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第二部 7

第二部 7



 怖いくらい素直に、杉本梨南が隣に寄り添ってくれている。

 だから上総も、何も言わずにすむ。

 校門を出たところで待ってましたとばかりに到着した、青潟駅前行きのバスに乗り込み、車酔いしかけた時も杉本は上総の側から離れなかった。

「お背中、さすりましょうか」

 二人がけの席で、息苦しさと戦っていた上総の耳元に杉本がささやいてくれた。

 それだけで十分、駅まで耐えていられた。

 バスから降りると、そこは雪で固められたつるつるした道が白く光っていた。

 上総は後から降りてくる杉本に手を差し伸べ、その腕を堅く握り締めた。

「滑ったらまずいから」

 それだけ伝え、上総は繁華街に向かい歩き出した。


 ──どこに行こうか。

 とにかく駅まで出て、そこからどこかに行こう。

 青潟以外のどこかへ。

 でも「どこか」ってどこ?

 歩いているうちに思いつくだろう。

「立村先輩、どちらへ向かわれるご予定なのですか」

 杉本梨南の声に、はっと上総は振り向いた。

 ぼんやり歩いているうちに、たどり着いた場所を見極めて息を呑んだ。

 ──ここって、なんだよいったい。

「杉本、違う、そういう意味じゃなくてさ、あの」

 あわてて言いつくろう。嘘を言うわけではないのだ、なんでこんなど派手なピンク色の建物が立ち並ぶ路地まで連れて来てしまったのだろう。ちょうど昼下がり、人通りはなく、いつぞや南雲と一緒に焼肉を食べた後たどり着いた場所。あの日と同じく路地はどことなく陰気で、おそらくホテルの従業員らしき人たちが雪かきをしている。

 杉本の顔を恐る恐る見やると、ものめずらしげにあたりを見渡し、小首を傾げていた。今のところ、特段軽蔑を表した様子はない。その点だけ少しほっとした。変なこと、想像されても困る。

「あまりセンスの良くない建物だらけという気がしますが」

「だろうな」

「立村先輩はこちらにいらしたことがあるのですか」

 棒読み口調の杉本に、上総もおそるおそる答えた。

「あるわけないよ」

「そうだと思いますが、はっきり申しまして私も行きたい場所ではありません。場所を替えましょう」

 しゃちほこばった言い方だが、引っ張られる手首が堅くなっているようだ。

 ──やっぱり、誤解してるぞ、杉本。

 どう言い訳すればいいのだろう。もちろん誤解されるような歩き方をした上総が悪いのはわかっている。でも、全く無意識だった。たまたま南雲に連れてこられた場所がここだったからというそれだけのことだった。なんでこんなところに杉本をひっぱってこようなんて思ったのだろう。車に酔ってしまって、少し判断力が鈍ってしまったのか。

 杉本はそれ以上なにも言わず、上総についてきてくれていた。


 ──なんで黙ってるんだろう。

 杉本梨南がもともと、納得いかないことにはてこでも動かない子だというのは、上総が一番よく知っているはずだった。どんなに傷つけられても、自分の価値観にそぐわないものは一切拒絶し、たとえ殺されても悔いはないと言い切る、それが杉本梨南のはずだ。

 今、上総が梨南に対してしていることは、

「立村先輩、あなたは少しおかしいのではないでしょうか? いったい何が目的でそのようなことをされるのですか。無意識の意識において、汚らわしい妄想を組み立てておられたのではないですか。もう二度とお会いするのもいやです、この世から消えてください」

 くらい言い返されても不思議はないことだった。上総がどんなに言い訳したとしても、今歩いている場所がいわゆる、ラブホテル街であり、その中で何が行われているかをかしこい杉本はよく把握しているはずだ。上総自身がつかめていなかった本心と認めたくはない。でも、そう思われても仕方のない行動では、あるはずだ。

 ──なのに、なぜ。

 上総は杉本を振り返り、そっと覗き込んだ。立ち止まると杉本も黙って見返した。

 ──どうして何も言わない?

 目で訴えてみた。もちろん返事が返るはずもない。

 ふたたび上総はもときた道を戻っていった。とりあえずは駅前に行こうと決めた。そこで缶ジュースでも買って、一口飲めば少しは心も落ち着くような気がした。

 南雲と一緒に歩いた正月三が日の夕暮れ時、きっぱりと見知らぬ女性たちから切り捨てられた言葉を思い出し、上総は思いっきり首を振った。頭に降りかかった屈辱をはたきで落としたような感じがした。

 ──どうせ俺は中学生だ、大人じゃないってことだ。


「立村先輩、ひとつご相談があるのですが」

 駅に到着した。周囲を見渡し、青大附属の制服を着た連中に見られないよう、長距離列車切符売り場の隅に隠れた。杉本の手首を離すと、するっと杉本は上総を隠すような格好で上総と向かい合った。

「先輩はこれから、目的の場所がおありですか」

 たんたんとした、あいかわらずの棒読み口調。上総は答えられなかった。黙って杉本の瞳を覗き込み、そのゆらめきに見とれた。いつもの杉本とは違うのは、そこから責めたりなんなりしないとこだった。

「ご事情は存じておりますのでお付き合いいたしますが、いくつか確認させていただいてもよろしいですか」

 なんだろう、いきなり。大きな瞳がじっと上総に突き刺さる。身動きが取れない。心臓がどくどく言い始めている。かろうじて言葉を発した。

「うん、いいよ」

「立村先輩は、今日、お家に戻りたくないということですよね」

 ──答えれっていうのか?

 髪の毛にかかった雪が溶け、杉本の髪の毛をぺたぺたとぬらしている。一滴、涙っぽく頬に垂れた。もちろん泣いてなんていないのは承知している。

「だったら、いかがでしょう。今夜、こうするというのは」

「こうするって?」

 一呼吸置いて杉本はまっすぐ、長距離用列車切符販売機を指差した。近距離用切符販売機にはちょこちょこ人がたまっているが、長距離用の方にはあまりいない。

「鈍行往復切符を使用して、長距離列車で往復をいたしましょう」

「往復?」

 杉本の言っている意味が掴み取れない。上総は何度か繰り返した。杉本の顔は全く揺らがず、同時に冷静なままだった。

「つまり、私とふたりで汽車に乗り込み、終点に到着したらその場で今度は青潟に戻るのです。そして青潟についたら今度はもう一度切符を買い直して同じ目的地を往復し、また青潟に戻るのです」

「切符って、でもそれは」

「そうすれば、誤解を招く場所に行くこともなく、安全にふたりでいられるのではないでしょうか。立村先輩の目的は、誰にも邪魔をされないところで私と一緒の空間を共有することなのですから、それはおかしな場所でなくてもいい話です。ベストな方法だと思うのですがいかがでしょう」

 ──誤解を招く場所だってさ。

 照れもはにかみもなく、きっぱり言い切る杉本梨南の口調に、上総は逆らうことができなかった。


 杉本の勧める路線は、青潟駅を出発後三時間かけて終点の三桜駅に到着した後、折り返し青潟に戻るものだった。ちょうど、夜の十時前後に到着するらしい。その点、時刻表を観るたび頭の痛くなる上総にはよくわからない。ただ、杉本なりにそのあともきちんと計算しているらしく、

「その次に夜行の鈍行が走ってます。どうしてもお帰りになりたくないというのでしたらそれに乗り込みなおすというのも手ではないでしょうか。夜行料金がかかりますが、鈍行でしたら朝まで時間をつぶせます」

 とのこと。このあたりの段取りは全く上総の範疇になく、すべて杉本に任せることにした。

「けど、切符代は」

「私のお年玉がたくさん残っております。そのくらい出します」

「それはまずいよ」

「だったら先輩、いくらお持ちなのですか? それ以外私には方法が見つかりませんが。前もって言っておきますが、私は変な場所にだけは行きたくないのです」

「連れて行くなんてそんなさ」

「でしたら私の言う通りになさってくださいませ!」

 今日初めて、いつもの杉本らしいとんがった口調が飛び出した。思わずほっとしてしまうのはなんでだろう。

「それでは切符代を調達して参ります。少々お待ちくださいませ」

 礼をきっちりした後、杉本はいったん駅から出て行った。 


 杉本がいなくなった後、上総は駅構内の待合室に椅子を見つけ、腰掛けた。

 授業を受ける気がさらさらなかったのでかばんはほとんど空だった。

 出入りするのは高校生が中心で、時折パステルカラーのコートをまとった集団が通り過ぎたりもしていた。上総はぼんやりとそれを眺めていた。外はだいぶふぶいてきたのか、頭の上に白い粉を被ったまま歩いている人も結構いた。

 たぶん、品山に帰るにしても、汽車のダイヤは相当乱れているだろうから、遅くなることは間違いない。もし真夜中に戻ったとしても父に叱られる程度ですむだろう。

 ──品山に杉本を連れて行くだけでもいいのかな。

 ちらとそんなことを思った。

 実は何も計画なんて立てていなかった。

 思い切って家の中に杉本を連れ込み、ふたりきりでべったりと側にいたい、それだけだったのかもしれない。だけど、現実、自分の部屋の汚さや、父にしっかりと見張られている現状、できるわけがなかった。

 ──あてもないくせに。俺は何考えてるんだろう。

 指摘された通り、自分はただ、いつぞやのお姉さんたちに笑われたのが悔しかっただけなのかもしれない。杉本を連れ込んでどこかのホテルで一夜を明かしたかっただけなのかもしれない。そんなこと一瞬だって思ったことがないと、そう言いたいけれども、それは自分の気持ちのごまかしであって、本当のところはただ、「汚らわしい」欲望だけなのかもしれない。

 バスの中で杉本が何度か上総の背をさすってくれた時、片腕にコートで覆われた胸元がぺたっとくっついた。やわらかい感触が肘上に広がったことを覚えている。

 ──最低だな、俺は。

 ──そんな奴に、杉本はついてくるって言ってくれてるんだよな。

 杉本が今、何を考えているのかはわからない。

 ただ、上総の側に今夜だけは寄り添ってくれようとしている。

 杉本なりの、意志でもって。

 ──あとはどうなったっていい。

 このひと時だけを味わいつくし、青大附属三年間の日々を清算しよう。

 時計を確認し、両手を組み合わせ、上総は目の前の時計を見上げた。ちょうど時刻は四時半を指そうとしていた。


「お待たせしました」

 しゃちほこばった声で杉本が戻ってきた。約十分くらい経っていたようだった。杉本の片手には、どこで手に入れたのかポケット版の時刻表が握られていた。

「それ、買ったの」

「はい」

 簡単に答え、上総がかばんを載せておいた椅子に座った。膝に時刻表を広げようとしたが小さすぎてうまくいかないようだった。それでもぱらぱら素早く繰って、

「五時ちょうどの鈍行があります。青潟から三桜行きです。到着がだいたい七時半のようです。そこで三十分くらい次の汽車には間があり、また青潟行きの折り返し運転になるようです。十一時過ぎには戻ってこれます。そしてもう一夜明かすならば」

 ここで杉本は言葉を切り、上総の目を見つめた。

「あまりお勧めはしませんが、同じく夜行が一本あるようです。これは青潟から十一時二十五分発の黄葉山行き。こちらは朝七時に到着です。同じく折り返しもあります」

「でも切符代は」

 恐る恐る尋ねる。いくらなんでも杉本に、そこまでお年玉を使わせるわけにはいくまい。

 あっさり答えた。

「そのくらいなら十分まかなえます。すでに切符も二人分買って参りました。往復し終わってから夜行については考えておけばよいでしょう。それと、私も友だちの家に泊まると連絡をいれておきましたので、家出騒ぎにはおそらくならないでしょう」

「誰の家に?」

 杉本は聞こえなかったのか、さっさと話を逸らした。

「とにかく、早くホームまで行きましょう。今の時間帯ですと席を押さえられないかもしれません」

 静かに立ち上がり、杉本は雪に濡れた髪の毛を指で整えた。全く表情が読めない顔ながらも、上総の方をひたすら一途に見守ってくれている。言葉の出ない上総に小首をかしげたまま見つめると、

「長時間、汽車に揺られますが大丈夫ですか」

「たぶん大丈夫」

 杉本は少し考えていたようだが、上総の腕をそっと取った。

 思わず心臓が跳ね上がった。

「私も、お付き合いいたします。参りましょう」

 横にそっと寄り添われて初めて気付いた。杉本は髪の毛を解いていた。


 ホームに到着した列車に乗り込み、すぐに二人がけの席を確保した。上総ではなく杉本がその辺は手配してくれた。鈍行列車のため特に席の指定もない。臙脂色の席に腰を下ろし、上総が窓際になるよう杉本が案内してくれた。肘掛がない席なので、杉本が隣に腰掛けると自然と体温が伝わってくるのが感じられる。お互いコートを羽織っているのに、不思議なくらい暖かかった。

 杉本は席についてからもかいがいしく働いた。

「まだ出発まで時間がありますので」

 素早くホームに下りると、キヨスクでチョコバータイプのお菓子を二本と缶ジュースを一本、持ってきた。オレンジジュースらしかった。ビニール袋ごと膝に置きっぱなしにして、そ知らぬ顔をしていた。

 ──俺にくれるのかな。

 しかしその気配はない。ちらっとラベルを見たところからして、たぶんホットココアだろう。甘いものは普段ならあまり飲まないのだが、今はなんとなく欲しかった。

 杉本がちらと上総を横目でにらみ、片手でホットココアの缶を手にした。

 缶を握り締めて、またちらり。

 真正面を見たまま、唇をかみ締めるようにして、またちらり。

 持っている手が熱いのか、片手だけ手袋をはめ直し、素手で開けようとしている。上総の視線を明らかに意識しているのが見え見えだった。

「杉本、開けようか」

「自分で出来ます!」

「いいよ、やるからさ。その代わり、一口だけ飲ませて」

「え?」

 じいっと杉本の指先を見つめ、上総は指差しながら続けた。

「なんか喉渇いたんだ、だから一口だけ、ちょうだい」

 杉本はにらみつけるようないつもの眼差しで、上総を射た。

「ちょうだい、ってどういうことですか」

「だってさ、飲みたいんだけどな」

「ご自分でお求めになればいいでしょう、そのくらいのお小遣いはないのですか」

「だから、杉本が開けてくれた分を飲みたいんだ」

 しばらく杉本は上総をあきれはてたように眺めていた。やがてあきらめたように、

「お好きなだけお飲みください」

 軽く振って缶トップを開けた後、上総に押し付けた。

「でも杉本が飲んでからでいいよ」

「私はちゃんと自分の分を買ってきています」

 かばんの中に、すでに杉本は、自分用の缶入り紅茶を持ってきていた。

 ──最初から押さえてあったのか。

「それと、これも勝手にお召し上がりください!」

 語調厳しく杉本は、ビニール袋からチョコレートバータイプの菓子を上総の膝に置き、ふいっと通路側を向いてしまった。背を向けられる格好となってしまった。

 上総はそっと口に缶ココアを運んだ。杉本梨南の背中に垂れた長い髪の毛にもたれたい衝動が走った。もちろん、そんなことしたら一気に紅茶を頭からぶっかけられるのが目に見えていたのであきらめた。

 ──最初っから用意してくれてたんだ。

「ありがとう」

 一言だけ告げると、上総はそのままココアを飲み干した。


「雪、降ってきたよな」

 窓には学校の教室で見たのと同じくらいの白い幕が、みっしりと張り付き一種の幾何学模様を綴っていた。そっくりなものを見かけたような気がして、上総はその記憶を呼び起こそうとした。杉本の横顔を覗いた。

「本当に、いいのか」

「かまいません。どうせ私が何をしても関係のないことですから」

 よくわからない言葉を返してきた。杉本にしては珍しく、裏のありげな言葉だった。

 窓辺の景色が少しずつ色を変え始めた。列車が動き出した。空き気味とはいえ、席はみな埋まっているようだった。言葉を交わす人は少なく、みな黙って目を閉じているかそれとも窓辺を眺めているだけだった。上総も黙っていた。杉本も声をかけてこなかった。振動でふたたび眩暈がしそうになるのを、冷たい窓ガラスに頭を乗せることでこらえた。

「立村先輩」

 その冷たさに慣れてきた頃、杉本が静かにささやいた。

「ご気分悪いようでしたら、私、立ってますので横になってください」

 薄目を開けて杉本を見返すと、両手でかばんとさっき買い物してきたものが入っているビニール袋を握り締め、席を立っていた。

「でも、長い時間そんなことは」

「すぐにどこか席が空くでしょうから、適当に座ります」

 ──ちょっと待て、ここから離れるっていうのか。

 めまいも車酔いもどこかに飛んでいきそうな言葉だった。

「杉本、ここにおいで」

 上総は立ち上がり、半ば強引に杉本を席につかせた。両腕をがっちり抑え、落ち着いても手を離さずにいた。逃がすものか。どこにも行かせるものか。まるで犯罪者そのものだけど、今の上総にはそれしかできない。杉本も全く抗うことなく、黙ってされるがままになっていた。

 ──今の杉本なら、許してくれるかもしれない。

 息を整え、上総はさっきまで窓にもたれていたのと同じ格好でもって、杉本梨南の肩に頭を持たせかけた。全体重をかけるような格好になり、杉本が横にふらつきそうになるのを上総は片手で支えた。自然と、しがみつくような感じとなる。

「こうしてるのが、一番、楽なんだ」

「わかりました」

 上総は目を閉じた。頬に初めてふれた杉本の髪の毛は、少し湿っていたけれどもやわらかかった。そこから見上げる杉本の顔立ちは真正面から見た時よりもずっと寂しげだということを、上総は発見した。


 いつまでこうして眠っていただろうか。心地よく、やわらかな感触がいつのまにか消えたのも気付かずにいた。かすかな甘い香りが側から離れたのも。

「次は、終点、三桜です。ご乗車のみなさま、お忘れ物のないよう、ご注意ください……」

 車掌ののんびりした声で目が覚めた。すでに闇は深く、列車の揺れも緩やかなままだった。

 ──今、八時半くらいかな。

 三時間も寝ていたというわけか。隣にいたはずの杉本はいなかった。

 ──トイレにでも行ったんだろうな。

 車中のざわめきひとつなく、ただ通り過ぎるのは制服を来た車掌だけだった。切符をチェックされることもなかった。外は猛吹雪なのか、窓の隅に白い雪が額縁のように収まっていた。

 ──あとで、杉本にお弁当をご馳走しようかな。

 せめてそのくらいのことはしなくてはならない。上総も立ち上がった。身支度だけしよう。コートを羽織り直し、杉本の姿を探そうとした。とたん、


「立村くん」

 穏やかな、聞きなれた声に呼び止められた。上総はその声が聞こえてきた反対側斜め前の座席に身体を向けた。めがねをはずしていたのですぐにはその人が誰なのかわからなかった。

「杉本さんには子辺駅で降りてもらって、タクシーで帰ってもらいました」

 端正な顔立ちのその人は、上総にやさしく微笑むと、めがねふきで銀縁の眼鏡をたんねんに拭き取り、両手でかけた。

「あと五分で到着です。切符は、預かってます。乗り換えの準備だけしましょうか」

 ──狩野先生が、なぜ?

 上総はただ立ちすくむだけだった。

 なぜ狩野先生が乗り込んできたのか、ということよりも、なぜ杉本が何も言わずに立ち去ったのか、そのことを上総はまだ、飲み込めずにいた。

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