第三部 3
第三部 3
あまりにもびっくりすると、言葉が出なくなるもの。そう言った人がいる。
冷気も風も、隣にいる天羽の吐息も、すべてが凍り付いている。
──そんなこと、あっていいのか?
上総は頭の中で冷たいまま並ぶ言葉を、読み取れずにいた。
天羽は上総の顔色を見ながら、少し不満そうににらむようなそぶりをした。
「俺の言ってること、どこまで信じてるんだかな」
「信じてるけどさ、でも、もっと詳しいこと聞かないと俺だって何も判断できないし」
「あ、そうだな」
唇をかみ締めた天羽は、頷くと足元の雪を握り込んで、そのまま自分の頭に振りかけた。なかなか溶けず、頭の上が白髪に見えた。
「たまたまうちの担任が職員室にいたことと、他の生徒連中が誰もいなかったのが運よかったんだろな。難波がすっとんでって狩野先生を引っ張り出してきて、そいでなんとか納めたってのがほんとのとこ。もっとも難波もその足で即、キリコ姐さんを救いに飛び出しちまったんでややこしいことになっちまったけどな」
出来事の流れがつかめず、上総は途中、言葉をはさんだ。
「ちょっと待ってくれないか。つまり、どっちが先だったわけ。霧島さんが自殺未遂したのと、難波が追っかけたのと、近江さんが襲われたのと」
「悪い、そだな」
指を折りながら、天羽は上総の方を見た。
「まず、俺を探しに難波が視聴覚教室にきたってのが最初だ。俺と近江ちゃんとの熱い仲をあいつもよっく知ってるからなあ。そこであいつが、『霧島はどこ行った?』とか血相変えて問い詰めてな。けどわかるわけねえよな。『E組行ってくりゃあわかるんじゃねえの』ってたら、『とっくに探してる』って返事するんだ。そりゃあそうだわな。E組にいないから、俺のとこに来たんだよな」
確かに。とりつかれてたとしか思えないくらい、難波は霧島さんのことを追いかけていた。
「この機会に俺も、あいつの本心聞いてやろうかなとかな、せっかくだったら背中押してやるかとか、ちらっと思ったわけ。したらホームズ、『自殺するかもしれねえってのに』ってわめきだすんだ。あんときのホームズ見せたかったぞ。さすがにしゃれにならねえなってことで俺も真面目に聞き出したわけ」
「自殺」なんて、日常の会話でそう軽々と出していいものじゃない。
「たまたまあいつ、キリコ姐さんと西月が約束してるのを聞いちまったみたいなんだ。放課後、駅で待ち合わせて、その後でスーパーの屋上から飛び降りるってことで話をつけてたらしい。ま、『リーズン』三階屋上ったら、冬は戸も閉まってるし今思えばはったりじゃねえかとも思うんだがな。ただキリコのことだし、そこまで頭が回ってたとは思えねえ。難波も放置しときゃよかったんだが、そこがホームズ、愛の裏返しってとこでな」
天羽はもう一度、今度は自分の肩に雪を振りかけた。
──天羽の奴、違うんじゃないか。
上総によぎったひとつの予感。
──あいつ、もっと残酷なこと考えてたんじゃないのか。
それが何か、上総にはまだ口に出せなかった。意識だけが氷文字で綴られていくだけ。
──たとえば、西月さんが一緒だったから。
「じゃあどうするこうするって話しているうちに、突然近江ちゃんが視聴覚教室に駆け込んできたってわけ。なんてナイスタイミングとか思ってたら、西月がでっかい傘持って、廊下から飛び込んできて、まじで刺そうとするんだ」
「刺すって、いや、叩く程度じゃないのか?」
さっきから気になっていた。いくら被害者側とはいえ、天羽の口調はあまりにも西月さんを非難しすぎている。そうできる立場とはとてもだが思えないのに。それに、天羽の言葉を信じてしまうとこれは、学校内で始末できるレベルの問題ではないような気がしてくる。「刺す」と「叩く」この違いは大きすぎる。
天羽は膝をもみしだき、首を振った。
「殺意、ぜってえあったと思う。なんで近江ちゃんを追っかけまわしたのか、その理由はわからねえ。とにかく近江ちゃんを守るべく俺が立ち向かったってわけで、なんとか納まって、その間に難波が狩野先生ひっぱってきて、その後な」
──本当は「立ち向かった」その内容が問題じゃないのか。
上総は黙っていた。ずっと感じていた違和感が、だんだんわかりやすい言葉で形作られていく。ゆっくり、意味の氷が溶けていく感触がある。
「あとでホームズに聞いたとこによると、連れてかれる後に難波へ、西月が待ち合わせ場所を紙で渡したらしいんだ。ほんとは目撃者だし、難波もいねえとほんとうはまずかったんだけど、事情聴取をすっぽかしてホームズ即、青潟駅に突っ走ったってわけだ。当然、霧島は西月を待ちぼうけしてたわけで、あとは二人の世界、どうなったか知らん。俺も先生たちには霧島の自殺未遂なんて話、一切しなかったし、西月はあのまま筆談しかできねえし、近江ちゃんはなんにもわからなくてただショック受けてるし、ってことで」
「じゃあ、霧島さんと西月さんがあれっきり学校に出てきてないってのは」
「キリコはとにかく、西月はもうこねえだろう。来たら、俺がたぶん理性ぶっとんじまう。たぶんだけどな、狩野先生も今度ばかりは強硬手段、選ぶに決まってる。ああ虫も殺さぬ顔してるけど狩野先生、近江ちゃん姉妹、溺愛してるしな。嫁さんも義理の妹もまとめてな」
「けど、どう考えたって、それがほんとなら警察沙汰になってるだろ?」
学校内で凶器を振り回し、天羽の言葉通り近江さんを「刺そう」としたのなら。
天羽は「ちっちっち」とおどけたふうに指を一本動かした。
「そこが、我らがA組、コネクラスの力って奴。通常だったら騒ぎだよな。俺も今回ばかりは覚悟した。なんだかんだあって停学は免れねえと思った。けど、うまく狩野先生や学校側がもみ消しにまわってくれたらしいのと、あとな」
口篭もった。何か秘密があるらしい。上総はじっと見返した。知りたい。
「いいか悪いかわからねえけど、片岡がお坊ちゃんだったんでな」
「片岡って、あの」
一年の時に下着ドロをやらかして、現在英語の成績が上総に次いで二番、おそらく高校は英語科で同級生になるであろう、彼のことか。西月さんのことを一途に思う姿のいじらしさが巷では有名だ。だが会話を殆ど交わしたことのない上総には、ぴんとこないのもまた事実だ。
「あいつんち、超、すげえ、金持ちだろ。俺には想像もつかねえやり方で丸く治めたみたいなんだ。あくまでも、今のところ噂だけどな」
「噂?」
聞くべきか迷った。迷っているとは思わなかったらしく、天羽は続けた。
「西月をこのまま、片岡の実家で引き取って、向こうの学校に行かせるってことになりそうらしいんだ。それ、まじかよって思ったけど、やっぱし金持ちのやることは桁が違うよなあ。俺も、いまだ、信じられねえよん」
語尾をおどけさせて、ばんざいした後、天羽は脱力した。天を仰ぎ、「オーマイゴット!」、そう呟いた。
「ということは、西月さんは、もう青大附属に戻ってこないってことか」
少しだけ天羽の表情が軽くなった。
「そ。そういうこと。狩野先生が近江ちゃんの身内だってのが、今回一番おっきかったらしいってわけ。自分の妹を刺し殺そうとした奴を、何があったってそばに置くの、やだろ?」
「でも西月さんにだってそれなりの理由があったんじゃないか?」
「かもしれねえ。けど、あんなに血相変えて追っかけまわして、恐怖させることを俺は認められねえよ。警察沙汰にするんだったら、それなりに俺も覚悟していた。西月に対してしたことを俺もすべてしゃべるつもりでいたしな。けど、近江ちゃんのダメージ、あまりにもひでえよ。近江ちゃん、今日は学校に来ていつも通り清坂といちゃついてたけどな。でもやっぱし、傷は深いと思うんだよ。だからな」
「天羽」
上総はゆっくり、コートから雪を払い落としながら立ち上がった。
何か言わないとだめなような気がしてならない。
いきなり冷蔵庫の電源が抜かれて、氷が一気に溶け出したかのように。
「お前、西月さんを嫌うのはわかんなくもない、けどさ」
足元にしゃがみこみ雪を握り、顔に浴びせた。
「西月さんにそこまでさせたのはお前の責任だと、俺は思う。卒業前に謝れよ」
上総の言葉を、信じられなさそうな顔で聞いていた天羽は、いきなり口笛を吹き出した。妙にゆがんだメロディーだった。口を尖らせ、舌打ちした。
「立村もあの現場にいたら、そんなこと、言えねえぞ」
「そうだな、たぶん、言えないよな」
いなかったから、好きなように言える。
しばらく気まずい沈黙が続いた。雪の中に蹴り転がされなかったのは、天羽なりに考えるところでもあるのか。上総はもう一度隣に座りなおし、すっかり冷えた身体をさすり直した
たった三日間しか経っていないのに、青潟大学附属中学評議委員会三年たちには、とりかえしのつかない出来事が次から次へと起こっている。上総も杉本を半ば「誘拐」した形で学校から逃げ出し連れ戻された。それだけでも十分停学レベルの出来事だと自覚している。
でも、西月さんの行動が天羽の言う通りのものだとしたら、これは当然「傷害事件」だろう。もし仮に殺意が混じっていたら、もっと大事になるかもしれない。たまたま近江さんは天羽のいる教室を知っていたから逃げ込むことができ、未遂に終わったとはいえ。
──警察の介入もないのか?
天羽の口調によれば、「コネ組A組」の力でなんとか押さえられたという。狩野先生の言葉を借りればおそらく「大人の義務」として片付けようとしているのかもしれない。とてもだが三日間で片付くようなことでは、絶対ない。西月さんを退学処分にするのは納得できるものがあるし、かといってかつて一緒に評議委員を務めていた自分としてはそれを認めるのも辛い。
なによりも、この事件のあらましを、全校生徒たちはみな知っているのだろうか。
南雲もちらと口にしていた。
「噂だからすぐにりっちゃん気付くと思うよ」
狩野先生も具体的になにが、とは告げなかったけれど、天羽がかかわっていることは明言していた。近江さんの家に一緒にいた、というのもこの事件を背景にして考えれば納得だ。傷害未遂事件の被害者となった義妹を慮って、担任でもある狩野先生が側に寄り添っているのは自然な図だろう。
しかし、どうしても腑に落ちない。
なぜ、天羽は。
「天羽、ひとつだけ聞いていいか」
「どうぞどうぞ、なんなりと」
無理やり機嫌を直したような声を出す天羽。声が不自然に高い。
「もしさ、死のうとしていたのが西月さんひとりだと聞いたら、お前、どうしてた」
無言。黙っている。また口笛を吹こうとしている。
「お前、あっさり、見逃したんじゃないか」
「いやいや、そりゃあわからねえよ、人道的な立場から言って」
「違う、天羽」
さっきのようにかっとなって雪をはらはらぶつけることはしたくなかった。
最初から凍っている言葉を、上総はひとつひとつ、舌先で転がし溶かして乗せた。
「霧島さんも西月さんも、元評議であって、現評議じゃない。それに難波の勘違いだって可能性もあるだろ。いくらホームズだって間違いはあるだろうしさ。天羽は評議委員長だから当然、一緒に三年間評議やっていた霧島さんを心配して相談に乗ったんじゃないかって俺は思うんだ。けど、もし、もしもだよ、それが西月さんだったとしたら、天羽、お前、どうしてた? 最初から」
恐ろしい。口に出していいのか凍った文字が浮かぶ。吐き出すように一気に言葉を噴いた。
「お前、見殺しにしたかったんじゃないのか? とことん、憎い相手だったら」
「おい!」
天羽の柔和な表情が一気にこわばる。上総も退きたかった。でも退けない。
「そこまで憎まれて、それでもお前のことが西月さん好きだったとしたら、あとはどうしても恨みが近江さんに行くだろ。天羽を憎めないんだったら、西月さんは近江さんを恨んで当然だろ。天羽、お前がどうして西月さんを嫌いなのか、俺もわからないわけじゃないって正直思う。けど、死んでいいってくらい憎むのってなんかあるのか? そこまで嫌って憎んで追い詰めて、それで責任ないってお前、どうして言える?」
全く予想していなかった言の葉かずかず。あふれ、散って、雪空に舞う。
どこにこんな言葉、しまい込んできたのだろう。
上総自身にも全くわからない。
「もちろん、近江さんはとばっちりを受けたし、もちろんなんとかしないとまずいよな。俺も評議委員だし、そのあたりは手伝う。けど、お前はお前で、西月さんに両手ついて謝らないと前になんて進めないんじゃないか? 嫌いなら嫌いだって、言わないでごまかすこと、できなかったのか!」
「なにほざくこのボケ!」
両手を握り締め、天羽は仁王立ちした。
今まで評議委員として一緒につきあってきて、一度も見た事のないその表情に、雪がすべて湯気になりそうだった。これが天羽忠文の本心なのか。見たことがない、でも怖くなかった。いつか、この顔を見る時がくるだろうと、どこかで確信していたからかもしれなかった。
「立村、お前の方こそなに今更訳わからんこと言い出すんだ! そりゃあな、俺は西月のようないい子ぶった馬鹿女はくたばれって思ったぞ。たぶんお前の言う通り、見殺しにしたいって思ったろうな。けどそんなことできるかよ? 俺はちゃんと、いやいやながらも相談に行くに決まってる。それ言うならお前のほうこそどうなんだ? 見殺しにしようとしたこと、あるんだろ? あるんだったら、わかるだろそんなこと!」
「ああわかるさ、よくわかるよ、殺してやりたいってな。俺は逃げたよ、その通り」
上総は石に腰掛けたまま、天羽の嵐を受け止めた。張り倒されるのは覚悟していた。腰をびしっとつけ、いざという時に備えた。
「けど、逃げられなかったのが今の俺さ。天羽、俺みたいになりたいか?」
なんで、今になって気付いたのだろう。
気付かぬうちに隠しもっていた、ひとつの答え。
小学校の卒業式後、誰もが口を揃えて言う通り、上総は逃げた。
自転車を使って行った決闘の結果、サイクリングロードから転げ落ち、明らかに打ち所の悪そうな浜野をほっぽりだして、コートを翻して全速力で逃げ去った。すべてを大人たちの仕事に任せ青大附属まで走りきったはずなのに、結局最後の最後で捕まった。
──浜野に土下座するだけの、度胸があれば。
──どんなに納得いかなくても、許せなくても、自分の罪だけでも認められれば。
どんなに青大附属で逃げようとしても、品山出身の後輩たちが追いかけてくる。もしかしたら青大附属高校入試で本品山の連中が外部入学してくるかもしれない。どこかでまたすれ違うかもしれない。どんなに隠れても、覆い隠そうとしても、眼をつぶって見ないようにしてきた「見殺し」の罪は追いかけてくる。
せめて、と杉本を連れて青潟から逃げ出そうとしたけれど、狩野先生の手で取り押さえられた自分がいる。
──どんなにあがいたって、もう逃げられないんだ。
「天羽、何度も言うようだけど、俺もお前が西月さんを嫌う気持ちはわかるつもりだよ。あの人見ていると正直、D組の熱血担任を思い出すからさ」
静かに足を整え、上総は座ったまま続けた。
「嫌うのは自由だけど、表に出して傷つけてしまったら、その瞬間からもう、加害者になってしまうんだって、俺は今になった気が付いたんだ。馬鹿だよな」
自嘲した。思わずもれたのは笑みだった。天羽が一瞬、気の抜けた顔をし、握りこぶしを緩めた。
「俺はもう、このままの評価を受け入れて青大附属で生きていくつもりだけど、お前はまだ間に合うよ。よくわからないけど、まだ西月さんがらみの問題は噂でとどまっているんだろ。だから、きっちりと、ここで片をつけとけばいい。どんなに納得いかなくたって、どんなに嫌いだったって、どんなにお前の気持ちが治まらなくたってさ。近江さんからしたら加害者だけど、天羽からしたら西月さんは被害者なんだ」
「立村、どうしたんだよ、なんでそんな悟ってやがる?」
「そう、昨日の夜、狩野先生に言われた」
上総は立ち上がった。
「とにかく、三年評議委員がすごいことになっているのはよくわかった。ごめん。お前の言う通り、ずっとやる気なくしてた俺が悪かった。狩野先生にも天羽の力になってやってほしいって言われてる。俺も、そうしたいって思っている。いや、そうさせてほしいんだ」
「立村、お前」
「これから、女子情報を得るために轟さんと話をしたいんだ。天羽、悪いけど轟さんに連絡とってもらえないかな。たぶん俺より天羽の方が話、早いと思うしさ」
あっけにとられている天羽に対し、締めくくる言葉が自然と洩れた。
「俺は、責任を取る。だから天羽、お前ももう一度、考えたほうがいい」
乱れた足跡の続く中庭に、上総はゆっくりと新しい足跡を重ねていった。今できることは天羽の肩に手を触れ、軽く揺らすことくらいだった。驚いたのかどうかわからないが、天羽はされるがままになっていた。ポケットから生徒手帳を取り出すそぶりをし、
「あちゃあ、忘れてきちまってる」
とひとりごちた。
「わかった、立村。まずはトドさん含めて会議だ。けどやっぱ、お前電話しろや。そっちの方がトドさん、前歯めいっぱい出して喜ぶぜ」
確か、半年前、まだ上総が「委員長」と近江さんに呼ばれていた頃。
天羽と轟さんの前で、上総は同じことを告げた。
同じ言葉だけど包むものは全く違っていた。
──今まで逃げつづけてきたすべての出来事において、俺は責任を取る。