第二部 8
第二部 8
鈍行で三時間かかった距離が、なぜか特急だと三十分前後で到着してしまう。時刻表を読むのが苦手な上総にはよくわからないのだが、鈍行の場合だと各駅の停車時間および乗り継ぎの待ち時間がかなり含まれていて、それほどの距離でなくても時間がかかってしまうという。
上総は狩野先生から渡されたおにぎりをそのままぼんやり抱えたまま、特急の指定席に座っていた。ちょうど七時半過ぎということもあり、いかにもサラリーマンっぽい顔をした男性たちが静かに腰掛けていた。満員だったが全席指定なので通路に誰かが覗き込もうとすることもなかった。狩野先生が通路側に座り、ちらりと腕時計を覗き込み、
「八時半前には青潟に着くでしょう」
それだけ上総に伝えた。感情の波はなく、ただ穏やかなだけの言葉だった。
答えなくても許される、その空気の中、上総はずっとうつむいたまま座っていた。
──さっきまで、確かに杉本が側にいたのに。
「杉本さんを責めないであげてください」
上総の揺れを読み取ったかのように、狩野先生はゆっくりと告げた。
「杉本さんは決して僕に告げ口をしたわけではないのです。ただ、他の人とたまたま連絡を取ったところ、僕に繋がってしまっただけなのです。そして、僕は」
言葉を切った。上総から目をそらし、
「僕の意志で、立村くんと話をしたいと考えて、ここにきたわけです」
──嘘だろ?
てっきり、菱本先生あたりに頭を下げられて追い立てられるかのように来たんだと思っていた。もしかしたら西月さんあたりに連絡を取ってそのラインから流れたのかもしれない。あれだけ派手に学校を出てきてしまった以上、天敵・菱本も黙っちゃいないだろう。上総なりにいくつかの推理はしていた。狩野先生の意志でここに来た、という選択肢だけは思いつかなかった。
驚きが顔に浮かんでいたのかもしれない。見上げた上総に狩野先生は頷いた。
「ちょうどこの時期に、君と話をする機会を得られたのは、僕にとっても必然だったと考えたからです、立村くん。だから、安心してください」
──安心って?
決して狩野先生が嫌いなわけではない。それどころか、今いる青大附属教師の中では唯一、まともに話が通じる相手だとは思っている。でも、やはり教師であることには変わりない。教師と生徒。一枚の壁。簡単に超えることはできない。狩野先生と、たとえば近江さんのように「義理の兄と妹」というのだったらまた話は違うかもしれない。だが自分と狩野先生は明らかに、教育の場でしかつながりがない。しかも、担任でもないのにだ。
──当然、あのこともみんな知ってるんだろうな。
評議委員長から降ろされて以降の上総の堕落ぶりも、特段注意されることはなかったにしても、狩野先生はすべて見ているはずだ。数学の授業と補習以外で接する機会はなかったにしても、やはりみっともない上総自身とその言動は菱本先生を通じて耳にしているはずだ。
──もし、評議委員長だったら。
もっと堂々と、教師たちにも振舞えただろうに。
たまらなく、肩書が欲しかった。
狩野先生はそれ以上話し掛けることもなく、分厚いかばんから文庫本を一冊取り出し、静かに読みふけりはじめた。乗り物酔いしやすい上総には絶対にできないことだった。窓辺からさっき来た景色を眺めやると、闇の中かすかに家の明かりがちらついては消えた。行きはやんでいたようで、すでに窓に張り付いたベールもはがれていた。
──どうなるんだろう。
杉本がどういう形にせよ、上総を見捨てて家に帰ったのは事実だ。
そっと寄り添い、ぐっすり三時間眠りつづけた恍惚の時が一瞬のうちに消えうせ、狩野先生という現実に引き戻された以上、上総はこれから先どうなるのだろうか。想像がつかなかった。もちろん担任ではないし、今の言葉を信じるのならば「自分の意志」で迎えに来てくれたのだから大事にはならないかもしれない。だが、三時間程度にせよ周囲を混乱させたのは事実だ。卒業間際とはいえ、高校推薦に影響するかもしれない。
いや、最初から、青大附属から追い出される覚悟はしていたはずだ。
だからこそ、杉本梨南を連れ出したわけなのだから。
どこまで狩野先生が勘付いているのかはわからないが、今の段階で上総には何も言い訳するすべがなかった。
ただ、杉本梨南と一緒にいたかった。
ずっと、誰もいないところで、ふたりきりになりたかった。
ただそれだけだった。
上総が見つけられる答えはそれだけだったし、口に出すには恥ずかしい言葉だった。
「次は終点、青潟に到着します。お降りのお客様はお忘れ物のないよう……」
鈍行のアナウンスとは違い、車内にくっきり響き渡る案内の声。隣の狩野先生は、上総の方をさっきと変わらぬ穏やかなまなざしで見つめると、
「駅には、立村くんのお父さんが待っています」
絶句させるようなことを、さらりと告げた。腰にまた根が生えたように動けなくなりそうだった。まさか、父に気付かれているとは。
「父が、知っているんですか」
「最初から気付いていらしたようです」
たんたんと続けた。
「立村くんを学校まで送った後に、学校へ電話をくださったようです。何かがあればすぐに連絡をという言伝でした」
ということは、すでに父も上総の思惑に気が付いていたということだろうか。
「ですが、学校にはまだ伝えていません。菱本先生にも連絡はまだ入れてません」
「連絡、するんですか」
停止信号で一時停止。流れる景色がぱちりと窓に留まった。
「明日、子細の報告をします。ですが、今夜はしません」
今夜、というところに少し厳しい響きを感じた。狩野先生はじっと動かず、上総の目を捉えると、
「今夜、一晩、時間をください。僕は君と、きちんと話をしてみたい」
ホームに降り、狩野先生の買ってくれた特急券と乗車券を手渡され、そのまま改札を通った。確か杉本が乗車券を代わりに買ってくれたはずだったが、
「すでにそれは、杉本さんに清算しておきました」
やはり上総の知らないところですべて話が終わっていたらしい。
改札から出たところで、すぐに父の姿を見つけた。思わず隠れたくなるが、狩野先生の手が背中に回っていて動けない。そのまま父が駆け寄ってくるまで身動きが取れなかった。ベージュのコートを羽織った父は、二、三回ごほごほ咳をした後で、
「息子がご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません」
深く頭を下げた。次に上総を見据えると、
「お前も、先に先生へ言うことがあるだろう」
「申し訳ありません」
目を伏せたまま詫びの言葉を口にした。父の様子を伺うと、とりあえずは激昂していない風に見えた。恐る恐る父の顔を見上げ、
「母さんに、連絡したの」
それだけ聞いた。父は顎のところだけを軽く振るわせると、
「してない。ほら、早く帰るぞ」
当然のごとく、狩野先生も付き従っていた。父は狩野先生に話が通じているのか、同じく頷くと駅前の駐車場まで先立って歩き始めた。道は雪に埋もれているが時折滑りそうになる。つま先とかかとに力を込めて、ふらつきながら上総は父のあとを追った。
何も会話のないまま、自宅に到着した。
「それでは、よろしくお願いします」
父と狩野先生との間にも、最低限の会話しかなく、当然のように招かれていた。どうしてだろうか。上総が一番最後に玄関へ入り、スニーカーを脱いだ時、
「部屋に入って待ってなさい」
父に指示された。
今朝よりは床が見える状態とはいえ、まだ普段の上総の部屋とは思えないくらいの散らかりぶりだった。整理整頓が得意だった自分とは大違いだ。灯りをつけてぐるりと見渡すと、そこにはまだかばんと雑誌の束がうずたかく積み上げられていた。あとで捨てるつもりでいるものだった。上総は床に落ちていた本を机の上に載せ、ベッドの上に座り込んだ。コートを着たままだったので、まずはたんすに掛けて窓辺に立った。
──こんなことだったら最初から杉本をここに連れてくればよかったんだ。
一番、自分の願いを果たせる方法はそれだったのではないだろうか。
肩に頭を乗せて、すっとやわらいだ気持ちになったあの瞬間を上総はまだ忘れられずにいた。生まれて初めて、すうっと波に揺られていく感覚を得たようだった。気持ちよく雪に降られて、暖かいものをそっと抱きしめていられる至福。もしかしたら、いわゆる男女の関係とは、それを感じるためにあるのかもしれない。手からあっという間に零れ落ち、雪のように消えていった杉本梨南の体温が恋しかった。
なんであんなに素直だったのだろう?
なんであんなにやさしかったのだろう?
本当に欲しいものはいつも、手に入れたとたんすうっと消えてしまう。
──評議委員長の座も、認めてくれる友だちも。
抱きしめることを許してくれた、杉本梨南すらも。
上総はしばらくベッドに座り込んだまま、身動きせずにいた。
動くとその端から、かすかに残る杉本梨南の記憶すらこぼれてしまいそうに思えたからだった。
「上総、開けるぞ」
どのくらい時間が経ったのかわからない。返事をせずにいると、父の声でもう一度、
「握り飯があるから、それでも食べてなさい」
さっき狩野先生からもらったおにぎりを食べていなかった。食欲をすっかり忘れていたせいだけど、言われてみるとかなり極限まで腹が空いている。食べ物くらいだったらもらおう。上総は戸を開けた。とたん、父の後ろに狩野先生が立っているのに気付いた。
計られたか。
慌てて閉めようとしたが遅かった。父はしっかりとドアノブを押さえたまま、
「今夜は、先生のご希望に従いなさい」
有無を言わせぬ口調で上総に命令した。
「従うって何をだよ」
「先生、よろしくお願いします」
個人のプライベート空間にのこのこ入ってこようとする菱本先生にも頭にきたが、なぜ、なぜなんだろう。狩野先生だけはそんなことを決してする人ではないと信じたかった。なのになぜ、みな、裏切るのだろう? なぜ、こうやってずかずかと上総を踏みにじろうとするのだろう? ほしい物、求めるものはすべて、失われていく。顔がゆがんでいく自分に気付き、上総は力を込めて押さえていたドアノブから手を離した。釣られるように戸が全開した。
──もう、どうだっていい。
父が横に逸れ、狩野先生と向かい合う格好になった。
「入って、よろしいですか」
上総は頷いた。もうこの先生を慕う気持ちも、なくなってしまうのだろう。そのあきらめがふんわりと浮かんで消えた。
部屋の中が散らかり状態なのを全く気にすることなく、狩野先生はぐるりと見渡して、
「椅子を借りてよろしいですか」
丁寧に尋ねた。
「どうぞ」
了解し、自分はベッドの上に腰を降ろした。やはり礼儀は守らねばならないだろう。空気がどことなく、こわばっていくのを感じる。自分の部屋にまさか教師を招き入れるはめになるとは思ったこともなく、さらに担任でない狩野先生だと想像すらしていなかったのだ。しかも、この部屋の汚さ。さっきちらっと見たら、洗濯し忘れた靴下が一足、ベッドの後ろにひっかかっていたのを見つけた。持ち出す時にしまい忘れたのだろう。
勉強机から自分で椅子をひっぱりだし、狩野先生は上品に腰掛けた。上総の側へ、ちょうど直角になるように持ってきた。上総の部屋は十畳くらいあるはずで、ちょうど湖をボートで漕いできたかのような感じに見えた。水鳥が泳いできたかのようだった。
「僕なりに一度、確認しておきたかったからです」
狩野先生の眼鏡が曇っている。白いサングラスっぽい。気がついたのか、手にとりまた丁寧にハンカチで拭き取り、ポケットにしまいこんだ。眼鏡をかけているとあまり気が付かないのだが、やはりこうやってみると菱本先生と同年齢というのも納得する。どこかで見かけた歌舞伎役者の素の顔にそっくりだった。
「君が知りたいことは、なぜ僕がいきなり現れたということでしょう」
口に出せずかといってもやもやが消えないまま、上総は無言でうつむいた。
「列車の中でも話しましたが、これは全くの偶然です」
──偶然?
信じられない。ありえないだろうそんなのは。狩野先生も視線を下げて微笑み、続けた。
「杉本さんは別の女子のところへ連絡を入れましたが、それはあくまでも個人的な用事があったからだそうです。その女子はまた別の女子に連絡を入れ、たまたまそこに僕がいたというだけです」
──近江さんのところか!
そうだ、この人は近江さんの義理兄だ。
近江さんと杉本との共通知り合いとなると、ひとりしかいない。上総は唇をかんだ。
「清坂さん、ですか」
「そうです。いずれわかることですので話しておきますが、清坂さんは僕の妹にいろいろと相談していたらしいのです。君のことからいろいろなことを。ただ、今、彼女は事情があって身動き取れる状態ではなく、たまたま家にいた僕がそれを聞きつけたというだけです」
「身動き取れないって、どういうことですか」
狩野先生は言葉にせず、じっと上総を見つめた。口に出せないから察しろということだろう。上総も従った。
「杉本さんは一度、青潟に戻った段階で、清坂さんを駅まで呼び出そうとしたようです。彼女たちなりにいろいろ考えていたのでしょう。ですが、清坂さんはそんなことをしても君が喜ばないことを知っていたのですね。どうすればいいのかをおそらく、妹に相談しようとしたのだと思います」
頭の中が混乱してくる。つまり、杉本は美里にあらかじめ電話連絡かなにかして、青潟到着ホームに美里を待たせておき、その上で上総と話し合いを持たせようとしたのだろうか。最初から上総にずっと付き従う気はなかったということだろうか。あの、異様なまでの素直さはその計画を心に秘めていたからだろうか?
頭を掻き毟りたいけれどもできない、そんな上総をどこまで狩野先生は見つめていたのだろう。うつむいて何度も飲み込もうとする上総に、狩野先生は静かに語りつづけた。
「三桜行の鈍行列車ということは、すでに聞いてましたから、途中の駅まで車で出かけてその後乗り込めばすぐに間に合いました。杉本さんもかなり驚いてましたね。まさか僕が乗り込んでくるとは思っていなかったのでしょう。せめて終点までは一緒に行くと言い張ってましたが、教師として、また大人の義務として彼女は子辺駅で降りてもらいました。タクシーでそれほど時間もかかりませんし、女子はやはり、夜遅くなるといろいろと危険です」
──じゃあ杉本を送って一緒にタクシーに乗り込めばよかったじゃないか。
結局はみな、自分のやろうとすることをすべて、先回りしてしまうだけ。
部屋の明るさですべてを見透かされているよう。上総は目を閉じ、その屈辱に耐えた。
「立村くん、灯りを落としましょうか」
え、と答える間もなく、狩野先生は橙色の小さな灯のみに、照明を切り替えた。
シルエットだけが黒く浮かび、その中で上総は狩野先生の声に耳を澄ませた。
「おそらく立村くんが戻って来てから、そのあたりの事情も天羽くんが説明することになるでしょう。今、天羽くんを巡る環境はかなり厳しいものになっていますし、おそらく彼ひとりでそれを乗り切ることはたやすいことではないでしょう」
「天羽が?」
なぜそういう話になるのだろう。まったく読めない。かすかに揺らぐ狩野先生の影を見つめながら、上総は最後に見た天羽の姿を思い出した。いつも自信たっぷりに振る舞い、それでいてやっかみもせず上総をいつもフォローしようとしてくれる太陽のような存在だ。
そんな天羽が、上総のことを頼るわけがない。
頼る真似はするかもしれないが、本当にやるべきことはひとりでやり遂げる。
そういう奴だからこそ、本当の意味で評議委員長に選ばれたのだ。
「現在の段階で、立村くんを必要としている人がたくさんいることを、僕は知っています。自分のクラスで起こった出来事もそうですし」
ここで言葉を切り、狩野先生はもうひとりの名を告げた。
「去年卒業した、本条くんも、君からの連絡を待っていると話していましたね。そう、今年に入ってからまもなく、駒方先生のところへ遊びに来て、そのようなことを話していましたよ」
上総は天井を見上げた。そこには橙色の電球が小さくぽっこり輝いていた。
「本条先輩、ですか」
これだけ発するのがやっとだった。息が詰まった。
「必要にしてくれてるわけ、ありません」
──あんな完璧な人が。
「評議委員長ではないから、ですか」
全く波立たない狩野先生の言葉。目の前の闇がかすかに白く揺らいだ。
「立村くん」
答えられなかった上総に、狩野先生はもう一度尋ねた。
「評議委員長に指名してくれた本条くんの期待を、裏切ってしまったからですか?」
なにかが壊れた。ぱりんと、今まで張ってきたはずの糸が切れた。
声を出さずにせめてこらえたかった。
──本条先輩。
手の届かなかった、完璧な存在。そんな人から初めてもらった存在価値。それを裏切った救いようのない自分。もう二度と、届かない場所。
止め処もなく押し寄せる涙に、上総はなすすべもなくおぼれるしかなかった。目から鼻からだらだらと顔が崩れていくような感覚に逆らうことができなかった。