第三部 2
第三部 2
杉本梨南と向かい合う静かな時間を得るのに、若干時間はかかった。まず状況報告に出かけた駒方先生が菱本先生をひっぱってきて、ふたたび熱湯浴びせるような叱咤を受けたのは想像通りだった。
「立村、お前どんなに、ほんとにどんなに三Dの連中が心配していたのか、わかってないのか! あのあとなあ、どんなにか清坂や羽飛が」
「申し訳ありませんでした」
上総の最善なる方法はこの言葉一点張りなり。とにかく頭を下げ続けて嵐が去るのを待つ、そう決めていた。
「まあ、何事もなかったんだしな、ちょっと早く家に帰っただけだってことだろうし、なあ。上総もその点は反省しているようだから、まずはここにしばらくいるというのも手だぞ」
「立村、本当にそれでいいのか? 逃げてていいのか?」
上総なりに様子を伺ってみた。どうやら狩野先生は子細を菱本先生にまだ報告していないらしい。上総が杉本を無理やり学校から引っ張り出した後、さっさと帰ったかなんかしたのだと、その程度のようらしい。まかり間違っても汽車を使ってあてどのない旅をしようとたくらんだとか、そこまでの説明はなかったらしい。ありがたいことだ。もっともそれは上総の直感だが。
「逃げることも、時には必要だぞ、菱本先生もな」
ずいぶんのんびりした口調だった。たいして何か叩きのめしたいわけではなさそうなのだけども、どうやら菱本先生には追い出し効果満点だったようで、
「あっ、すみません、いや、申し訳ございません!」
いきなり顔を真っ赤にして頭を下げるではないか。上総の方が驚いた。
さすが年の功だけあって、若造には勝ち目ないということか。いやそうなると、上総なんてまだまだ、卵から孵って間もない、ひよこもいいとこだ。しばらく無言を通した結果、
「それでは、こいつをよろしくお願いいたします」
土下座寸前まで頭を下げた後、教室を出て行った。一気に室内温度が十度ぐらい下がったような気がした。向かい合った杉本からは、
「あきらめたのですね」
単純率直な感想が洩れた。
杉本梨南を正面に見ながら、時々、
「あのさ、杉本、この英文、俺が全部訳やってやろうか?」
とか、
「この文章、スラングとか混じっててわかりづらいだろ、その辺説明してやろうか」
などとささやいてみる。
「そんな必要ございません。立村先輩こそいったい何をお考えなのですか。まだお手元の算数ドリルが終わっていないではありませんか」
そうなのだ。杉本は上総の解いている問題を「数学」と認めてはいないのだ。
みっともなく切り返されてしばし落ち込む。なにか言い返せないだろうか。しばらく考えるがなかなか思いつかず、うやむやに黙り込む。杉本もそんな上総の様子に気を遣ってか、
「立村先輩、私が説明いたしましょうか」
緩やかに救いの手を差し伸べる。上総からすると「救いの手」に感じられるけれども、おそらく第三者からしたら「出来ない奴に対する嫌味」にしか聞こえないだろう。そういう風なふたりの間の暗号、それが心地よい。上総は言い返すことなく素直に杉本の言葉を待った。
その繰り返し。外はいつのまにか真っ白い雪に埋め尽くされていた。いつもならくっきりと映るはずの窓ガラスが、白い雪膜に覆われ、蛍光灯をぴっちりつけないと暗くてやりきれなくなりそうだった。
ふたりのやり取りを聞いているのかわからないが、駒方先生は窓を眺めながら 、
「この冬一番の、降りだなあ」
スケッチブックに何かを書き込みながら、のんびりした声で呟いた。
「上総、梨南、ふたりで雪合戦でもやってこないかい」
──何考えてるんだろう、この人。
あっけに取られて口を利けずにいる上総より先に、杉本がきっぱり拒絶した。
「雪球で立村先輩に押し倒されたら困ります」
駒方先生はさすが年の功、ふんふん頷くだけだった。
──押し倒すってなんだよそれ。
杉本はそのままの顔で上総のノートへ目をやり、反対側から器用に読み取りつつ、丁寧に問題を書き写していった。そのまま、くっきりした文字で解いていった。
五時間目の鐘が鳴った。昼休みもそうだが休み時間現れるのは、好奇心に満ち溢れた知らない生徒ばかりだった。貴史も美里も、また評議委員連中も、そういう本来上総と繋がりの深い連中は誰一人顔を出そうとしない。菱本先生から釘をさされているのか、それともほとぼりが冷めるのを待っているのか、どちらかだろう。上総からしたらほっとするのでそれで十分だった。
ただ、狩野先生が一度も現れないのが奇妙といえば奇妙だろうか。
あれだけ上総に「君の力が借りたい」などと強く頼み込んでいた、あの狩野先生がだ。
杉本が問題をさくさく解いている間に、上総は席を立ち駒方先生の耳元に問い掛けた。
「狩野先生は、どうなさっているのですか」
口もとを「ほ」の形に丸くつぼめ、駒方先生はいきなり肩をぐりぐり回し始め、
「今は狩野先生も、ひとがんばりせねばならない時期だからなあ。淋しいか、上総」
「いえ」
──なんでそんなこと聞かれるんだよ、やっぱり俺ってガキだってことかよ。
かなりむっとしたので、上総はすぐに席に戻った。どうせぴしゃっとやられるのなら、杉本の方がずっとましだ。廊下の足音がうっとおしく響き、中途半端に扉が揺れるのを上総は背中で感じつつ、頭の中でシャットアウトした。覗き込んでいるだけだろう。
「こらこらお前ら、用があるなら、堂々と入ってきなさい」
あいかわらず穏やかな声で注意する駒方先生だがそんなの通りすがる連中誰も気にしていないらしい。ところどころ聞き取れる声で、
「あいつが戻って来てるってな」
「逃げたんだろが」
「ったく、情けねえ男」
などと、誰とは特定しないものの、露骨に罵倒する言葉を残していった。
「はい、どうぞ」
杉本がノートを上総の机へくるっと向け、立てて指を指しながら、
「いいですか、よく見てください。私がただいまから説明いたします」
かすかにきりきりした言い方で、余所見している上総を呼んだ時。
扉がしっかり開ききった音でさえぎられた。杉本自身の視線が、扉に向かった。上総も釣られた。駒方先生がやっぱりのどかに、やってきた奴の名前を呼んだ。
「忠文、よくきた、よくきた。ほらほらその辺に座るか?」
忠文とは、天羽の下の名である。
呼ばれても怒った風でもなく、天羽は頭をかきながらいつものおちゃらけ笑顔を満開にしたまま、元気良く挨拶をまずはした。
「どうも、どうも、やってまいりやした! あのう悪いんですが、ちょっとあいつを借りてっていいっすかねえ」
頬の側に人差し指を当てるようなしぐさをした。上総のいる方を指しているように見えた。
──天羽。
目の前の杉本の表情が一気にとんがっていくのが見物だった。一番可愛がってくれた女子の先輩・西月さんと天羽との間に起こった恋愛騒動顛末を、杉本が知らないわけがない。女子には人一倍甘く、男子には数千倍辛い杉本が、天羽のことを好きになるわけがない。
「ああいいぞ。ここも授業は終わっているからなあ。上総、忠文が話、あるようだぞ」
──呼びかけなくたってわかってるさ。
窓の白い膜をちらと眺め、上総はゆっくりと天羽の方へ顔を向けた。まだまだおちゃらけ状態を保っている天羽だが、上総と目があった瞬間、鋭い眼差しを向けてきた。
「はい」
立ち上がり、机の上のノートをそのまま広げたまま、上総は天羽の方に近づいていった。
今朝のようにいきなり、思い出したくないものを感じてしまうようなことはなかった。
「話、聞くよ」
「どうもどうも」
先生たちにだけは和やかにやり取りしているようにみせかける術、それは上総を含めた中学三年なら誰もがマスターしているものだった。天羽はその術に長けていることを、上総はとっくの昔に気付いていた。
「じゃさ、まずは、男ふたりっきりデートができるとこで、どうっしょ」
「例のところか」
「コートと手袋、持ってこいよ」
上総は頷き、コートを羽織り手袋をしっかりはめた。
「かばん置いてくのかよ」
「どうせ戻ってくるからさ」
杉本だってまだまだ、ここにいるだろう。さっさと家に戻る気なんてない。
天羽も杉本のこわばった瞳に気が付いたようだが、あえて何も言わず駒方先生にのみ、
「そいじゃ、お先に失礼いたしやす!」
へらへら仮面をつけたまま鼻歌交じりで廊下に出ていった。上総も後を追った。同時に天羽の鼻歌が途切れた。足はまっすぐ、中庭に向かっていく。
外気に触れるまで、ふたりとも口を利かずにいた。
何か、言わなくてはならないと言葉を捜しているうちに中庭へ到着し、その戸を開けて続く雪道を踏みしめた時、はじめて天羽は上総に振り返った。
「昨日、何してたんだ」
おちゃらけ味などどこにもない。怖い目だ。
「家に帰った」
「そいで」
ためらったが、三秒の判断で答えることにした。
「お前の担任と話、した」
「どこまでだ」
背を向けて再び歩き出した。やはり中庭にはほとんど人気がない。一、二年生たちはまだ実力試験などが絡んでいて身動きとれないからだろうか。それでも数人は、雪合戦用の雪球をおにぎりこしらえる要領で作り溜めている。その脇を通り過ぎた後に上総は答えた。
「俺のいない三日間、いろいろあったらしいけど、具体的なことは天羽に聞けってこと」
「そっかそっか」
いつもの大理石はすべて雪にがっしり覆われていた。払うだけでは間に合わず、手ですくって横に落とした。天羽は上総が先に腰を下ろすのを待つようにして、場所を見極めるようにぐるりと石に手を触れて回った。
「やっぱし、ここいらがよかろが」
隣にべたっと座った。すぐに石から冷たさがよじ登ってきた。石に同化してしまいそうだった。
「噂もなんも、聞いてねえのか」
「南雲に聞いたけど教えてくれなかった」
「清坂ちゃんや羽飛は」
「喋る前に俺がE組に行った」
「逃げたって言えよ」
鼻水をすすり、天羽は手の甲でがしがしこすった。すすり上げ、両手で鼻をかんだ。
「三年評議委員会、歴史に残る最悪チームってことかよ、ったくな」
そこまで言いかけ、すぐに、
「いや、勘違いするな。立村を責めてるわけじゃねえよ」
「責めたっていいさ」
「人のこと言えるわけねえだろうが」
天羽は両手を足の間にはさみこみ、肩をつぼめた。「はっはっはっはっ」と呼吸を短く繰り返し、最後に全力疾走後の「はあっ」で締めた。
「じゃな、立村。これから話すことはな、たぶんなんだかんだ言って二、三日うちにお前んとこへ噂が流れると思うんだ。しゃあねえよな。あとはお前が判断しろよ。うちの担任が何言ったか知らんけど、結局は俺がすべて悪いってことで、チャラ」
「だから何があったんだよ」
横顔を覗きこんだ時、天羽の横顔に浮かんだ自嘲は、どこかで見たことがあると上総は感じた。修学旅行数日前に起こった天羽の女子から受けた謎の制裁を発見した時と、西月さん問題で頭を下げた時に見かけたものと、どこか似ていた。
「きっかけは難波だったんだ」
天羽は目をそらしたまま話し始めた。
「難波が去年の秋ぐらいからやたらと色気づいてやがったのは、お前も気付いてただろ。キリコ姐さんが青大附高に進学できねくなっちまって、しかもご本人が魂抜かれちまった状態なもんで、難波ホームズ完全に壊れちまったってのはな」
納得いかない八つ当たりをされていたのは感じていた。上総は頷いた。
「俺も女子評議のことに関しては、ノータッチで通してきたし、ま、いろいろとすねに傷のある身なもんだから放っておけばそれでOKだと思ってた。唯一心配していたのが清坂の暴走劇だったんだが、それもお前が押さえてくれてたしな。あとは卒業式前にでも難波ホームズに想いを遂げさせるかなんかして、それでちゃんちゃんかと甘く見積もってきたってわけだ」
誰もが同じことを考えていただろう。去年、本条先輩が卒業した日のことを思い返した。
「俺は甘かった」
舌打ちし、天羽は自分の頭をぼこぼこ殴りつけるしぐさをした。
「つまりだな、俺は、女子がああいう立場に立たされた場合、何考えるかをまったく読んでなかったってわけなのだよ、立村、お前ならわかるか? 霧島と同じ立場に立たされたとして、お前ならどうする? 逃げるか? 泣くか? 殿池先生に土下座して青大附属に残してもらうよう頼み込むか? それ以外、なにする?」
「俺だったら」
そこまで口にして、ひとつ、はっきりと浮かぶもの。
──まさか。
「C組のアマゾネス」と謳われたあの霧島さんが、でもまさかそんなことを。
いくら絶望したとはいえ、まさか。
上総ならばもしかしたら、そうするかもしれない。ひとつの行為。
「天羽、まさかだとは思うけど」
前置きつきで、上総は答えを出した。
「自殺か」
天羽は黙った。今までずっと逸らしていた目を上総に合わせてきた。周波数がぴたりと合う。
「ご名答」
尻から冷えてきて、全身はもう、天羽と体温を少しでも交換しないと耐えられなくなっていた。自分が発した言葉に、言葉も足元の雪と同じく固まっていった。いつ溶けるのか、わからなかった。
「勘違いするな。霧島は当然、今も、生きている」
天羽はお経を唱えるようにまずは締めた。
死にたい、何度も考えたことがある。
世の中で、一度も死を考えたことのない人間がいるなんて、絶対に信じられない。
一度も殺してやりたいと思ったことのない人間がいるなんて、絶対に認められない。
そんな気持ちを一切感じたことなく過ごせる人間なんて、血が通っていない奴だ。
上総にはそうとしか思えない。だから、自然とわかる。
全身全霊で努力してそれが叶わなかったとしたら、残された道はひとつしかないと。
──あともうひとつあるけど、それはまず無理だ。
天羽には言わなかったもうひとつの可能性を上総は飲み込んだ。
「俺たちが評議委員会であたふたやっていた頃あたりから、霧島はつまり、その、天国への移住計画を立てていたらしいんだな。完全に干からびきった状態で、E組に篭りっきりの間に、何かがあったんだろう。俺もその辺は詳しく聞いちゃいねえ。けどな、その時にな、一緒にいた相手が、問題だったんだ」
「相手って杉本か?」
「違う」
あっさり天羽は否定した。ほんの少しだけ息がしやすくなったような気がする。
「そいつとふたり、毎日のように死ぬことばっかし考えていて、とうとう決行しようとしたのが一週間くらい前らしいんだな。名探偵シャーロック・トシタケ・ホームズのお言葉によるとだがな」
「そいつ」が誰なのか、すぐにたどり着いた。たぶん、杉本を一番可愛がっているあの女子だ。あのふたりは三年女子の中でも一番の仲良しだった。そう考えると、自然、コンビで自殺計画を立てる可能性、なくはない。
「難波はそれ、いつぐらいに気付いたんだ?」
「さあな」
天羽はふたたび目をそらした。
「たぶん、あいつは最初から霧島以外アウトオブ眼中だし、性格資質すべてにおいてホームズだから、早い段階で勘付いたとは思う。俺は全然だったし、更科も似たようなもんだったけどなあ。とにかく難波は『青大附属のシャーロック・ホームズ』たる名にかけて、霧島たちの計画をかぎつけ、阻止しようと行動を開始した。まずは第一段、これにて終了」
杉本がそういえば、昨日ちらっと話をしていたような気がする。
「やたらと難波先輩が走り回っていた」とかなんとか。
──そう考えれば、話も繋がるか。
「阻止したってことだよな」
「第一段だ、その話は。まだ第二段と続くから黙って聞け。ちなみにお前の脱走劇は第三段だけど、俺はそんなの聞く気ねえからな」
難波と霧島さんとの不可思議な気持ちの交流。上総にはまだつかみとれなかった。
ただ、難波がどうしようもなく霧島さんしか見えない状態にあることと、それが実は密かに心地よい場所だということを、上総は実体験において自覚なしに学んでいた。
天羽は第二段を、ゆっくり続けた。
「霧島の様子はよくわからんが、難波がエキサイトしているのだけは俺も気付いてた。更科もやばいと思ってたらしい。ただ俺もあの時は生徒会との腹の探り合いでいらついてたってのもあったしな。新井林を仕込むのも一苦労だし、肝心のお前は霧島と同じくらい魂なくしちまってるし、俺ひとり、四面楚歌」
否定できないので黙っていた。
「とにかく色恋沙汰の修羅場は経験済みの俺だし、まずは難波をとっつかまえて白状させたんだ。あいつも状況がかなり進んでいるのは承知していたみたいでな、ずっと休み時間、霧島から目を離さないでいたらしいんだ。お前と同じことやってたわけ、相手を代えてそこんとこ」
皮肉られても、「自殺」という行為の元には何も言い返せない。
「で、とうとう決行日を難波が突き止めた。さっそく難波はおっかけようとしたんだがな、どこにもいやしねえ。ふたりで死にに行こうと約束して、待ち合わせをしたってとこまではわかっていたけど、あとはよくわからなかったらしい。さすがのホームズも頭を抱えたらしいんで俺のところへ相談にきたというわけ。そしたら」
天羽は言いよどんだ。唇を拭い、鼻を手でかみ、その手を雪にごしごしこすりつけた。四回ほど繰り返した。
「近江ちゃんが」
「近江さんが?」
全く想像していなかったその名前。天羽の最愛の彼女。
「とんがった傘持ってた女子に、追い掛け回されて俺のとこに逃げ込んできた」
「傘持ってた女子?」
「その日は雪じゃねくて、雨が降ってたんだ」
「いやそういうことじゃなくて、なんで」
上総の問いかけに、天羽は初めて、今まで避けていたらしい女子の名を出した。
「西月の奴、近江ちゃんをぶっ殺す気であの時、追いかけまわしてたんだぞ!」
「まさか」
天羽の瞳に光ったのは、確かに涙だった。
「たまたま俺が視聴覚教室で近江ちゃんと待ち合わせていたからだってのと、難波がいたからってのと、あと、誰も他にいなかったからっていう、ただそんだけの偶然があったから近江ちゃんは死なずにすんだんだ。もし俺があの時あの場所にいなかったら、たぶん近江ちゃんは、西月に、刺し殺されてたと思う。絶対、俺がいなかったら」
頭を抱え、天羽は声を震わせた。座ったまま地団駄を踏んだ。
──復讐。
さっき上総が、「追い込まれた時に取る行動」のひとつとして、あえて口にしなかった二文字がくっきりと浮かんだ。