第二部 5
第二部 5
三日間風呂にも入らず、食事とトイレ以外は一切部屋から出ずに過ごした。
全身がやたらと痒くてならない。部屋の暖房が効きすぎてかえって汗をかいているようだ。
部屋の中は本と脱ぎ捨てた服と、それから読みかけの雑誌と本が散乱していた。
いつもだったら片付けたくなるのが自分なのに、なぜか、その気力がなかった。
──今日で三日目なのか?
カレンダーを見上げた。すでに日付の感覚が失われていた。
母にとことん罵られ、プライドをずたずたにされた午後からずっと、上総は閉じこもるだけだった。追いかけてきた菱本先生に話すことなど何もなく、電話が鳴っても出る気もなく、父が帰ってくる前に風呂と食事を用意する気もなく。ただひとり、ベッドの中にもぐりこむだけだった。
──英語科推薦取り消しになるかもな。
もちろんそれはないだろう。三日間くらい欠席したとしても、いわゆる風邪だとごまかせばいい。実際他クラスの連中も、インフルエンザで倒れている奴がかなりいる。あとは父がどう言うかだが、さっき部屋を覗き込みすぐに戸を締めた段階では何を考えているのかわからない。一応、菓子パン二袋くらいはテーブルにおいてあるのでそれを持ち込み、牛乳とあわせてそれを食べる。まだ、「学校に早くいきなさい」と怒鳴られてはいなかった。
父に罵られることは、生まれてから一度もなかった。
叱るのは母の役目と、決まっていた。
「上総、入るぞ」
鍵のかからない部屋というのがどれだけプライバシーを保てないものか。
せめて荷物を戸口に置いて防御すべきだった。上総はベッドにもぐりこみ、寝ている振りをした。せめて風邪で具合悪い振りをしたかった。
「狸寝入りはやめておけ、まず起きろ」
父にしては珍しく、布団を無理やり剥ぎ取った。全身、匂いそうで思わず体をこわばらせた。片手を額に当てられた。悔しいくらい健康体の自分をどうするつもりなのだろう。
「熱がないのは、わかっているな」
返事をしなかった。横を向き膝を抱えた。
「母さんからは電話があった」
「じゃあすべて知ってるんだろ」
吐き出した。ということは、いいかげんずる休みを決め込むのはやめて、さっさと学校に戻れ、とでも言いたいのだろう。父は別れた母にいまだぞっこんだし、それ以上に何のために離婚したのかが謎だ。上総からしたら自分を置いてさっさとこのふたりだけ別の世界で生活してほしかった。
父は上総の勉強机から椅子を引っ張り出し、腰をおろした。
「母さんにはやりすぎたと釘をさしておいた。さすがに反省しているようだよ」
「言葉が取り戻せるかよ!」
父の手が毛布から外れたのを見逃さず、上総はすぐにもぐりこんだ。身体がかゆくてならない。さすがに三日間汗まみれというのは辛いので着替えてはいるのだが、脱ぎ捨てたものをすべてベッドに押し込んでいるのでさらににおいがきつくなっている。本当は早く風呂に入ってすべてをきれいにしたいのだが、そうしてしまうと何かが壊れてしまいそうな気がしてならなかった。
「ああ、上総、これから菱本先生が来るそうだ」
「あいつがなんで来るんだよ!」
今度は条件反射で飛び起きた。一体あの非常識な担任野郎、時間もわきまえずにか。棚の上の時計を見ると、まだ九時半になるかならないかだった。授業だってあるだろうが。青大附属の教師はそこまで自由があるのか。信じられなかった。
「あたりまえだろう。お前がそんなにすねているなら、担任として気になるのは当然だ」
「俺はそんなことしてないって」
「じゃあなぜ、お前学校から逃げる?」
「逃げてないって言ってるだろ!」
何を口走っているのか自分でもわからない。矛盾を突付かれて言い返せない上総自身。母にわけのわからないことを追求された時も、上総は叩きのめすことができず、貴史と美里たちの前で救いようのない恥をかかされたというわけだ。こんな無能な自分なんて、存在しないほうがいい。学校になんて、いないほうがいいに決まっている。人前でぶん殴られて、物笑いの種になった、元評議委員長なんて、見たくもないだろう。
「とにかく、これからすぐいらっしゃるそうだ。それなりの身支度はしなさい」
「会う気なんてないから。用事ないし」
「お前が用なかったとしても菱本先生にはあるんだ。いいか。きちんと話だけは聞きなさい。それとだ」
父は立ち上がり、ぐるりと部屋の中を見渡した。
「しばらく行きたくないのだったら行かなくてもいい。だが、部屋を掃除して風呂にだけは入りなさい。それが条件だ」
床におきっぱなしの皿を拾い上げ、父は机の上に載せた。
重たくなった体を無理やり起こしながら、上総は着替えることにした。
薄手のトレーナーにデニムシャツでも羽織ろうかと思ったが、
──一応、あれでも担任だ。
菱本先生に敬意を表し、しかたなく制服にした。母の命で夏冬各三着ずつ用意されている制服だが、あえて小汚い方を選んで着た。礼儀は守るが、それ以上のことなんて気遣うつもりはない。髪の毛はそれほどべとついているとは思わないが、少し前髪が裂けているような気がした。三日間鏡なんて見ていないので気になんてしてなかったが、あらためて眺めると目の周りには隈が浮いているし、口元には何かのたれみたいなのがついている。さすがに水で顔を洗うことにした。
普段の上総だったら、一日だって風呂に入らないなんてことは耐えられない。
絶対に考えられないはずだった。
でも、絶対抜けることが考えられない習慣も、こういう精神状態だとあっさり受け入れられてしまうというわけだ。自分のこだわりなんて、しょせん、そんなもの。
足の踏み場がないとはこのことだろう。散らばった本や服を拾い上げようとし、しゃがみこもうとしてやめた。父の言うことを素直に聞くなんてまっぴらだ。文句を言ってくれたとか言うけれども、しょせんあの人は母に対してぞっこんなのだ。
──どうしてあんな女と結婚したんだよ。
何度も呟きたくなる言葉を上総は、心底で唱えた。
決して表では口にしない。
一度あまりにも腹が立って、
「なんであんな人と結婚したんだよ!」
と叫んだ時、あの温厚な父に一日口を利いてもらえなくなったことがあったからだった。
ちょうど一通り着替え終わった頃、玄関のチャイムが鳴った。
──別に俺が出なくてもいいよな。
父に呼ばれたら何も言わずに居間に行けばいいことだ。
「上総、居間に来なさい」
父は短く告げた後、すぐに部屋から出て行った。またちらっと部屋の状態を確かめるような視線を送っていた。ちっとも片付いていないのにあきれたのだろう。
「わかった」
目をそらしたまま上総も答えた。
あの憎き担任と直接対峙するのは初めてのことではない。毎年恒例の面談をはじめ、何度か呼び出されて暑苦しい説教をかまされることもある。そのたびに上総は流してきた。最初の一年は無表情で、次の一年は怒りを押し殺す格好で、今年は全く存在自体がないものとあきらめて。評議委員である以上、担任との接点を保たざるを得ないとはいえ、上総はできる限り逃げてきたつもりでいた。
──なのに、これかよ。
──最後の最後で、家庭訪問かよ。
家庭訪問も毎年行われていたけれども、この家までご足労いただくのは大変ということで、父と母が別の場所でお茶を飲みつつ語るような形を取っていたらしい。だからあの男がこの家に来るのは、上総の記憶する限り初めてのはずだ。
部屋を出る前に上総は締め切ったカーテンを少しだけずらした。外は真っ白い雪で覆われていた。三日間閉じこもっている間に、ほんのわずか顔を出していた木々の枝がすっかり雪に隠されていたらしい。冷たい窓に指を触れ、水滴が落ちてくるのを感じた時、久しぶりに突き刺さる感覚を思い出した。
重たい足を引きずるようにして、居間へと向かった。すでに戸は開け放たれていた。いかにも「早く来い」と言いたげなお迎えムード。いらいらする。上総はまず、居間のソファーで両手を拝むようにして組んでいる奴に一礼した。礼儀だ。
「立村、どうした?」
──見りゃわかるだろう。
ああも露骨に顔を引きつらせなくたってよかろうに。菱本先生の脇で父が手で椅子を指差した。座れ、ということだろう。ああわかったよ、黙って銅像になってやるさ。
まじまじと菱本先生は上総を全身上から下まで眺めると、
「とにかく、元気でよかった。他の奴もみな、心配しているぞ」
──申し訳ありませんでしたって言えばいいのかよ。
悪いがそこまで口にする気はさらさらない。父がちらと上総に目をやった。
「言いたいことがあるのだったら、きちんと言いなさい」
──言いたいことが言えたら、たぶんその場でこの会合は決裂だって。
上総は入り口側の一人がけ椅子に座ると、もう一度頭を下げた。横目で菱本先生の様子をまずは伺うことにした。なんといっても不思議なのは、この時間、二時間目、へたしたら三時間目くらいだろうに、どうしてクラス担任である菱本先生が品山くんだりまで来る必要があったのかということだった。確か社会の授業は他クラスでも受け持っているはずだ。背広を着てきたのはやはり、学校から来たということだろう。玄関先に深緑の車が留まっているのも、その推理を実証するようなものだった。
「あのシャンデリア、すごいなあ」
菱本先生はいきなり、天井から釣り下がっている照明器具を指差した。母が親戚から譲り受けたらしいごてごてしたシャンデリア。年末掃除が大変だとは口に出さないでおいた。父が苦笑しながら受けた。
「パートナーの好みです。なにせ、ああいう人ですからね」
「ああ、そうですか」
そこでなぜ、意味ありげな笑いを交わすのだろう。父が用意した缶コーヒーを菱本先生は開け、美味しそうに口へ運んだ。母がいたらこういう時、上総に命令しつつコーヒーメーカーで用意させるのだが、それをしないですんだだけでも感謝すべきなのかもしれない。
──しかしな、こいつも三年前から全く変わってないよな。
自分の年齢と二倍差の男、として遠めで見るようにしても、なぜ消えないのか嫌悪感。
同じ年齢の狩野先生に対しては素直に「教師」として深い礼ができるのに、この担任・菱本守に対しては「自分より目上の大人」とはどうしても思えない。上総はもう一度菱本先生の横顔を覗き込んだ。生後三ヶ月のひとり息子にめろめろだとか、巷では噂が聞こえてくる。好きでもない女性に押し切られて結婚せざるを得なかった可哀想な奴とは誰も言わないわけだ。
上総の思惟を全く読むことなく、菱本先生は上総に向き直り、膝を開き手を膝頭に乗せた。
わずかに前かがみになりながら、
「あのな、立村。まずこれだけは伝えておくぞ。お前が学校に来なかった三日間、クラスのみんなが心配していたんだ。周りには風邪だということで話をしておいたんだがな」
──だからそれでいいだろう。
口を閉ざしたまま、上総は受けた。相変わらずの情熱が鬱陶しい。
「羽飛と清坂が、まず一日目に俺のところに飛んできた。立村があの後落ち込んでいないのか、傷ついていないのか、それを教えてほしいとな、泣きそうな顔で訴えてきたんだ。特に羽飛な、もしお前が家でさらに傷ついているんだったら、自分でちゃんと、お前の母さんに謝りに行くからって何度もそう言ってたんだ。暴力をふるってしまったのは自分であって、責められるのは羽飛自身だし、そのとばっちりでお前がお母さんに叱られるのを見るのは辛いってな」
──何にもわかってないよな。
貴史と美里がすぐに勘付いて訴えるというのは、上総も先読みしていた。
何かがあるとすぐ、あのふたりは組んで相談し、まず菱本先生に頼みにいくわけだ。
そして、「大人の力」を借りて上総をD組に連れ戻し、居場所を確保させようとする。
それがありがたいと思う時もないわけではない。いや、そう思いたいと言い聞かせたことも何度もある。
でもそれが無理強いだったことに、今の上総は気付いている。
そういう風にしか受け止められない自分がゆがんでいるのだと、自覚もしている。
「立村、あの時は本当に辛かっただろうな」
少し砕けた口調で、菱本先生は続けた。
「お前があの日、生徒相談室に戻ってくる前にお母さんはな、羽飛と清坂のご両親に頭を下げられたんだ。本来はお前の方が被害者なのになぜかわからないでな、みな戸惑っていたんだ。そうしたらお母さんは、『これから先、自分ひとりで生きていかねばならない子どもに、なんとかして自分自身で心を守らせるための訓練をさせなくてはならない。その機会としてこの時間を使わせていただきたい』とおっしゃったんだ」
──なにが。要はあの人が考えてることったら、出来の悪い息子を叩きのめしたいだけだろが。
父とは違って完璧に自分好みのタイプではない、あの母に関して。知ったようなこと言うな、そう言いたい。
「だからあの場にいた人たちはみな、少しお母さんが言いすぎなのではないかと感じつつもあえて止めなかったんだ。それだけお前のお母さんは真剣だったからな。だがあの後、改めて俺も考えた。もしだ、もし自分の息子が、立村、お前と同じ立場に立った場合、そこまで覚悟を決めて接することができるかどうかをだな」
──そんな大それたことじゃないのにな。あの人はただ、自分の理想の息子になってくれない俺がむかついてならないだけだろうが。
とことんかみ合いそうにない。この場では一切口を利かないことに決めていた上総は、静かに菱本先生の言葉を聞くことに専念した。
「俺ならたぶん、どんな理由があろうとも、自分の息子が理不尽な傷を受けたら戦う。もちろんそれはお前のご両親も同じだ。誰だってそうだよ、自分の子どもを守りたいと思う気持ちに違いはない。ただ今回に関しては、羽飛が少し先走ってしまったというのと、俺が勘違いしてお前の倒れた状況を大げさに判断してしまったというだけであって、本当だったら羽飛とお前の頭を突き合わせて語らせるだけで十分だったはずなんだ。羽飛も、本当はああいう時に自分の感情をコントロールすることを学ばなくてはならない。暴力は何事も解決しない。そのことを改めて学ぶべきなんだ。同時にお前も、な」
──よく言うよな。
菱本先生はもともと貴史のことがお気に入りだ。本来なら評議委員は貴史に任せるべきという考えの持ち主だったはずだ。よくもまあオブラートに包みつつかばえるものだ。その言葉をすべて一枚ずつひっぺがしていき、上総はゆっくりと呼吸した。深く息を吐くと、少しは心が落ち着く。
「これは俺も卒業前、お前にきちんと話しておきたいと思っていたんだが、この機会だし言うな。立村、お前はまだ、自分を許していないだろう?」
──許す? 何をだよ。
いきなりフェイントをかまされ、思わず顔を挙げてしまった。まずい、反応しているところを気付かれてしまう。慌てて目をそらした。遅かったらしい、父に指摘された。
「上総、聞きたいのならきちんと聞きなさい」
──聞きたくねえよ!
大人ふたりに囲まれ、自分は完全に十五歳の子ども。
惨めな気持ちが雪のように積もっていく。
上総の心の隙間をつくように、菱本先生は言葉をはさみこんでいく。
「お前自身が周囲の期待に答えられなかったと思い込んでいたのだろうなと、俺はいつも感じていたんだ。一年の頃からそうだったよな。クラス評議委員に指名され、評議委員長に任命され、いつのまにか自分はクラスのリーダーとしての活躍を期待されていた、そう思いこんでいたんだろう?」
──こいつ殺してやろうか。
上総はにらみ返した。逃げず、菱本先生もその目に反応してくる。
「俺が見た限り、立村、お前は自分のできる最大限の努力をしてきたようだし、決してそれが劣っているものとは思わなかったぞ。それどころか清坂や羽飛、南雲と協力してD組のために三年間、一生懸命尽くしてくれたことには本当に感謝している。実際、青大附中三年D組は立村がいてくれたからこそ、まとまったとも思う。その事実をまず、認めてやったらどうだろう」
──誰が認めてやれっていうんだ?
まったく理解できない価値観。何が「努力してきた」だろう? なにが「最大限」なんだろう? D組がまとまった? どこが?
──実際クラスをまとめていたのは清坂氏と羽飛となぐちゃんくらいだってこと、誰もが気付いてるだろう?
「それにだ。前期評議委員長をきちんと務めてきたのも、俺たちはみな見ている。もちろん青大附中評議委員会の過渡期ということもあって、委員長交代というのは正直、辛いところもあっただろう。だがな、俺もA組の天羽によく言われるんだ。立村が居てくれたから、安心して評議委員長やれるんだってな。ありがたいことじゃないか。お前がどういう立場にいたとしても、みな受け入れたいとそう思っているんだ」
──本来は天羽が立つべき場所だったからしょうがないんだ。
「いいか、立村。いろいろあってしんどい時期だというのは、誰もが気付いているんだ。みな口には出さないがな、他の先生たちも立村のことを心配しているんだ。なんとかしてお前を無事、高校へ進ませてやりたいってな。さらに言うなら、お前がこれ以上傷つかないようにするにはどうすればいいのかというのも、クラス全員が考えている。羽飛や清坂が懸命に、お前の代わりにクラスをまとめようとしているのも、立村が自分を取り戻して帰ってきてくれた時、居場所を用意しておきたいという気持ちからなんだ。よっくよくわかるぞ」
──違うだろう。あれがあるべきすがただからなんだ。俺とは関係ない。
上総の呟きを一切無視したまま、菱本先生は言葉に酔い続けた。父の表情は伺えない。自分と似ているところを持つ父が、まさか菱本先生の言葉を鵜呑みにしているとは思いたくもないが、大人は所詮、心を隠すもの。
「それにな、立村。お前は自分の中で、ずっと不要な劣等感を持ちつづけているんじゃないのかな。そう思えてならないんだ。入学した頃からずっと、青大附中が自分の居場所ではないんじゃないかとか、そんなこと思っているんじゃないのかなとな」
──居場所? あたりまえだろう?
何をわかりきったこと言うのだろう。
思わず笑いたくなり、うつむいてこらえた。
岸壁すれすれをよちよち歩いてきた三年間、一度だってこの場所が自分のいていいところだと感じたことなんてなかった。
さらに菱本先生は、過去へとさかのぼっていく。上総の中をドリルで掘り返すように。
「俺は思うんだが立村、人間、それぞれできることとできないことがある」
ほんのわずか、前にせり出してくる菱本先生の身体を、上総はさりげなくよけた。
「お前が本当に努力してきたのは伝わって来ている。それを否定する奴は、D組には誰もいない。いないがそれと同時に、さらなる適任者がいる場合もあるだろう? 辛いだろうが考えてくれないか? 評議委員長に天羽が任命されたのはどうしてだか」
──わかりきっていることを掘り返すなんて何様のつもりだよ。
もちろん上総は答えなかった。
「狩野先生とも話をしたんだが、これはむしろ、お前がなぜ書記に任命されたかを考える方が先じゃないかという結論になった。つまり、立村の適性を考えるとお前、文字がきれいだろう? 読みやすい文字を書くししかも理解をきちんとしている。天羽がうっかり忘れてしまった時も、立村がサポートに入れば鬼に金棒、そういうことだ。つまり、お前の適性が優秀な書記であるということを、今の今になってみな気付いたからじゃないのかなというところだ」
──言い方変えればいくらでもいいこと言えるよな。
下手な褒め殺しを信じるほど、上総は修羅場を知らないわけではない。
「そう考えるとだ、本来立村、お前が力を発揮すべき場所というのは、『長』の立場ではなかったんじゃないかな、というところに達したわけなんだ。たまたま一年の段階で評議委員になり、上に立たざるを得なかったわけだが本来は、縁の下の力持ちとしてとことん周囲をサポートし、その上で才能を発揮する、そういうタイプなのではないかなとだ。お前が三年間ずっと、違和感を感じつづけてきたとしたらそういうところにあったんじゃあないかと俺は思うわけだ。立村いいか、お前が評議委員長から下ろされたのではないんだ。お前の能力が一番発揮できる場所に、今ようやくみんなが気付いたから、そこに誘導しただけのことなんだ。立村、お前は決して、評価を下げられたわけじゃないんだ。新しく本来の力を見出されただけなんだ、そう考えればすべての出来事が繋がってくるのじゃないかと俺は思うんだ」
──白々しいことよく言えるよな。
心に響くことなんて永遠にない言葉。髪の毛が痒い。やはり早く風呂に入って寝てしまいたい。しゃべっているのを聞いているだけで耳垢がたまりそうだ。
「これはお前にとって、辛い現実かもしれないがな。きちんと話しておくべきだと思うから言うな」
頭が完全に自己陶酔状態の菱本先生は、調子にのってさらに続けた。
「小学校時代の出来事については、実をいうとすでに、入学時から詳しい話を聞いていたんだ。それぞれ内申書というのがあって、そこでいろいろと話を聞かせてもらったりするし、さらに場合によっては、直接小学校の先生と話すこともある。そこですでにお前が小学校時代、辛い思いをしてきたことを聞いている」
──それってプライベートの保護に違反するんじゃないのか?
そこまで考えるのがやっとだった。上総はもうこらえきれずひたすら目に力を込めるだけだった。全身が熱い。汗だくだくになりそうだった。してやったりなのか、菱本先生は落ち着いて交わす。以前のように暑苦しいくらいに噛み付こうとはしないので、調子が狂う。
「その上で俺はお前に接してきたつもりなんだ。もちろん、それが正しいことかどうかはわからないし、むしろお前自身にはきついこともあったとは思う。だが、いろいろな事情が絡んでいたとしても、俺は一瞬だって立村を軽蔑したり馬鹿にしたことはなかった」
──嘘つけ!
全身をナイフにして、頭から突き刺してやりたい。
「むしろ、それで懸命に毎日戦い続けるのが痛々しいとさえ思っていたよ。本当にな。羽飛や清坂や南雲たちにもその点はわかってやってくれとよく話していたし、あいつらもわかってくれていたみたいだ。もちろん、それぞれ至らぬところはあっただろうが、奴らも精一杯、お前の気持ちに寄り添おうとしていたんだ。それだけはわかってやってくれないか。どんなことがあってもお前のことを嫌ったりしないし、それどころかかけがえのない仲間として受け入れたい、そう思っているんだ。たとえ評議委員長から降りる形になったとしても、過去にいっぱい辛いことがあったとしても、大切な仲間ということに変化なんてない。いいか立村、自分の置かれた肩書や立場がなんであれ、お前の存在価値がなくなるなんてことはない。それだけは頼むから、忘れてくれるな」
菱本先生はそこまで言い切ると、残りの缶コーヒーを飲み干した。顔が真っ赤だった。
──何もわかっちゃいない。
父、そして菱本先生の前で上総はどういう行動を取ればいいのか迷った。
心に響く熱い言葉、なんてものはない。
ただ、冷め切った目盛りがだんだん氷点下に下がっていくだけだった。
これ以上うっかり口を滑らせると、ふたたび菱本先生の求める「感動」の世界に引きずりこまれるだろう。クラスのみんながどんなことあっても迎えてくれるという幻想を、上総に押し付けるだろう。それを受け入れない上総を、責めたてるだろう。変えようとするだろう。
──死んだって、受け入れる気なんてないさ。
今の話で初めて知ったのは、菱本先生がすでに美里や貴史、南雲たちに対して、上総の面倒を見るよう頼み込んでいるという屈辱の事実だけだった。もちろん、小学校時代にやらかしたことがすべて菱本先生に伝わっているのは覚悟していた。むしろ入学取り消しにならなかった段階でそうなのだろうとは思っていた。しかしまさか。
──俺が命がけですべて隠してきたことを、あっさりと。
──いつ、足を滑らせても不思議ではない路を歩いてきたのに、あっさり見抜いているなんて知ったようなこと、言うなよな。
陰で「あの立村がなあ、かっこつけてるように見えて実は、あんな過去があるんだよなあ」と思われつつ、表面上では仲間扱いされていただけなのか。与えられた評議委員という役にふさわしくなるため、日々本条先輩にしがみつき教えを請うていた自分がばかみたいだ。いや、最初からそうだったのだろう。自分はやはり、最初から評議委員になるべき人間ではなかったのだ。菱本先生だってさっき言ったではないか。「長になるよりも控えで支える立場の方が向いている」と。
──わかっているさ、もし、一度も「長」になる経験がなければ。
上総は思い当たった。
死んでも認めたくないことに。
──評議委員長に戻りたい。
「次期評議委員長はお前だ」と、本条先輩から評議委員長として指名を受けた時。
「やっぱ委員長ときたら、お前だろ?」と天羽たち同期から肩を叩かれた時。
「あの陰気男の立村ってばっかみたい」と陰で悪口言っていた下級生たちも、評議委員長に任命されてからはすれ違いざまに一礼してくれた時。
「立村くんを信頼してるよ」そう美里にささやかれた時。
「立村先輩を絶対評議委員長にします!」そう杉本梨南が叫んだ時。
評議委員長になれた段階で、この世に存在していいというお墨付きをやっともらえたような気がしていた。自分にふさわしくない、本来なるべき人材がうじゃうじゃいるにもかかわらず、それでもその肩書にしがみつきたかった。あの、誰もが認める本条先輩の弟分として可愛がられたこともそう。今まではレベルの高い連中から見下されるだけだった自分が、やっと評価してもらえたのだと、全身光に包まれるような喜びを感じた時。
すべて奪われてしまった。
もう、自分には何も残っていない。
いくら菱本先生が「本来の能力を発揮できるポジション」とか言って褒めちぎろうとも、上総が認めてほしい姿には一生見てもらえないわけだ。下級生から礼をされることもなく、委員長として丁重に同期たちから扱われることもなく、ただ「守られる」ポジションの自分に置かれるだけだ。
──最初からそうだったら、どれだけ楽だっただろう?
一度でも甘い蜜の味を知ってしまった以上、もう、上総は元には戻れない。
自分の居場所が正しいところだとしても、突き落とされるまでいた場所の空気、その清清しさを忘れることなんて、できない。
菱本先生はしばらく上総をじっと見つめていた。その後で父と向かい合い、
「僕の言いたいことはすべて話しました。あとは、彼がこれから考えることです」
まず告げた。父も頷き、
「ありがとうございます。先生に受け持っていただけて、上総も幸せ者です」
信じがたい言葉で返答した。
「時間はまだあります。ゆっくりとかけていただいて結構です。出席日数およびその他の件については、こちらでいくらでも対応ができますので、まずは彼の気持ちを最優先に考えてあげてください」
いかにも担任らしい言葉を並べ立て、最後にシャンデリアをもう一度眺めた。上総に、
「しっかし、お前も気の強い女子が好きだよなあ、なんかわかるような気、するなあ」
意味不明の言葉を告げ、菱本先生は帰っていった。おそらく学校にだろう。
──また羽飛たちを呼びつけて、俺の様子がどうだったかをしゃべるんだろうな。
上総は父の物言いたげな目を無視しつつ、まずは風呂を沸かすことにした。制服をすべて丸洗いすることにした。洗濯機は乾燥機付なので冬場でもすぐ乾く。ベッドに押し込んでいた三日分の下着類やらなんやらも全部洗濯機に押し込んだ。蛇口をひねって出しっぱなしにしている間、部屋の中に散らばっている本やビニール袋やごみを全部拾い上げた。窓を開けて空気を入れ替えた。吹雪が部屋の中に舞い込み、寒いくらいだったが気にしなかった。
「今から風呂に入るのか?」
父が声を掛けてきたが一切無視した。
ついでに居間に散らばっている菱本先生在宅の跡をすべて片付けた。缶コーヒーを捨て、掃除機を掛けた。窓を思いっきり開けて部屋の匂い消しスプレーをがんがん吹いた。そうこうしている間に風呂が沸いた合図のブザーが鳴る。途中やりかけのまま、上総はさっさと風呂場に飛び込んだ。
三日ぶりに入る湯船の感覚と、あふれんばかりのシャンプーの白い泡を眺めながらふっくらしたきめ細かい泡を両手に掬い取った。何かに取り付かれたかのように手をこすり合わせてさらにふくらませた。小さなシャボン玉がひとつ飛んだ
手のひらにまだ形を保っている白い泡に、そっと口付けてみた。すうっと消えた。
今、欲しいものがなにかを見つけたような気がした。
──風呂からあがったら、学校に行こう。それからだ
ひとつの決意をした。
──落ちるところまで、とことん落ちてやる。