしまうのがわかっている。側に杉本がいればそれでも背をすっと伸ばそうと思えるけれども、もう限界に近い気持ちを立て直すなんてことはできない。美里も上総の視線がずれるたびに細かく立ち位置を変えた。うざったいくらいだった。
「もういいかげんにしろよ。俺は話すことなんて何もないって言ってるだろう」
「立村くん、今、評議委員会の方が生徒会側を圧倒してるってこと、聞きたくないの?」
いきなり本論に入ってきた。美里らしい。はっきり言いたいことを直球で投げ込んでくる。上総は黙ったまま、美里にしゃべらせるべきかを考えた。雪を蹴飛ばしてさっさと帰るか、それとも話を聞くべきか。チンピラごっこをそのまま続けるのならこの場から離れて、美里からあっさり愛想をつかしてもらう方が楽なのだ。でも、
──清坂氏をそこまでしてばかにしていいのか?
どこかで情が混じる。迷っている間に美里はまくし立て始めた。上総がいなくなるのを恐れるように、息もつかせずに。
「立村くんが言いたいこと言って教室出ていってから、さて元のペースに戻そうと天羽くんが割って入ったけど、生徒会側はなんでもないって顔して評議委員会の情けないとこをいっぱいあげつらったの。私たち、否定できないことばっかりだし、嘘なんてつけないよね。だから私も黙ってるしかなかったけど、そしたらね」
ここで息次ぎ。上総が横目で美里を見やると、またそこからマシンガントークをぶっぱなす。
「琴音ちゃんが立ち上がったのよ、いきなりね。私、しばらく琴音ちゃんと口利いてなかったからわかんなかったけど、『評議委員会の三年がどうのこうのというトラブルは一種のプライバシーの問題であってそのことを今回の議題と絡めて話し合うのは根本的におかしい。同時に生徒会の間でいろいろなやりとりがあったとしてもそれを出すのもまた別の問題のはず。もっと簡単な話し合いでどうして進められないのか』って言い出したのよ。琴音ちゃん、自分からぺらぺらしゃべる子じゃないし、今までいたのかいないのかわかんないまま卒業しちゃうのかって思ってたけど、とんでもないよね。『評議委員会の経験と生徒会の団結力を利用してもっと素晴らしい行事を組み立てられると思ったから、立村くんはそういう話を持ち出したのに、いきなり関係のないことを持ち出して個人攻撃をするのはおかしい。先生たちはもちろん生徒会を応援するだろうしそれはそれでいいけれども、どうして今までの経験を評議委員会側から教えてもらおうとしないのか。生徒会だけが先生たちの援護射撃を受ける形で活動したとしても、今度はそこから追い出された評議委員会を始め他の委員会たちが孤立してしまうし、同時にかかわっていなかった生徒たちが取り残されてしまう。まずは、互いの経験と情報を交換するところから始めていくのが、大人たちも納得する流れなのではないか』って。よくわかんないけどそんなことをぺらぺらまくし立てたの」
──轟さん、とうとう動いたか。
轟さんの行動力を知っている上総としては、美里の思い込みが意外ではあったけれども、それは仕方のないことなのだろうとすぐに考えなおした。あえて、「不細工・出っ歯」のイメージでもって頭脳明晰さを隠し通してきた人なのだから、それは織り込み済みなのだろう。
「天羽は」
するっと抜けるように流れた呟きを、美里が拾い上げさらに続けた。
「天羽くん、頷きながら聞いてたよ。難波くんもばつの悪そうな顔してたけど、けどなんでだろ、男子たち全然驚いてなくて、黙って琴音ちゃんの発言聞いてたのよ。これって変だよね。立村くんも知ってたの?」
いきなり問われた。頷くしかなかった。美里は一瞬、言葉を失いすぐに補給した。
「いいよそんなの責めないから。女子は女子同士でやりあうのが一番いいんだなって思って、私も参戦しようと思ったけど、貴史と近江さんに止められたからなんにもできなかったよ。それの方が迷惑じゃなくてよかったんでしょ。どうせ立村くん、私が何かしようとすると露骨にいやな顔するもんね」
「そんなことしてないだろ」
「してる、いま思いっきりしてる」
ぐさりと突き刺さる言葉でいっぱいだ。身体の中は飽和状態だ。でも貴重な情報が含まれているのも確か。ふたたび降り始めた雪を眺めながら上総はそっと、冷たいひとひらを飲み込んでみた。
「とにかく、琴音ちゃんオンステージ。琴音ちゃん、さらに佐賀さんに向かって、『ただ、立村くんが言ったことがもし間違っていると断言できるのならば、ここではっきりと答えるべきでしょう。ここで聞いたことを百パーセント否定できるのならば、はっきりと証拠を持って返事をしておいた方が、明日以降くだらない噂に悩まされないですむんじゃないでしょうか』って。そういうことなのよ、つまり。立村くんの言ったこと、嘘だって百パーセント、否定できなかったってことだよね、佐賀さんは」
──そうか、そうきたか。
さすがだ。美里のつっかかりながらも飛び出す言葉の端々に、上総の計算通りの流れが生まれていたことにびっくりしつつも、ほっとしていた。佐賀生徒会長にぶつけた上総の言葉は、杉本梨南と水鳥中学の佐川に関することに関していえば全くのがせねたではない。新井林には可哀想なことをするかもしれないが、実際のところは否定できない事実のはずだ。
──全くのでっちあげだとすれば、堂々と否定すればいい。
「それで否定できなかったんだな、生徒会長は」
また美里の息を呑む気配がした。見たわけではないのでわからない。
「そうよ。琴音ちゃん、さっきあんたが言ったこと全部頭の中に入れてたみたいで、ひとつひとつ、そうね、杉本さんのこととか、関崎くんのこととか、それと関崎くんの友だちのこととか、私は全くわかんないことだけどあんたが言ったこと全部をひとつひとつ確認しながら佐賀さんに聞いていったのよ。繰り返し確認するようなものよね。あんたがばっかみたいな格好して言いたい放題やった時よりも話が整理されてて、みんなによく伝わったわよ」
「そうなんだ、ちゃんと、繰り返してくれたんだ」
さらにまた一息、奇妙な間が空いた。すぐに消えた。
「いつのまにか天羽くんたちのことなんてどうでもいいって感じになってね。そしたら、いきなり新井林くんが立ち上がって、『俺の顔を立てて、どうかこれ以上会長を責めるのはやめてくれ』って、いきなり頭を下げたの。琴音ちゃんによ!」
──新井林がか!
美里と正面で見詰め合った。
いつのまにか美里の両目が潤みきっていた。
見つめてしまった自分が甘かった。下手な演技がほどけてしまった。
「新井林が、そんなことしたのか」
「そうよ。『もうこれ以上、佐賀会長を責めたてるのはやめて、もっと互い協力しあう方法について語り合いたいです。だから、もう、どっち側の攻撃をするのもやめにしてしまいましょう』って」
上総は空を見上げた。白い雪粒が次から次へと全身揺らしながら降り注いできた。目に飛び込み、きゅんと冷たく刺さり、偽の涙目になる。誰かの代わりに泣けとばかり、責められているようだった。
──新井林がそこまでするとは……!
去年の三月に、上総が本条先輩に呼び出しを食らい、新井林の前で一発張り倒されたことがあった。佐賀はるみと水鳥中学の佐川を巡るごたごたででまかせを流した罪について、非公開の『弾劾裁判』を起こされた時のことだ。
あの時、本条先輩は両方の言い分を聞いた後、上総をひっぱたいてそれで終わりにしてくれた。たぶんあの時、上総が完全に自分の間違いを認めたふりをし、丸く治めようとしたのにあわせてくれたのだろう。全く遺恨もなくその時は終わった。本条先輩はともかく、新井林の目にあの時涙が浮かんでいたのはなぜなのかわからず、そのままにしていた。
でも、今思えば。
──あいつは、気付いていたのかもしれない。
ついさっき、佐賀を新井林の目の前でさんざんなぶっていたというのに。
いつもだったら思いっきりのされても言い訳できないことやらかしたというのに。
なぜ新井林は上総を殴ろうとしなかったのか。
──やはり、あいつは、知ってたのか。
真実はわからない。新井林の正々堂々たるまっすぐな気性からすればまずありえないことだろう。でも、そういう信念を曲げざるを得ないくらいの何かを、佐賀はるみは持っていたのだろう。完全に嘘だとわかっていても、それがどんなに屈辱的な答えだったとしても、新井林は心底、最後の最後まで佐賀はるみの騎士であり続けた。そういうことになる。
「結局ね、それでみな丸く収まったのよ。そうよね、私たちはどうせ三年、もう卒業しちゃうし関係ないし、琴音ちゃんの言う通り三年のごたごたなんて、生徒会にも評議委員会にも関係ないことだもんね。先生たちは心配するかもしれないけれどもそんなのどうだっていいことよね。生徒会主導でやったとしても、みんな二年生同士なんだから情報を仲良く交換すればいいことだもんね。どっちが上とか下とか気にするよりも、そっちの方がいいに決まってるもん。生徒会の子たちも、新井林くんが両手を広げて佐賀さんを守ろうとした姿見て、それ以上何も言えなかったみたい。だから、私も決めたの」
「決めたって?」
硬く喉が凍りつくような感覚。美里に返した言葉が、硬かった。
美里のおかっぱ髪に、うっすらと花びらめいた雪が舞い降りて、ひとひらこぼれた。
「立村くん、もう、ふつうの立村くんに戻ったね」
口元をこすり、目尻を同じ手の甲で押さえると美里は顔を上げた。
「もう立村くんのこと、ああしろこうしろなんて言わない。もう放っとく。私と付き合いしたくないんだったらそれでいい。評議やりたくないんだったらもうそれでいい。ひとつだけお願い」
両手を組み合わせ、祈りのポーズでもって、美里は呟いた。
「卒業まで、三年D組で一緒に過ごしたい、それだけ。三年D組に、帰ってきて」
上総はしばらく答えず、じっと美里の両手を見つめていた。
──やはり連れ戻そうとするのか。
「戻ったってなんになるんだよ」
「なんかなんなくちゃ、いけないの?」
「これ以上問題を起こす俺が入っていっても、うんざりするだけだ」
「そんなこと、言ってないじゃない!」
激しく被りをふる美里に、どうしようもなくいらだつ自分を押さえられない。足元の雪を蹴った。せめてもの、嫌な奴演出を繰り返した。隠れ演劇部評議委員会の名をもって。
「どうせ、あの熱血担任が、クラス歯抜けのまま卒業するのは嫌だから、無理やり俺を連れ戻そうとするんだろう。みんな聞いてるんだろ、あいつから」
「聞いてないよ、なんでそんなこと言うのよ!」
美里がとんと足踏みをした。雪がさらに白く降りかかる。身体が燃える。
「俺が杉本連れてどっかに逃げようとしたことだって、知ってるんだろ。狩野先生に捕まえられて説教されたことだって、俺が小学校の時どれだけ卑劣なことやらかしたかも、みんな知ってるよな。それから今日みたいに、さんざん狂ったことしでかしたことだって、みんな清坂氏は知ってるだろう」
「そんなこと、今さら知られてなんだっていうのよ! みんな、あんたのこと手のひら返したみたいに冷たくした? した奴いたかもしれないよ、けど、私だって貴史だって、みんなあんたのことを嫌いになんてならなかったじゃない!」
──やっぱりわかってもらえないんだ。
今更ながら同じことを繰り返さなくてはならないのが辛い。自分がだんだん冷静になってくる。目の前の美里が憤れば憤るほど、白い雪の山でもって互いが引き裂かれていく。
「あと一ヶ月しかないだろ、俺はもう、評議委員としても使い物にならないし、それに、今の三年D組は清坂氏と羽飛でうまく回っている。そうだろ。清坂氏、よくそれは自分でもわかっているだろ? 一年の初めからこうなっていれば、こんなことにならないですんだんだ。俺がこんな風にでしゃばらなければ、こんなにたくさんの人傷つけなくてもよかったんだしさ」
「ばっかみたい!」
同時に美里の潤んだ瞳から、涙が滴り落ちた。
スキーの跡のように、まっすぐ。そのまま上総の胸元にむしゃぶりつき、激しく揺さぶった。
「そこまでよくわかってるんだったら、どうしてそれを見るの怖がって逃げてるのよ! そうよ、その通りよ。今の三年D組、うまくいってるよ、すっごくね。すっごく、そう、私、こんなに楽させてもらったの初めてってくらい、今うまくいってるよ! 女子だって男子たちと仲良くやってるし、立村くんがいないほうが確かに、トラブルおきてない、そうよ!」
「だろう、だから」
「黙ってよ! そうだよね、貴史ともし一緒に組んで評議やってたら、こんなにいろんなこと起こらなかったかもしれないよね。うん、そうだよ、立村くんとこんなに話すことなんて絶対なかったし、貴史とグループ違ってたかもしれないし、私も顔と名前しか覚えてもらえなかったかもしれないよね。けど立村くんだって評議になってなかったら、本条先輩にも可愛がってもらえなかったし、杉本さんとも出会えなかったかもしれないんだよ」
声を出せない。思わず上総は美里の背中を片腕で支えようとした。気付き、すぐに手をぶら下げた。ぬくもりがじんわりと伝わってくる。かすかに花の香りがした。
「評議やってなかったら、きっと私、立村くんは何にもしゃべらないつまらない男子だって思ってたかもしれないもん。あとで加奈子ちゃん経由の噂を聞いて、そのまま鵜呑みにしてたかもしれないもの。それに、もし今みたいに酷いこと言われてても、一緒に悪口いっていじめてたかもしれない。私、立村くんみたいに気持ち、細かくないもん、そうよ、貴史と一緒に立村くんをいじめてたよ、きっと。嫌な子になってたよきっと。みんなも同じ考えだって思い込んで、絶対に嫌ってたよ。でもね」
涙でぐしゃぐしゃの顔をそっと上げ、上総を見上げた。
「それって、絶対違うよね。私、立村くんと話をいっぱいすることが出来たから、気付くことできたんだよ。くだらないこと言い合って盛り上がるのも楽しいけど、黙って一緒にいてくれて、おなか痛い時にそっと荷物もってくれたり、顔も知らない女子のためにバス脱走してまで連絡を入れようとしたり、今みたいに嫌われものの杉本さんを守るために、エッチなことまで平気で言ってみようとしたり、そんな人がいるんだってこと、知ることができたの。立村くんがいたからなんだよ。そのまんま、ほんとに、そのままでいてくれたからなんだよ」
「俺は何もしてないよ、清坂氏がよく受け取りすぎてるだけだよ」
胸のぬくもりで、さっきまで抱えていた覚悟が解けてしまいそうだ。上総は慌てて首を振った。
「だから、私ね、好きとか嫌いとか、そんな『つきあい』がなくなっただけで、クラスメートとしての繋がりもなくなっちゃうのは絶対いやなの。私、知ってるよ。立村くんが私のことなんてどうでもいいって思ってること」
「どうでもいいなんて思ってないよ」
「違う、私、立村くんが杉本さんのこと好きなこと知ってるよ」
「いや、そういうのはまた違うって」
何か美里は無理やり「好き」の一文字で物事を納めようとする。違和感がある。何度も首を振りつづけた。
「けど、そんなの私、どうだっていい。私も、みんなも、きっと立村くんがクラスに戻って来てくれればそれ以上のこと何にも求めてないよ。立村くんがいたから起きたたくさんの出来事、もちろんいいことばかりじゃなかったかもしれないけど、でも、いなくて何にも起こらなかったより、ずっとましだもの。私、立村くんと一緒に卒業式の整列の時、並びたい。評議委員の仕事なんてしなくていいけど、最後の締めだけは絶対、立村くんと一緒にしたいの。だって三年間、一緒にやってきた相棒と並びたいって、それ、変じゃないよね」
もう一度、美里はしゃくりあげながら呟いた。
「立村くんは、クラスにいるだけでいいの、それだけでいいの」
──これが精一杯なんだよな。
美里の言葉を上総は静かに受け止めた。
一緒に降りかかる雪の粒とともに、すうとため息をついた。
──いるだけでいい、って言葉がどれだけ残酷な言葉か、きっと清坂氏にはわからない。
──いるだけじゃだめなんだ、価値がなくちゃいけないんだって。
たぶん、その気持ちを理解し合えるのは杉本梨南ひとりだけだろう。
菱本先生も、貴史も、そして目の前の美里も、一瞬たりとも疑うことなく訴えてくれている言葉。だけど、何もできないまま突っ立っていた自分が受け入れられたことなんて、一度もない。何一つない。受け入れてくれて、その後なんのとりえもないとわかった段階で放り出されそれで終わってしまった。それが上総と杉本との行き着いた先だった。
──きっと、そんな経験ないんだろうな。
どんなに成績を上げようとしても、どんなにうまく馴染もうとしても本当の自分が現れた瞬間にすべてを失ってしまう。今はまだ、美里も懸命に上総を引きとめようとしてくれているけれども、互いに理解しあうことはきっと難しいだろう。いるだけでいい、放っといてくれる、そう言いながらずっと突き刺すようなメッセージを送られる苦痛。わかってくれと訴える方がわがままなのだろう。
ずっとE組に隠れたまま、卒業式だけ顔を出してそのまま高校に進学し、あとは嫌われ者に戻るだけ。教室の隅っこで本を読むだけの三年間を過ごせばいい。小学校時代の自分に返るだけのことだ。それまでの間は杉本の側で甘ったれたり、髪の毛を愛でたりしていればいい。ささやかな安らぎだけど、高校以降自分に与えるつもりの罰を考えれば、許されることではないかと思っていた。だから嫌われ者になったとしても、悔いはなかった。だからあんなこともこんなこともできた。
──だけど、今まで清坂氏が俺にしてくれたことを考えれば、決して許されないことだよな。
貴史と美里が初めて仲間に加えてくれた時、やっと地獄の日々から抜け出せる、純粋にそう思った。あの時の真っ白くのびのびした気持ちを、そう誓った日。一生忘れない。
あのふたりがいたから、上総は間違った形で評議委員になってしまっても、なんとか歩いてこれた。すべてを清算し、杉本の今後を考えつつも、決して忘れてはいけない一線だ。
どんなに三年D組の教室が息苦しい場所だったとしても、どうしようもなく逃げ出したくなったとしても、上総には三年D組と、美里に対して責任を取る義務がある。
顔はべとべと、てかっていた。髪の毛が乱れていた。
「私もね、大丈夫だから」
そのまま上総の前でごしごし目をこすり、
「今度好きな人ができたら、立村くんがどんなに止めたって無駄、速攻別れるから安心して」
確認するかのように一言一言、美里は尋ね返した。
「三年D組に、帰ってきて、くれる?」
できることを、まずはひとつ。残りはあとで、考えよう。
上総はひとつ、頷いた。