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第二部 3

第二部 3



 あと一学期しか残っていないということもあり、クラス内では文集作りの準備で一部盛り上がっている様子だった。クラス文集委員に今回は貴史が担当となり、過去三年分の「班ノート」の取りまとめ、および写真類のレイアウトなどをこまめに行っていた。相棒はもちろん美里、そしてなぜか奈良岡彰子も混じっていた。イラストおよび表紙担当は、三年D組の誇る天才画伯・金沢に任せている。こずえも仲間に入れてほしそうな顔をしているが、なぜか割り込めずにいるらしい。上総が疑問を感じて尋ねると、

「だってさあ、菱本さん言うんだよ。私がさ、英語科に進めるのは、神さまのプレゼントみたいなもんだから、この三学期必死こいて勉強しろってさ。まあね、あんたみたいに語学馬鹿ならいいけどさ、私はねえ、確かに奇跡の大逆転だったと思うよ、けどさあ、わざわざ私のためにだけ英語の補習あてがわなくたっていいと思わない? 立村、これってどう考えたって陰謀だよねえ」

「なんで陰謀なんだよ」

 修学旅行の頃から比べると髪の毛が肩につくくらいに伸びていた。あの頃は上総と後姿がほぼ変わらないといわれていて、制服を同じものにすれば全く見分けがつかないかもしれない、そんな噂まで立っていた。さすがに今はそういうことがなさそうだが。

「いやね、なんかこれ、羽飛が私を引き離したがるからなのかな、ってさ」

「そんなことはないだろう」

「羽飛と菱本さん、年齢を超えたマブダチになりつつあるじゃん? だからね、いろいろ相談してるんじゃないかって気、すんのよね。だってさ美里と彰子ちゃんとは仲良しのまんまなのにねえ。ああ、本当だったら彰子ちゃんのポジションに私が入ってておかしくないのよね」

 いつものこずえらしくない愚痴の嵐。何か変な感じがする。教室後ろの方でなにやかにやとわやわややっている連中の気配を背中でシャットアウトし、上総はさらに尋ねた。

「そういえば、奈良岡さんずいぶん最近、羽飛と行動すること多いな」

 あの人高校受験するのに、と付け加えようとしたら、

「いやあ、どうなのかなあ。彰子ちゃんには南雲がいるんだから心配することないとは思うんだけどね」

 南雲の真実を知っている上総としては口をつぐむ。こずえは続ける。

「やっぱし、羽飛はかっこいいんだよね、誰が見たってね」

「なんでそれを俺の前で言う必要があるんだよ」

「現実を見極めろってことよね」

 机の上に英語の辞書と補習用のノート、プリント一式を揃え、こずえは抱きかかえた。

「あんたもまだまだやることあるんでしょうが、ま、童貞早くなくせとまでは言わないけどね、せめてファーストキスくらいは狙いなさいってね」

 ちっとも意味不明でない言葉を置いて、こずえは教室を出て行った。

 この一ヶ月で、上総にとってはあまりにも近い言葉だった。


 ──あと二ヶ月か。

 決して居心地の悪いクラスではなかったはずだった。

 入学してから二年間、いろいろあったにせよ、とりあえず小学校時代の二の舞を踏まずにすむはずだった。最後の最後で、大どんでん返しさえなければ、の話だが。

 クラスで一番人気のある男子と友だちづきあいができて、学校内ではナンバー1の地位を誇る評議委員長の座を一時的にせよ手に入れて、さらに語学能力を認められて大学の授業を特別に受けることを許されて。もちろん数学に関しては苦労したとはいえ、二年以降は狩野先生が担当となりだいぶ楽になった。あの日までは、すべてがうまくいっていたはずだった。

 ──もともと、こうなるはずだったんだ。だからしょうがない。

 上総は後ろを振り返った。文集チームがわやわやと盛り上がっている。机の上にどんと焼き状態で山積みされているのは、大量のノートだった。近くに行かなくてもわかる。すべて過去のD組班ノートだろう。


 菱本先生は入学当初から、クラスで「班ノート」を書くよう指導していた。最初はみな、うんざりしつつも順番が回ってきたらそれなりの日常を綴るようにしていたのだが、どうもそれが気に入らなかったらしく、ある時期を境に、

「お前ら、もっと言いたいことがあるだろうが! 本音を書け!」

 とか騒ぎ出されてえらい目にあった。

 特につるし上げられたのが上総だ。一年の二学期、菱本先生にこんこんとお説教されたことを、苦々しく思い出す。

「立村、お前、どうして、本当のことを書こうとしないんだ?」

「本当のことです」

「嘘つけ! お前どうして人の顔色ばっかり見て、振舞おうとする? 前から気になってたんだがな、そういうのは生徒としてではなく、人間として最低なんだぞ。わかるか?」

 わかるわけがない。第一、本音で行動したら何が起こるかわかってないのが根本的に間違っていると思う。上総は当然、菱本先生の「顔色」を読みつつ無表情で頭を下げた。さっさと話を終わらせるつもりでいた。

「いいかげんにしろ! いいか、立村。お前と友だちになりたいって奴が、そんなに心閉じた態度されて傷つかないと思ってるのか? 羽飛たちを見ろ。もっと友だちになりたい、もっとしゃべりたい、そう思ってるのにだ。全然心を開かないでつらっとした態度していたら、相手が傷つくんだぞ。お前ひとりで自分が可愛くてならないって顔しているが、実は相手を馬鹿にしていることと一緒なんだ。どうしてそういう奴を受け入れたいと思わないんだ?」

 この人たちにはわからないのだ。上総はその時、冷たくそう感じた。

 本当のことを言った瞬間、すべてがこなごなに崩れ去るのを、この人たちは何にも理解しようとしない。崩れ去った後、さんざん罵って去っていく人々の本心を、誰も見つめようとはしない。だから隠す、それがそんなに悪いことなのか?

 口に出すのもばかばかしくて、上総は最後まで菱本先生に仮面をつけたまま接していた。

 ──もしそんなに本音を出してほしいんだったら、俺はあんたを刺し殺してるさ。


 その後、クラスで起こったさまざまな出来事は、すべて上総が過去を自分なりに上塗りしようとしてしくじった結果からきたものだった。しょせん、自分の能力はこんな程度なのだと思い知らされ、かろうじてお情けで救われていたようなものだった。

 いじめっ子浜野の恋人が同じクラスにいるなんて想像もしてなかった。

 陰で羽飛や南雲が上総をいじめないようにと、男子たちに通告していたことも。

 他の男子たちからも注目の的だった清坂美里が、上総をずっと思いつづけてくれたことも。

 絶対に通常だったらありえないことだった。

 クラスの本来、トップに立つべき三人が命がけで上総を守ってくれたからこそ、上総はかろうじてD組ではじかれずにすんだというわけだった。

 それを感謝しなくてはならないことを、上総はよく知っているつもりだ。

 だから、最後まで、「ありがとう」、そう言い続けなくてはならないことも。

 ──どんなに喉が詰まって惨めであっても。


「えーと、一年はとりあえずこれで完了ってとこでどう?」

 奈良岡彰子のやんわりした声が響いた。

「そうね、これでいいんじゃない」

「いろいろあったけどなあ。菱本さんのリクエストでは、できる限り真実を書くようにとのご沙汰なんだが、俺、真実ってわからねえからなあ」

 美里と貴史のふたりは「班ノート」をめぐるごたごたを知っているはずだ。

 上総は耳を済ませた。背を向けたままかばんに雑多なものをしまいこんだ。

「D組の三年間を、ってことだったらそうだよね。二年のことだったらいろいろな話があるし、書けるんだけどね」

「そうそう、二年だと宿泊研修のことだよね!」

 そこまで楽しげに騒いでいた三人が、いきなりしんとなった。

 背中がちくんと痛い。

 ──さっさと帰ろう。

 上総は立ち上がり、黙って教室から出て行こうとした。

 邪魔をする気なんてさらさらないから。

「おい、待てよ立村」

 呼び止めたのは、羽飛だった。さっさとこずえと一緒に出て行けばよかった。激しく悔いた。


 振り返り、作り笑いを浮かべてみた。ほんとに何も知らないって顔をすることにした。文集作りに上総は一切タッチしていない。だから、偶然たまたま立ち上がっただけ。三人の顔をそれぞれ見ると、美里と貴史は目つき鋭く、隣の奈良岡さんが気味悪い笑顔を浮かべていた。どこが、とはうまく言えないのだが、笑顔で迎え入れてくれるような雰囲気ではなかった。

「俺な、立村」

 何かを口にしようとした貴史を、制したのは奈良岡だった。

「あのね立村くん、これ前から、美里ちゃんたちと相談していたんだけどね」

 南雲がかつて「我が愛しきお姫様の笑顔」と呼んでいた表情。

 上総には同じ感覚で受け入れられないものだった。奈良岡はさらににこにこしたまま続けた。

「立村くん、宿泊研修のことで、本当は言いたいこと、あったんじゃないのかなって思ったんだよね。私。他の男子たちにもいろいろ聞いたんだけど、今回の文集をきっかけに立村くん、本当の気持ちを話した方がいいんじゃないかって思うんだ」

 ──何考えてるんだこの人。

 上総はわけのわからない顔をしたまま、奈良岡に笑いかけた。こんなところ、さっさと消えるが勝ち。

「いや、俺文集にはかかわってないから、じゃあ先に」

「待てってるだろ!」

 貴史がさらにさえぎった。美里は隣で何も言わず見守っている。奈良岡だけが異世界の人間みたいにきょとんとしたまま見上げている。

「あのなあ、立村。お前、ずうっとあれから逃げまくってるだろ? 俺に対しても、美里に対しても、菱本さんに対しても。いろいろ事情があるとはあん時菱本さんにも言われたし、内緒にしろって言われたからなんも言わなかったけどな。でもお前、あのまま誤解されてて、ほんっとにいいのか?」

「誤解じゃないよ、本当のことだからしょうがない」

 舌打ちしたいのをこらえて上総は答えた。

 おそらく貴史が言いたいのは、二年・夏休みに上総がしでかした「バス脱出事件」の顛末についてだろう。あのことについては自分の中でやり遂げた達成感と一緒にもうけりがついている。たとえ菱本先生が理解してくれなかったとしても、貴史、美里のふたりにも意味不明であったとしても、もうそれはどうだっていい。わかってくれないなら「わかってくれない」という名のフィルターをつけて接すればいいことなのだ。そう、あの時狩野先生も教えてくれた。すべての人に「理解」されようなんて、一瞬だって思うものかとあれ以来自分を律してきた。辛いことがないとは言わないけれども、あえて飲み込んできた。

 そんな忘れかけていたデータをファイルから取り出せというのだろうか。

 何考えているんだろう、こいつら。

 話を畳み掛けるのは奈良岡だった。またぶるんぶるんと身体をゆらすようにして、でも笑顔たっぷりに、

「私も羽飛くんの言うことに賛成なんだ。そうだよ、立村くん、このままだと誤解されたまま卒業になっちゃうんだよ。みんな心配してるしね。立村くんは気付いていないかもしれないけど、みんな立村くんが嫌われたまま卒業させたくないよって思ってるんだよ」

「嫌われた?」

 認めたくない言葉が、突き刺さった。

 ──無神経って、このことだな。

 言いたいけど黙っていた。そこまで神経質にはなりたくない。

 間にはさまれた格好の美里はじっと上総を見つめるだけだった。

「ま、そういうこと。ねーさんの言う通り、お前もこの辺で言いたいこと言っちまえばいいんじゃねえの」

 脳天気な口調で貴史も割り込んだ。ただ奈良岡と違いどこか、様子伺いしているような感じがした。上総の様子をまずは観察して、それから出方を待とうとでも言いたいのか。美里とも同じ考えなのか。どちらにしても、気持ちのいいものではない。

「気遣ってくれてありがとう、それなら先に帰るから」

 別に待っているわけでもないし、上総はもう一度扉に手をかけようとした。

「だめだよ、そんなに逃げたりしたら。みんな、立村くんのこと、心配してるんだよ」

 ──知ったことか。


 いったいこの人たちは何を考えているのだろう?

 上総には理解しがたい思考の持ち主だと、改めて感じた。

 もともと奈良岡彰子とは話すこと自体あまりなかったし、性格のいい女子だという程度の認識しかなかった。あえていえば南雲が惚れぬいている最愛の人、そのくらいだった。

 もちろんまっすぐで思いやりのあるいい人だ、とは思う。

 美里とは違った面で、ほわっと温かみのある雰囲気がある、とは思う。

 だがそれだけだ。

 ルックス、外見がうんぬんというよりも、すべてがうまくいくと決め付けるその発想に上総はいつもついていけないものを感じていた。本音を言わせていただくなら、南雲の心が冷めたのもその辺にあるのだろうか、とか思ったりもする。世の中、みんなよい人と決め付けて、悪いままで認めてほしい人間の心を無理やり捻じ曲げようとするようなところが、どうも好きになれなかった。

 たぶんそう感じる自分のほうがひねくれているのだろう。

 だから、あえて飲み込んでいた。

「立村くん、もっとみんなに心を開いたほうがいいよ。美里ちゃんだって、ほら、羽飛くんだってものすごく心配してるんだよ」

 奈良岡の、何にも勘付いていないどんとした声が、また上総を呼び止めた。仕方なく振り返ると、今度は明らかに怒りを帯びた表情の美里がにらんでいた。同じく、貴史も。

 ──奈良岡さんに代行してしゃべらせているわけか。

 ちっと、火がどこかに点いたような気がした。斜向かいに上総は見返した。

「それはありがたいと思っているけど、俺には俺の考えがあるから。それに終わったことだから」

「終わってないんだよ。立村くんひとりで決め付けるのはよくないと思うなあ。いいかなあ。去年の宿泊研修以来、女子たちは立村くんがどうしてあんなことをしたのかわからなくて、みんな信頼できないなあって気持ちになってしまったみたいなんだよ。もちろん嫌うってことはしないけど、やはり、もやもやしたものが残っているのは私もクラスの女子見ていて、そう思うよ」

 ──そうか、わかっているんだったら無視してくれればいいんだ。

 毒づきたい。でも言えない。なぜなら奈良岡彰子は笑顔の女子だから。

「もちろん立村くんのように、言いたいことを無理に言わないでもいい、と思っているんだったらしょうがないけど、やはりクラスのみんなは落ち着かないんだよね」

 ──俺はクラスのおもちゃか? 

「三年間、気持ちよく友だち同士として卒業したいでしょう。一緒にいろいろなことがあって、おしゃべりして、けんかして、もちろん思い出したくないことだってあるかもしれないけどね。でも、うちのクラスでいじめが起こったことが一度もないってことだけは、誇っていいと思うよ」 

 ──勘違いもいいかげんにしろよな。

 もちろん表立ったものはなかった。だから奈良岡の言い分は間違っていない。

 だが、こうやってそっとしてほしい人間の心にずかずか踏み込んでくることは許されるのだろうか。すべて終わったことを、またひっぱりだして、わかりやすい「みんな仲良し」のファイルにまとめて記念に飾ろうとする発想、耐えられなかった。

「だからね、最後の最後でみんなすっきりしないことは、きちんと終わらせておきたいんだ。あ、これね、羽飛くんや美里ちゃんが言い出したことじゃないよ。私が思ったこと、ふたりに話しただけだからね」

 ──なおさらタチ悪いよな。

 以前、杉本梨南が奈良岡彰子に対して、

「人間はすべて悪魔の部分を持っています。それを知らないふりして、すべての事柄を平気な顔して、『私のそばにいる人はみんないい人よ!』と決め付ける神経が私には理解できません」

 とかなり手厳しい評価を下していたことがあった。杉本が全校ひっくるめた嫌われ者である以上、同感する人間は数少ないだろうが上総だけはそれに共感する。

 もう、話していても無駄だ。どうにでもなれ。

 上総は一呼吸置いて、無理やり笑みを浮かべ、奈良岡に話し掛けた。

「わかった。そうしたいならそれでいいから。ただ俺はもう話すことなにもない。だから文集委員のみなさんで、話の内容をこしらえてくれないかな。それでいいだろう」

「それは意味ないと思うよ。当事者は立村くんだもの。立村くんのためにきちんと」

 さらにしつこく食い下がる奈良岡に対し、

「俺はそれ、本当のところ、望んでないし」

 一矢報いてさっさと廊下に出ようとした。今度こそ、背を向けようとした。


「立村、ちょっと待てよ。その言い方ねえだろうが」

 大股で近づいてきたのは貴史だった。またか。立ち止まる上総の鼻先に顔を近づけ、貴史は、

「俺たち、ずっと今日の今日までお前の望み通り放っといてきただろう」

 下手に口答えしたら泥沼にはまる。上総は黙っていた。貴史のぎらついた瞳を避け、目をそらした。その先に真っ黒い上履きのつま先ががちろちろ動いていた。

「ほんとは言いたいこと腐るほどあっても、やっぱしまずいだろなってことで、俺も、美里も、クラスの連中もみんな黙ってたんだぞ」

「わかってる、悪い」

「悪いと思ってんのか、この!」

 すごまれ、片腕をつかませた。逃げねば、でも動けない。ただ腕の筋肉がぴくぴくするだけ。様子を伺っている女子たちの方を覗く余裕もない。

「けどな、それがこの状況だってのが、お前わかってねえだろうが!」

「この状況って、でも」

「俺も、美里も、菱本さんもだ。お前のことに口出ししなければ無事仲良しD組で卒業していけるだろうってことで、何も言わないできたんだ。それ、わかるか?」

 ──誰がそんなこと頼んだかよ。

 上総は力を込めて貴史をにらみ返した。口が開かない。

「宿泊研修のことだけじゃねえ! 一年時の班ノート、お前結局何にも気付いてねかったようだけどな、もう全員あのことはばればれなんだぞ」

「あのことってなんだよ」

 言った後で後悔した。

 もうすでに、全校生徒に知られてしまったこと。恥の上塗り。

 貴史は鼻をふんと鳴らした。「美里、一年時のあのノート、取ってくれ」、と後ろの美里に声をかけた。黙って美里が貴史に、一冊ノートを投げてよこした。表紙に猫のイラストが書かれている、かなりぼろぼろのものだった。自分の少し幼い手書き文字が表紙に残っている。「エグザンブル」、とか書いてあるのは当時、班名をつける習慣を押し付けられたからだろう。

「お前なあ、ここ、改めて読み返してみろ」

 ──十一月十四日。

 いつ、こんなことを書いたのだろう。

 二年前の自分が、おびえたまま、おさまっている。上総は受け取り、そこに目を落とした。

 

十一月十四日 班ノート 立村 上総


 誰にも言いたくない過去はあるだろう。いじめで自殺した中学生の話を聞きながら、いろいろ考えたことがある。

 僕の経験したことに多少似ていたからだ。

 理由はわからないが僕はずっと「いじめられっこ」といわれる人間だったと思う。そんなに人より目立つようなことはしなかったし、むしろ引っ込み思案だったんじゃないだろうか。でも、されたことは、例の中学生とほとんど変わらなかった。

 特に四年生の頃は、何度も死のうと思った。

 五年生の時は、学校に毎日、出刃包丁を持っていった。

 六年生の時は、あぶなく人を殺しそうになった。

 追い詰められると、何をしでかすかわからないと、その時感じた。

 でも僕はまだ救われていた。中学は青大附中に行くことになっていたし、過去のことを気にしないで友達になってくれる同級生がたくさんいた。

 過去を振り捨てることができたと思う。

 でも自殺した中学生の場合、小学校から高校までずっと、加害者の同級生と顔をあわせていなくてはならない。十二年間いじめられ続けるくらいなら、死を選ぶ彼の気持が、僕には痛いほど、よくわかる。

 ただ、彼には自分を殺すよりも、相手を殺してほしかったと思う。罪になったとしても、生きている方がはるかに幸せだったと思う。

 本当はこういうことを書くつもりではなかった。永遠に忘れてしまいたかった。でも、このクラスの人は、きっとそういう僕の過去をも受け入れてくれるだろうと、信じている。


「な、これ、お前が書いたってこと、覚えてるよな。これを嘘っぱちだってことで俺たち、『裏ノート』って奴をこしらえようとしたよな。あれもうちにあるけどな、俺はそんなの持ち出す気ねえよ。あっちの方が嘘八百なんだからしょうがねえだろ」

 ──「裏・ノート」かよ。

 二年前の自分が必死に頭を使って考え出した、保身の術。

 結局はそれも杉浦加奈子に見破られ、元の木阿弥となったわけだが。

 あのことも結局は自然と忘れ去られたはずと、上総は信じたかった。

 それをなぜ、今になっていきなり引っ張り出そうとするのだろうか。

「お前、素直に認めればよかったんだ。あんときに。そうすりゃ、今になってわけわからん二年の女に噛みつかれなくてもよかっただろ。俺も同罪だ。お前にそう言ってやんなかったんだからな。隠すことを手伝っちまったからな。本当だったら全部、事実関係を立村、お前に白状させて、その浜野って奴に土下座する手伝いでもして、すっきりさせて二年に上がればよかったんだな。俺もガキだったしそんなことまで頭がまわらなかったのはほんっと馬鹿だよ。いくら逃げたって、結局は帳尻が合っちまうんだ。俺も馬鹿だけど、立村、お前もほんっとボケだ。なんでこの段階で、きっちりけりつけようとしなかったんだよ!」

「羽飛には関係ないだろう」

 ──だから最初から理解し合えないんだって、どうしてわからないんだよ!

 美里は一言も発していない。ただ見守るだけ。

 何か言いたそうな奈良岡が美里に片手で制されている。

 貴史はただ一方的にわめきつづける。

「そいで今は、こんな風にすべてが裏目に出てるってわけなんだぞ。立村、あと二ヶ月しかねえんだぞ!」

「ああないよな、二ヶ月だよな」

 自分の言葉がどんどん感情を失っていく。そう、あと二ヶ月。

「だったら今しかねえってお前にもわかるだろ! ねーさんじゃねえけどな。お前このままふ抜けたままでD組終わらせていいのかよ! 三年間評議やったお前のプライド、そんなもんなのかよ」

「羽飛、本当はお前が評議委員やるべきだったんだ」

 上総の答えは、これしかなかった。

「最初から、俺は評議委員なんかやるべきじゃなかったんだ。それ、わかっていて受けた俺が悪いんだ」

 美里の方に視線を向けた。これ以上何を話すことがあるだろう。

「与えられた義務は果たす。けど、クラスの本来経つべき奴は、羽飛、お前だってわかっているだろう」

 何を言われてももう教室を出ると決め、一歩廊下へ出た。

 三秒後、すぐに悔いた。


「ばっかやろう、逃げるな、こっち向けよ!」

 廊下を駆け出してしまったのは身の危険を感じた本能からだった。

 他のクラス連中や下級生たちがまだうろうろしているのに気付く間もなかった。

 まさか誰もが見つめているど真ん中で、貴史が上総の名を叫びながら追いかけてくるとは思わなかった。

「いいかげん逃げたって逃げられねえんだぞ、もう、いいかげん、こっち向けっての、立村!」

 ──お前に言われたくなんかない!

 突き当たりそうになる奴を突き飛ばし損ねて一瞬ふらついたとたん、右肩に貴史の手が触れた。払おうとし、振り返ると同時に、左頬へ強烈な痛みを感じた。何も見えなくなり、耳鳴りの中上総は天井が空から壊れて降ってきたようなものを見た。大きな寺の中でたとえば、降り注ぐ瓦礫のように見えた。

 周囲のざわめき、美里の叫び、

「貴史、急所と拳固だけはやめなさいって言ったじゃないの! ばか!」

 りつむらくん、だいじょうぶ? だいじょうぶ? りつむらのやつ、無様に逃げてったのをなぐられてやんの。ばっかみてえ!  あれ、おきられねえの? 打ち所悪かった? やばいんじゃねえの? けどあいつが馬鹿だからはとばの正当防衛になるよね。


 起き上がろうにも頭が割れんばかりに痛くて動けない、何度も腰を浮かせようとしてうまくいかない。一分前まで殺されかねないくらいの気迫で上総を伸していた貴史が、今、側で涙目になりながら、

「立村、大丈夫か、おい、こっち見ろよ、死ぬなよ、なあ、俺が悪かったから、頼むから起きろよ!」

 背中を起こすようにして背負おうとし、保健室に連れて行こうとする。

 ──何を言われても、もう黙っていよう。

 それだけ心に誓い、上総は目を閉じた。

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