第三部 1
第三部 1
上総を迎えた青大附属の校舎は、完全に冷え切っていた。
三年間通っていたのと同じ足取りで生徒玄関に入り、靴を脱ぐ。
すれ違う三年生たちが挨拶もせず、会釈だけして通り過ぎていく。
その後ろから、ひそやかな声で、
「あ、あの馬鹿、来てるよ」
はっきりと耳に残る言葉を残し、去っていく。おそらく一、二年生だろう。
──あれだけ派手な騒ぎ起こしたら、そうだよな。
三日間休み、杉本梨南を連れ去っただけ。
それだけならたぶんさほどの騒ぎにもならないだろう。狩野先生も父にそんなことを話していたようだった。あとで菱本先生にもうまく言ってくれるとも。もちろんこれは当てにしていないけれども、自然といつもどおりの生活を送ることができるだろう。そう甘く見積もっていた。
甘かった、としかいいようがない。
階段を昇ると、一瞬はっと息を呑む気配がした。背中の方だ。踊り場へ振り返る。
「やあ、りっちゃん、おはよ」
脳天気な顔でゆっくり追いかけてきて並んだのは南雲だった。髪の毛の先が肩にくっついている。長すぎるんじゃないかと思うのだが、もちろん卒業寸前の規律委員長、その辺の計算はしっかりされている。
うまく言葉が出ず、ただ頷いた。南雲は何にも知らない顔して、
「ねえ、りっちゃんさあ、今日の英語のリーダーなんだけどさあ、悪い、貸して」
「リーダー?」
「そ。俺、りっちゃんいない間さ、英語の訳ぼろぼろ。さぼってんのかお前ってすげえ怒鳴られててさあ。改めてりっちゃんのすごさを感じたわけ。さ、教室行って、ノート写させてほしいなあ」
「別にそのくらいなら」
南雲はもともと英語が得意ではない。いつも上総の訳した予習ノートおよび早い段階でこしらえた訳文ノートを全部写している。だが、三日間の間で英語の授業というと、そんなに 進むものなのだろうか。頭の中で繰って見るが、たった三時間しかないんじゃないだろうか。
「いやさ違う、うちの学校ってあれだろ? 高校の授業の予習真っ最中だろ。で、教科書以外のプリントをさ、大量に渡されちゃったわけ。公立では高校三年が使うようなものってことでさ。そんなのできるわけねえよ、って思ってたんだけど、できるんだよなあ、できる奴は」
「できる奴?」
上総が問い返すと、ウインクしてのける南雲。
「下ネタ女王のあの方だけが頼りなんだけどなあ、なにせ女王様ですから、怖いったらないの」
たぶん古川こずえのことだろう。四月から英語科の同級生だ。南雲は続ける。
「『いいかげん人頼るのあんたやめな! いいかげん自分でやる習慣つけな! 毎日抜いたり出したりすることはちゃんとやってるんでしょ!』とかさ」
「女王様のご機嫌斜めって訳か」
想像がつくだけに、笑うのも命がけだった。上総はひさしぶりに南雲へ笑みを返した。
まだ時間もある。ノートを南雲に渡しておいた。もともと上総にとって中学英語の授業は退屈極まりないものであり、担当の先生もそれはすべて把握してくれていた。上総にだけこっそり、大学クラスの英語教材を渡してくれた。もちろん他の生徒との兼ね合いもあるので内緒ということにはなっているが、みな知らないものはないだろう。
ゆっくりと廊下を歩くと、すれ違いざま今度は難波と顔を合わせた。ちらと上総に視線をやるが、いまいましそうにすぐそっぽを向いた。相当、怒っていることが窺い知れた。南雲はそんなの知ったことかとばかりに、ぽーんと声をかける。
「ホームズ、どうした、ご機嫌よろしくないなあ」
「うるせえ」
でも南雲に対しては片手で返事している。曇った眼鏡をはずし、指でごしごし拭きながら、突然硬直したように立ち止まった。
「おい、立村」
上総を呼び止めた。丁寧に眼鏡をかけなおし、ポケットに手を突っ込み、
「聞いてねえのか」
ひいっと、喉が鳴る。上総は答えずただ耳を傾けた。隣の南雲がへらへらしたまま二人を交互に眺めている。
「何を」
「なんでもねえよ」
尋ね返したくとも、言葉を発したらどつぼにはまりそう。上総が黙っていると難波は、数秒舌打ちを繰り返しそのまま、B組の教室へ入っていった。
「どうしたんだろ、難波、かなりきてるよ」
「わからないけどさ」
たぶん上総のふがいなさに対して、怒りをぶつけているんだろうという程度のことはわかるけれど、具体的に何が、というのが判然としない。
「たぶん、俺が嫌いなだけだよ」
一番わかりやすい答えを自分なりに出し、上総はD組に向かい歩き始めた。
昨夜、狩野先生に語られた言葉。
──実は、君が学校を休んでいる間にいくつか出来事があり、おそらくこれは君の力が必要だと思われます。僕はA組の担任ですしこれ以上のことは言えません。ですが、教師なりにベストな方法を考えると今のところ、立村くんに力を貸してほしい、というのもあります。
学校に戻ることを決意したきっかけなのだが、どこまでそれが本当なのか想像がつかなかった。何かがあったのだろう、おそらく。三年同士のトラブルがA組中心に起こったのかもしれない。だが、上総に何かできることがあるとは思えない。
要は、狩野先生への、義理でしかない。
──もし、明日きてくれるようなら、それなりに話をする人が出てくるでしょう。大人の仕事はもちろんすべて片付けますが、学校内で中学三年同士、力を貸してほしいということもあるものです。立村くん、もし、よければ、その時にもう一度、君に頼らせてほしいのです。かまいませんか。
頼らせてほしい、と、教師が生徒に対して頼み込むくらいだ。何か事情があるのだろうとは思う。大人の仕事、とはどういうことだろう? このあたりは天羽が詳しいのかもしれない。だが、今更出来損ない元評議委員長の立村上総に何ができるだろう?
「なぐちゃん、俺がいない間、なんか三年の間で事件、起こった?」
口にしてみて心中、慌ててしまう。一番の事件といえば、上総の「杉本梨南誘拐事件」に決まっている。幸い南雲は、そんなきついつき返しをするような奴ではなかった。
「まだ噂段階だから、俺の方からはなんともなあ。あったといえばあったらしいよ」
「聞かせてもらうって、無理か?」
「うん、無理。ごめん」
あっさり南雲に謝られて、腹立てる気もなくなる。いい奴だ、やっぱり。
「だけど、噂だからすぐにりっちゃん気付くと思うよ。どこまで正しいか、ってことなら俺、後で分析することくらいはできるけどね」
ということは、南雲もそれなりに耳にしているというわけだ。
「それなら、流れてきた段階で確認するかもしれないけれども、その時はよろしく」
「OK、じゃあ、入ろ、入ろ!」
南雲は髪の毛を指先でつるつる撫でた後、三年D組の扉へ手をかけた。
一瞬だけ、目の前が真っ赤に染まったような気がした。もちろん、気のせいだと思った。
外はまだ、早朝独特の銀色に光った雪の色に染まっているはずだった。
「立村くん!」
「立村!」
南雲が開けた扉の奥には、窓に持たれるようにふたりの形が、白いシルエットになり映っていた。逆光なので氷上は全く読み取れない。こちらに近づいてくる。他の生徒は誰もいない中、おかっぱ髪の女子と、背の高い男子と、ふたりが一緒に駆け寄ってくる。
──清坂氏と、羽飛だ。
立ち止まったまま、どのくらい見つめていたのだろう。
ほんの数秒だったはずだ。南雲もびっくりしていたのか、教室へ入るのに躊躇していた様子だった。なのに、何が見えたのだろう。上総の視界に入ってきたのは、全く別のものだった。美里と貴史の姿と見極める前に、一枚の絵画が挟み込まれたような感覚だった。ご丁寧にも、音声まで入っている。何が自分の中に起こったのかわからず、金縛り状態のまま上総はその絵を見据えていた。
「立村くん」
美里の声が重なっていくのも。
「どうして、そんなに馬鹿なのよ!」
──どうして立村、こんなにやってもわからねえんだよ!
「立村、なんで逃げたんだよ! 俺だって」
──立村、お前どうしていつも、俺たちの言い分、聞こうとしねえんだよ!
今、目の前にいるふたりは、青大附属の友だちのはずだ。
そしてこの教室も、三年D組のはずだ。
なんで、「あいつ」の声が重なるのだろう。
なんで、小学校の六年二組教室が現れるのだろう。
めいっぱい赤いティッシュの造花が窓一杯に張り巡らされている、あの教室に。
上総は一歩、退いた。ふたりから離れた。完全に白昼夢。幻覚を見ているとしか思えない。
「ごめん、少し離れてくれるか」
かろうじてそれだけ搾り出すように答えた。でも近づいてくるふたりはさらに足を踏み出し上総に密着してくる。美里が手を伸ばし、貴史が肩に手を触れた。
「言いたいことあれば、言ってくれればいいじゃない! そんなわけわかんないことしないで!」
「そうだ、お前、どうして何にも言わねえでいくんじゃねえよ!」
何も考えられない。ふたりは確かに美里と貴史のはず。なのに近づけば近づくほど、その姿とぬくもりは、特定の誰かを思い起こさせる。永遠に忘れたい相手に重なっていく。上総は手を振り払った。後ろずさると同時、誰かにぶつかった。罵られた。反射的に謝り文句が口に出る。ただ目の前のふたりが襲い掛かるように見えてならなかった。
そんなわけ、絶対ないのに。
「りっちゃん、どうした」
「ごめん、出直してくる」
南雲のジャンバー袖に手を伸ばし、上総は息をつめて美里、貴史に声をかけた。
「あとで話す、ごめん、悪かった」
一番近い階段から駆け下りようと方向を替えたとたん、そこには奈良岡彰子を始め、数人の女子たちが呆然とした顔でもって見つめていた。かろうじて挨拶をしようとするのは、やはりあの奈良岡だった。
「立村くん、あきよくん、おはよ!」
──近づくな、近づくな。頼むから、これ以上寄るな!
いつのまにか人が集っている。他クラスの生徒、D組の生徒、その中に天羽の顔を見つけた。声をかけてくる気配はなかった。上総は反対側の階段から、天羽の肩に軽く手を触れた後、一気に駆け下りた。行く場所はひとつしかなかった。隠れ場所も、同じくそこしかなかった。背負ったざわめきを洗い流せる場所は、そこだけだった。
「立村先輩。おはようございます」
杉本の無機質な挨拶に、何かを言いたいはずだった。なのに出てこない。
そこにいるのは、ふたつにゆるりと結んだ髪形の杉本梨南だった。
髪の毛を解いていないけれども、ゴムをひっぱればすぐにするんと落ちてきそうなくらい低い位置に結んでいる。昨日はずっと側にいた女子なのに、扉の前で入るのを迷っているうちにまた遠くなってしまいそうだった。上総はゆっくりとE組の教室に足を踏み入れた。そこには赤い光もなければ、さっきちらついた幻覚も見えない。静かな空気に充ちていた。
杉本梨南は何事もなかったかのように、ノートを取り出し何かを書き記していた。上総から逃げる気配もない。昨日あんなことがあったというのに、何もなかったかのようだった。じくり、と痛んでくるのはなんだろうか。嫌がらせのように隣へ座った。
「昨日、どうして帰った?」
「狩野先生がいきなり現れたからです。教師の権力乱用です」
ぶっきらぼうに、それでもまっすぐ言い放った。これを信じるならば、狩野先生と打ち合わせていたわけではなさそうだ。
「ふうん、じゃあさ、どうして、あの人きたんだ?」
八つ当たりっぽく思われてもしょうがない。それだけのことをされたんだから。
杉本も全く動揺せず、視線を上総に向け、手をきちんと膝の上に重ねた。
「私も、知りたいのですが」
「杉本が呼び出したわけじゃないだろう?」
「当たり前です」
「でも、他の女子には連絡したんだろ? 誰とは言わないけどさ」
ねちっこい言い方でいじめていると自覚はしている。杉本の性格上、嘘が言えないのはよくよく承知している。だから白状させたい。せめてあやまらせたい。固まったザラメ雪に黒い泥だらけの長靴で足跡をどっさり残してやりたい。
「狩野先生が言ってたけどさ、杉本、どうしてそんなことしたんだよ」
杉本は目をそらそうとしない。
「最初から途中で逃げようと決めてたんだろ、どうせこんな奴ついていったら補導されるだけだってさ」
違う、違う、何を口走ろうとしているんだろう。
コントロール不能状態の自分に上総は慌てた。だけど、止まらない。
「だから、清坂氏に連絡したんだろ」
毒入りの吐息をぶつけてやりたかった。
「ふたりで最初から組んでいたのか。それとも、向こうからそれ、言い出したのか、どっちなんだよ」
杉本梨南はゆっくり立ち上がった。
「どちらでもありません、私の意志です」
「嘘つけ!」
「嘘をついたことはありません。事実だけを申し上げます」
十四才にふさわしくない言葉を並べ、杉本は簡単に説明を始めた。
瞳には、いつもなら存在するであろう怒りもなければ、涙もなかった。
「立村先輩と行動する以上は、お付き合い相手の清坂先輩にご報告するのが筋です」
まずは上総の予想をおおよそ認めた。
「ですが、今回はそういう暇もありませんでしたから、途中駅で連絡を入れただけです」
「だからなんでそんな余計なことをするんだよ! 俺、前に言っただろ? 清坂氏とはとっくに」
「意思表明を双方で行わない限り、事実とは認められません」
──何が意志表明だよ。
言っている意味がわからない、というよりも、わかりたくない。上総は頬杖をついたまま杉本を見上げた。どうせきらうならどんどん罵倒すればいいのだ。杉本には豊富な語彙も、上総を罵倒するネタもたんまりとある。
「私が行ったのはひとつの義務を果たすことだけです。私の方が真実を知りたいと思っております。なぜいきなり狩野先生が現れたのか、私がわざわざ購入した切符を取り上げようとしたのか。そうです、まだ狩野先生からはその料金を頂戴しておりません。立村先輩に対しての切符代は当然、私が持つつもりでおりましたが、お給料をもらっているであろう狩野先生におごってあげる筋合いはございません。私の言い分に何か文句がありますか」
よきよく見ると、狩野先生に対してだけ、かなり憤っているようすが窺い知れる。
──杉本は嘘を言わないんだ。
どこまで信じればいいのかわからないが、まずは聞くだけきくことにした。
「で、清坂氏になんて報告したんだよ」
「立村先輩は私が見張ってます、ご安心ください、です。あと」
そこで言葉を切り、杉本は小首を傾げた。ゆるいふたつわけの束が肩の上で揺らいだ。
「もし、そのお気持ちがあるなら青潟駅で乗り換えましょうかとも」
「どういう意味だ」
思わず飛び掛りたくなる。肩を揺さぶりたくなる。頭の中じゃなくて、まっすぐ立ち上がったどこかですべてを突き刺してやりたくなる。
杉本も気付いているはずなのに、あえて冷静な振りをしているのだろうか。抑揚のない言葉で続けた。
「清坂先輩はおっしゃいました。私に、あの方に対してするのと同じ事を立村先輩にしてあげてほしいと。ですから私の判断でそれに従いました」
「あの方って誰だよ」
「もちろんおひとりしかおりません」
──関崎のことかよ。
さらりと答え、目力だけはしっかりと、上総に打ち据えて。
「そのようなことをおっしゃるものですから、いらっしゃる気はないのだと判断しまして、私は立村先輩と往復するつもりでいたのです。なぜ、狩野先生が割り込んでくるのでしょうか。この学校の教師はやはり頭の悪い人間ばかりなのでしょうか」
「杉本、それほんと」
上総は杉本の額をそっと覗き込んだ。かろうじて杉本より背は高いので、それができる。
「私が嘘をつくとお思いですか」
「……思わない」
黙って座った。杉本に言い返す言葉など、今はない。
しばらくふたり、隣り合ったまま座っていた。杉本は何事もなかったかのようにノートを広げ、これみよがしに難しい数学の問題を解き始めた。わざわざ上総の鼻先に突きつけるようなことをするのは、あきらかに嫌がらせとしか思えない。腹を立てる気もない。かまう気もなく、上総は机につっぷして目を閉じた。ひとりで考えた。
──杉本が清坂氏に連絡を入れ、清坂氏が直接近江さんに連絡を入れ、その繋がりで狩野先生に繋がったということか。
昨夜、狩野先生も同じようなことを説明してくれた。杉本の言い分を丸ごと信じれば、その通りだと頷ける。また美里と近江さんとは仲良しだったし、何かあった際に電話をかけてもそれは女子として自然なことだろう。天敵・菱本先生に泣きつかれなかっただけましと考えればいいのか。
いや、それ以上に衝撃なのは、杉本の態度の理由が解けてしまったこと。
──関崎に対してすることを、俺にしたというわけだもんな。それならば。
かみつくこともなく、おとなしく肩にもたれさせてくれたのも、「関崎に対して」ということならば納得だ。上総はどうしようもなく杉本の持つぬくもりがほしかったけれども、杉本は関崎にやるべきものとして与えてくれただけのことだったのだ。何か勘違いしていた自分がみっともないったらない。一瞬でも、何を夢見ていたのか。
上総は顔をあげた。何か付け加えるべきことがあるような気がした。
「杉本、聞いていいか」
「なにか」
杉本は目線をノートとシャープペンの間にはさむようにし、そのまま答えた。
「もし、今、俺が関崎だったら、何してくれる?」
「わかりません。先輩はあの方ではないです」
「いや、だから、もし、俺が関崎だったら、どうしてくれる?」
シャープペンをノートの境目にはさみ、杉本はしばらく黙りこくったが、
「このままでいます。それだけです」
「そうか」
どうやら、杉本は、まだ「関崎と同じ扱い」を上総にしてくれそうだった。
──杉本は、「振り」をすることができないんだ。
口でなんといっても、その行動は嘘にならない。そのまま上総は受け取ることに決めた。
「上総か、今日はここにいるか?」
教室に入ってきた駒方先生は、上総が杉本と並んで一緒にいるのを見ても、特別何も言わなかった。昨日の出来事を知らないわけ、決してないだろうに。たぶん狩野先生を通じてみな、立村上総情報をすべて共有しているだろう。口をきっちり結んだ。
「梨南も、今日は上総がここにいて、いいか?」
杉本にも尋ねた。こっくり頷いた。付け加えるように、
「私も、立村先輩は避難されたほうがよろしいと思います」
「そうか、そうか。梨南の許可が出たか」
にこやかに駒方先生は、絵の具でまだらになったズボンで手をこすりながら、
「そうだな、なら私たちも交代でここにいるから、まあゆっくり、やりたいことしてなさい。あとで狩野先生もいらっしゃるし、菱本先生もくるはずだしな。ここにいるかわり、大人たちから聞かれたことは、きちんと答えるんだぞ。それさえすれば、あとは卒業までここにいてもかまわないから、安心してくつろぎなさい」
──本気かよ。
なにか、すでに上総のいないところで包囲網が形成されているような気がした。
「西遊記」に出てきた、おしゃかさまの手の中にいる孫悟空と一緒か。
かみつきたい気持ちはある。でも、今このぬくもりからは離れたくない。
「ありがとうございます」
上総は脱ぎ忘れていた黒いコートをロッカーにしまい込み、改めて杉本の隣に腰掛けた。
「それなら、まずは上総、狩野先生から渡されていた数学のプリントをまず出しなさい。それをできるところまで、まず解いてみることだなあ。梨南と一緒にやるか?」
頷くとにこやかに、
「それなら、机を向かい合わせにしてやろうか。ふたりだと、やはり淋しいものなあ」
小学校中学年レベルの内容で、見られて恥としか思えない内容だけど、居場所代と考えればそれでいい。上総はプリントを取り出し、机に置いた。
「わかりました」
上総が答える前に杉本が立ち上がり、素直に机をずらし向かい合わせにしてくれた。
──関崎にしてくれること、をか。
関崎といえば、来週か再来週、青潟大学附属高校を受験するため、高校校舎にやってくるはずだ。もちろんその日は学校全体が休みになるので会うことはできそうにない。
本当だったら杉本に帰り道どこを通って帰るかくらい教えてやってもいいのだが、今、そんなこと絶対しないと決めた。
──冗談じゃない。誰が渡すか。