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第二部 9

第二部 9


 こんなに激しく泣きじゃくったのは何年ぶりだろう。

 ──何度もしつこくわめき散らしてるじゃないか。

 自問自答しながら、しゃくりあげていた。目の前には自分の担任でもない教師がひとりいて、もの言わずにずっと上総を見据えている。あきれ果てているのだろうか、それとも軽蔑しきっているのだろうか。いやなによりも、なんで担任・菱本を差し置いて上総につかつかと入ってこようとするのだろうか。何もかもわからない。しばらく上総は視界が崩壊する中、本条先輩の記憶を辿っていた。

 そうだった、本条先輩は。

 ──あの人は、初めて俺を評価してくれた人だった。


 初めて顔合わせをしたのは、もちろん第一回評議委員会の席だった。

 一年生から見て二年の男子評議たちは、はるかかなたの存在に見えた。その中でも本条先輩の存在感は際立っていた。というよりも、本条先輩以外の上級生たちはみな、同じどんぐりの背比べにしか見えなかった。だから、いつのまにか目で追うようになってしまったのか。

 後日知った「成績優秀・運動能力抜群・カリスマ性はナンバーワン・唯一の傷は女子との二股交際かつ一線を越えたお付き合い」などという情報なんてどうでもいい。上総のような何にもできない一年坊主を無視し、自分のやりたい通りに物事を進め、誰一人文句を言わせることなく完璧にやり遂げる能力。ありとあらゆるところで見せ付けられてきた。

 だから、こんな人の弟分扱いをしてもらえるとは、夢にも思っていなかった。

 かなり早い段階で、他の一年生男子たちよりも目をかけてもらえたことが奇跡だった。

 ──立村、お前ってな、ほんっとにガキだなあ。ほら、こっち来い。俺が教えてやる。

 頭をぐりぐりやられながらも、手をひっぱられ隣に座らされ、わけのわからぬまま上級生たちの話を聞かされたこともある。グラビア写真集の一ページを鼻先につきつけられつつ、「お前どういうタイプが好みなわけ? ふうん、このあたりが反応したとこか?」なんてからかわれたりしつつも、すぐにフォローで「まあいっか、お前はまだまだガキだもんな。まあ最低限のことくらいは覚えとけ」と流してくれる。

 上総のことを、一番のお気に入りとして評価してくれた、たったひとりの人だった。

 それも単なる、弟分というだけではなくて、「能力」を認めてくれた人だった。

 だから評議委員長に指名してもらえたのだ。

 ──俺には価値があるって、初めて教えてくれたんだ、本条先輩は。

 本条先輩が評価してくれさえすれば、全校生徒がとことん上総を馬鹿にしたとしても、耐えられたはずだった。「あの天才本条が能力を評価して次期評議委員長に指名した」というプライド、それだけで乗り切れるはずだった。

 なのに、できなかった。

 すべて栄光の評議委員長として昇ることのできる階段を踏み外し、今にいたるというわけだ。これが本来、自分のいるべき場所だと気付きながらも、一度は足の裏に感じた赤じゅうたんが恋しいと泣いている、馬鹿な自分に。

 ずっと前から押さえつけようとして、でもどうしようもなく言うこと聞いてくれない子どもが激しく暴れている。同じ中学三年の中にはすでに初体験を済ませた奴だっているっていうのに、自分だけがひとり、取り残されている。

 ──どうして手が届かないんだろう。

 ──どうしていつもこうなんだろう。

 無理やり息を止め、顔を上げた時、目の前に座っている狩野先生がじっと見つめているのに気が付いた。この醜態を、ずっと見つづけていたことになる。

 かつては評議委員長だった自分が。

 現在も名前だけは評議委員である自分が。

 しょせん、今ここで醜く顔をゆがめてしゃくりあげている自分が、本来の立村上総なのだ。

 ──殺してやりたい。

 今、もし可能ならば、ぐさぐさに自分を切りつけて。

 

「立村くん」

 ようやく上総が頬にこぼれた涙の跡をこすった後、狩野先生は静かに声をかけてきた。慰めようとでもするのか。答えるのもおっくうでただ見返した。

「今日、僕が来たのは、君にお願いしたいことがあったからです」

「できることなんてないです」

 いろいろな言葉を使い、狩野先生が上総を動かそうとしていることだけはわかる。

 この人もやはり、菱本先生と同じ教師なのだろう。失望した気持ちをどこに隠せばいいのかわからず、上総はただそれをありのままにした。顔を伏せた。狩野先生もそれに気がついているのかどうかわからないまま、ゆっくりとひとりで語り出した。

「まず一つは、先ほど話した本条くんのことです」

 ──これっていいのか? 個人のプライバシーに入りすぎじゃないのか?

 喉を詰まらせながら、上総はさっき狩野先生が語った本条先輩の言葉を思い出した。

 たかが、正月にひさびさの挨拶をしにきただけだというのに、勝手に後輩の説得材料になっているというわけなのか?

「駒方先生と僕、そして本条くんと三人で語り合っているうちに、やはり本条くんは一度、立村くんと話し合って自分を取り戻す必要があるのではないかという結論に達したのです。これは本条くん自身も、了解していることです」

「先輩が、そんなこと」

 首を振ろうとしたのに、幼児がかぶりをふるような格好になってしまった。みっともない。狩野先生は動じない。そのまま静かに続けた。

「今話したことは、立村くん、君のためというのではなく、本条くんのためです。ご存知でしょうが、本条くんは駒方先生のクラスで三年間過ごしてきて、もちろんその間にいろいろな出来事を経験してきています。立村くん、君から見たら本条くんは尊敬する先輩でしょう。ですが見方を変えると、本条くんは駒方先生から見たら一生徒のひとりですし、その友だちから見たら同級生、それぞれ違う顔を持っているのです」

 そんなわかりきったことを説明しにきたというわけか。すでに上総の中で狩野先生は自分の理解者ではなくなったような気がした。大人を一瞬でも信じようとした自分がおろかだったと笑うべきか。上総はひょいと目をそらしたまま、ふと机の上に出しっぱなしの黒い手帳を見つけた。本条先輩から教えてもらったことや、その他評議委員会情報を自分なりに付け加えたものだった。人に見られたくない部分はすべて、英語、フランス語、ドイツ語などでごまかして書いてある。

「本条先輩が、そんなこと言うわけないです」

 繰り返し呟くと、狩野先生が少し首を傾げた。

「どうして、そう決め付けられますか?」

「完璧な人が、どうして、俺なんかを、そんな」

 当たり前のことをなぜ繰り返すのか。

 本条先輩のように、頭脳明晰、行動力あり、運動能力抜群、その他数え切れないくらいのエネルギーを兼ね備えた人物が、この世にどのくらいいるというのだろう。

「完璧、ですか? 君よりも、完璧なのですか」

 また涙があふれてきそうになる。その完璧な人に、上総は弟分扱いされてきたのだ。本来ならば天羽がなるべき地位を自分に与えてもらえたのだ。こんな価値のない自分を、評議委員長として価値がある、そう判断してもらえたのだ。

 狩野先生は、初めて首を振った。

「それは本条くんを侮辱していることになりますよ」

 じっと上総を見据えて、眼鏡をはずした。真っ白い肌がすうっと闇に冴えて映った。

 ──やはりこの人も同じなのだ。

 また、唇をかみ締めたくなる。舌に血の味がかすかに残る。

「立村くん、僕は今、決して君を変えようとは思いません」

 敵意を丸出しにしにらみ据えた上総に、狩野先生は全く動じることなく続けた。

「君が受け入れられないのは当然です。僕が君の立場だとしたら、きっと同じことを感じたでしょう。ですが」

 ここで言葉を切った。

「この世の中で、それはどんなに訴えたくても通用しないのです」


 ──通用しない? わかりきってることじゃないか。

 上総の心中つぶやきに、狩野先生はなぜか頷いた。


「君も感じているでしょう。どんなに君が自分の感じ方をこういうものだと訴えたくても、周囲の人たちは誰も受け入れようとしないということを。そして今もそうです。君が杉本さんを連れて汽車に乗ったという行為を、すべての人はみな、自分の好きな形に捕らえるでしょうし、どんなに君が本当のことを訴えても一部の人にしか届きません。このことは、きっと君も理解していると思います」

 ──ああ、嫌と言うほどな。

「だから、明日君が学校に戻ったとして、どういうことが待ち受けているかは想像がつくでしょう。もちろん戻るかどうかは君の判断に任せますが、決して明るくみな受け入れてくれるとは、考えられないでしょう」

 ──たぶん全校生徒一斉に無視するだろうな。

 その中にはおそらく、杉本梨南も混じっているだろう。また泣けてくる。

「立村くん、ではこれから、どうやってこの青大附属社会を歩いていくか、考えてますか? もちろん公立の学校に逃げるという選択肢もあります。もちろんこのまま家に閉じこもるというのもひとつの方法です。どれが正しくてどれが間違っているか、それを僕が判断することはできません。教師の立場ならば当然、学校に戻るべしと伝えることができるでしょうが、君に僕がそれを押し付けることはしたくありません。なぜならば僕は」

 言葉を切り、少しだけためらうそぶりを見せた。目を逸らし、眼鏡に指先で触れ、呼吸を整えた。上総はそのしぐさを、目をこすりながら見つめた。

「君を見ていると、かつての自分を思い出すからです」

 ──かつての自分って、いったい。

 身体の重心がぐっと地面に降りていくような感覚があった。

 地球の奥にがっしりと繋がったような、重たいものがある。

 上総はなんどか、狩野先生の呟いた言葉を耳の中にくりかえした。

 ──かつての自分、かつての自分、かつての自分。

 つまり。

 ──俺が似ている、ってことなのか?


 信じられなかった。絶対ありえないことだった。

 数学の教師に、しかも一回り以上年上の人にそんなことを言われる理由がわからない。

 もちろん、現在の担任よりもわかってくれる感覚の持ち主だとは思っていたけれども、だからといってこの人に似ていると思ったことはなかった。

「先生が、俺に、似ている……?」

「そうです。厳密に言うならば、君は僕がしたくてもできなかったことをしようとしている、とでも言えばいいでしょうか」

 ますます言っている意味がわからなかった。あっけにとられた上総を見ながら、狩野先生はかすかに笑った。安心したかのようだった。

「経験した事柄が同じものだとか、授業中に学校を抜け出したとか、委員長クラスのポジションについたとか、そういうわけではありません。むしろ僕は、目立たない存在としていつも教室の隅に座っていたタイプの子どもでした。だから、そういう生き方をしていけばうまくいくだろうと無意識のうちに感じていたのです。わかりますか?」

 なんとなく、つかめてきたような気がする。つまり、小学校の頃の上総ということか。

「特別引き立ててくれる先輩がいたわけでもありませんし、おとなしく図書局で科学書を読みながら周囲の動きをずっと観察するのが、僕の中学時代でした。そうですね、高校も殆ど変わらない生活でしたし、実際それで不便を感じたことはありません」

 上総相手ではなく、どこか宙を見つめながら語りつづけていた。

「それが変わったのは大学院に進んで教師の道を選んで、その後ですが、まだその話をするには時期が早すぎます。今すぐ知る必要もないし、いつか語る機会もあるでしょう」

 今度は照れを隠すようにうつむいて笑った。

「僕は君のような内面を持つタイプの人が、どうやってこの社会を歩いていけばいいか、一通りの道筋は知っているつもりです。またそうやっていけばそれなりに平穏な日々を過ごしていけるとも思います。本来、教師ならばその道を教えるのが筋でしょう。ですが、僕はあえて君にそれ以上のことを教える気はありません」

「どうしてですか」

 思わず問い返した。

「僕も、君がこれから進んでいく道を追いかけたい。それによって自分の生き方を見直したいのです。立村くん、さっき僕は、本条くんが君を必要としていると話しましたね。君も完璧な本条くんに答えられなかったことを許せないと感じているようでした。ですが、立村くん、君が懸命に自分なりの道を見つけようとしていることによって、本条くんを始め杉本さんも、そして他の生徒たち、いや、僕自身を耕されていることに、どうか気付いてほしい。それだけをどうしても、僕は伝えたかったのです」

「そんなこと、絶対にありえない」

 上総はさらに首を振った。狩野先生は何を勘違いしているのだろうか。上総とは違う道をまっすぐ進んで、きちんと職についている、それにあと何が不満があるのか? 

「教師としてではありません。二十八年間生きてきた中で、どうしても僕はこれから先、君が道を切り拓いていくのかを見つめていたいのです。生き方を変えろというのは、菱本先生を始め他の人々がこれから言いつづけていくでしょう。それは大人としての義務ですし、互いに人間が違う以上はそれも受け入れる義務があります。ですが、僕は、立村くん、君が青大附属を卒業してからも、どういう風に欲しいものを手にいれていくのかをずっと追いかけていきたいのです。そしてできることならば、君の得られる最良のものであってほしいし、そのためならばどんな努力も惜しみません。今はわからなくていいのです。今はこのまま、大人たちの言葉を受け入れるにしても反発するにしても、十五歳の君のままで感じてくれればいいことです。どんなに君が道に迷ったとしても、僕は君の生き方を見守る覚悟です。なぜならばそれは、僕にとって立村くん、君との出会いは必ず、教師と生徒という枠を取り払った形で繋がっていくと感じているからです。そうですね、ちょうど本条くんが話してましたね」

「本条先輩が?」

 狩野先生は頷きながら、今度は眼鏡をかけた。

「立村くんとはできれば先輩後輩という関係を取り払った形で、話せるとベストだと。まあ、彼の口調については君の方がよく知っているでしょうから、真似はしませんが」

 狩野先生はしばらく息を整えるように黙った。


「できれば、明日にでも学校に来てほしいというのが僕自身の正直な気持ちです。もちろん教師として、君に学校へ戻ってほしいというのもありますが」

 なんだかわけがわからないまま、嗚咽を続けていた。狩野先生が黙ってくれている間、上総は頬を何度もこすりながら首を振った。目の前にいてくれる狩野先生の言葉がまだ、飲み込めないようで、だけど自然としゃくりあげてしまうよう。狩野先生は続けた。

「実は、君が学校を休んでいる間にいくつか出来事があり、おそらくこれは君の力が必要だと思われます。僕はA組の担任ですしこれ以上のことは言えません。ですが、教師なりにベストな方法を考えると今のところ、立村くんに力を貸してほしい、というのもあります」

「いったいそれってなんですか」

 喉を詰まらせながら上総は尋ねた。A組のこと? 鼻が詰まって頭が朦朧としている。さっき狩野先生が話していたことにからむことだろうか? 天羽? それとも近江さん? 

「もし、明日きてくれるようなら、それなりに話をする人が出てくるでしょう。大人の仕事はもちろんすべて片付けますが、学校内で中学三年同士、力を貸してほしいということもあるものです。立村くん、もし、よければ、その時にもう一度、君に頼らせてほしいのです。かまいませんか」

 ──俺に、頼ったって。

 狩野先生は静かに立ち上がった。片手にかかえていたコートを羽織った。そのまま動かずに上総の返事を待っていた。


 ──立村、たった今から、俺とお前は先輩後輩じゃねえ。もう、ため年と同じだ。忘れるな。

 確かに卒業した後、本条先輩はそう言ってくれたような気がする。

 ごたごたが絡んでいた真っ最中だったから、忘れていた。そんなことありっこないと思っていた。いまさらどうやって信じろというのだろう。

 


  返事をしない限り、狩野先生は動きそうにない。とにかくひとりになりたかった。そのためにはひとつしか方法がない。

「明日、学校に行きます」

 途切れ途切れの声で答えた。何かもう一言、足りないような気がして、慌てて重ねた。

「約束は、守ります」

 何が約束なのかわからない。ただ、自分が杉本梨南と同じ感覚の持ち主だと自負するならば。

「その時は、きちんと、答えるつもりです」

「ありがとう」

 ようやく、狩野先生はドアノブに手をかけた。振り帰り際にもう一度、「ありがとう」と繰り返し微笑んだ。


                    ──第二部 終──

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