第三部 7
第三部 7
──卒業式の英文答辞。
てっきり自分ですべて原稿をこしらえてやるものだとばかり思っていた。できるだけ早めに英文原稿をこしらえておこうと心していたのに、次の日の朝、駒方先生からあっけなく告げられた。
「上総、答辞のことだけどな、原稿はこちらで用意することになったから、音読して暗誦するのに専念していいぞ」
相変わらず白髪頭をぼさぼささせたまま、にこやかに駒方先生は説明した。
もちろん場所はE組だった。もちろん朝、三年D組には足を向けていない。杉本梨南はまだ教室に来ていなかった。
「僕が原稿を書かなくていいんですか」
「いやなあ、上総の英語力ならなあ、簡単に書き上げられるのは先生たちだってよく知っているぞ。原稿こしらえようとしていたのかい」
「いえ、まだです」
上総は首を振った。
「そうか、なら、まずは答辞の英文訳が届くまで少し時間がかかるかもしれないが、まあ、気楽に待ってなさい。上総が引き受けてくれるということでな、英語科の先生たちもかなり気合を入れて作ってくれるらしいぞ」
「あの、僕が訳さなくて、いいんですか?」
予想を反する駒方先生の言葉に上総は何度も念を押した。
「ああ、まずはな、日本語の答辞が出来上がってくるまでもう少し待ってもらおうと思ってな」
「日本語の答辞ですか?」
昨日の説明だと、通常の「卒業生代表答辞」は元生徒会長だった藤沖勲が読み上げることに決定しているらしい。去年の本条先輩がやらかした、芸術的な話術あふれる答辞になるとは、藤沖の性格上まず、考えがたい。応援団結成を夢見た男子の読み上げる原稿はさぞ、がっちりしたものになるだろう。
「そうだよ。勲がな、今月中に書き上げて、国語の先生たちに一通り見てもらい、それからだ」
「見てもらうって何をですか」
「答辞だよ。まあなあ、せっかく読み上げるんだからきっちりと作っておいたほうが男前上がるだろう?」
そういう問題ではないと、上総は思う。
でもあえて何も言わずに頷いた。
「それをだな、あらためて英語科の先生にまわしてもらい、英語科の威信をかけて一気に英訳をし、上総の元へ持ってきてもらうと。上総はそれを受け取った後、暗誦できるくらい読み込んで卒業式の大役を務めればいいというわけだぞ」
「つまり、藤沖の書いた答辞を、英文に直してもらって、それを読むということですか」
「そういうことになるね。上総、とにかく英文答辞が完成するまでは自分の勉強に徹してていいぞ。出来上がったら特訓が始まるぞ。細かい発音やら抑揚やら、たぶん大学の先生たちにお願いすることになるとは思うがな。今はまだ、中学生のまんまでいればいい」
五ヶ月前まではそんなことになると聞いた段階で、B組の藤沖をとっ捕まえて、
「答辞、原稿、手伝おうか? どうせ俺も英語で訳したもの読まないとまずいからさ。藤沖、手伝うよ」
そう申し出ただろうに。あれから藤沖とすれ違うことはあるけれども、視線を交わしたことは全くない。このままでいくと四月からは同級生になるわけで、おそらく無視されることになるだろう。針のむしろもいいところだが、しかたない、自業自得である。
上総は納得した振りをして、「わかりました」と答えた。
「ところで上総、そういえば梨南が珍しく遅いようだが、どうしたのかな」
そんなの知るか。「わかりません」としか答えようがない。
──青大附高の合格発表が朝十時からだってこと、くらいしか、俺には説明できないよ。
昨日、杉本の口から聞かされた出来事を頭の中で何度も整理した。
──生徒会の役員たちが何かをたくらんでいたということなのか。でもなんでだ?
昨日、杉本が口走っていたことを、上総は何度もかみ締めた。
思い当たらないわけではない。もともと生徒会長の佐賀はるみと杉本梨南とは因縁があるし、現段階で佐賀が圧倒的勝利を得ている。「勝利」というのがどういうものなのか判断はしがたいけれども、少なくとも杉本よりも佐賀の方が、全校生徒および教師たちに「好かれている」のは明らかだった。学校生活において「好かれるかどうか」これはかなりのポイントとなるはずだ。すでに担任やクラスメートからも嫌われ、全校生徒から軽蔑されつくしている杉本梨南の立場を考えれば、これ以上なんで突き飛ばす必要があるだろうか。
いや、ある。
現在杉本の立場はかろうじて一部の三年女子たちによって守られている。
守られていた、といったほうが近いだろうか。
杉本がこれ以上嫌われないように、西月さんや霧島さんが懸命に守ってきていたはずだった。いくら上下関係があいまいな青大附属とはいえ、先輩たちに無碍に逆らっていいことがあるとは思えない。杉本に文句を言いたくても、まだ三年の先輩が目を光らせているとしたら、佐賀としても生徒会としても、がまんせざるを得なかったのかもしれない。
──でも、四月になったら。
みんないなくなってしまう。
誰一人、杉本をかばおうとする人が、青大附属中学の中にはいなくなってしまう。
もちろん、青大附属高校だって同じ敷地内だし、上総も様子を伺うことができないわけではない。ないが、しかし、やはり今までのようにちょくちょく教室を訪れることはできない。中学校舎に高校生が出入りすることを学校側でもあまりよく思わないはずだ。
つまり。
──杉本は、青大附中に取り残されるというわけか。
杉本の気性を考えると、確かに佐賀を筆頭とする生徒会役員たちが危惧を覚えるのも無理はないと上総は思う。ある意味、杉本が島流しとも言えるE組暮らしに素直に馴染んでいるのは、西月さんや霧島さん、その他の生徒たちが側にいたからだとも言えるだろう。決して自分が間違っていたのではなく、明らかにあいつらが悪いから、と認識することもできるだろう。しかし、三年に入ってもまだE組流し状態が続くとしたらどうなるのだろう?
いや、E組から出されて、元のクラスに引き戻される可能性だってある。
その時、杉本は適応できるだろうか。
上総は素早く杉本梨南の様子をシュミレーションしてみた。
──今までは他の人たちが杉本の面倒を見ていたからなんとか無事に過ごすことができた。それはあると思うんだ。だけど、もしこれから先かばう人が誰一人いなくなった場合どうなるかってことだよな。佐賀さんはすでに生徒会長になっているし、周囲には友だちもいるわけだ。新井林だってこのまま評議委員長になるはずだ。
──杉本は佐賀さんや新井林に対して、死ぬほど恨みをかかえているはずだ。
──ふたりの肩書きなんて知ったことかとばかりに、また歯向かうかもしれない。杉本が素直に反省して言うこときくわけ、絶対にない。たとえ担任の桧山先生であろうとも、駒方先生でも、狩野先生でも、誰でもだ。
そしてもうひとつ。秘めていたことではあるが。
──佐賀さんは、あの、水鳥中学の佐川と繋がっているんだろうか。
今のところ佐賀はるみと新井林健吾が「付き合い」をやめたなどという情報も入ってきていない。相変わらずふたりは仲良く教室で話をしているようだし、新井林も暇さえあれば生徒会室前をたむろっている。なぜか、中に入っていこうとしないのが傍目からみて笑みを隠せないところでもあるのだが。
──どう考えても、新井林は佐賀さんのことしか考えていないわけだ。
──そんなに新井林を、佐賀さんは騙せるだろうか。
去年の二月に、佐賀はるみが水鳥中学の佐川とこっそり連絡を取り合い、杉本梨南の恋心を踏みにじろうとしていた事件を上総は忘れたことなんてなかった。
しかし、佐賀が生徒会長に就任して以来、評議委員会に対しての厳しい風当たりを考えると、彼女ひとりで考えたものではないという気もする。もちろん一緒にいる生徒会役員たちが協力しているというのもあるだろう。しかし、それにしても。
天羽がそれに気付いているかはわからない。ただ、生徒会側の出方がかなり強気だとは感じているようだった。天羽はもともと賢い奴だからうまくやり取りしているけれども、それでもいきなり交流会を生徒会主導にするという案を、教師に持っていってOKをもらったり、評議委員会そのものを学級運営の中に限定してほしいという声を周囲から挙げさせたりしているようだった。もちろんそんなことを口に出したりはせず、副会長、書記たちの意見として挙げさせる形らしい。言い出しっぺは大抵が現在一年の副会長・霧島らしいと噂が流れ、
「一年なのに、すっごいしっかりしてるよね。顔が美形なだけじゃあないのね、霧島くん。お姉さんが青大附属から追い出されるくらい頭悪いって聞いたけど、霧島くんはすっごいできるし、さすがやること違うよね!」
などとささやいている声も聞く。佐賀はるみ生徒会長自体がお飾りの存在であり、影で動かしているのは霧島だという認識、そう思わせようとしているのが上総にはありありと見て取れた。
「私、何もできないんです。霧島くんをはじめ、他の生徒会役員の人たちがみな、よくしてくれるから私なんかでも、生徒会長やっていけるんです」
いつだったか、新聞部のインタビュー記事を読んだことがある。佐賀は何度も霧島に感謝をした後、
「あれは全部、霧島くんが提案してくれたんです。感謝してます」
と手柄をすべて預けるような言い方をしていた。霧島の様子がどうだったかは定かではない。ただ、霧島が反発して文句を言ったという話は聞いていないので、自分なりに納得はしているのだろう。
──霧島弟をうまく使うためのテクニックだ。
上総なりに観察してみた結果、
──霧島弟は一般的に受けのいいタイプ。頭がよくて、顔も女子受けしやすい。しかも評議委員会へのお誘いを蹴って生徒会に飛び込んだという気骨ありげな行動も他の生徒たちからは人気を博する秘密だろう。男子の目から見ると少しまずいんじゃないかって気もするけどさ。
女子が上に立つとなると、いろいろなトラブルが起こりやすいはずだ。藤沖もだからこそ、一緒に動いてきた女子の後輩たちを生徒会長に推さなかったと聞いている。しかし、今の段階で佐賀生徒会長を原因とするトラブルが起こったという噂は全く流れていない。
時が経てば経つほど、佐賀はるみ生徒会長の生徒間評価は、
「あんなに可愛くておとなしい人なのに、みんなに支えられて、笑顔を絶やさずにいて、努力を一生懸命にしている姿に惹かれる。性格のいい人だからこそ、霧島くんも先輩を応援しようとするんだろう、きっと」
主に一年の間でうなぎのぼりのようだった。さらに言うなら、次期評議委員長・新井林に大切に守られているという話も知らぬものはない。
「性格の悪い女子にいじめられてきたのに、その子をおおらかな気持ちで許してあげようとしているところ」も、またポイントアップのきっかけらしいとも聞いている。
現在の二年たちはさすがに杉本との繋がりを断ち切ることができず、陰でいろいろと悪口を言っている女子もいるらしい。いるらしいが、だからといって生徒会を揺るがすだけの勢力にはならない。それどころか、
「あれだけ可愛くて一生懸命な佐賀さんをやっかむお前らの方が心せまい!」
と一言で切って捨てられる。
評議委員会こそ華と呼ばれていたあの頃。
霧島弟の存在がきっかけで、藤沖でも果たせなかった全校生徒たちの「生徒会」に対する関心度アップ効果。そしておそらく、霧島弟をスターに仕立て上げたのは佐賀の計画。いや、あれはひとりで考えつけるものではないだろう。
──本条先輩ならともかくも。
あの佐賀はるみがひとりでそんな案を編み出したとは思えなかった。
──決定打はないんだけどな。
当てにならない勘だけど、裏には絶対に水鳥中学のどんぐり眼がきょろきょろしているはずだ。その眼を思いっきりはたきこんでやりたいのが本音だけども、そういうわけには決していかないのもまた事実だ。
──関崎がいるからな。
上総にはどうしてももうひとつしっくりこなかった。
──なんで関崎は、佐川と親友なんだろう?
合わない。絶対に合わない。
「どうなさったのですか、立村先輩」
いつのまにか杉本が目の前の席についていた。かばんと一緒に、今日は黄色い手提げ袋を机の上に置いたままにしていた。机はすでに上総が向かい合わせになるように並べ直しておいた。杉本も特に噛み付いてくる気配がないので、そのまま何も言わないでおいている。
「たいしたことないんだけどさ」
上総も素早く教科書を広げ、さっきまで考えていたことをすべて白紙に戻した。
「さっき、駒方先生に言われたんだけどさ」
まだ授業が始まらない中、上総は杉本の顔を見やりながら続けた。
「卒業式で俺が英語で答辞読むことになったのは知ってるだろ」
「はい、あれだけ大きなお声で話されてらっしゃるのでしたら」
もちろんその通りだろう。
「全部俺が原稿書くものだと思って準備してたのにな」
「先輩は英語だけは人並みにできますものね」
また抑揚のない言い方で杉本は相槌を打つ。いつものことなので腹は立たない。
「ちゃんと先生たちが原稿を用意するからこしらえなくていいのはありがたいけどな。なんで藤沖の原稿なんていう同じもの読み直さないとならないんだろうな」
「どういうことですか?」
「つまり、通常の卒業生答辞は元・生徒会長の」
ここで言葉を切った。杉本の反応を確かめた。特に変化はない。安心して続けた。
「藤沖がやることになっているわけなんだけど、次に同じ内容の文面をひたすら英語で読むのが俺の役割らしいんだ」
「そうですか。英語日本語両方わかる方には退屈ですね」
「そうだろ? 何か、違うよな」
なんでいきなり杉本に愚痴りたくなったのかわからない。もし目の前にいるのが杉本以外の女子だとしたら、こんなくだらないことで文句言いたくなんかない。「楽になるんだからいいじゃない。そんなことよりもっと考えることあるでしょ!」とばっさり切られるのがオチだ。杉本だって本当は例外ではないし、それこそ血まみれになるくらい切り刻まれることもあるけれども、なぜか、上総は自分の口が押さえられなくなる。
「立村先輩がもしも、ご自分で原稿をこしらえるとしたらどんなことを書くおつもりだったのですか」
「そうだな、それもいろいろ考えたけど、日本語だと変に思われることを英語だとストレートに書いて大丈夫だろ。だから言いたいことを思いっきりつめこもうかなと思っていたんだ。たぶん聞いている人の半分は俺の英語なんて聞いているとは思えないしさ」
本音である。去年の卒業式、在校生はみな本条先輩の「答辞という名の大演説」以外記憶に残っていないんじゃないだろうか。
「だから、言いたいことを言ってやろうかなと。原稿提出の段階ではおとなしいことを書くけれど、当日本番になったら一気にしゃべりたいことをしゃべってしまうのも面白いだろうしな」
「立村先輩、何を考えておられるのですか」
あきれ果てた風に杉本は小さくあくびをし、すぐに口を押さえた。
「と、そういう想像でもしていないと、なんか落ち着かなくってさ」
本当のことを言うと、藤沖とまた顔を合わせて話をせねばならないのが憂鬱なだけだった。
同じクラスになるにせよ、男子同士、無視していてもさほど問題は起こらないと思う。しかし、「相手の原稿を英訳して読む」なんていう、コアなことをやらかすのだ。いやおうなしに「悪いんだけどさ、俺、お前の原稿読むから」と挨拶をしておかないとまずい。佐賀はるみを巡る生徒会問題でトラブルを起こし、それ以来無視をきめこんでいた藤沖に、上総の方から近寄らねばならない。これは結構しんどいことだった。
杉本はしばらく首を傾げるようにし、全身をかちりと留めた。
ゆっくりと呟いた。
「そんな低レベルなご想像をなさるよりも立村先輩。同じ内容の原稿を読まれるのでしたらたとえば、古文や漢文で読み上げるというのも一つの手ではありませんか」
「古文や漢文?」
「つまり、英語と言っても日本語と同じくどんんどん言葉が変わっていっているはずです。どうせでしたら、英語の古文のような形で、原稿を手直しされてはいかがですか?」
「ということは、なにか? 杉本、俺に『平家物語』とか『源氏物語』ののりで堂々と読み上げろってことか? みんなあきれるぞ。さすがに俺もそこまで」
「私は思いついただけです。たいしたことではありません」
立ち上がり、手提げだけをぶら下げた。
「これから家庭科の授業がありますので、行ってまいります」
どうりで荷物が多いわけだ。上総は一瞬だけ敬礼をして見送った。
家庭科の授業だと、わりと教室を出入りしやすいはずだった。
杉本は即、朝十時ちょうどに何か理由をつけて教室から出て行くだろう。
そしておそらく、杉本は一階ロビーの柱に張り出されている紙に向かい走っていくだろう。
──杉本のための合格発表って感じだな。
生徒会が邪魔しようがなにしようが、杉本梨南の想い人を取り上げることなんて、できはしない。
二時間目が終り、上総はまっすぐロビーの柱まで歩いていった。
人だかりの中、B5版の小さな紙が横にぺたりと張ってあった。
「今年は英語科、二人しか入ってないね」
見終わった一年の女子たちが上総の側をすり抜けていく。青大附属中学の合格発表とは異なり、附属高校の場合はそれほど張り付いてみようとする人が多くなかった。上総は素早く人のゆるやかに詰まった方にもぐりこみ柱前まで泳いでいった。
上総はその中に混じっているはずの杉本を探した。きょろきょろしていると正面の階段を奈良岡彰子がのしのし降りてくる姿が目に入った。すぐに退散するつもりだった。相変わらず笑顔でいっぱいの奈良岡は、人にぶつかりながら柱に向かい、
「よかった! 時也受かってる! あきよくん!」
いつのまにか上総の隣に突っ立っていた南雲に報告していた。
「すげえ、やるじゃん」
「あとで、クッキー焼いて持っていかなくちゃ。時也、私のクッキーすごく好きなんだもの。うちの父さん母さんもよろこぶなあ。あきよくんもよかったら、時也のお祝いしない? うちでもいいよ」
「いいな、それ。けど俺も予定が立たないからちょっと待って」
傍目には昔と同じ仲良しカップルの顔に見えた。
──俺が中学生でいられるうちに、なんとかしないとな。
今年の合格者は少なかった。
三十人くらい外部入学があるものだと予想していたが甘かった。
普通科に二十人、英語科に二人。 合計二十二人。
──関崎乙彦。
その名は、英語科合格者欄のトップに堂々と顔を出していた。