第一部 2
第一部 2
月曜、放課後。三年D組の教室には清坂美里と羽飛貴史が机に寄りかかり、身振り手振りたっぷりに盛り上がっていた。扉を開ける前から美里のはしゃぐ声がもれていた。
いつものことだった。驚くこともない。
あえていえば今日は、古川こずえの姿がないことくらいだろうか。
おそらく図書局員としての仕事があるのだろう。
上総を待ちかねていたのか、美里は両手で内輪を仰ぐような身振りをしながら、
「立村くん、遅い! もう、早くおいでよ」
わざわざ貴史の隣に身体を寄せるようにして呼んだ。
「悪い、評議の連中に断ってきた」
「何を?」
「いや、今日の話し合い出られないってさ」
厳密には天羽に「ほら、立村、お前早くな、清坂ちゃんとデートしてこい! これから先、くそ忙しくなったらろくすっぽいちゃつけねくなるぞ!」とどつかれただけなのだが、余計なことは口にしないでおく。
「ふうん、でもこっちだって三D評議専用のの仕事だよね。ね、貴史」
「あたりまえだろうが。な、立村、早く美里を黙らせてくれよな。さっきからずうっと俺、こいつのエキサイティングトーキングに付き合わされててな、半分喉が死にそう」
──死にそうなほど話せるんだ。
心の底に滴り落ちるような言葉、一滴。
「悪かった、それでは始めるか」
上総が自分の席に腰を下ろすと、美里と貴史もそれぞれ近くの席に陣取った。さりげなく隣の席は古川こずえの席、貴史はなぜか天敵・南雲秋世の席だった。
「それにしてもなあ、俺たち、年取ったもんだよなあ」
しみじみと貴史が、両手を組んでのびをしながら呟いた。
「あの単純熱血教師の菱本ティーチャーにも、春が来たってわけか」
「なんだか信じられないよねえ、貴史、想像できる? 菱本先生の結婚式の格好!」
やはり美里の発想は、ファッションに偏り勝ちなようだだ。
上総は黙ってふたりの会話に耳を傾けていた。
清坂美里・羽飛貴史。このふたりの基本的考えをまずは見極めたいところだった。
「緊張してこちんこちんだろうなあ、笑えるぜ。嫁さんのドレスの裾踏んで思いっきりこけるかもしんねえぞ」
「まあね。それありがち。でも踏んだらだめよ! だってお嫁さん、あれなんでしょう、ほら、あれ」
少し言葉に詰る美里。理由はわかるが、上総はあえて助け舟を出さない。どうせ貴史が全部面倒見てくれるはずだった。
「こけたら、まずいのか? 赤ん坊」
「おなかにいるんだよ! まずいに決まってるじゃない! おなか冷やしちゃだめだとか、いっぱい布巻いたりとか、いろいろするんだもん。赤ちゃんが死んじゃったら大変だよ。菱本先生、ちゃんと気つけて歩いてくれるのかな」
──それ以前に結婚式なんてできる状況なのかよ。
どうも、美里も貴史も、菱本先生の置かれた厳しい状況を理解していないように思えた。上総なりに自分の意見を口に出してもいいのだが、いつものパターンですぐ叩きのめされるような気がする。たぶんそうなるだろう。でも、もう少し様子を見てもいいような気がする。上総は片腕を机にかけたまま、ため息を気付かれぬよう小さく吐いた。
美里がちらっと上総を見た。かなりご機嫌斜めの様子だ。ごまかし笑いをひとつしておいた
「立村くんどうしたの」
「いや、なんでもない」
「あっそ」
たいして突っ込んでくる気配もないく、美里の「エキサイティングトーキング」は続いた。
「それでね貴史、式はいつだって言ってたっけ」
「噂によると、来月の頭だとよ」
「えー、それって早すぎるよ! だって、結婚が決まったのって、先月なんでしょ?」
確かに早すぎる。急がなくてはならない事情があるというだけのことだ。
「早くしねえと赤ん坊が腹から出てきちまうだろ」
「それはそうだけど、え、だとすると、お嫁さん、おなかがぐんと出たドレス着なくちゃいけないのね。かわいそう」
──かわいそうなのは腹の中にいる子どもだろう。
心で上総はひたすら毒づいた。
──やっぱりあの男、相手のことなんも考えてないんだな。俺があいつの立場だったらお嫁さんのこと考えて、子どもが生まれるまでそっとしておいてやるのにな。
上総の心を読み取れるふたりでないことは、二年半の付き合いゆえよくわかっている。だから上総はひとり、思いを好き勝手に駆け巡らせた。
「二年半お世話になった私たち三年D組一同として、何か菱本先生にプレゼントしたくなるのは当然じゃなあい? 立村くん」
話が一段落した後、美里が上総に声をかけてきた。半分話を聞き流し、自分の思惟にだけ集中していた上総は慌てて向き直った。かなりふくれっつらの美里の顔をまじまじと見つめた。
「ごめん、ぼおっとしてた」
「しっかり聞いてよね」
口を尖らせ、頭を一振りした。よくみると美里の髪形は秋に入ってからだいぶ変わったようだ。髪の毛がだいぶ肩につくようになり、両脇をほんの少しだけつまみお下げにたらしている。残りの髪の毛はそのままおかっぱ状態。校則違反で規律委員長の南雲秋世に違反カードを切られるんじゃないかと思っていたが、どうやら色ゴムを使わないようにしていれば問題ないらしい。確認しておいてその辺はよかった。
お下げが少し揺れた。時折貴史が美里のお下げ髪をぐいとひっぱり、思いっきりひっぱたかれ返されているのが笑えた。
「怒るな怒るな。なあ立村、美里の言いたいことはつまりだな」
──お前の言いたいことでもあるだろ?
口を結んだまま上総は頷いた。また横で美里がむすっとしてにらんでいる。
「三年D組一同でひとつ、『祝・菱本先生ご婚約&ご出産』のパーティーをやろうじゃねえかってことなんだ。体よく言えば、早めのお楽しみ会ともいうな」
──そんなことやる必要あるのか?
喉まででかかった言葉を飲み込み、上総はもう一度促すように頷いた。
でないと何を口走るか、わからない。
美里も貴史の言葉につなげるよう、こくこくと頷き返した。
「そうよ。ほら、ロングホームルームの時間あるじゃなあい? いつも私たちが司会やるじゃなあい? 議題は私たちふたりで決められるでしょう。菱本先生には内緒でね、議題を先生の知らないうちに決めましたってことで、教室に飾り付けして、一時間パーティーにしちゃうの。菱本先生が道徳授業するつもりで教室に入ってきたら、もうパーティー用の飾り付けされていて、黒板にはいろんな色のチョークで『菱本先生、ご結婚おめでとうございます!』って書き込んであって。で、みんなで結婚のお祝いの歌を歌ったり、誰かに漫才やってもらったり、とにかくのりのりで盛り上がるの! どうかな、これ、きっと菱本先生、喜んでくれると思うんだけどなあ。立村くん、どうかな」
──「私たちふたり」って、清坂氏と羽飛だろう。
清坂美里と羽飛貴史。このふたりが絡んだイベントがしらけるなんてことは、絶対にない。
だったらふたりに任せっぱなしにすればいいのだ。
上総が口を出すことではない。
そう言い切ってしまいたいのにできないのは、上総が曲がりなりにも三年D組の評議委員であるからだ。
──だから、なんで羽飛。
上総はしばらく黙っていた。まずは、貴史に言いたいけど言えないことを、ひとつゆっくりと腹の中へ吐き出すために。
──お前がD組の評議委員にならなかったんだよ。俺だって言われたようにするのに。
「清坂氏、ごめん、俺はやはり賛成できない」
思った通りふたりは、不服そうに目をぎょろつかせた。
ふさわしい人材でなくても、今の段階で三年D組の評議委員は立村上総。
上総が自分の考えを告げるならば、答えは自ずとそうなってしまう。
気まずい沈黙が一秒だけ混じり、すぐに質問攻めに遭った。まずは貴史から飛んだ質問の矢。受けて立とう。覚悟は出来ている。
「その理由を述べよ、となるわな、立村」
せっかく盛り上がろうとしていたのに水を差されたとあって、貴史の口ぶりはかなり乱暴だった。わざとらしくねちっこく言わないが、その代わりストレート。言い方によっては一発くらい張り手が飛んでくるかもしれない。それでもやはり、上総は言わざるを得なかった。
一呼吸おいて、美里を視界に入れないような角度で貴史に向き合った。
「まず、あの担任の結婚についてだけど、しょせんあれはプライベートのことだろう。冠婚葬祭は俺たち生徒にはそれほど関係ないと思うんだ」
「ちょっと待ってよ、この前南雲くんのおばあちゃんが亡くなった時、お葬式に行かなくちゃって言ったの立村くんじゃない」
がくがくと身体揺らしながら貴史が頷いている。明らかに美里の意見に賛同している。
美里の方を見ないで上総は続けた。
「生徒同士のことだったら、それぞれ付き合いがあることだし、それはそれでいいと思うんだ。先生たちについても、不幸については同じ考えでいいと思う。けど、今回の場合は結婚決まったのがいきなりだし、来月結婚式なんてまず普通、ないことだと思うんだ。そうせざるを得ない状況だったというのがあるのはわかっているけれどさ」
「結婚と葬式と、どうして違うんだあ? 立村、説得力ねえぞ」
もちろん説得力がぜんぜんないのは自覚している。揺れそうになるが、ひたすら耐える。
「俺も噂でしか聞いていないからなんとも言えないけど、結婚相手には子どもがいるんだよな」
「そうよ、いわゆる『できちゃった結婚』よ」
美里が注釈を入れてくる。上総が無視を決めこんでいるせいか、わざわざ隣に寄ってきて足元にしゃがみこむ。いやおうなく、上総の視界には口を尖らせた美里のきついまなざしが混じってくることになる。言った先から唇がが震えそうになる。
「はっきり言って、嬉しいことかって俺は疑問に思うんだ」
「疑問? そりゃあ、順番間違えたってのはあるかもしれねえけどさ、菱本ティーチャー、あれでも来年は三十路を迎えるいい年の大人だろが。きっちりと落とし前をつけて、愛するわがハニーとベイビーを守る決意をする、なんてかっこいいじゃねえか」
「そうせざるを得なかったという、可能性だってあるだろう」
ちらと美里に目を走らせた。後悔した。怒りの炎がたぎっているその瞳。怖い。
貴史の顔の方が話しやすい。怒ってはいない。唖然としているだけだ。無理やり集中した。
「そりゃ、たとえばな、本条先輩とかが、同級生を妊娠させたとかな、そういう話だったらご愁傷様とか言うぜ。だけど今回は、教師だぞ、大人だぞ。まっとうな人間だぞ」
──本条先輩がまっとうな人間じゃないっていうのかよ。
上総にとっての本条先輩がどれだけ完璧な存在なのかを説明したいとは思わない。だけど侮辱されたくはない。貴史はわかっていないようだった。
「俺からしたら、はたしてあの担任がまっとうな人間なのか、それもわからないけどな」
吐き出した。かつて菱本先生と上総の間に起こったさまざまな葛藤や出来事、頭の中に走らせて見ると激しい苦味だけが舌先ににじんでくる。
入学第一日目、初めての出席を取られた際「りつむら、かずさ、かずさでいいのか?」と問われた時以来のむかむかした感情が、消えることはなかった。
中学一年、冬。決して知られたくなかった小学時代の出来事をもとに、ロングホームルームでつるし上げられた日のこと。
中学二年、宿泊研修。放っておいてほしい人間には干渉しないことがなによりもの思いやりだと言うことを、最後まで理解してくれなかった大人。
中学三年、精一杯上総なりに努力し、自由行動最優先で計画したことを、
「すべては教師がみんなお見通し、お前らはわれわれの手の上なんだぞ!」
と自慢げに語り、
「だからもう立村、いいかげん大人になれよな」
せせら笑う、あの態度。
すべてがむかつく、腹持ち悪い。
「まあなあ、立村、お前と菱本先生、最悪の相性だもんな」
「相性なんてもんじゃない、あいつの考え方が根本的に許せないだけだ」
鼻で笑ったのは貴史だった。こいつも基本的には、菱本先生と同意見のはずである。ついでにいうなら美里もだろう。おそらく菱本先生を嫌う価値観の持ち主は、わかる範囲内で言うと上総ひとりに違いない。
「立村くん、ちょっといい? 私、やっぱりそれっておかしいと思うよ」
きりっと引き締まった、美里の声がついと飛んだ。
上総の喉に絡まり、黙らざるを得なかった。
見ると美里は、合わせるように立ち上がり、じっと上総をにらみつけた。
「いつも思っていたんだけど、立村くん、菱本先生のことを色眼鏡で見すぎだと思う」
むっとくる。その言葉をすぐに投げ返すと何千倍にもなり跳ね返ってくるからまずは飲み込む。吐き気がする。
「立村くん、菱本先生のことを嫌いだからいつも、何かあると菱本先生は悪いんだとか、いやなこと考えてそうしているんだとか、勝手に決め付けるくせがあると思うんだ」
「実際そういうことが多いんだからしょうがないだろう」
早く話をやめてくれ。そう言いたい。視線を逸らした。
「立村くん、そうやって目をそらすの、失礼だと思うよ」
「ごめん、悪かった」
しかたない、こうなったら意地でもじいっと見つめてやる。目に力いっぱい込めて、上総は美里に顔を向けた。満足したのか美里の口元にかすかなほころびが見えた。
「あのね、菱本先生の結婚のことだけど、もちろん難しいことはわかんないよ。そうだよね、こんなに早く結婚式が決まっちゃうって珍しいってうちの母さんたちも言ってたよ。たぶん、赤ちゃんが生まれてしまう前にしたいんだねって」
「かえってこの時期に式を挙げる方が大変だってこと、考えないのかな」
思わず口からこぼれてしまった。まずい、口を手の甲でぬぐう。意味なし。
「きっとね、お嫁さん、どうしてもウエディングドレス着たいんじゃないかなって思うんだ。だから菱本先生も、その夢叶えてあげたくて急いで式を挙げる決意したんじゃないかなあ。わかんないけど、菱本先生の性格だったら考えられると思うんだ。私も貴史も、立村くんと違って菱本先生のこと好きだから、そう考えてるのよ。ほら、違うでしょ。好き嫌いだけで、こんなに事実って捉え方違っちゃうんだよ」
「俺はただ、知っている事実をそのまま解釈しただけだって」
「違うよ、すっごく立村くん、物の見方が偏ってると思う。ずっと前からそう思ってたんだ」
──だったらどうしてそんな奴と付き合ってるんだよ。
あぶなく吐き出しそうになる。危険だ。本能的な言い返しを避けなくては。
日曜に決意した、ひとつのこと。時期をもう少し待つつもりでいたのに、覚悟の栓が抜けそうだ。シャンパンみたいに噴きあがったらどうしよう。
「本当のことは私もわかんないよ。だけど、立村くんの考えは菱本先生のことを侮辱しすぎてると思うんだ。もちろんいろいろあったからしょうがないよね。でも、菱本先生のすることをなんでもかんでも悪いって決め付けるのはよくないよ」
「決め付けてなんかないさ。俺が言いたいのはそんなことじゃない。つまり」
「つまり、何?」
貴史も一緒に上総の前に立ちふさがり、じいっと見下ろした。腰に両手を当てて。
「俺もその辺、聞きたいとこだな、立村、言いたいことあるなら言ってみろ」
──そのポーズ、なんか腹立つよな。
思い出したくもない、三年D組担任・結婚間近・熱血・菱本教諭を連想させるその格好。頼むからやめてほしかった。解放されたい、その一心で上総は口を開いた。
「うちの恥さらすようだけど、俺の両親もいわゆる、順番を間違えた結婚だったんだ」
こんなこと言いたくないが、しょうがない。どうせ恥をかくのは自分ではなくあの両親だけだ。知ったことじゃない。貴史と美里がふたり顔を見合わせて、「初耳」、一緒に呟いた。
「それで立村、お前が先に生まれたとか」
「そう、しかも式を挙げたのは九月十三日だった。もちろんうちの担任と同じ状況だということは、わかるよな」
あまり露骨に「妊娠」と使いたくない。目の前に美里がいる以上、やはりためらわれるものがある。こちらがこんなに気にしているというのに、美里はまったく気付きもしない。気付いてもらうことをあきらめてだいぶ経つとはいえ、やはりむなしい。
「立村くんの誕生日、九月十四日だったよね?」
誕生日なんて良く覚えているものだ。驚いた。美里の呟きに調子を狂わされそうになる。小さく頷き返して流した。
「ということは、どういうことか、大体想像つくだろ」
「……その場で、生まれたとか」
まさか、いくらあの親であってもそこまで切羽詰ってはいない。。
「一応、生まれたのは病院だった。母子手帳に病院名書いてあった」
「でも、そんなぎりぎりになんで結婚式なんて挙げたの?」
知らない。ただあの猛女・時辻沙名子だったらやりかねない。たとえその場で産気づいてもウエディングドレスを着たまま産んでしまう可能性だって多々ある。もっとも実際は、和装白無垢と聞いている。さぞ腹の中にいた上総自身、帯と紐の締め付けで息苦しい思いをしたことだろう。
「本当は十一月が出産予定日だったという話だけど、式の影響で早まったんだって話なんだ。俺もそんな昔のこと覚えているわけないからわからないけどさ。とにかく、式を無理やり挙げたのがが影響したのは確かだよな」
「そうなんだ……」
美里の瞳がほんの少し、かわいらしく揺れた。目が合い、少し微笑みを貰った。こちらも目で返事をする。すぐに目をそらし、貴史メインで話を進めた。
「うちの場合は、いろいろあって親がふたりとも二十歳そこそこで結婚せざるを得なかったし、あの担任と事情が違うと思う。だけど、やはり、本当はこういう形でやりたくなかったんじゃないかなって気がしてならないんだ。もしかしたら俺の親も、そんなに早く結婚したくなかったんじゃないかって思うしさ、俺が生まれてなかったらもっと違う人生送っていたんじゃないかって思うこともあるしさ、本当は産みたくなかったんじゃないかなって思うことも多々あるしさ」
「立村、お前の出生秘密はよおくわかった。で、何を言いたい?」
話をもとに戻そうとする貴史に、上総は密かに感謝した。
あぶなく、いつもの自己嫌悪癖が出てしまいそうだったから。
「つまり、あの担任にとってこの結婚は、あまり嬉しいことじゃないかもしれないっていう可能性を忘れちゃいけないってことなんだ」
上総はここでふたりの顔をまじまじと見つめた。やはり「信じられない」と言わんばかりの呆れ顔をしている。それは覚悟の上だ。
「俺があの担任の悪いところばかり見ているのは承知の上で言うけど、もしもそれがサプライズだった場合、生徒におめでとうって言われても、絶対に嬉しくないと思う。俺があの担任の立場だとしたら、きっとそう考えると思う。顔ではありがとうとか感謝の言葉を口走るかもしれないけれど、本当はきっと面白くないんじゃないかな。もちろんこれは想像だし、俺の見方が偏りすぎているかもしれない。だけど、そういう可能性がほんのわずかでも残っているのだったら、むしろそっとしておいてやるのが親切じゃないかという気がする。俺の言いたいことはそれだけ」
やはり無言。三角形のにらみ合い。しばらく続いた。
背中に当たるのは、まだあたたかい日差し。
十月の夕暮れ近く。見つめられているような、ほのかな温みが背中に巻きついた。
美里が先に反論した。
「あのね、立村くん。しつこいようだけど、やっぱりそれ、偏見だよ」
「なんでそう決め付けられる?」
「そう言いたいのは私たちの方」
──私「たち」ときたかよ。
ちりちり、手に汗がにじんでいるのが感じられる。貴史も大きく頷くと、今度は腕組みをし、さっきまで座っていた南雲の席に戻った。
「立村くんのお父さんとお母さんが、ぎりぎりで結婚して、式の影響で立村くんが予定日よりも早く生まれちゃったというのは、わかった。それは大変だったと思うよ。でもね、それと菱本先生のことと、どう関係あるの?」
詰る。たまたま流れとして両親の過去を話しただけであって、良く考えればつじつまが合わない。言葉を返せないのを見てか、美里はきびきびと言葉を連ねた。
「それに立村くんのご両親って、生まれてきてほしくないってあからさまに言ったの?」
「だいたいそんなニュアンスのことは言われてたかと」
──ああ、言われてたさ。あの人にはさ。「ほんっと、上総があんなに早く生まれてなかったら、もう二ヶ月くらい仕事できたのよ。あの後すぐキャンセルしなくちゃいけなかったってわけなのよ。あんた、どうしてあんなに早く生まれてきたのよ。反省しな!」なんてさ。こっちに文句言われたってどうしようもないってのに、なんでだよ。それに、もし俺が生まれていなかったら強引にあの人たち結婚しないですんだわけだから、離婚だってしないですんだわけだろ? あの人たち相変わらず仲がいいからまだいいけどさ。子どもの俺がどれだけそのことで迷惑こうむっていたかわかるのかよ。
「けど、それは冗談っぽくでしょ」
否定できない。美里は上総の顔色を見るようにちょっとだけ言葉を抑え、また続けた。
「あのね、立村くん。私ずっと思ってたけど、立村くんは人のことを思いやっているふりして、本当は勝手に決め付けてるだけのような気がするんだ」
「どういうことだよ」
腰を椅子から浮かしかけた。まずい。声を荒げてはならない。一呼吸置いた。
「つまりね、立村くんは自分が生まれてきたから迷惑をかけたんだとか、もし自分が生まれてなければこんなことにはならなかったんだとか、勝手に思っているでしょ。だけど立村くんのお父さんお母さんはぜんぜんそんなこと考えてなかったかもしれないでしょ。それと同じよ。菱本先生だって、喜んでいるのかもしれないし迷惑がっているかもしれないけど、そんなの私たちにわかるわけないじゃない。私たちがわかるのって、目に見えていることだけだもん。私の見た限りだと、菱本先生、浮かれてるよ」
「人前でそんな暗い顔するわけいかないって、自分の身に置き換えてみたら」
ぴしゃり。跳ね除けられた。痛い。隣の貴史も腕のカフスあたりを押さえてぐいぐいねじっている。
「立村くんの基準と菱本先生の基準が違うことくらい、わからないわけ?」
「んだな、立村。それは美里の言う通りだ」
──ふたりの基準が同じだけだろうが!
唇が捻じ曲がっているだろう。かみ締めすぎてぐにゃぐにゃになっているかもしれない。美里の言葉はびしびしと、太鼓の撥のように上総をたたきのめした。
「できちゃった結婚だから、ほんとはもう少し結婚先にしたかったのにとか思ってるかもしれないよ。それは菱本先生の事情でしょ。私たち生徒が勝手に陰気な想像して決めつけること自体が失礼だと、私、思うよ。それより、素直に、菱本先生の赤ちゃんが生まれることをおめでとうってお祝いしたいよ。だって三年間一緒だった先生だよ! 家族が増えて嬉しくないわけないじゃない! 先生だって、喜ばないわけ、ないじゃない!」
「生まれてほしくない親だっているはずだよ。すべての親が喜ぶわけじゃ」
「立村くんの基準と一緒にしないでよ! なんでそう暗い考え方をするのかな。なんか立村くんの考え方っておかしいよ。そんなこと言われたら、私もきっとそう思われてるのかなって泣きたくなるよ。私がこうやって言ってることも、立村くんには『いじめ』だって思われてるのかなって、悲しくなっちゃうよ」
──やはりそうか。
上総はじっと美里の顔を見つめていた。目をそらすなと叱られてから、意地になって顔を見つめつづけてきた。まっすぐ突き刺さってくる美里の言葉がどれだけ上総を血まみれにして死にそうにしているのか、きっと気付くことはないだろう。隣で口を開きかけた貴史も同じだろう。上総が今、何かを考えていることを、どうして感じようとしないのだろう。
「ま、俺もそう思うところはあるわな。立村、ここんところはさ、明るくいこうぜ。なあに、菱本さんのこった。多少俺たちがはめはずしたっておおいに結構毛だらけ猫灰だらけって、感謝のちゅーくらいしてくれるかもしれんしな。だろ、美里?」
「そんなのしてほしくないけど、でも、絶対菱本先生は喜ぶと思うよ。人を喜ばせて楽しく盛り上がることが、どうして立村くん、いやなわけ?」
二人のほうが正しいのだ。
上総の感じ方は、やはり「おかしい」のだ。
できちゃった結婚して、おなかに子どものいるお嫁さんと結婚式を急いで挙げることが、めでたいことなのだと素直に信じられることが、むしろ自然なのだ。
そう思えず、せめてそっとしておいてやろうと考える上総自身は、やはり、「変」なのだ。
相手の心を思いやろうとすることよりも、その気持ちを推し量る行為自体が「勝手」に決め付けることになってしまい、相手を侮辱することなのだと。
そうされたくないと願う上総の方が、「おかしい人間」なのだ。
悔しさのあまり、目の前がゆがみそうだった。こんなことで誰が泣くか。
上総は素早く立ち上がり、かばんを抱えた。天井を見上げ、危うくこぼれそうな涙をこらえた。あくびしたふりをして、眠たさで目もとがうるんだ風に見せかけた。
「わかった。それならこの件は、清坂氏と羽飛に任せるよ。俺の性格上、やはりこういうイベントは苦手だしさ」
「ちょっと待ってよ、立村くん、逃げるの」
いきり立つ美里を「まあまあ、ちょいと落ち着けや」と肩に手をやり押さえる貴史。
いい構図だった。貴史の指がまた美里のお下げにかかった。ひょいと引っ張っている。またはたき返されている。
「やめなよ、貴史。あんた小学校の時とまったく成長してないよね。お下げ見たらひっぱるものって刷り込みされてなあい?」
「しょうがねえだろ、ほんとは優ちゃんの髪の毛ひっぱりてえとこだけど、しかたねえから美里で妥協してるんだ」
「最低よね、妥協ときたもんね、あんたの方こそ欲求不満、別のところで早く解消しなさいよ!」
盛り上がっている隙に上総は教室の扉から抜け出すつもりでいた。
目ざとく美里に発見された。読みが甘かった。
「立村くん、待ってよ。今日は一緒に帰るでしょう?」
一緒に叫ぶ貴史も、また冗談めかした声で脳天気に。
「そうそう、そういうこと、立村逃げんなよ」
致命傷を与えておいて、ちっとも気にせずに上総と一緒に帰ろうとする美里と貴史の態度。 ──いったいこの人たち、何考えてるんだろう。
いつものことではあったけれど、ふたりの気持ちを上総はつかみかねていた。
今日の帰り、本当は美里に時間を作ってもらうつもりでいた。
日曜日に決断したことを伝えるつもりでいた。
でも、今の上総は危険だ。
かつて捧げてくれた美里の真心を、感情の赴くまますべて切り裂いてしまいそうだった。
二人きりになれるところで、改めて美里に礼を尽くし、すべての咎は上総がすべて受けると覚悟の上で、伝えたい。今日はしかし、その時ではない。
「わかった、一緒に帰ろうか」
上総は少し考え、美里と貴史に従った。