第二部 4
第二部 4
保健室前の廊下には野次馬らしき生徒集団と美里、彰子、その他なぜか更科がうろうろしていた。都築先生では埒があかないところを、駆け込んできた菱本先生によって交通整理された。半泣き状態で側に突っ立っている貴史の肩をまず叩き、外に出るように顎でしゃくった後、上総の顔を覗き込んだ。目をそらした。
「立村、大丈夫か」
返事をしなかった。できないふりをした。それがまずかった。
「念のため、ご両親を呼ぶから、少し保健室で休んでろ」
──ちょっとそれだけはやめろよな!
声を出せずにいる間に、菱本先生はまたたったかと廊下に飛び出していってしまった。
「あの、本当に大丈夫です」
「あたりまえでしょ。立村くん、あんたはたかれてショックで腰抜かしただけよ」
実際頭を打ったわけではないし、打ち所が悪かったわけでもない。ただ、あまりにも派手に倒れすぎたので一時は大騒ぎになりかけたようだ。廊下で奈良岡彰子が高らかに菱本先生に向かいで説明する声が聞こえる。
「立村くんの言い方がもう少し思いやりあれば、羽飛くんもこんなに怒らないですんだと思うんです。もちろん暴力は悪いことだと思うんです。でも、羽飛くんがそうしたくなった気持ちも、私はわかるつもりです」
──誰がわかるかよ。
頬のひりひり感だけが残っている。ベッドに横になると、上総は両耳に指を突っ込んでうつぶせになった。顔を覆い、視界を闇に向け、堅く目を閉じた。
──今、どうやってこの場を乗り切るか。
上総に与えられた試練はまだ、続きそうだった。
おそらく夕方だと、父は仕事の真っ最中だろうし母も似たようなものだろう。まず連絡がつくとは思えない。菱本先生が勘違いしただけであって、本当は親なんて呼び出す必要もないわけだ。さっさとそのことに気付いて、早く家に帰してほしかった。
「立村、おーい、大丈夫?」
枕もとに近づいてきたのは更科らしかった。目を開けてシーツから顔をあげた。
いつもの子犬顔がのぞきこんでいた。
「今さ、お前んとこの母さんと連絡がついたらしいよ。なんかさ、うちの先生が生徒相談室まで連れて行かなくちゃって言ってたよ」
ちなみに更科の言う「うちの先生」とは、三年C組担任の殿池先生ではない。
密かに最愛なる、都築先生であることは上総も重々承知している。
「なんでだよ」
「すぐ来るらしいよ。今さっき、菱本先生としゃべってた」
──あの男、余計なことしやがって!
最悪のパターンが待ち受けていることだけはよくわかった。
「それとさ、さっき聞いたけどさ、今、羽飛と清坂が取り調べ受けてる」
「取り調べ? どこでだよ」
「だから生徒相談室」
廊下にはもう人気がだいぶなくなっていた。菱本先生に追っ払われたらしい。それでいてなんで更科だけが居座っているのか上総には理解できないが、それなりの事情があるのだろう。「うちの先生」こと都築先生は立ったまま何か書類を眺めている。
「悪かったな」
──せっかくのデートを邪魔してな。
おそらく更科は都築先生のいる保健室に居座り、べったりおしゃべりでもしていたのだろう。そこへ上総が運び込まれたものだからしょうがなく手伝ったりなんなりしていたのだろう。と同時に「羽飛、立村を殴りつける」事件はすべて事細かに評議委員全員に伝えられることだろう。ああいやだいやだ。何もかもいやになる。
「更科くん、ちょっといい?」
事務的な口調で都築先生が更科を呼んだ。ちっとも甘くない。
「悪いんだけど、立村くんを三階まで連れていってくれない?」
「はーい」
なんだか、本当に付き合っているのかどうか謎の関係だった。更科は「俺は年上以外、感じないんだ」とか意味不明のことを口走っているけれど、実は都築先生自身何も更科に対して感じていないんじゃないだろうか。ただ、子犬を飼っている気分なだけであって。手のひらに転がされているだけじゃないだろうか。
そんなことも上総はあえて飲み込み、言われるがままに靴を履いた。
「じゃあ、行ってきまーす!」
一礼し、上総は保健室から出た。そこにはいつのまにか奈良岡と水口、そして下級生らしき男女が数人、ひそひそ話をしながら突っ立っていた。
「立村くん大丈夫?」
白々しく聞こえる奈良岡の声。
──大丈夫なわけないだろ。
それでも無意識で、首を振って笑顔を作ろうとする。
完全に青大附属で生きるためのプログラムがなされている自分に気付いた。
「先生、立村くん連れてきました」
自分ひとりだったら二回くらい深呼吸して、少しでも入るのを遅らせるだろう。更科はそんなことちっとも考えず、さっさとノックして、上総の背中をぐいと押した。
「じゃあ俺、ここで失礼するね」
頷いて礼をした後、上総は足元を見つめたまま中に入った。顔を挙げるのが恐ろしい。少しずつ目線を上げていくと、ソファーには大人が四人、そして貴史と美里、あわせて六人が腰をおろしているのが見えた。長いソファーには貴史が奥、その間に二人中年の女性が、その隣に美里。真向かいの椅子には菱本先生。そしてなんと、
「上総、早くこっちに回ってきなさい」
──こんなとこで名前呼ぶなよ!
一番奥のお誕生席には、母が片方の口角をくいと挙げたまま、背を伸ばして優雅に腰掛けていた。この状況、最悪といわずしてなんと言おう。立ちすくんだまま上総はまず、状況を把握することに努めた。まずは頭を下げた方がいいだろう。見知らぬふたりの中年女性に礼をしたところ、座ったまま彼女たちが様子をおずおずと伺っているのを感じた。
──まさか、ふたりのお母さんか?
だんだん状況が上総の想像以上に大事となっていることが窺い知れた。
母の片手で小さくなっている貴史は、上総を見上げるなりいきなり、
「立村、さっきはごめん!」
立ち上がり九十度、がくっと頭を下げた。その隣にいるパーマをかけたふっくら顔の女性が立ち上がり同じく、
「うちの貴史が、もう、ごめんなさいね」
とか言いながら頭をまた続けて下げようとする。どうやらこの人が貴史の母親だということだろう。しかしその隣にいるのは誰だろう? そのおばさんの手を握り締めて、
「ほら、落ち着いて」
とか話しているのは? 美里がその女性の腕をひっぱり、
「黙っててよ!」
とか文句を言っている。よくよく見ると、目のきついところとかが美里にそっくりだった。これはやはり、美里の母と考えてよさそうだ。
「あ、僕は大丈夫です」
思わず丁寧な口調になってしまう。さっきまでは殴られた時の痛みと苛立ちで爆発しそうになっていたのにだ。大人を呼び込まれた以上、上総はいつものプログラム通り振舞わざるを得ない。あえて母の方を見ずに、上総は椅子の後ろを周り母のいる席の脇に腰掛けた。必然、菱本先生と並ぶ格好となる。
「羽飛くん、もう頭を挙げてちょうだいな」
母は立ち上がり「どうぞ」という風に片手を羽飛親子に差し出した。
「本日私が参りましたのは、うちの馬鹿息子に謝っていただきたいということではないのですから、先ほど申し上げましたように」
ばか丁寧な口調で、ふたりが座るまで立ったまま待ち、
「羽飛くん、利き腕どちら?」
やわらかく尋ねた。貴史も一瞬首をぴくぴく振るわせた後、
「右です」
不思議そうに答えた。真正面にいる上総と目を合わせた。避けることなく、じいっと見つめてきた。
「ありがとう。それと上総」
真っ赤な口紅も、つややか過ぎる長い髪も、この前会った時と同じだった。嫌な予感がした。同時に右頬へ鋭い痛みが走った。ソファーに背中を打ち付けてバランスを保った。隣を見た時、菱本先生がいきなり、
「立村、おい大丈夫か」
間の抜けた言葉を発していた。どちらにしても、顔を向けるための逃げ場がなかった。
「立村くん!」
美里の小さな声と、真中に座るふたりの女性が息を呑む様子。そして貴史の口がまん丸く開いていくのが、上総の目にははっきりと見えた。
──殺してやろうか。
四面楚歌、ってこういう時のことを言うのだろうか。
上総はただ、母に向き直り、黙って赤い唇に向かい、怒りを放射するだけだった。
母は微動だにせず、上総を正面から受け止める格好で座った。貴史たちに対してはお尻を向ける形になる。発射された言葉はすべて核弾頭だった。
「あんた、うちにセールス電話がかかってきた時、くどい話をそのまま聞いて、受け入れてあげる? それともさっさと切る?」
──何言ってるんだよ、この人。
気の利いた切り返しをしたいのに、思いつかない。目にすべてのエネルギーを込めてぶつけるだけ。
「普通は切るわよね。時間がもったいないし、迷惑だし、話を聞いてあげる義務なんてないものね」
みなが息を呑んでいるのを、肌で感じる。自分の出方次第で母がどういう行動に出るか、なんとなくわかる。どちらにしても逃げ場はない。この場を乗り切るにはどうしたらいいのかわからず、上総は手を握り締めた。
「もしそのセールスマンが、電話切られたからといって傷ついた、悲しい、お前のせいだとか言ってあんたを訴えたらどうする? 自業自得って言うわよね、普通」
──だから何が言いたいんだよ。
母の瞳がだんだん本気になってきた。自分とよく似た雰囲気の眼差しとよく言われる。自分が激昂した時も、こんな顔をしているのだろうか。全く誰も受け入れないようなこんな瞳をしているのだろうか。防弾ガラスをちりばめたようなそんな目を。
「上総、あんたがしてほしがってるのはね、そのセールスマンと同じことよ。断られて当然なのに、断った相手が悪いって逆恨みして、無理やり自分の売り物を押し売りしようとしているだけの、勘違い野郎よ。いいかげん気付きなさい」
いきなり肩を抱かれる。鳥肌が立つ。なんでいきなり割り込んでくるんだ菱本先生。
「あの、お母さん、今ここでは」
「少し黙っていていただけますか」
母にぴしゃりと撥ね付けられた。上総もその手を露骨に払いのけた。
「見苦しいところをお見せするようですけれども、これも母親の義務ですから」
──じゃあさっさと出ていけよ。言いたいことそっちで言ってやるからさ!
貴史を筆頭に、ギャラリー一同はみな、何も言わずにじっと眼だけを向けている。
こんなところでなぜ、自分の恥をさらけ出さなければならないのだろう。
──死んだって泣くかよ。
上総は唇をかみ締めた。母だけをにらみ据えた。立村家の親子喧嘩をこんなところで再現させてたまるものか。挑発になんて、意地でも乗るものか。
母の眼差しがさらに険しくなった。いつもだったらとことん泣かされるまで責められるだろうが、すでに上総も母の監視から三年離れている。戦える。
「今、こちらで全部聞かせていただいたけれども、ここで間違っている人間はあんただけだってことがよくわかったわよ。もちろんそれはあんたを育てた私と和也くんの責任でもあるし、あんた自身にもどうしようもなかったところがあるのは理解しているつもりよ。でもね」
膝を組みなおし、鳥がくちばしの先でついばむような顔をした。膝丈のスカートがいつのまにかたくし上がっている。第三者から見れば美人の部類に入るであろう母。背中でさぞ、菱本先生は息を呑んでいるであろう。けっと笑い飛ばしたい。
「上総、あんたはいつも、周りが何もしてくれない、理解してくれない、だから当然こういうことをしているんだってことばかり言ってるでしょう。菱本先生に対してもそう、羽飛くんや美里ちゃんに対してもそう、すべて出会う人に。あんたがいわゆる普通の同年代の子とは違って、神経質だってところは重々承知しているし、有る意味それは仕方ないことだわ。でも、それを他の全く関係ない人に押し付けたり要求したりする権利は、上総、あんたには一切ないのよ」
──痛いと感じることも、やめてくれと叫ぶこともか!
この白々しい言い分。母以外誰もいなかったら、たぶん立ち上がってそのままお返ししてやったことだろう。母は目をそらさない。上総だけをじっと見つめている。いざ噛み付いたら最後、とことんなぶってやるとばかりに細長いくちばしでつつく鳥のように。
「他の人たちにとっては、あんたの繊細な感受性ってのはね、どうだっていいわけよ。いい? 上総、あんたは自分をもっと尊重してほしい、こんな傷つきやすいぼくちゃんを真綿で包むように扱ってほしい、高級品なんだとばかりに威張りくさっているように見えるわけよ。親である私にもそれはびんびんと伝わるわ。その証明をするために、『いじめられっこ』だとか『運の悪い評議委員長』だとかいろいろな肩書を集めて、『こんなに努力しているのにどうして周りはわかってくれないんだ』って一生懸命アピールしようとしているのが丸見えなわけ。わかる?」
──アピール? そんな余裕なんてあるわけないじゃないかよ! ただこちらは痛くて死にそうだから叫んでいるだけじゃないか!
「だけど周りの人たちからしたら、そんなのちゃんちゃらおかしくて相手にする暇なんてないのよ。いい? 他の人たちはあんたに普通以上の関心を払う義務なんてないわけだし、迷惑を掛けられる筋合いもない。あんたの一方的にやらかす迷惑行為から身を守る権利だってあるわけよ。そうでしょう、羽飛くん」
ぶんぶん首を振っている貴史。完全に母の毒気にやられたと見える。上総は無視した。
「『どうして自分を受け入れてくれないんだ、それは親が、社会が、学校が』とかなんとか一方的に叫んでいるようだけど、あんた以外の誰もはあんた以上に大切にしたいなんて思ってないわよ。いいえ、そうね、少なくともここにいる人たちは精一杯上総のことを、尊重しよう、理解しよう、なんとか受け入れようと努力しているわけよ。わがままいっぱいのお坊ちゃまを、なんとかして仲間に入れよう、受け入れようとね」
──押し付けがましい善意もかよ!
さっきちらっと見た、奈良岡彰子の白々しい笑顔が浮かぶ。
彼女もおそらく、全くの善意でもって接していることなのだろう。
上総にはただ、激しい嫌悪でしか感じられないことですらも。
そうだ、母の言う通り、上総自身の感じ方が異常なのだろう。
貴史や美里のあたたかい思いやりを、鬱陶しさでもって受け取ってしまう感性が。
でもそう感じずにはいられない。だったらせめてほっといてくれ、そう叫ぶだけでもいけないというのか。母が菱本先生、および貴史や美里と同じ世界の住人であることは上総も気付いている。理解してもらおうとは思っていない。だけど、こんなところで百パーセント全否定する必要があるのだろうか? そこまで、感じ方の異なる人間は存在してはいけないのだろうか。
そう、青大附属において冷遇される杉本梨南と同じように。
感じ方の異なる自分は、存在してはいけないというのか。
母の厳しい叱咤は続いた。
「あんたはそれを、白々しいお仕着せだと思い込んでるでしょうね。そう感じる自分が正しいとか思い込んでいるでしょうね。そうやって上総、あんたはたくさんの人を傷つけてきたわけよ。羽飛くんの立場にもし私が立っていたとしたら、たぶんあんたを半殺しにしていたでしょうね。友だちとして精一杯の善意を仇で返されたようなものだものね」
向かいのソファーでちろちろと貴史、美里が視線を交換しているのが見えた。
「上総、でもそれをあんたは絶対に認めようとしない。あんたがね精一杯自分が自分がと訴えていれば、ずっと被害者でいられるからね。傷つけた羽飛くんが悪い、理解しようとしない菱本先生が悪い、ずかずかと心の中に入り込んでこようとする他の人間たちがすべて悪い。繊細で傷つきやすいぼくちゃんをきちんと取り扱ってくれない社会が悪いってね。上総、あんたがずっと前、なんで『きらわれて』いたのかわかる?」
──嫌われていた?
「そうよ、あんたは『いじめられて』いたんじゃないの。『きらわれて』いたのよ。まずそこから考え直しなさい。あんたはねずっと、周りから迷惑がられてきたわけよ。自分を誰も面倒みてくれない、わかってくれないってすねて、他の子たちが一生懸命なじませようとしても殻から出てこなかった。ずっと殻に篭っているもんだから、他の子たちもどう接していいかわからなくてばたばたしている間にあんたは『いじめられた』と思い込んで恨みがましい目で見つづけたってわけ。あんたはひとりで被害者ぶっていたようだけど、他の子たちがどのくらい傷ついたか一度でも考えたことがある? どうすればいいんだろう、どうすれば上総を仲間に入れて仲良くやっていけるんだろうって考えていた子たちの気持ちを、あんたは真剣に考えたことがある?」
──押し付けがましい善意を受け入れるのが義務だってか!
かみ合わない。母とは別次元の生き方をするしかなさそうだ。上総はこらえることにした。どんなことがあっても、受け入れる気なんてない。さっき母の手が飛んだ右の頬と、貴史にはたかれた反対側の頬、両方の熱さに攻め立てられている。
「自分のことばかり考えて、一瞬でも他の子たちの気持ちを受け入れようと努力したことがないから、何もうまくいかないわけよ。あんたが普通の子よりも何倍もハンデがあるのはわかっているしそれは私と和也くんができる限りのことをするわ。それが親の勤めだから。でもね、ここにいる菱本先生も羽飛くんも美里ちゃんもその他の子たちも、あんたにそれ以上のことをしなくてはならない義務なんて全くないの。そうよ、理解する義務なんてさらさらないのよ。理解しなくたっていいし、本当だったら無視したっていい」
──だから無視してくれって言ってるだろ!
なんでそこがわからないのか。唇をかみ締めすぎて、つばに血の味がする。
「それを上総、あんたは『理解することがあんたらの義務だ』とばかりに要求を吊り上げていったのね。ここだったら自分がしてほしいこと全部してくれるものだと思い込んでね。だから菱本先生に嫌がらせして、他の子たちの気持ちをずたずたに傷つけて、『もっと自分を丁重に扱ってくれ!』とか言ってるわけよ。そんなことずっとされつづけて、怒らないですむとしたらそれは神さまよね。上総、あんたは何様のつもり? 『理解してほしい』ってのはね、最大のわがままなのよ。あんたのすべきことはね、その人たちと同じくらいのレベルで理解をするよう努力することなのよ」
「これ以上なにしろって言うんだよ!」
理性で押さえつけていた言葉が、はじけ飛んだ。側に憎っくき菱本先生を始め第三者がずらっと並んでいるこんなところで、どうしてこらえられないのか。頭の中は火花が散り、今にも首を絞められて死にそうだ。こんなところで立村家の親子喧嘩を再現させてなるものかとこらえていたのに、どうして自分はこうも自分を裏切ってしまうのだろう。
母の口元に細い笑みの皺が浮かんだ。
「さっき言ったでしょ。あんたのしていることは、失礼千番なセールスマンが、断られた人たちを逆恨みしているのと一緒だって。あんたには、水掛けられたって電話をがちゃりと切られたって相手を恨む権利なんてないのよ。でもね、そういうセールスマンにだってちゃんと逃げ場はあるのよ。理解してくれる場所はあるの。たとえば電話セールスだったらコールセンターという場所があってそこの上司や同僚たちが『なぜ断られたのか』とか『今度はいいお客さんに会えるといいね』とか言い合って、支えあうものなのよ。彼ら彼女らは断られた痛みを知っているし、さらにセールスの方法をレベルアップしていこうと応援することもできるのよ。それは彼ら彼女らが互いを受け入れあっているからなの。決して、断ったお客さんをうらむのではなくて、『どうして嫌われたのか』その理由を自分の中から見つけ出すためなのよ」
「正当な恨みも許されないってわけか」
「正当? 勘違いするのもいいかげんになさい。上総、あんたはね、いつも自分のことしか見ていないし、自分自身を変えようなんて一度も思ってないわけ。どうしてあんたは自分自身に目を向けようとしないわけ? 理解できないって言うのなら、どうして彼ら彼女らがそういうことを訴えようとするか、考えようとしないわけ?」
「考えてるさ、だからって」
「あんたの都合のいいように考えてるってことよね」
ちらと視線の隅で菱本先生と美里が頷き合っている。とてもだがそういうことをしている人たちの気持ちまで考えられるほど、上総は大人ではない。
「あんたの考えていることはだいたい手に取るようにわかるわ。『人のことを深く考えようとしない勘違いした人たちが、僕たちみたいな繊細で傷つきやすくてけなげな奴を勝手に決め付けようとしているんだから、当然相手が悪い』ってことでしょう。あんたは一度も、『自分ひとりを被害者に仕立て上げて、相手の精一杯の好意をつっぱねて、相手を傷つけてもそれから目をそらしっぱなし』って思ったことないのよね。そりゃあ、みんなあんたが百パーセント満足できることをしてあげられるとは限らないわ。親である私だってあんたがしてほしがってることを理解できるわけじゃないし、してやることだってできないわよ。でもそれはお互い様。理解できないからこそ、いい方法を考えようとするわけよ。さっきのセールスマンと同じ。大クレームの後どうやってこれから自分のセールストークをレベルアップしていけばいいのか、どういう風にアプローチしていけばいいのかを、自分自身の中で考えていくだけのことよ。上総、あんたは人が受け入れてくれることを当然のように要求しているわけだけど、要求する権利なんてもともとないの。あんたを受け入れられるのは、上総、あんたひとりだけだってこと、いいかげん元服の歳を過ぎてるんだから気付きなさい!」
そこまで母は、全く揺らぐことなくびしりと続けた。
──気が狂うくらいこちらだって相手側のこと考えてるさ。けど、どうしようもないってどうしてわからないんだよ!
別次元で呼吸している人たちに何を言ったって無駄だ。それはわかっている。
でもどうして人前で、とことん恥をかかせられなくてはならないのだろう?
そこまで自分は、無能なのか?
全身が熱い。どうしてここまで貶められるのか。鳳仙花の種のように一気に何かがはじけ飛びそうだ。触れられたら終り、何かが終わる。
「上総、理解されないからいじけるくせをいいかげん直せってことよ」
ため息をつきながら、母は足を深く組みなおした。ハイヒールのつま先がとんがっていた。
「人間、親子であっても夫婦であっても理解できないのが当然なの。百パーセント受け入れられるなんてそれはわがまま。七十パーセントでも五十パーセントでも、受け入れられるところを探して自分でその器をこしらえていくそれが大切なの。あんたは自分が傷つきやすいからといって百パーセント受け入れろって叫んでいるけど、そんなのとんだ迷惑なの。一割でも二割でも受け入れてもらえたことを感謝する以外、あんたは他人に何も要求できないということを知りなさい」
身動きひとつしない周囲。母はゆっくりと締めた。
「自分の面倒は自分でみなさい。あんたに言いたいのはそれだけよ、上総」
──殺してやる。
母が菱本先生を始め他の人たちに一礼し、立ち上がった。
「本日はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
上総の腕を無理やり引き上げるようにし、立たせた。当然叩き落としたが母の手は簡単に離れない。ヒルのようだ。
「羽飛くん、さっき言ったように、君が罪悪感を感じる必要は全くないの。この馬鹿息子はね、実際そこまでされないと理解できないの。辛い思いさせて、ごめんなさいね」
──羽飛の奴、なんだよ、いきなりなんで真っ赤になってるんだ。
怒りよりも貴史の表情がゆでタコ状態になっているのに絶句した。まさかとは思うが、人前で「公開折檻」をやらかすような女が好みなのか、こいつは。
そして隣の、おそらく貴史の母に対しても、
「子ども同士のいさかいに親が口を出す格好になってしまいましたが、本来は私が加害者の母として謝るべきところです。申し訳ございません」
さらにぽかんとしている女性にも一礼した後、母は隣の美里に告げた。
「美里ちゃん」
──いつから名前で呼ぶようになったんだ。
「あ、はい、私」
どもる美里に母はやさしい笑顔を向けた。上総には絶対に向けられないものだった。この顔を向けられておそらく父は惑わされたのだろうと上総は思っている。
「あれの親としてではなく、女性として一言伝えておくわ」
「じょ、せい?」
とまどっている。上総と母を交互に眺め、側にいる美里の母らしき人にぺたりと寄り添うような格好をしている。
「上総みたいな優柔不断な男に惚れたら、美里ちゃん、あなたの本当のよさが見えなくなるわよ。親としてではないの、女の先輩として、早い段階で見切りをつけたほうがいいわ」
美里の目が大きく見開かれた。口がぽかんと開いた。もし誰もいなかったら上総は母親を蹴り飛ばしていただろう。せめて止めることだけはしたかった。
「いいかげんにしろよ!」
「お黙り」
母の目は次に上総をじっと射た。身動き取れない。自分にそっくりと言われる瞳の大きさ、どうみてもそうは思えない鋭さ。
「女の目から見てあんたがタイプじゃないとしてもね、上総」
肩越しに菱本先生が立ち上がり追いかけてくるのが見えた。上総は扉を開けようとした。逃げるしかない。母の言葉がそれよりも先だった。
「いやおうなしに一番愛しい男になるのが、自分の息子というものなのよ」