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第二部 6

第二部 6


 たんすにぶら下がっている制服のうち、式典に着る時用にあつらえたものを選んだ。

 見た目はほとんど変わらないが、袖と衿に全く汚れが残っていない。

 ブレザーに腕を通してみると、ほんのわずかだがシャツのカフス部分が丸ごと外に飛び出していた。去年の春にちょうどの形でそろえたものだから、たぶん若干成長のあとはあるのだろう。

 ──完璧だ。

 鏡をのぞきこみ、まだ生乾きの髪を櫛で梳いた。

 筋がしっかり残っていた。

 風呂からあがってすぐ着替えたせいか、まだぽっぽと温かい。

「上総、何している」

「今から学校に行く」

 父が部屋に入ってきた。とりあえず床が見える状態となった上総の部屋を、ゆったりと歩き回り、

「どうしていきなりそんな気になった?」

 疑問を投げかけた。ふつうの親と同じく素直に「そうか、それはよかった」と流してくれればいいのだが、上総の父として十五年間顔を突き合わせてきたせいか、何かを勘付いているのかもしれない。知られてはいけない。母に気付かれていないだけでもまだましか。

「なんとなく」

「それなら、車で送っていく」

「仕事は?」

「今日は有給だ」

 ──ずいぶん雑誌社も暇なんだな。

 自転車で行くのは長靴必要な雪の深さだけにまず無理だし、汽車もたぶん相当遅れていることだろう。知り合いに会う可能性だってある。上総はしばらく利益・不利益を両天秤にかけた後、父の誘いに素直に乗った。


 菱本先生の熱いお言葉に涙したなんてことは、いくらなんでも思っていないだろう。

 上総が担任を毛嫌いしていることは、両親ともどもよく知っているはずだ。

 ただいかんせん、彼らが菱本先生を嫌っていないのもまた事実なのだ。

 今のところは誰も上総に同調してくれそうな人がいない、それが現状だった。

 車に乗り込み、黒いコートを纏い、そっと窓の外を眺めた。父の運転は母と違い、交通標識をまじめに守り、たとえ狸や狐がいきなり飛び出してきても轢かないですみそうだ。こんな性格の違うふたりがどうして一度は結婚、なんてしてしまったのだろう。上総にとって十五年間の謎はそこである。幼い頃に聞いたことはあるのだが、もちろん教えてくれるわけでもなかった。はっきり言えるのは、自分だったら母・沙名子のような気性の激しい女性は絶対に選ばないだろうということだけだった。

 計算でいくと、あと五年後に自分が恋人と結婚しても不思議がないということだろう。

 両親が二十歳の時に上総が生まれたわけなのだから。

 ──結婚するなんて、信じられないよな。

 いったい父はどうしてそんな「暴挙」に出ることができたのだろう?

 そして、何を好き好んで、あの母を選んだのだろう?

「父さん」

「なんだ?」

「どうして、母さんと結婚しようなんて思ったんだよ」

 以前、かっとなって叫んだ時とは違い、落ち着いて伝えたせいか父もおだやかなままだった。

「毎日、ひどいことばっかり言われてさ、無能扱いされてさ、それでどうして」

「お前も大人になればわかる」

 父はそれしか言わなかった。ハンドルを握ったまま、口元にかすかな微笑みを浮かべた。

「上総、人間にはみな、たくさんの顔があるんだ。気性のはげしい人もいれば、穏やかに見える人もいるわけだが、それぞれいろんな部分を見せ合っているんだよ」

「信じられないな」

 父に対して母が、思いっきり甘ったれた態度を取っているとでもいうんだろうか。

 否、絶対にありえない。あの「和也くんったらもう、なんでこうもいつもだらしなくしているわけなのよ! ったく、ほら、立ち上がってここ、掃除して! こういうとこほんっとに上総そっくりなんだから!」などと頭から火が噴きそうなことを叫んでいる母に限っては。

「お前が将来、誰かを選んだ時になってからだな、そういうのがわかるのは」

 ──わかりたくもない。

 上総はそれ以上答えなかった。助手席から窓を見つめ、これから何をするかを考えた。

 三年D組の教室に戻って授業を受ける気は今のところ全くない。

 貴史や美里たちと顔を合わせたいとも思わない。

 本当だったら父のお言葉をありがたく受け取って、卒業式当日までずっと部屋に篭っていたいところだった。でも、あの菱本先生の来宅から何かスイッチが入ってしまった。この感覚、どこかで経験したことがあるけど、思い出せないのはなぜだろう。

「着いたぞ」

 黙って降りた。車が走り去るのを背中で聞いた。三日ぶりに見る校門と汚れた雪に覆われた地面、奥に見える生徒玄関。上総はじっと眺めた後、コートの袖に落ちる雪に眼を留めた。真っ白い結晶がひとつ、小さく残っていた。さっき風呂場で見た、シャンプーの純白な泡に近いものを感じた。

 行く場所は、決まっていた。


「どうした上総、まずはまあ、その辺に座ったらどうだ?」

 一階奥の教師研修室・いわゆる「E組」。

 扉に手を掛け、中をのぞくとそこには駒方先生と、あとひとりだけだった。

 黙って上総の顔を見つめるだけ。杉本梨南が刺繍をしながら座っていた。

 ──この先生、どうして俺のこと名前で呼ぶんだろうな。

 いつもながらいらいらする。白髪そのものの駒方先生は、片手でなにやら鉛筆画を描きながら、笑顔で上総を迎えてくれた。

「今日は誰もいないんですか」

「いません」

 返事をしたのは杉本梨南だった。もちろんいつもの無表情で冷たい視線をぶつけるだけだが、それでも向こうから返事をしてくれるとは幸先がよい。駒方先生が子細を説明してくれた。

「ゆいも小春も、ちょっと風邪をひいてしまったみたいでな。今日は梨南だけかわいそうにひとりぼっちなんだ。ちょうどよかったよかった。上総、少し梨南の相手をしてやってくれないかな」

 ──一応、今の時間帯は授業やってるんだろう?

 五時間目に入ったばかりのところだろう。去年の自分の状況を思い返してみた。そうだった、二月といえば水鳥中学生徒会との交流会でばたばたしていたのだった。教室での出来事なんて全く覚えていないけど、杉本梨南を追いかけ、水鳥の副会長・関崎乙彦に連絡を取り、その間新井林を捕まえて状況を聞いたり、いろいろやっていたことは身体に染み付いていた。あの頃よりも体力もついたはずなのに、どうしていまは何もする気力がないのだろう。

 上総は杉本の隣席に座った。今までは西月さんがいた席のはずだった。いつも西月さんは、杉本に張り付くようにして髪の毛を梳いたり、にこやかに話を聞いたりしていた。たまに霧島さんも話し掛けていたけれども、この数ヶ月ほどはお通夜のような会話のみだったはずだ。

「杉本、何やってるの?」

「見たらおわかりでしょう。刺繍です」

「あれ、今日はB組で授業受けるんじゃないのか?」

「すでに私は高校レベルの勉強してますので、今はここでの授業のみです」

 そんなことできるのか、とかなり驚いた。大学の聴講をさせてもらっている上総も、なんだかんだ言って青大附中の英語授業はしっかり出ている。なんだか今、杉本の置かれている状況はちょっと根本的に何かが違うような気がする。このまま三年に進んでも同じなのだろうか。駒方先生がまた笑いながら声をかけてくる。

「種明かしするとだ、梨南はがんばりやだからあっという間に授業が終わってしまったんだよなあ。だから、空いた時間を使って、梨南の得意な刺繍をやってもらおうかという話になったというわけなんだよ。ほら、上手だろう? 梨南はこういう幾何学模様のものが上手なんだよなあ」

「誰でもそうではないですか」

 黒い糸を使い、ひたすら同じ幾何学模様で埋め尽くしていく絵柄は、どこぞのブランド食器をモチーフにしたように見えた。去年一緒にマイセンの食器展に出かけた際、杉本は上総に逐一柄についての説明をし続けていた。内容は全く覚えていないけれども、その博学ぶりもさることながらその時にちらと見せる、不安げな表情が印象的だった。

 ──聞くことしか俺にはできないからな。

「俺もすごいと思うよ。そうか、杉本はそういうのが得意だよな」

「私はこういう能力で認められても嬉しくもなんともありません」

 きっとした眼差しで杉本は言い返した。めずらしく駒方先生が割って入った。

「いや、これが梨南の魅力だと思うんだがなあ、そう思うだろう? 上総も?」

 いきなり振られてもしょうがない。頷くしかない。

 こうすると杉本のご機嫌を損ねることはわかっているけれども。

 駒方先生は近づいてきて、ふたりの前に立ちはだかるように、机にもたれた。

「いいかい、梨南。梨南は、自分が頭のいい子でないとみんなに嫌われると思っているだろう? 賢くないと馬鹿にされると思い込んでいるんじゃないかな」

「あたりまえのことをおっしゃらないでください」

 全く意にも介さず、杉本は針を動かした。くいと糸を引き、くるくると先に巻いた。

「でもな、もし梨南の成績が下がったとしても、みんなは決して梨南のことをばかにしたりしないんだけどなあ。それを、信じることが今の梨南には必要なんだよ」

「ふざけないでください。何考えているのですか」

 相変わらずぴしり、と杉本は言い返した。

「ならどうして私はこうやって追いやられているのですか。迫害されなくてはならないのですか」

「早く気付いてほしいからなんだよ」

「そんなもの必要ありません」

 かなり厳しい言い方だった。もし相手が桧山先生だったら罵倒するか冷たく叩きのめすかのどちらかだろう。駒方先生はどうも、怒りの入るスイッチが壊れているみたいで、全く気にならないらしい。こういう人は杉本の周囲に殆どいない。

「いいかい梨南。梨南は頭のいい自分とか、何でもできる自分でないといやだと思ってるだろう? だから高校のカリキュラムも自分で一生懸命勉強したし、学年でトップを取りつづけているわけなんだよなあ」

「でもその能力は認められておりませんが」

「そうだなあ。梨南、本当の梨南のよさをもっと受け入れてほしいんだけどなあ。ほら、こうやって一生懸命刺繍をしたり、お茶を淹れたり、小春やゆいたちに可愛がられたりするところとかな。こういう可愛いところをもっと、他の人たちに見せていけば、みんな戻ってきて欲しがると思うんだよ」

「死んでもいやです。私は一生嫌われつづけた方がましです。ありのままの私でないものを好む人の側には行きたくありません」

 にべもない。上総は黙って横顔を見つめ、手元の針がかすかに震えているのに目を留めた。


 ──駒方先生にはわからないんだ。

 たぶん、駒方先生の言う言葉は間違っていないのだろうし、その通りにすればたぶん杉本梨南は受け入れられるだろう。人の顔色を見るように心がけて、頭脳明晰さよりもかわいらしさを打ち出すようにして、男子たちや先生たちの言葉は反論せずに受け入れて。そうすればたぶん、これ以上嫌われずにすむに違いない。

 でもそれがどんなに杉本の発する言葉を奪っているのか、駒方先生を代表とする人々は考えようとしないわけだ。もちろんE組という場所をこしらえて、見えないけれども傷ついている杉本を保護して、守っていることは評価する。でもそれは、杉本のためというよりも、杉本から被害を蒙ってきた人々を保護するためのように上総には見える。気付かないでいられれば極楽だけど、杉本梨南のように鋭い感性の持ち主にそれは丸見えだということも、この人々には理解できないのだろう。

 ──あの熱血教師野郎もそうだしな。

 すべてが「みんな仲良く」でおさまると、みな信じている。

 そうしない限りこの世界で生きてはいけないとわかっているけれども。


 上総は杉本梨南の隣でじっと針の動きを見つめ続けた。

 普段だったら「先輩、やはりあなたは変態なのですね」みたいなことを言われるだろうが、今日の杉本は特段とがめるでもなかった。布からつんと針先が現れて、黒い糸をくるくると巻き取って幾何学模様をこしらえていく。

「この布で何を作るんだろう」

「ベッドカバーです」

「だからこんなに大きいのか」

「刺繍する場所は隅だけですから楽です」

 簡単だが答えが返ってくる。時折目をこするようにして、杉本は唇を結び直した。ブレザーの襟元がかすかに揺れた。

「上総、今日はこれからどうするんだ? 三Dの教室、寄っていくのかい?」

 また名前で呼ばれたことにむかつきつつ、上総は首を振った。

「明日からにします」

「そうか、無理することもないからなあ。まずはゆっくり休んで、それからの方がいい。そうそう、上総、あとからお前は大役をおおせつかることになるから、少し英語を紐解く訓練でもしてたらどうだ? 大鳩教授が上総のことを絶賛していたんだぞ。中学生だというのに、あれだけきちんと読解していてさらに作品背景に関しても他の大学生たちより深い読みをしているってなあ」

「たいしたことないです」

 大鳩教授とは、二年前から大学授業聴講を許された際についた先生のことだった。

 五十代前半、なんでもハーディあたりが専門らしく、桧山先生も学生時代に卒論でお世話になったらしい。なんとなく気に入られてはいると感じてはいるけれども、それは青大附中でしているようなガキ臭い行動を一切行っていないからだろう。

「とにかく、ここで少し英語の勉強をするのもいいぞ。菱本先生にはちゃんと言っておくからな。あと数学類はどちらにしても狩野先生が担当してくれるからその点も安心だろう?」

 上総は駒方先生の穏やかな表情をじっと見た。

 なんでそんなに話が進んでいるのだろう。

 いくら今日、西月さんと霧島さんがふたりとも休みだからといって。杉本ひとりだけだとやはりまずいということなのか。上総が貴史にぶん殴られた事件を駒方先生ひとりが知らないわけもないだろう。

「まあ、今日は五時間目終わるまで、ゆっくりと梨南と話をしてたほうがいいなあ。ああ、菱本先生にもそれは言っておくからなあ」

 駒方先生は軽く右手を挙げ、腰をかがめて教室から出て行った。

 

 蛍光灯を付けっぱなしにし、上総は窓辺に立った。雪の膜がいつのまにかぴったりと窓枠に張り付いていた。景色も何も見えず、ただふたりきり、わずかに黄色く染まったまま包まれていた。

「大役とはなんでしょうか」

 いきなり杉本の声が響いた。

 どうやら、さっきの駒方先生が話した言葉を耳にしていたらしい。

「さあ、わからない」

「英語科関係のことですか」

「どっちにしても俺には関係ないから」

 ほんとに、どうだってよいことだった。雪を眺めたまま目を凝らしていると、ようやく白い膜の向こうに建物が見えた。一年教室の建ち並ぶ校舎だった。その上に二年、三年、と重なっていく。玄関口からA、B、C、Dと並ぶはずだから、現在上総たちがいる教室から見える場所はおそらくA組のはずだ。

「それにしても、お尋ねにならないのですね」

 また抑揚のない声で杉本が声をかけてきた。上総も目を外からそらさずに答えた。

「何を?」

「西月先輩と霧島先輩のことです」

「風邪だろう。それ以上何を聞けっていうんだよ」

 かつては重大事項だったはずなのに、全く興味を失っている。

 それも肩書が消えたからだろうか。まあいいさ、あとで天羽あたりに聞けばいい。

「杉本は事情を聞いてるの」

「いいえ、教えてもらえません。ただいきなりお二人が学校に来なくなったのと、難波先輩が一人で走り回っているのが気になった程度です」

 そんなのいつものことだろう。上総は聞き流した。どうせふたりとも進学先は決まっているのだし、それ以上触れる必要はない。

「ずいぶん立村先輩、他人に対して無関心になられたのですね」

「そういうわけじゃないけどさ」

 その通りのことを当てられた。全くもって、その通り。今の上総には、評議委員会に関する事情も、三年D組の文集つくりにまつわるよしなも、菱本先生に関するうっとおしい情報も、どうだっていいことだった。なんでつい三ヶ月前まではそのことに専念していられたのだろう? 離れてみれば、なんでもないことばっかりだったのに。すべてをこそぎはがされた今、残されたものは何があるのだろう?

 またひとつ、雪が窓にひとつ、降りた。指先で叩いた。

 

「杉本、どうして俺が来たのか、聞かないのか?」

 挑発してやりたくなった。杉本の座っている席にもう一度近づいた。立ったまま机に手をかけ、顔を覗き込んだ。

「行く場所がないからではないですか」

「かもな」

 杉本の答えに頷いた。その通りなのだから、それしかない。

「でも、明日からは三年D組にお戻りになられるのでしょうし、それはそれでいいことです」

「清坂氏あたりからなにかか聞いてないのか」

 じれてきてつい、口にしたくないことまで呟いてしまう。杉本も戸惑うことなくあっさりと答えた。

「聞いてますが、それは関係ないことです。私も知ったことではありません」

「そうか。ならさ」

 その時、チャイムが鳴った。五時間目終了の合図だった。

 

 おそらく駒方先生は上総がE組に現れたことを菱本先生あたりに報告しに行ったのだろう。もしかしたらまた、午前に続いて午後のあったかいお説教を聴かされるはめになるかもしれない。学校に行くと決めた以上覚悟はしていたけれども、結局D組の教室に足が向かなかったのだから、今日はもう顔を合わせたいとも思わない。E組から帰ろうと決めていた。

 だけど、まだ、これっぽっちしか杉本と話をしていない。

 このまま帰りたくない。

 上総は杉本梨南の長いポニーテールの束に触れた。驚いたのか、目を丸くしたまま杉本は上総を見つめた。指先に伝わる滑らかな感触、杉本がどれだけ自分のストレートヘアを大切にしているかがよくわかった。すべてが杉本梨南そのものだった。

 ──変態と言われるだろうな。

 杉本は言わなかった。ただ黙って、上総の目を見据えるだけだった。

「あのさ、杉本」

 風呂場で、車の中で、そしてたった今心で繰り返した言葉を、上総は告げた。

「一緒にふたりでどこかに行こう」

 

シャンプーの泡を見つめ、その中に七色の光とともに見つけたのは杉本梨南の眼差しだった。車から見える雪の結晶ひとつに、すぐ壊れてしまいそうなおののきを見つけたのも杉本梨南の仮姿か。そして今、雪のベールに包まれて、そのまま凍ってしまいそうな自分と一緒にいてくれるのは、杉本梨南だけ。

 何もかもなくした自分に、一番欲しいものをくれるのは、杉本梨南だけだった。

きれいごとでも、嘘っぱちでもない。ただそこにいる、それだけで上総を潤してくれるたったひとりの存在だった。

 どうして今まで気付かなかったのだろう。

 それがいわゆる「恋愛感情」というものなのだろうか。

 わからない。そんなの知りたくもない。

 上総はただ、杉本梨南とずっと一緒にいたい、それだけだった。


 杉本はゆっくりと首を左に寝かせると、かばんに教科書類をすべて入れ始めた。その手を動かしたままで、

「寄り道はどうぞと申し上げたいところですが、立村先輩はどこに行かれたいのでしょうか」

「どこって……?」

 決めてなかった。思い出したのは財布の中身についてもだった。すべてお年玉は郵便局に貯金してしまったはずだ。お金を下ろすにもキャッシュカードが必要だしそんなの父でないと持っていない。だいたい三千円程度だろうか。

「それがわからないと私も動きようがないのですが」

 ぴしゃりと杉本は畳み掛けた。廊下をわあっと誰かが走り抜ける声が聞こえた。もうここには居られない。菱本先生や貴史、美里たちと顔を合わせるのもごめんだ。上総はコートを急いで羽織り、杉本のコートを後ろのロッカーから持ち出し着せ掛けた。また驚いた目で上総を見つめる杉本に、

「歩きながらそれは考えよう。とにかく、急いで」

 戸惑いつつも杉本が身支度を整える間、上総は片手に白いマフラーを手に取った。

 繊細な編み込みが施された、細編みのものだった。コートのボタンをはめ終えた杉本に、上総は有無を言わさず自分の方を向かせると、首にしっかりとマフラーをかけてやった。

 言葉も出ない杉本の片手がだらんとぶら下がっている。隙ありだ。

「さ、行こう」

 細い手首。指先に伝わる温かい感触。上総は握り締めた。半ば引きずるように教室の扉を開いた。と同時に目の前にはずらっと、会いたくもない連中に迎えられるのを感じた。

「立村くん!」

 足がすくんだ。ほんの一瞬のことだった。

 ──ごめん、清坂氏。

 じっと目でその意だけを伝えようとした。でも無理だとわかっていた。

「どうしてうちの教室に来ないのよ!」

 叫ぶ美里に上総は首を振った。慌てて近づいてきたのは菱本先生だけだった。

「なんで立村、三日も休んでる?」

「みんな心配してたんだよ」

 菱本先生が慌てて上総の前に立ちはだかろうとした。

「立村、来る勇気を出してくれたのか」

 ──勘違いもいいかげんにしろよな。


 近づいてこようとする菱本先生と、それを追いやって前に出ようとする美里、その後ろで魚みたいに口をぱくぱく言わせている貴史と、きょとんとしたまま無言で突っ立っている南雲、その他三年D組の連中集団が列になり見守っている。

 その中で上総は自分のしたいことを、ひとつだけした。

「先に帰ります。失礼します」


 駒方先生と、近づいてきた菱本先生に一礼した後、上総はざわめきの中そのまま廊下をつっきっていった。もちろん杉本梨南の手首は離さずに。杉本も何度か振り返ったようだが、とりたてて騒ぐこともせず、黙って上総の引きずる方向に着いて来てくれた。

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