第三部 11
第三部 11
周囲が息を呑み見守っているのが肌でじんじんと伝わってくる。今まで評議委員長として壇上でこんなに注目されたのは初めてかもしれなかった。上総はしばらく佐賀はるみを見下ろし、その側で噛み付きそうな顔でにらんでいる新井林に視線を向けた。みな、上総の一挙一動を注目している。
──すごいよな。佐賀さんからみだとみんなそうなんだ。
これが上総の人徳でもなければ能力でもないことを、自分がよく知っている。
相手があの、佐賀はるみだから、出来損ない元評議委員長の自分がどう出るか興味津々なだけだ。
しかも最後の最後で自分のやってきたことに泥を塗ろうとしているありさま。
──ばかばかしいか、それもよしだ。
いつか同じ感情にとらわれたことがある。二年近く前の宿泊研修三日目のことを思い出し、上総は思わず口元をほころばせた。
「笑ってるんじゃねえよ」
小声で吐き捨てるように呟く新井林。
上総は一呼吸置いたのち、教卓に片手を置いた。いかにも因縁をつけるような、チンピラっぽい態度を演じてみよう、そう決めた。
「まず、一点目なんだけど」
ゆっくり、しくじらないように切り込もうと思った。
「評議委員の入れ替わりが激しいとか、先生たちの言いがかりとかいろいろ話はあるようだけどこちらには全然流れて来ていないんだよな。なのになんで、生徒会がいきなり割って入ろうとしたのか、そのあたりが今ひとつぴんとこないんだけど、どうだろう」
「今話したじゃないですか」
すぐに割って入る声があり。渋谷の鋭い一声だ。
「今、私も会長もお話した通り、今後私たち生徒会が中心になっていく以上、あとあと言った言わないのトラブルがないように」
「いやそういう意味じゃなくてさ。悪いけど、俺は会長と話をしたいんだ。君は黙っていてくれるかな」
上総は突っぱねた。あえてここで「僕」ではなく「俺」という一人称を通すことで抵抗をなくした。
「俺が知りたいのは、先生がたの言い分は正直どうでよくて、なんでそこまで強気で出られるのかってことなんだよな。だって、佐賀さん、半年前まで何も知らなかったのにいきなりどうして、って思わなかったのかな」
「もちろんそう思ってました。でも、すぐに覚えられました」
いつもの愛らしい口調で佐賀は答えた。くるりと周囲を見渡して、
「みんなが支えてくれましたから」
かすかに微笑んだ。なぜか新井林の方を見はしなかった。
「そうか、ならなおさら不思議なんだけど、どうして評議委員会を利用しようとあえてしなかったのかな。もったいないだろ。今まで交流会は評議委員会がメインでやってきたわけだし、その他の行事だっていろいろとさ。でも、あえて天羽からそういう話を聞こうとしないで一方的に先生方の意見ばかり取り入れるのは、少しちがうんでないかって気がするんだけどな」
「お話は聞くようにしました。主に天羽先輩から教えていただきましたけど、でも」
佐賀はるみは小首を傾げ、ちらっと新井林に視線を向けた。
「どうしても、それだとけんかになってしまいそうなことになりそうで」
「誰と」
「先生たちとです。どうしても意見が合わないというか、生徒たちばかりで進めると誰かが必ず暴走してしまうので大人たちがきちんと立ち会える場所でやるべきだとか。私もそう思うんです。そうしないと裏で何があっても、真面目にやっている人たちは太刀打ちできませんから。私、去年それ、本当に強く感じたんです」
言葉を切り、上総の目をじっくり覗き込んできた。
──去年、それ、な。
思い当たる節はある。あえてその例を出さなかったのが武士の情けなのだろうか。さて、そこまで考える暇はない。上総は聞き流した振りをして次に切り込んだ。
「当時の評議委員長として詫びを入れておくよ。それはそうとして、佐賀さん、今の話だと評議委員会で得たことはあまり役立たなかったってことになるよな」
「そんなこと言ってません」
いきなり新井林が腰を浮かせそうになるのを、天羽が「動くな」と制した。
「私はただ、評議委員会のやり方でずっと続けていくと、またたくさんの犠牲者が出てしまうと思うんです。どんなに一生懸命やっても、ひとりの人が嫌ってしまったために追い出されてしまい、心に重たい傷を負ってしまう人だっているでしょうし、本当は二年からもっとやりたかったのに、結局くだらないことであきらめなくちゃいけなくなってしまうかもしれませんし。それに、私、立村先輩が委員長の頃しか評議委員のお仕事できませんでしたけれども、本当だったらもっと、女子の先輩たちが活躍してもいいはずなのに、どうしてさせてあげられなかったのだろうっていつも思ってました。清坂先輩や近江先輩のような人がどうしていつも、立村先輩や天羽先輩の後ろに回ってしまうのか、それがかわいそうでなりませんでした」
──かわいそう、か。
わからないわけではないし、その点において上総も反省すべきところではあると思う。
しかし、ここで注意したいのは佐賀が指した女子の名前である。
──清坂氏と近江さんを出して、あえて目立っていたはずの霧島さんをひっぱりださないのはやはり、そうか。
つまり、佐賀は最初から、霧島さんを相手にしていなかったということになる。
単純に今評議委員会のメンバーとして参加していないから、というのもあるだろうが。
「評議委員会と生徒会が一緒になって活動するというのはいいことだと思いましたし、私も協力するつもりでした。もちろん今でもその気持ちは変わってません。でも、立村先輩が最初の段階で持ち出した案のままだと、ただ評議委員会と生徒会が一緒になるだけで、生徒会ができることが何もありません。うまくいえないんですけど私たち、生徒会役員としてやれることをしたかった、という気持ちはあります。他のみんなもきっと同じだと思います。でも、生徒会が評議委員会と同じことをするのだったら何にもならないし、それに先生たちをまた意味なくないがしろにしてしまうのも、なんだか申し訳ないなって気がするんです」
「やたらと先生たちのこと持ち出すのはなんでかな?」
上総は少し前かがみになり、佐賀はるみの顔を見据えた。おびえることなく佐賀も応じた。
「私、評議委員のころは気付かなかったんですけれども、先生たちは生徒会を通していつも私たちを見守ってくれていらしたみたいなんです。このまま評議委員会の人たちがつっぱしって、取り返しのつかないことになってしまったら大変だということで、いつも陰で見守ってくれていたんだなってことが、生徒会に入ってからよくよくわかったんです。私は知らなかったんですけれども、二年前の本条先輩が評議委員長だった頃からずっと先生たちはノータッチでいる方がいいという雰囲気になってしまい、そこで割り込むと本条先輩が不良になってしまう可能性あったので遠目で見守ろうってことに決まったらしいんです」
「それは本条先輩に対して失礼じゃないかな」
思わず声が荒立った。抑えようとはしなかった。だが怒鳴りはしなかった。奥歯をかみ締めた。佐賀は全く動じる様子を見せずに続けた。
「私もそれ、先生たちに教えていただくまで知らなかったんです。これ、ここでお話していいのかわからないのですが、先生たちは本条先輩の力を買っていたというよりも、本条先輩がこれ以上道を踏みはずさないようにするために、評議委員会を利用したというだけだったらしいんです。同じことをずっとしていたけれども、それがだんだん別の方向に進んで来てしまい、このままではただのクラブになってしまいそうだから、きちんと誰かが守ってあげなくてはならないという雰囲気になってきたようです」
「別に守ってもらわなくてもいいけどな。それで」
「つまり、私たちは本来すべきことに専念して、やらなくてもいいことはすべて先生たちにお任せしたほうがたくさんの人たちを喜ばせられるんじゃないかなって思ったんです。だって、この前も同じことになってしまいましたし。辛いことを生徒たちがやるのではなくて、先生たちに、たとえば、その、E組を作るきっかけになってしまったことのように」
片手を握り締め、危うく持ち上げそうになる。上総は唇をかみ締めた。
「去年の段階で、俺が交流サークルをこしらえようとしたらあっさりと学校側の方針で、E組作りに持っていかれてしまったって言う、あれだな」
「そうなんです。私、あの時、本当に申し訳なかったんです。梨南ちゃん、いえ、杉本さんに対して、クラスから追い出す形になってしまい、本当に心が痛かったんです」
──嘘つけ、それで一番いい思いしたのは君だろうが。
上総が心で激しく罵るのを気付いているのかどうかは知らない。全く驚かず、冷静に交わす佐賀に、上総はかすかに焦りを感じた。ちっとも怖がらず、口では謙虚さを絶やさないのに妙な威圧感があるのはなぜだろう。周囲もそのまま見守りつづけている。もちろん天羽が抑えているのもあるだろうが、誰一人割り込もうとしない。できないのか。
「もし、あの時、もっと別のやり方を評議委員会がしていたらまた話は変わったと思うんです。たとえば、直接先生たちと相談する形にすれば、もっとうまくいったと思うんです。これ以上誰も傷つけないでことがすんだはずなのに、自分たちだけで計画したがためにこういうことになってしまったというのが、私にはとても、辛くて、悲しかったんです。さっき私が言ったことと重なるんですけど、もしあの時、先生に告げ口する勇気があれば今のように梨南ちゃん、いえ、杉本さんを傷つけないですんだはずなのにって、今でも思います」
上総は指先で教卓を軽く叩いた。こつこつ響いた。
一時間前までずっと一緒だった、杉本梨南のまっすぐな瞳を思い出した。 あの眼差しのもとにすぐに戻りたい。まだ教室に残っているだろうか。雪の降りしきる中、一緒に肩を並べて家まで送ってやりたい。そのまままたどこかに連れて行きたい。こんなところで生ぬるいやり取りを続けるのはうんざりだ。
「佐賀さん、それなら聞くけど、どうしてそんなに人を傷つけたくないんだったら、評議委員会のごたごたをさらに引き起こすきっかけ、作ろうとしたのかな。俺が聞きたいのはそれだけなんだけど、どうなのかな」
「ごたごた? なんでしょうか、それは」
初めて佐賀が戸惑いの表情を見せた。
「つまりさ、佐賀さんが言うには、生徒会と教師連中が固まってやれば、今まで評議委員会のしでかしたような不始末を一切起こさないですんだってことになるよな。実際、俺が委員長だった頃にやらかしたことについては一切言い訳する気ない。少なくとも去年の十一月までのことについてはな。だけど、今回、こういう風な席を用意しなくてはならないくらいのことになったきっかけっていうと、単刀直入に言うとあれか? この前の騒ぎのことか?」
切り込んだ。三年生席からかすかに切り立った声が聞こえた。
「立村、やめろ」
難波だった。上総もそれは覚悟の上だった。ちらりと目を合わせ、首を振った。
「反応があったってことで進めるけど、はっきり言って三年同士でどろどろな出来事があり、そのあたりで先生連中が介入しようとしたってことだよな。確かにそれは納得するよ。子どもだけでは解決できない、大人が割り込むことでしか片付かないことも、確かになるよな」
前の席でこぶしを握り締め、いざ、勝負とばかりににらみつける新井林。後ろの席で頬の筋肉を片方だけあげてそっぽむいている霧島弟。天羽の様子は相変わらず他人事のよう。
「ただ、悪いんだけどそれは評議委員会と直接関係のない出来事だったともいえなくはないのかな? 今まで佐賀さんが話してきた内容だけで判断すると、評議委員の三年連中は救いようのない間抜け連中だったと思われそうだけど、ひとつひとつ分析してみると、違うだろ?」
いざ、戦わん。上総はもう一度教室全体を見渡し、最後に窓を眺めた。雪が降り始めていた。これが終わったらすぐにE組に戻り、杉本を連れて帰ることにしよう。十分以内で切り上げよう。
「ここで名前を出さないでおくけれど、きっかけは単に、佐賀さんと評議以外の女子とのいさかいがきっかけだろ? 俺もそのあたりは裏を取ったけど、ずいぶん酷いことを言うよな。悪いけど、ありもしないことを言うのはどうかと思うけどな」
「ちょっと待ってください。それは今回の話とは関係ありません」
見かねたのか渋谷が立ち上がり、上総をまっすぐ指差した。杉本と同じしぐさではあるけれども、渋谷の眼差しと一緒だとやはりいらいらする。
「悪いけど、関係あるんだ。しつこいようだけど話を続けさせてもらえないかな」
まだ言いたいことあるらしい渋谷を無視し、上総は続けた。やめる気なんてない。
「女子同士の口げんかに口を出す気はないよ。あとでしっぺがえしを食うからな。ただ、なぜそういうことを生徒会室の中でやらかしたのかってのがまずひとつ。悪いけどそれから一連の出来事は、そこから始まったわけだから生徒会のみなさんの責任は大きいわけだよな」
「それは全く関係ないことではないのでしょうか?」
佐賀は相変わらずの静かな口調で答えた。
「おそらく立村先輩のおっしゃていることは、杉本さんに私がアドバイスをしたことだと思うのですが、おっしゃる通りそれは友だちとしてのことであって評議委員会関係のことではありません。それは渋谷さんの言う通りこの場では関係のないことだと思います」
新井林が首をひねっている。ぶっこわれんばかりの目で難波がにらみつけている。轟さんが落ち着いたようすでノートに何かを書き込んでいる。最後列で美里と貴史が同じ筆箱の端と端を握り締め上総を見つめている。
「そうだな、本来なら関係ないよな」
もう一度上総は教壇をこつこつ叩いた。
本来なら正論である。
──委員会がらみの場において直接関係のない出来事を持ち出し話を無理やり広げようとするのは、最低のやり方だ。
上総もそれはよくわかっていた。本条先輩にも何度も説教された。他の連中がしようとしたらさりげなく注意をするようにしていた。元評議委員長としてそれは許されざることだった。
そんなことをかまっている余裕なんてなかった。
第一、もう評議委員でいられる時期はあと一ヶ月なのだ。
しかも、すでに上総は他の連中から「評議委員」であること自体を放棄していると思われているはずだ。
最後の最後だし顔を出してきた程度、とでも思われていただろう。何かに取り付かれたのかいきなり正論の生徒会に噛み付いているおろか者とでも思われているだろう。
もう四月以降、高校でふたたび評議委員になろうなんて野心は持ち合わせていない。英語科には藤沖もいる。関崎だって入ってくる。その他知らない奴らでやる気十分の連中がうじゃうじゃいるだろう。もう上総が無理に評議委員という場所を求める必要もないわけだ。
なら、ここで「元・評議委員長」として行動しなくたっていい。
評議委員長として、よりも、自分は立村上総として、全身全霊でもって勝負するのみ。
──評議委員失格、それでいい。晩節を汚す、おおいに結構。
上総はもう一度手をひらいて教壇にぺたんと置いた。
「関係ないんだけど、俺はそのこと、話したいんだ」
じんわりと佐賀はるみを見下ろした。
「わかりました、おっしゃってください」
新井林と渋谷のふたりに手でそれぞれ制するしぐさをしたのち、佐賀はこっくり頷き耳もとに手を当てた。
「佐賀さんが杉本に話したことなんだけどさ、半分以上あれ、でたらめだよ。水鳥の奴のことなんだけどさ、俺の友だちだしこの前確認したらさ、青潟東受けるらしいよ」
「あの、ことですか」
明らかに佐賀は不意を突かれた風に口篭もった。
杉本梨南の関崎に対する恋心を、ここで暴露するつもりはない。佐賀にだけわかるようにまずは匂わせるに止めた。一瞬とはいえ、効果あり。上総はさらに続けた。
「それと、もし佐賀さんがあの場で杉本に変なことを話していなかったとしたら、たぶん元評議連中のトラブルは起こらなかったはずなんだ。佐賀さんの言う通り、これはプライベートなことだしそれ以上は言わないけどさ。ただ、さ、これは、やっちゃあいけないことだと思うよ。少なくとも生徒会長の立場で、生徒会室の中で、関係ない生徒を脅すってのはどうかと思うな」
「私は脅してません。梨南ちゃんがそんなことを言ったのですか」
「言うわけないだろ。杉本は事実しか言わない」
つっぱねた。すごんでしまったのは無意識だった。
「ただ杉本の話とその他いわゆる三年評議のどたばた劇の噂を重ね合わせた結果、もしあの時生徒会のみなさんが杉本に変なことを吹き込んだりしていなかったら、ひどい結果にはならなかったはずなんじゃないかな。そう思えてならないんだ。もし杉本が、まだ入学すると決まっていない奴に生徒会がらみで近づくなとか、脅されていたとしたらこれは人道的にやってはいけないことだと俺も思うんだ」
「ですからそれは私と梨南ちゃんとのプライベートな話であって」
「だったら、評議関連のいろいろな出来事も、思いっきりプライベートな話だろ?」
正論を言っているのは佐賀の方だ。それは重々承知している。
だが、ここで議論を戦わせる理由は白黒はっきりさせるためではない。
──俺は負けたっていいんだ。
「もともと評議委員会は裏でいろいろ後ろ暗いことしてきた集団だし、それを先生たちにつっこまれるのならそれはしょうがないと思ってるさ。認めるし、それなら来年以降のことは何もくちばしはさむ気なんてない。ただどう考えても、生徒会のみなさんがやってることは、ひとりの生徒を集団いじめしているようにしか見えないんだよな」
「ふつうに話をすることがなぜいけないのでしょうか。私にはわかりません。それに、こんなくだらないことで時間をつぶすのはもったいないことではないでしょうか」
相変わらず佐賀の表情は乱れなかった。言葉に時折「梨南ちゃん」と杉本の名を呼んでしまうところだけが、陰りだった。
「ああ、俺もこんなことさっさと終わらせたいからな。とにかく佐賀さん、あの時にもし佐賀さんが杉本に、関崎が青大附高に入学してきても絶対に近づけないとか言ってなかったら、それをかばおうとした元評議委員たちが暴走することもなかったわけだしさ。あ、それともうひとつ言っておきたいんだけど、この一件で天羽のことが散々噂になっているようだけど、それ、全く持って大嘘だから」
「俺……?」
とぼけた顔で天羽が上総に声をかけてきた。悪いが無視。相変わらず机につっぷして眠っている近江さんをちらと見た。
「なんかさ、噂によると天羽の色恋沙汰が原因でどたばたやってるって話になって、先生方もそれ本気で信じているようだけど、ほんとのところは違うだろ」
上総は片手を教卓に置いたまま、朗々と言葉を放った。
「天羽の人間関係とは一切かかわりなし。単に、佐賀さんが生徒会室で杉本に、まだ来ることが決まってない奴に近づくなとかわけのわかんないことを話したのがきっかけだよ。もしそれさえなければ、ここまで天羽をつるし上げることもなかっただろうしな。杉本に恨みがあるのはわからなくもないよ、けどな、佐賀さん、それは一人の人間として、今更やってはいけないことなんじゃないか? そうだな、人間としてもそうだけど、少なくとも生徒会室の中でそれをすべきではなかったんじゃないのかな」
もう一度、上総は教室を見回した。反応を見た。難波と美里のふたりがナイフを振り上げそうな瞳でじりじり見つめているのが目だつだけ。天羽はじっと上総の出を待っていて、更科は難波を止めようと腕をまさぐっている。美里の宥め役は今のところ貴史、予定通りだ。二年以下の評議たちはあえて声も出さずに静止状態だった。意外にも、新井林もそのまま硬直していた。
そろそろけりをつけよう。人間として最低なやり方なのは百も承知。
上総はゆっくりと身をかがませ、止めの一言を準備した。渋谷が割り込もうとするのを
「悪いんだけどさ」
チンピラ風に、鼻でせせら笑うような態度でもって。佐賀にしか聞こえない声でささやいた。。
「そのやり方、やっぱり、佐川に習ったわけ?」
きょとんとした顔のまま、相変わらず動揺を見せずに見つめ返す佐賀の目の前で、新井林が立ち上がった。とうとうやられる。そう思った。
──言いたいこと言ったし、一本くらい歯を折っても、まあいいか。
「あんた、評議委員長だったってのに、何考えてるんだよ」
すでに敬語なんて尻尾にもくっついていなかった。新井林はこぶしをつくり仁王立ちでいた。唇をまっすぐに結ぶと、細かく首を振った。
「立村さん、あんたはさ、あの本条さんが認めた評議委員長だったんだろ? なんでこんな最後の最後に恥さらしな真似しやがるんだよ」
上総は返事をしなかった。すでに新井林に話すべきことはない。次期評議委員長、自分以上の素質を持った奴にこれ以上何も言えはしない。ただ黙って視線を向けるだけだった。
「こんなわけのわからねえことしやがって、もうやめろってってるだろ!」
──なぜ、殴りにこない?
そのまま上総は新井林を見つめたまま、様子を伺った。
いつもの新井林なら、一発くらいストレートパンチを食らわせるはずだ。
今自分がしていることは、当然そうされて当然のことばかり。
最愛の佐賀はるみを、いけ好かない出来損ない先輩が侮辱しているわけなのだ。
いつのまにか教室内の観客たちがひとり、また一人と立ち上がり新井林の周りを囲もうとしている。二年評議連中だった。肩に手を置いて「おい、やめろ新井林」とかささやく奴もいる。すでに上総は蚊帳の外っぽい。一年評議たちが相変わらず呆然としたまま隣の席同士で話をしている様子だった。近づいてくるのは生徒会連中たち。黄色いヘアバンドの渋谷が上総に近づき、
「いいかげんにしてください!」
そう怒鳴った。目の前の新井林が奴にしては淡々と訴えてるのと正反対なのに、全く伝わるものがない。響きを感じない。そのまま無視して通した。
「あんた、ちょっと黙れ。俺は立村さんと話してるんだ」
「評議委員会っていったい、何考えてるんですか。だから先生たちが早くつぶしたがってるんだわ。佐賀さん、いいかげんこんなのやめましょう。霧島くんも手伝って」
「くん付けで呼ばないでください」
「そんなのどうでもいいでしょう」
目の前で渋谷と霧島弟のふたりがいきなりわけのわからない口論を始めている。いったいなんでこんなくだらないことになっているんだろう。聞き流しつつ、上総は新井林の顔に何が浮かんでいるかを読み取ろうとした。なぜ、なぜ殴らない?
「弱い者いじめ、とか言ってるけどさあんた、あんたが今してることだってそうじゃないか? あんたがこんなまん前で、ひとりの女子をつるし上げてるのもいじめじゃねえのかよ。それって、正々堂々たる態度じゃねえよな」
──正々堂々か。違うよな。
「人間として、それは間違ってる。絶対に、どんな理由があろうとも、絶対に間違ってる」
新井林は何度も繰り返した。仁王立ちのまま顔を火照らせたままに。
「どんな理由があろうとも、あんたのやってることは間違ってる。そうだよ、立村さん」
──間違ってるか。そうだな、俺もそう思う。
「あんた、同じ事、俺に言ったこと、どうして忘れてるんだよ、なんでこんなこと、最後の最後に、なあ、あんたもうやめろよ」
──間違っているしちっとも正々堂々じゃないよな。
心の中で何度も相槌を打った。
──だから、殴っていいんだよ、新井林。お前にはそうする権利がある。
全く動こうとしない佐賀の落ち着きぶりにどこかでいらだちつつ、上総は新井林が飛び掛ってくるのを待ちつづけた。室内騒然とし、この状況をうまく納められるのは果たして誰なのか、上総はその人物が立ち上がるのを待った。ゆっくり三年連中の固まった席に目を向けると、相変わらず難波が罵詈暴言を吐き散らしているのが聞こえた。更科ひとりでは宥めきれず、なんと轟さんが軽く難波の頭をはたいた。少し落ち着いたようすではある。美里の面倒を見ているのはてっきり貴史だけかと思いきや、何時の間にか起きた近江さんがしっかりと片腕を押さえ、耳元に何かささやきかけている。爆弾二個ともしっかり押さえつけられている。残されているのはひとり。
「立村」
教室内の空気を一気に鎮めたのは、天羽の一声だった。
良く通った声だった。
難波も、美里も、そして新井林もみな口を閉じ、そのまま天羽にすべてを集中させていった。その流れは太く、たっぷりしているように感じられた。上総は手を教卓から下ろし、そのまま天羽が来るのを待った。ちらと佐賀を見下ろすと、小首を傾げたまま、新井林に指先で、座るように指示をしていた。従わずに突っ立っているままの新井林が、
「あの、天羽さん」
ぼそっと呟いた。
天羽はまっすぐ上総に向かって歩いてきた。正面に立った。新井林に、
「お前も座れ。まだやることがある」
有無を言わさぬ口ぶりで告げた。次に教卓奥の佐賀はるみに向かい、
「まだ話は終わってないんで、これからまとめるといたしやしょうか」
わざとらしい丁寧な口調で告げた。最後に上総へ目を移すと、
「もう、帰っていい」
一言だけ、搾り出すように呟いた。眼差しに怒りはなかった。とんでもないことをやらかした同期の評議委員をしばきたくなるような気持ちはなさそうだった。かすかに潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
「はっきり言えよ」
危うくチンピラ口調が抜けてしまいそうになる。まずい。最後の最後まで演じきろう。
上総は口を一度きっちり引き締め、天羽を促した。
「俺にどうしろっていうんだよ」
目と目が合い、何かがかちんとぶつかり、答えが伝わったような気がした。
「立村、もう、評議委員会、こなくていい」
一瞬だけ天羽の唇が震えた。その後、教室の誰もに伝わるような太い声が響いた。
扉を指差し、ぐいと上総を顎で指した。
「あとは俺がすべて片付ける」
上総にだけ見える程度の首の振り方をし、天羽は頷いた。
──こいつはわかってる。大丈夫だ。
とてつもない混乱の状況を収められるのが、誰なのか。
この場を納めるのに一番ふさわしい相手が誰かなのか。
それを意識の真中において、上総はすべてを演じた。
教壇の上でちんまり座り、何がなんだかわからない顔をしたまま平然としている佐賀はるみ生徒会長ではなく、さんざん色恋沙汰の極悪人と叩かれてきた天羽評議委員長が、生徒会がらみで誤解を招いたひとつの出来事を片付ける。それを事実として証明すれば、天羽が青大附中において最高の評議委員長だったことが全校生徒の前で明らかとなる。
──天羽ならできる。絶対にできる。俺には決してできないことだけど、天羽ならば。
──それに轟さんもいる。難波もいる。更科もいる。清坂氏も羽飛もいる。
最後まで佐賀はるみの態度は一貫していた。全くといっていいほど動揺せず、小首を傾げたまま渋谷、霧島弟と目配せしながら
「立村先輩のお話すべて聞かせていただきましたが、それは梨南ちゃんの言い分でしかないのでしょう? どう考えても私、先輩のおっしゃる意味がわかりません」
知らない振りを通そうとしているのだろう。もうこれ以上上総は、佐賀はるみにかかわる気などなかった。何を訴えようが、ちらつかせようが、彼女には何も怖いものがないのだろう。目の前に新井林がいて、そこで佐川の名前を聞かせても、佐賀はるみの落ち着いた表情に曇りはなく、「何でこの人、一人で騒いでいるんだろ」と言いたげな態度を崩さない。こんな女子に杉本が勝てるわけがない。
もう上総のするべきことはひとつしかない。評議委員会よりも、なによりも、たったひとりで戦うしかない杉本梨南を見守るだけだ。
「黙れ」
厳しい一声を発したのは新井林だった。そちらの方に驚いた。
「お前、自分の立場わかってねえだろう!」
「そんなことないわ」
さらりと交わすと、佐賀はるみは上総からきびすを返し、天羽に向かいこっくりと頷いた。
「では、立村先輩がお帰りになったら、もう一度お話をまとめたいのですがよろしいですか?」
天羽も「かしこまりやした、じゃあまずは皆の衆、控えおろう!」
わざとらしいおちゃらけ口調でもって空気を和ませた後、上総に二本指で敬礼のサインを送ってきた。
上総はもう一度教室の中をぐるりと見渡した。ひとりひとりを見つめる余裕はなかった。すべての人物に白い雪が降り積もり、ひとつのシルエットに替えて行くかのようだった。天羽も、新井林も、佐賀も、美里も難波も、すべてが。
「わかった、それじゃ、あとはよろしく」
いいかげん野郎の演技を貫徹しよう。鼻でひとつ笑った後、上総は帰り際天羽の肩を強く叩き、美里たちの座っている席に戻り、素早く荷物を抱えた。そのまま背を向けた。
誰も引きとめる気配はなかった。すれ違った際、藤沖の舌打ちと、まだぶつぶつ言っている美里と貴史の声とが耳元を掠めた。
扉を閉め、ひんやりした空気をゆっくり吸い、上総は振り返らず三階の階段を下りていった。窓から見える雪は激しく降り積もっていた。たった三十分くらいしか経っていないはずなのに、枝がこんもりと白く覆われていた。
三年間の枝葉すべて抜け落ちた日々、今すべて雪で埋められていき、やがて純白の闇に染まっていくようだった。