第三部 9
第三部 9
「杉本、ひとつだけ確認したいんだけど、いいか」
教室を出る前に上総は杉本梨南の耳にささやいた。まだ教室には駒方先生が他の生徒たちと教卓で話をしている。一年の生徒だから上総たちの会話を気にする様子はなく、声を潜める必要もないのだが、念には念を入れておいた。
杉本もかばんに荷物を一通りしまい終え、上総の側に接近してきた。
寄り添う、のではなく機械的に張り付くような感じだった。
「何か御用でしょうか」
「うん、ひとつだけなんだけどさ」
もう一度周囲を見渡した。本当はもっとべったり側にくっついて話し掛けたいのだが、さすがに人目はばからずにというのは抵抗がある。駒方先生が口でこそ何も言わないものの、さりげなく上総と杉本の様子を伺っているのを、なんとなく自分でも感じていた。
「生徒会室に近江さんはいなかったのか」
「A組の方はいらっしゃいました」
杉本はいつもの一本調子な口調で答えた。あえて濡れた感情を干したような言い方だった。
「お前と佐賀さんが話をしている間、近江さんもそれを聞いてたのか」
「聴力が失われてなければ聞いてらしたのでは」
──やはり近江さんが混じっていたのか。
「その後で西月さんと話をしたんだな」
「はい」
それだけわかれば十分だ。上総は杉本を真正面から見下ろし、しばらく言葉を捜していた。見つからない。何かを伝えたい気はするのだが適当な言い方がどれなのかわからない。
「杉本」
「はい」
これから自分がしようとしていることをもし杉本が知ったら、なんと言うだろう?
止めてくれるだろうか。それとも、軽蔑して一切無視するだろうか。
「評議委員会に行ってくる。藤沖から当時の原稿もらってくる」
結局伝えられなかった。
「そうですか、いってらっしゃいませ」
特別杉本もなにも感じていないようだった。それならそれでよい。上総はカバンとコートを両腕に抱え、廊下に出た。教室に比べると空気は若干、冷えていた。
──これ以上、落ちるところはないんだ。
難波、貴史、そして杉本の言葉を聞いて、授業中気付かれないように計画を練っていた。自分でもどうしてこんな、自虐めいたやり方が頭にひらめいたのかわからない。一年前、宿泊研修のバス内で起こした脱走劇の際も、まる一日計画を立てる時間があった。プラスとマイナス両方を掛け合わせ、さらに本条先輩や天羽に相談する余裕もあった。今はたった一時間少ししかなかったというのに、もう自分の中で決断してしまっている。どうしてそこまで出来てしまうのだろう。
──もし、今俺が考えていることを杉本が気が付いたとしたら。
もう一度上総は思いを巡らせた。
──もう二度と、口を利いてくれないだろうな。たぶん、目もあわせようとしないだろうな。
そっと口元だけでつぶやいた。
「それでも、まあいいか」
今の上総が求めているものは、杉本からの深い尊敬ではない。そんなのはすでに関崎以外に向かうはずもない。一緒にいられる空間だけでもない。どうせ後一ヶ月で卒業だ。
だけど、杉本がひとりっきりになってしまう間、責めたてる誰かを追い払うための虫除け、それくらいはしたっていいだろう。杉本に永遠に嫌われてしまったとしても。
季節はずれの蚊取り線香をつけて去るのも、また良しだ。
上総はかばんから黒い手帳を取り出しブレザーのポケットにつっこんだ。前髪はいつものように軽く上にあがるようにしてあるが、それも軽くかき回した。確か三年A組の教室に集まっていると聞いている。評議と生徒会以外にも、次代を背負うらしい人材も顔をそろえていると聞く。ギャラリーも問題なし。あとは、演じるだけだ。
──もう捨てるものなんて、何もない。
階段を昇ると、一階の踊り場に南雲が突っ立っていた。
何か物思いにふけっているようで、窓をぼけっと眺めていた。
人の想いを邪魔するほど野暮な性格ではない。声をかけずにそのまま二階へ上がった。
三年A組の教室前に立つ。
去年、本条先輩のいたクラスということもあり、しょっちゅう出入りしていたものだった。
──本条先輩、どうしてるかな。
もう二度と連絡できない自分の立場。だけど一番最初に上総の存在を認めてくれた人だった。本条先輩がいた頃は、出入り口に立っているだけですぐ「おい、そんなとこに突っ立ってるんじゃねえよ。こっちこい」と呼び込んでくれたのに。今は自分で覚悟を決めて足を踏み入れないといけない場所になっている。上総は深く息を吸い込んだ。いつものように扉のノブへ手をかけようとした。その前にノックをしようと指を鉤型にし、すぐにやめた。
──もう、捨てるものなんて、何もない。
軽くノブをひねった。音は聞こえない。ほんの少し細く開けた。女子の何か叫んでいる声がする。つま先をドアに差込むと上総は一気に蹴り飛ばし、その片手で抑え、まずは一声。
「遅くなりました。どこに座ればいいですか?」
普段の自分にはない、隠れていた鋭い声が出た。
知らない奴が背中に張り付いた。
自然と笑みも洩れている。教卓になぜか座っている佐賀はるみと、その脇で髪の毛を掻き毟っていたらしい天羽、苦虫噛み潰した顔をしている難波、びっくりまなこの更科、じっと真剣な眼差しを送ってくる轟さんと眠そうな顔の近江さん、奥の席でくっつきあっている美里と貴史、その他見知った面子が顔をそろえていた。近江さんはいなかったが藤沖も反対側の席で両腕を組んでいる。上総はまず、一人一人をじっくり目で追っていった。
「立村先輩、もう始まっておりますが」
一瞬だけ驚いた顔を見せたがすぐに冷静に戻ったのだろう。佐賀はるみが教壇の椅子から穏やかに答えた。周囲がざわめき立つが、決して「立村先輩?」などといった個人名が浮かぶことはない。ただ評議委員たちも生徒会役員たちも、またその他の連中もみな、わさわさと何か言葉を発しているだけだった。聞き取る必要はない。
ブレザーポケットの手帳が少し重い。上総はポケットにまず手をつっこみ、手帳を握り締めた。肩をいからすようにしてそのまま教壇にのぼり、意識して大またで佐賀生徒会長に近づいた。教壇の上から見下ろした景色は、一年前のものと代わらないけれども、ただ向けられた視線の刺がサボテン状態だった。奥の席で美里と貴史が身振り手振りで、「あんたやめなさいよ!」とばかりに合図しているがそんなの知ったことじゃない。こちらから挨拶にいくだけのことだ。
「詳しい事情はよくわからないけど、一応俺も評議の端くれだから、後ろに座ってるけど、文句ないでしょう?」
教室中に聞こえるように、これも声を張り上げる。
「あんた今更何しに」
素早く立ちはだかろうとするのは、予想通り新井林だった。相変わらずのスポーツ刈り頭を数回ぐるぐる回し、佐賀はるみの前、教壇の前に張り付いた。次期評議委員長、そして佐賀はるみの用心棒。一年前だったら上総もびくりとひきつって、一歩、二歩、退いただろう。たとえ一年上だとしてもそんなの関係ないのだから。でも今はそんな弱い自分であってはならない。
──俺には、やらねばならないことがある。
「一応、年上を敬えってことを忘れるな。伊達にお前を仕込んだわけじゃないだろう」
──実際仕込んだわけじゃないけどさ。
はったりだ。しかたない。くくっと後ろの方で笑いをこらえる人物あり。見知らぬ男子女子たちだった。上総は教壇で佐賀はるみの隣に立ったまま、新井林を見下ろした。
「最後の評議委員会、出たって問題ないだろう」
「今までずっと放置しといて今更先輩面するんじゃねえ!」
おや、もうとっくに敬語が消えている。こいつは佐賀はるみに関係する出来事ならば何一つ遠慮することのない男だし、これもしょうがないことか。こっくり頷き、上総はもう一度笑顔をこしらえた。いつものように口元だけほころばせるのではなく、満面の作り笑顔を浮かべた。こんなに笑ったの、生まれてからほとんどない。
「悪いけど、そこ、どいて」
新井林の肩を力込めて押しやった。さすがに委員会と生徒会とが交じり合った環境の中、新井林がパンチを食らわすことはできなかったようだ。一番後ろの席に向かうと、そこには美里と貴史が席を並べて座っていた。さっきから一番後ろに鎮座ましていた。ひょいと後ろを振り返ると、轟さんが無言で上総の様子を伺っていた。
「お前、来たのか」
「なんとなく、来たくなったからきたってわけだけどさ」
貴史の返事にいいかげんな言い方で答えた。いわゆる「軽い奴ら」ののりである。上総の自己表現辞書には入っていないパターンの行動だ。しかもへらへら笑いまでセット。明らかに貴史も美里も、同じリズムで眦を吊り上げた。机を両手で思い切り叩く美里が、声だけ低く続けた。
「立村くん、何よいきなり! あんたって今ごろ、どうして」
「だってさ、羽飛が来いっていうからしょうがないしさ」
今まで美里の前で、こんないいかげんな態度を取ったことはない。
その点重々承知している。
あえて今、ここで言い放ってしまっていいのか、迷うのを上総はやめた。
自分の本能に任せて、やりたいようにやるだけだ。あとは、すべてを背負うだけ。
「だから、悪いけど羽飛の隣に行くから、それでいいだろ。椅子だけでいい。どうせ清坂氏、自分でノート取ってるだろうし、俺が書いたもんなんて役立たないだろ」
「立村お前、何考えてるんだ! 委員会、みんなお前のこと待ってたってのにな!」
血を昇らせたのか、次は貴史が上総の頭を軽く小突いた。まだ手加減している。ということは冗談でやっていると判断したのだろう。周囲はまだ、息を呑んで上総を見つめている。いきなり立ち上がり、
「ありま、立村ちゃん、待ってたぜ。まずは落ち着けや」
天羽が片手で難波を制しつつ、上総の隣にしゃがみこんだ。相変わらずのくったくない笑顔だがその裏に、どろどろした家庭の事情が絡みついていることを上総は知っている。口にはしないが、忘れはしない。思わず正気に戻りたくなるが、かろうじてこらえる。
「悪いけどさ、俺も話終わったらさっさと帰るからさ。送らなくちゃなんない相手がいるからさ」
「はあ?」
聞き返そうとしたのは天羽だけではない、難波、更科、轟さん、貴史、美里も一緒だった。口を開きかけた天羽を制したのは上総ではなく、生徒会役員の方だった。佐賀ではなく、もうひとり、おかっぱ髪にヘアバンドをかけた女子が、ひきつり気味に声を挙げた。
「時間が限られておりますので、先に進めさせていただきます」
「どこまで話進んでいるのか、聞いていいですか」
上総は退かなかった。
──今だけは絶対に、退かない。
明らかに驚いたのかその女子……顔を見て思い出した。去年副会長を務め、現在は書記に回っている生徒会役員の二年だ。名前は度忘れしたが、確か一緒につるんでいるのが上総の過去を暴き立てて名をはせた風見百合子であることは知っていた……は鋭い視線でにらみつけてきた。この会合には教師が混じっていない。それでもしっかり押さえがきいているのはやはり、佐賀を始めとする生徒会役員たちの力なのだろうか。
「他の方に確認されたらいかがですか」
つっとんげんな返事が返ってきた。隣で貴史を迂回するように、美里がノートを差し出そうとする。いつもならそれをチェックしあうだろう。頼っている。でも今はする気もない。
──清坂氏、今までありがとう。
これだけを心中呟いて、上総はまたいいかげん野郎の笑顔でめいっぱい答えた。もちろん片手でノートは美里に押しやった。
「時間がないんでさっさと教えてくれたってかまわないでしょうに」
後頭部を今度は手加減なく殴られた。貴史の仕業だ。こちらにも言い返しておく必要がある。椅子を引き出して隣に置き、上総はにっこりと更科的「子犬の笑顔」で立ち向かった。
「痛いな、まあいいよ、とにかく俺はやることやったらさっさと帰るから、そのつもりでな」
「帰るだと? 立村!」
振り返りさらに握りこぶしを振り上げようとする難波を、今度は轟さんが押さえた。上総にちらと視線を送り、
「時間がないんだから、早く早く」
もう一度、轟さんは上総の顔を見据えると自分の席に着いた。
この交流会が行われるきっかけとなったのは、おそらくこの前起きた評議委員三年たちの修羅場事件の影響だろう。難波もそんなことを匂わせていたし、轟さんも天羽も同じことを話していた。現在の段階で上総が知っていることはほんのわずかだし、その情報を元に動いたとしてもそれが真実だという保証はどこにもない。
嘘を決してつかない杉本梨南の言葉だけ、それを信じたかった。
たとえそれが思い込みだとしても、杉本梨南の訴える痛みをそのまま受け止めたかった。
──杉本だけは、絶対に。
上総は考えることをやめた。本条先輩の威勢堂々たる立ち振る舞い、羽飛や天羽、新井林たちの男子らしい態度、難波の一途な暴走、更科のチワワな笑顔、そして美里のまっすぐな眼差し。三年間受け止めてきたことをこの五分間ですべて出し切る、そう決めた。
一生、軽蔑されてもいい。上総はすべての責任を全身で取る。
あきれ果てた顔で佐賀と話をした生徒会役員女子は、目の前の席に座っている男子に何か話し掛けていた。上総の方へ冷たい視線を送ってきたのはおそらく、霧島さんの弟である副会長だろう。いつもならば「お前の姉さんは大丈夫なのか?」と問いたいところだが、轟さんの注意もあるしここはこらえておく。上総は全く気付かぬふりをして足を組んだ。頭に手を組んでひっくり返りたいけれどもさすがに理性が働いた。
「今、天羽評議委員長に、今後の評議委員会に関する位置付けを確認していたところです」
──ジャストタイミングか。
霧島弟が、少し甲高い声で上総に返事した。かすかにばかにしたような響きを感じるのは背が少しそりかえっていたからだろう。気にはしない。上総はわざと大きく頷いた。
「そうか。つまり今後、評議委員会を生徒会のみなさん、どうしたいわけなのかな」
またざわつく。ひとりおいて隣から、「立村くんいいかげんにしなさいよ!」、そう叫ぶ声がする。無視してよし。一切動かず上総は、教壇の佐賀はるみに向けて言葉の弾丸をぶつけるタイミングを待った。
「立村先輩ならそのことをご存知のはずです。生徒会としてはこれから先、評議委員会のみなさんが中心となって開いてきた交流会を、今度は私たちの手で運営したいと考えてます」
「それで? 天羽、お前なんて言った?」
不意を突かれた風に今度は天羽が上総に向き直った。椅子を直した。
「まああれだ。俺もそのことには異存がないんだが、ただ、俺たち評議委員会には経験っつう財産がてんこもりだろ? だからなあ、ここんとこで、協力しやしませんかとだな」
「新井林、お前は?」
すでに敬語をとっぱらったはずの新井林も、先ほどの上総豹変に戸惑っているのかまた丁寧語を使い始めた。
「女子中心の生徒会では荷が重いっていうのが俺の考えです。経験のある評議委員会が今年一年手伝うのが自然だと、俺は思います」
「じゃあなんで、それが議題になってるわけ?」
いつもの穏やかな言い方では飲まれてしまう。隣の羽飛からカンペンケースを奪い取り、上総は机をこつこつ叩いた。
「あ、俺のもの何するんだ、こいつ、手癖悪すぎ」
「誤解招く表現するなよな」
すぐに返し、上総は足を組みなおした。椅子だけだからそのあたり丸見えだ。膝の上にはコートを重ね、さらにカバンを載せた。
「新井林の言い分も、天羽の考えも俺は正しいと思うけど、生徒会のみなさんは何がご不満なわけ」
「私が聞いたところによりますと、評議委員会がすべて行ってきたことを、四月以降はすべて私たち生徒会が引き継ぐということになっていたようですが。藤沖先輩、そうですよね」
元生徒会長藤沖は上総を一切見ず、佐賀に向かい頷いた。ちなみに説明したのはヘアバンドをかけた女子の方だ。佐賀ではない。
──一切あの人、あの女子に全部投げてるな。
新井林があれだけ屈辱的な立場に立たされているにもかかわらず、相変わらず佐賀はるみのナイトでいる事実を上総は確認した。つまり、悪役を他の生徒会役員……ヘアバンド女子であり、霧島弟であり……に振り、佐賀はるみ自身はおとなしい女子のふりをしているというわけだ。もしかしたら杉本との一件もそうかもしれない。佐賀は杉本とかつての親友として話をしたように思っているが、例のふたりプラス風見百合子が結託して何かをやらかしたとしても不思議はない。さらに杉本の話では、その場に近江さんがいた可能性もあるという。
近江さんはもともと美里のような賢い女子が好きな人である。賢い=佐賀はるみのような女子に関心を持たないとも限らない。
──裏を取る時間がほしいよな。
悔いた。今更どうしようもないとは思う。自分がこれから導火線に火をつけようとしている爆弾が、実はスカだったとしたらどう始末すればいいだろう。杉本の言い分を鵜呑みにしただけと馬鹿にされ開き直られたら。自分はかまわない。どうせ高校に行ってそれきり、軽蔑男の三年間を耐えればいい。
でも、杉本は?
嘘つき女子、血迷った馬鹿男子にしつこくまとわりつかれただけの馬鹿女子と物笑いにされるだけかもしれあにじゃないか? そんなことをして本当に、本当にいいのか? 自分自身はもう捨てるものなど何もないからこうやってふざけたまねしていられる。でも、誇り高いいくさおとめ、杉本梨南にこれ以上の地獄を味合わせていいものなのか?
──せめて同じ学年だったら。
どうしようもないことばかりが頭の中を駆け巡る。
上総は何度か首をぐるぐる回した。肩を交互に自分でもんだ。落ち着きない風に見えるだろうが、それも作戦のうちだ。
「藤沖、悪いんだけど、俺そんな話したか? 新井林と次の代で協力しあえばそれでいいって話はしたけどな」
半年間全く無交渉だった相手に声をかけるのは、自分にとって身を切るような恐怖だったはず。なのに、なぜか顔をゆがめてにやけていればいくらでも口から飛び出す。そうだ、この調子でいけばいい。
藤沖はかすかに首を動かしたが、すぐに黒板へ目を戻し、
「こいつとしゃべることはない。話を続けろ」
佐賀に指示を出した。元生徒会長、権力、健在だ。
「はい。わかりました」
すずやかに返事をした佐賀はるみは、上総にこっくりと頷きながら、
「私も本当は、評議委員会のみなさんにお手伝いしていただきたいのですが、先生たちのご意見が」
言葉尻を引き取り、教卓前の席に陣取っている霧島弟が甲高い声で続けた。
「先生たちは評議委員会よりも生徒会の方に、どんどん活動してもらいたいみたいなことを話してましたよ」
「それはどうして?」
しらけていく空気も怖くない。上総は負けじとトーン高めに言い返した。
「私たちもその辺はわかりませんけれど、ある先生が言ってましたよ」
さらにストロークを返してきたのはヘアバンドの女子だった。
「先生が言う以上は、それに逆らうことはできないと、私も思います」
──もっともだ。
まずはこの辺で様子見をしようと心積りし、上総は更科特有の子犬笑顔を浮かべてみた。と同時に
「うるさすぎるぞ、立村」
藤沖から真四角の体躯を上総のいる方へ向け一喝された。
「お前いったい何しに来た。真剣に話をしようとしているのになぜ茶化す。ったくたまってるんじゃねえのか? いいかげんにしろ!」
しかも下ネタつき。
普段なら上総の一番苦手なシュチュエーションのはずだった。
「茶化してなんかいないけどな。あとでお前から答辞の原稿をもらうつもりではいるけど、もうできた?」
こいつはおそらく、四月以降応援団の団長として活躍することになるだろう。嫌いな奴じゃなかったけれども、嫌われてしまったのだからしかたない。もう二度と会話を交わすこともないだろう。ならば、とことん演じるだけだ。上総は足を組みなおし、ぐるりと男子女子を見渡したのち、言い放った。
「そうだ、藤沖悪いけど、俺は毎日、風呂場とベッドできっちりと抜くもの抜いてるよ。心配していただかなくても結構。あっちの欲求不満が原因じゃあないから、その点誤解なきように」
「馬鹿が!」
今度こそ藤沖は無視を決め込み、再び背を伸ばし両腕を組んだまま黒板に向かった。
本条先輩からは「下ネタをぶちかます時は、女子がいばっている時に不意打ちをかましたい場合の最後の手段だぞ」と言われていた。当時は何を言っているのか全くわからなかった。でも今、目の前の女子たちが顔をしかめて「やらしい、何考えてるんだろう」といわんばかりの視線でもって上総を射ているのを確認し、その意味がかすかにわかりかけてきた。
──先生たちに受けのいい女子中心の生徒会連中をまず動揺させる、まずはそこからだ。
生徒会優位で進んでいる話し合いを、まずはかき回そう。
もうひとつ、火薬を仕込もう。
生徒会女子たちが杉本に対して行ったことすべてを、関係者たちの目の前でさらけ出すチャンスを上総はもう少し、待つことにした。たぶん、それほど時間はかからないだろう。目をちらちらさせる女子たちの様子を確認し、上総は静かに微笑んだ。