表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/54

第一部 3

第一部 3


 火曜日、杉本梨南のご機嫌は相変わらずだった。

 天気も曇り気味、台風がそれそうでそれない距離に位置している時期だとか。雨が降らない代わりにやたらと強い風が吹いている。

「立村先輩、何のご用ですか」

 そっけない挨拶はいつものことだった。気にしていたら身が持たない。何よりも「口を利いてもらえた」それだけで十分、余裕がある。最悪のご機嫌時は、一切上総の顔を見ないし、存在することすら認めようとしないのが杉本梨南たるゆえんだ。

「いや、なんとなく」

 放課後のE組には杉本梨南しかいなかった。いつもだとE組担当の駒方先生と狩野先生がいるはずなのだが、何か用事でもあるのだろう。狩野先生は三年A組の担任だからまだ手間取っていると考えられるのだが。杉本ひとりがノートを広げ、なにやら書き込みをしている。科目ノートではなさそうだ。

「それでは私に用がないわけなのですね」

 一本調子な言い方もいつものこと。

「あるよ。狩野先生に呼び出されているし、それに杉本にも用があるし」

「私は用がありません。目障りです。消えてください」

 杉本はすぐにノートに向かい始めた。背中をぴんとのばし、書道の教科書に載っているような「お手本」の格好をして。まっすぐに筆ならぬシャープを持ち、何かを綴っている。覗きはしなかったけれども、気になる。上総は杉本の隣席から椅子を引っ張り出し、右端にしっかりくっつけて座った。窮屈だが、自分のノート一冊広げる広さはある。

「邪魔です」

「いや、あのさ、杉本に頼みたいことあってさ」

 さっき五時間目で出た数学の宿題を写したノートを取り出した。

「これ、杉本だったらあっさり解いてくれるよな。一応、三年生の数学問題集なんだけど」

 杉本は上総の筆跡を一瞥した後、あきれ果てたようにため息をついた。

「こんなのも解けないのですか」

「うん、空間図形の概念からして、俺には理解できないしな。どうして杉本、それわかるのかな」

「それでよく、青大附中に合格できましたね」

「うん、俺も不思議だと思う」

 逆らうつもりはなかった。他の女子相手に似たようなこと言われたらたぶん、上総はそいつと一切接触しないように心がけるだろう。でも杉本だけは別だった。何を言われても、どんなに屈辱的な言葉を浴びせられても、それが刺にならずにさらっと受け止められる。口を尖らせる杉本の顔を眺めて、ほっとしていられる。

 しばらく杉本はノートをめくっていた。上総の文字は女子っぽいとよく言われる。書道のペン字用お手本に似ているとも言われる。女子っぽいイコール軟弱そうに見える、というのが本当のところだろうが、読めないよりはましだ。杉本もちゃんと、上総の文字を読み取り、自分のノートに問題を写し取っている。

「今から解きます。ちゃんとわかりやすく書いておきます」

「ありがとう、やはり杉本はすごいよな。そうだ、代わりにやってやろうか」

 やらせっぱなしではやはりよくない。ちゃんと上総なりに交換条件を用意しておいた。

「何をですか。先輩程度の頭で何ができるというのですか」

「そうだな、二年生になったらさ、確か英語の原書授業あるだろ。俺の時はヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』だったけど、今年は確か『グレート・ギャツビー』だろ」

「よくご存知ですね」

 冷たく答える杉本だが、わざわざかばんを広げて原書版ペーパーバックスを取り出すところ見ると、頭にきてはいないようすだ。そうそう、原書と訳本がセットになっている本を買わされて、訳本抜きできちんと訳すように訓練されるのが、青大附中の英語教育なのだ。上総個人からすると「グレート・ギャツビー」は愛読書。暗誦できるかもしれない。

「私もそのくらいの訳、できます。先輩の数学能力と違って、人並みに努力をしております」

 また単調にきつい言葉を呟く杉本。シャープを握り締め、あっさりと数列を並べていく。上総には読み取り不可能な答えを導き出していく。その片手で上総にぽん、とペーパーバックス「グレート・ギャツビー」を叩きつけ、

「もしよろしかったら先輩、お互いの訳を比べましょう。どちらが正しいかを、見極めようではありませんか」

 感情がこもったら、一種、決闘の言葉。

 杉本はいつも、心を込めずに残酷な言葉を呟く。

 いつも別の場所に、訴える言葉が置いてあるから。

「そうだな。俺もそうしたいな。じゃあ今から一気に訳を書き込んでいくからさ、あとで読み比べしようか」

「望むところです」

 ポニーテールの太い束を一振りした後、杉本は姿勢正しくぴっちりと、罫線に乗るように文字をつづり始めた。


 一点しか見つめていないその瞳も、重たそうな黒い髪も、色白ながらもほんのり赤みの差している頬も。そして、

 ──机にぶつかりそうで、ぶつからないんだ。

 ブラウスの先がかすかに揺れている。女子しか得られない胸のふくらみの部分。

 自分の指先に集中しているつもりなのに、横目でちらと覗いてしまう自分のあさましさに恥を感じる。気付かれていないことを祈り、上総はもう一度、完成した訳を読み直そうとした。

 男子同士の会話でも、よく出てくる「女子たちの胸の大きさ」そのサイズについてだが、杉本に関してはもともと嫌われてしまっているせいか、まったくネタにならなかった。胸が大きいと興奮する、とは一部の妄想に過ぎない。むしろ男子たちのほとんどは、「胸がでかすぎるのは、気持ち悪い」とも言う。胸だけではない、すべてが極端に走りすぎている杉本は、やはり男子からすると、「気持ち悪い」存在なのだろう。

 その例外が、おそらく上総だろうか。

 上総は一度も、梨南を「気持ち悪い」と思ったことがない。その段階で普通の男子とはずれているのだろう。抑揚のないしゃべり方も、力を込めてにらみつけるまなざしも、なにかというと人を指差す不快感も、上総には些細なことでしかない。

 ──やっぱり俺は、変わっているんだろうな。

 どんなに罵られようが、

「立村先輩、解けました。今から説明させていただきます」

「ありがとう。たぶん半分も理解できないと思う」

「それで恥ずかしくないのですか、仮にも評議委員長なのに。あの新井林にどれだけ馬鹿にされてきたか、立村先輩自覚してないのですか」

「いやそれは、今更ながらしょうがないしさ」

 杉本は憎まれ口を叩いた後、必ずちらと、様子をうかがう視線を送る。

 初めて会った時からそのしぐさが気になっていた。

 かすかに口をつぼめるようにして、怒っていないかどうか確認するように。

 ──きっと、怖いんだな。

 誰にでもそうやっているのに、他の連中はそれを感じ取れない。一方的に感情をぶつけられているだけと勘違いしている。でも上総には透かしたようにそれが見て取れる。本当は、言った後の反応が怖いんだということを知っている。嫌われるにしても好かれるにしても、一番怖いのは無視されることなんだということを。

 だから上総は、絶対に杉本の言葉を無視しないことに決めていた。

 最初、出会った時からそうしてきた。


 扉が開き、杉本の「空間図形」に関する説明は途中でさえぎられた。

「立村くん、来てましたか」

「あ、はい」

 慌てて椅子を机から離す。杉本がきちんと立ち上がり、「きょうつけ」の姿勢で九十度体を曲げ、一礼した。上総は腰をかがめたまま、少しずつ立ち上がった。

 今日、本当に用事があるのは、この先生だけなのだ、本当は。

「いいですよ、そのままで」

「いえ、大丈夫です」

 上総と杉本との言葉が重なった。杉本が上総を人差し指向けながら、いつものお経を唱えているような声で答えた。

「ご用があるのでしたら、立村先輩、さっさと狩野先生の方に行ってください。邪魔です」

「いや、用事があったから」

「お相手してあげただけです。ふざけないでください」

 ぴしゃりと跳ね除けられた。さすがにこれはきつい。唇をかんだ。杉本は次に狩野先生に向かうと続けた。

「中学三年において、立村先輩のレベルは少しまずいのではないでしょうか。私が今、高校レベルの問題集で自習しているから言えることかもしれませんが、こんな簡単な問題をなぜ解けないのでしょうか」

 情けなくなってくる。杉本ひとりの時に言われるのは気にならないのだが、第三者が混じるとやはり、惨めだ。やっぱり調子に乗るんじゃなかったと反省するのは、この時だ。

 狩野先生は身動きせずに杉本の話を聞いていた。この先生は決して、「祝・ご婚約&できちゃった結婚」の菱本先生とは違い、男子と女子がふたりで話をしていても「あらあら、相変わらずいちゃいちゃしてるなあ」とか「よっ、ご両人!」などと掛け声を掛けたりしない。ただ、誰かがいるな、程度の認識でもって目を向けるだけだ。無関心とかそういうのではなくて、ただ見えるだけ。だから上総も、菱本先生相手の時のように慌てて立ち上がり、言い訳じみたことを口走らず逃げないですむわけだった。

「立村くん、それでは先に、生徒相談室に行ってますから、杉本さんと話をした後に来てください」

 表情を崩さずに、狩野先生は白衣を着たまま、メガネを両手で直しつつ教室を出ていった。

「杉本も、いくらなんでも狩野先生の前で言うのはよしてほしいよな」

「事実をお伝えしたまでです」

「だけどさ」

 少しは言い返したい気分だった。どうせこれから、狩野先生と一対一で今日の宿題に関する個人補習をしてもらう予定だった。たぶん杉本がらみのことで、変なことはつっこまれないだろうが、やはり気まずいといえば気まずい。

「俺も一応、一年年上なんだから、もう少し気遣ってほしいと思うのは、贅沢なのかな」

「贅沢に決まっています」

 ぴしゃり。やっぱりはねられた。ぐいと上総をにらみつけた。

「なぜ、私なんかと話をしたがるのか理解できません。どうせ私は評議委員長にもなれない役立たずなのに、なぜそう私にからんでくるのですか。物笑いにしたいのですか」

「とんでもない、そんなこと言ってないだろ」

 かなりきつい言葉だった。この辺は素直に流せない。未熟者なり。向きになってしまう。

「どうせ新井林の方が上だとお思いなのでしょう」

 まだうらんでいるのか。一年前の話だぞ。慌てて言葉を捜す。あ、見つかった。

「いや、俺は杉本の淹れてくれた紅茶がおいしかったと思うよ」

 まったく意味不明の繋がりだが、これで機嫌を直してほしいものだ。学校祭で杉本に担当させた喫茶店は、父母を始め年齢の高い来校者に大人気だった。手間を掛けてこしらえる珈琲と紅茶を淹れるこつ、よくぞマスターしたものだ。上総も評議委員会の仕事の合間を縫って、杉本のお手製珈琲・紅茶を要求し、無理やり奪ってきたものだった。

「それとは関係ありません。私は能力を認められたいのです」

「だから、俺は、杉本の能力認めているつもりだけどさ」

 きっぱり、杉本は話を終わらせるための呪文を一言唱えた。

「立村先輩に認められても、私の価値は上がりません。関崎さんならともかくも」

 ──ああそうか、そうだよな。

 苦笑して、上総は教室を出ることにした。

「わかった。じゃあ今度来る時は、関崎とこの前会った時の話、しようかな」

 誰も居ない教室の空気がぴしっと締まる。杉本梨南の鼓動の高まりが空気を凍らせたのか。誰も感じないみたいだが、上総は杉本の揺れが、頬に当たる空気でもってわかる。そっと肩越しに振り返ると、杉本の瞳が呼び止めている様子だった。

 それはそうだろう。すでに読み通り。上総は知らん顔で杉本の顔を眺めながらさらに言葉をつないだ。

「今度の体育祭でさ、下手したらクラス対抗リレーに出る羽目になりそうだからさ。夏休みの間関崎に頼んでいろいろと、走るコツとか教えてもらっていたんだ。だからかなり、あいつにまつわる話は、持っているつもりなんだけどさ。杉本が聞いてくれないならそれでもいいけどな。また今度」

「いつですかそれは」

 棒読みながらも、杉本の口調には明らかに艶が出ていた。どうしてこんなにあからさまな変化が出てくる杉本を、誰もいじらしく思わないのだろう。上総にはそれがまったく理解できなかった。好きな男子の存在だけで、ころっと変わってしまう声音を、どうして誰も気付かないのだろう。かすかに揺れる不安の漣を受け止められるのは、杉本がまったく評価しない男子の立村上総だけだ。

「杉本がいいんだったら、また今度。今日はもう時間切れだからさ。また明日にでも」

「本当に、明日、お話していただけるのですか」

 ほらほら来た来た。水鳥中学生徒会副会長・関崎乙彦のことになると、杉本の態度が黒から桃色にはや代わりする。といっても上総が感じるだけで他の連中にはまったく見えない変化だが。他の奴らには別に伝わる必要もないとは思う。杉本のご機嫌がよくなって得をするのは上総ひとりで十分だ。

「それなら明日、また放課後来るから、必ず時間を空けて待っているように」

 人差し指をしっかり杉本の胸真中に向け、上総はさっさと教室を飛び出した。

 杉本の表情が変わるのを確認する必要なんてない。

 たぶん、明日も今日と同じくらいのご機嫌良さだろう。満足だ。

  

 廊下で古川こずえとすれ違ったのは予定外だった。

 てっきりもう図書館のカウンターに納まっているものかと思っていたのに。

「あれ、どうしたのよ立村。今日は委員会じゃないんでしょうに。美里とてっきりさっさと帰ったんじゃないのかなって思ってたんだけどさ」

「羽飛といろいろ打ち合わせがあるみたいだよ」

「それにしてもねえ、あんた」

 三年D組、これまた三年間の腐れ縁。こずえ曰く「私の弟」と上総を呼ぶ。いいんだかわるいんだか良くわからないけれど、こずえなりの親愛表現と受け取っていいだろう。もっとも上総からしたら、次に続く言葉の羅列、なんとかしてほしいと思う。

「もしかして一発、どこかで抜いてきたばっかりだとか。すっごいすっきりした顔してるじゃん」

 真昼間から大声で発せられる立場、なんとかしてほしい。

 廊下はふたりっきりじゃないのだから。当然無視しようとしても無駄だというのも、この三年間いやというほど学んで来ている。せめて窓辺の風鳴り音でごまかすため、上総は端に寄った。こずえもくっついてきた。

「ちょいと待ちな。なに逃げてるのさ」

「今から、用事があるんだよ。悪い、また今度」

「さっきからずいぶんそわそわしてるけどさ、何かあったわけ。美里や羽飛も知らないって顔してたけどさ」

「悪かったな、数学の補習。そんな珍しいことでもないだろ」

 もう開き直るしかない。葵の御紋みたいなもの。上総の数理能力のなさはもしかしたら全学年の生徒が知っているかもしれない。それでもこずえは不服そうに顔を見上げる。いったい何か用があるのだろうか。さっさと言えと言いたい。

「あんたさ、ずいぶん最近逃げ足速いんだけどねえ」

「別に逃げてるわけじゃないさ」

「何考えてるか知らないけどねえ」

 くるっとスカートを膨らませてこずえは一回りし、E組……元教師研修室……の扉に手を置いた。しかたなく上総も立ち位置をずらした。

「帰りの会終わるやいなや、しっぽ振って教室飛び出して、E組に飛び込むのはどうかと思うよ」

「しょうがないだろ、数学の補習なんだからさ」

 同じことを繰り返す。こずえは動じず、ぐにゃっと笑みを頬と口に浮かべた。

「そりゃさ、美里のものより、杉本さんの方がずっとおっきいけどねえ」

「何がだってさ。そんな変なとこ見てるわけないだろ」

「あーら、私、なんか言った? おっきいものってやっぱり、ぼいんちゃんだってわかっちゃったわけ?」

 図星なり。ひっかかってしまったわが身。不覚。首のところが温かくなるのがわかる。

 こずえのスケベ女王としての名言を多々聞かされてきた上総は、うまく交わすコツをそれなりに覚えてきたつもりだった。最近は半々の確率で切り返しているが、なんで今油断してしまったのか、情けない。発言の数々は中学校の校舎にふさわしいものではない。男子向け・女子の前では開けないような雑誌の投稿欄でたっぷり拝見できるものばかり。

 なんとかして立て直さねば。上総なりに話を逸らしてみた。

「それでわざわざつけてきたってわけか。妄想するのもいいかげんにしろっていいたいよな」

「そう顔面蒼白にならなくたっていいのにねえ。立村、あのね、浮気は男の甲斐性だけど、もう少し上手にやんなよ、上手に」

「浮気って誰がするんだよ、そんなことしてないだろ」

「ほら、もう少し、言い訳しながら教室出るとかねえ、美里に何かあとでデートの約束するとかしたりして行くとかさ」

「E組に行くだけでそんなことなんでしなくてはならないんだよ」

 こずえは両腕を組み、突き出た指先でちょんちょんと衿のリボンをひっぱった。形がかすかに崩れ、蝶結びの丸みが片方つぼまった。

「だからあんたわかってないよねえ、いい?」

 なんで今日こんなにつっかかってくるのだろう。こずえにそこまでつつかれる筋合いなんてないのに。たまたま今日は、狩野先生の補習だっただけであって、そんなに文句言われる筋合いなんてない。もっと言うなら、美里に言い訳なんてする必要、あるわけがない。

 こずえは通りがかりの人たちから「なんじゃこりゃ」的視線を向けられながら、堂々と言い放った。

「立村、あんたがさ、前から杉本さんめんこがってるのはよっくわかるよ。そりゃあ可愛いよねえ。気が強い女子、あんた好きだもんねえ」

「だから勘違いするなよ、そんな大きい声出すなよ」

 教室内の杉本に聞かれたらどうするんだ。またすねられたら大変だ。

 周囲を見回し、無理やりこずえを元の窓辺に引き戻す。通りすがりの女子生徒たちは、上総の方でこそ顔と名前が一致しないものの、向こうからしたら「評議委員長の立村」だということがばればれだ。もともと上総に対して、女子たちの視線が好意を持ったものではないことも承知している。こずえの発言でまた「浮気もの」「女子の胸にどきまぎしているスケベな男子」「なんであんな奴が評議委員長やってるの」「なんであいつが清坂さんの彼氏なわけ」などなど、まとまった悪意の閃光で身体が痛くなってしまう。

「だからねえ」

 解放してくれる前に大きくため息をついた梢は、短く決め、背を向けた。

「気付いてないのはあんただけなんだよ、我が弟よ」

 ──何が気付いてないのは俺だけなんだよ。


 上総はかばんを抱えたままゆっくりと三階の生徒相談室へ向かった。

 毎週放課後、狩野先生が都合のいい時、一対一でだいたい一時間程度数学の補習をしてもらうのが習慣となっていた。どうしても補習の場合、委員会よりも優先順位が上にせざるを得ないので、評議の連中には顰蹙ものだった。狩野先生のクラス評議・天羽忠文曰く、

「うちの担任も評議委員長の立場、もっと考えてくれたってなあ、なあ、立村?」

 いくら評議委員会が青大附中を牛耳っていたとはいえ、結局は教師の都合に左右される存在。これもまた、現実だ。

 もっとも上総は、狩野先生と過ごす一時間の時が、それほど嫌いではなかった。

 特別、何かを相談するわけでもない。クラス担任の菱本先生のようにしつこく、「なんでお前はいつも気持ちを隠してしまうんだ! はっきり言いたいことがあれば言え!」と怒鳴るわけでもない。ただ、タイミングがふと合う時がある。どちらかわからないけれど、世間話に近い雰囲気でさらっと言葉が流れる時が。それほどしゃべるわけではなくても、狩野先生は短い言葉で静かに答えを出してくれる。数学のノートに綴られることのない答えだけど、それは上総の中に太い文字で刷り込まれていた。


「遅くなりまして申し訳ございません」

 ノック後、一礼して上総は生徒相談室に足を踏み入れた。何度も入ったことのある部屋だった。秋のせいか、上の方だけかすかに黄身がかっているいちょうの木が覗いていた。

 狩野先生は立ち上がると軽く頷き、備え付けの小さな冷蔵庫から、缶コーヒーを二本取り出した。かすかな笑みとともに、奥のソファーに腰を下ろし、上総と向かい合う格好でノートを開いた。ガラス張りの机上には数学のプリントが二つ折りで置いてある。中は見えない。

「立村くん、明日までにこの問題をまず、この紙に十回、書き写してきてください。解こうと思わないで、ただ何も考えずに手写しするだけでいいです。君への宿題はこれですよ」

 口篭もる。ありがたい、と言えばいいのだろうか。

 かばんを脇に置き、無言で上総は頭を下げた。受け取ったプリントには、さっき杉本に解いてもらったのとはレベルのぐんと下がる問題が二題ほど載っていた。レベルが低い、とはもちろん本来他の生徒たちがやるべき宿題と比較してのことであり、上総自身からするとどれも意味不明の外国語としか思えない。

「あの、解かなくていいんですか」

 言葉が震えている。どうしてだろう。わからない。

「そうです。立村くんは文章を読解する能力が優れています。問題を読むこと、理解すること、それだけを念頭に置いて、手写ししてください」

「わかりました」

 なんで狩野先生がそんなことをするのか、まったく理解できなかった。

 手写しなんて、こういったらなんだが小学生でもできるようことではないか。

 同じクラスの連中がみな、さっき杉本に見せたような空間図形の難しい問題をさらさら解いているというのに、上総ひとりがいつもお遊戯みたいなことをさせられている。

 ──俺の能力がその程度だから、しょうがないけどさ。

 ちくりと痛むのが喉なのか、それとも心臓なのか。

 狩野先生は上総の顔をじっと伺い、すっと斜めに視線を落とした。見ると、上総のかばんの方に向いていた。

「そういえばさっき、杉本さんに問題を解いてもらっていましたね」

 ──ああそうさ。散々罵倒されたよな。

 杉本に罵られるのは慣れていても、現場を狩野先生に見られるのには赤面する。

 答えられずうつむくしかない自分が情けない。顔色を変えずに狩野先生は続けた。

「ノートを出してもらえますか」

「はい」

 しぶしぶ取り出し、広げる。何も考えずページをめくり、はっと気が付く。すでに杉本のかっちりした文字で問題がすべて解かれているということに。上総の筆跡が習字のペン字を崩したような感じなのに対して、杉本の文字は四角形に収まる間違いのない形。閉じようとするが、狩野先生の長い指先で押さえられてしまった。

「見せてもらってよろしいですか」

 教師に逆らえない。頷いた。片手で小さめの缶コーヒーを握り締めた。冷たい。どきどきする感覚が、少し収まってきた。白衣姿で上総と杉本の筆跡残るノートを眺める狩野先生は、少し口元で微笑み、ページをめくって白紙を出した。

「杉本さんはきちんと解いてますね。さすがです」

 ──どうせ杉本は中二の段階で、高校の数学教科書を自習している奴だよ。そんなのと俺を比べるなよな。

 不満たらたらの上総をやわらかく見つめると、狩野先生はシャープペンシルを持ち直した。

「明日、杉本さんに会いますか」

 ──そりゃあ会う。関崎の話をしなくてはならないんだからさ。

 うまく言えず、上総がうつむいている間、狩野先生はいきなり白紙ページに数学の難しい数列を羅列し始めた。そこにはまったく理解できない連立方程式と、見たこともないマークとが入り混じり、象形文字に近い世界が繰り広げられているように見えた。

 すべて書き終わると、狩野先生はノートを広げ、上総に手渡した。

「杉本さんの解き方は教科書通りです。間違ってはいません。ですが、他にもいろいろと解く方法があることを覚えておくといいですよ。立村くん、明日、この数列を自分で手書きして、杉本さんに見せてそう話してあげてください。杉本さんには先輩として、そのくらいの助言することも必要ですよ」

 ──先輩として?

「コーヒーを飲んでから始めましょう。立村くん」

 缶コーヒーにはどのくらいカフェインが入っているのだろう。

 一口しか飲んでいないのに身体と顔全体がほおっと熱くほてってくる。

 目の前の狩野先生はまったく意に介せず、穏やかな表情を保っているというのにだ。

 どんなに隠そうとしてもしっぽが見える自分の言動、泣きたくなった。

 

 ──気付いてないのは、俺だけかよ。

 土曜の昼下がり、心に決めたこと。

 火曜日、まだ美里には告げていないのに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ