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第二部 1

第二部 1



 今年は年賀状もそれほど出さずにすんだ。母に引っ張り出されて師走のお茶会手伝いやら母の年賀状あてな書きをさせられたりとか、せいぜいその程度ですんだ。去年が忙しすぎたのだから比べたところで何にもならないとわかっていても、やはりため息がもれる。

「上総、どこに行く」

「友だちと会う」

 一言だけ父に告げ、外に出た。一晩で膝くらいまで積もった雪が、庭の草木に覆い被さり、丸いオブジェに変えていた。雪かきだけはさっき終わらせた。それなりにお年玉も稼いだ。少しくらいはめはずして遊んでも、ばちは当たるまい。


「りっちゃん、お待たせ」

 自転車で駅に到着したのは朝十一時近くだった。

 まだ正月三が日が終わっていないのに、平気で付き合ってくれる友だちというと、南雲くらいのものだろう。大抵みな、この時期は親戚周りだとか親に付き合って帰省とか、いろいろと気ぜわしいものだという。南雲からかかってきた電話に飛びついたのは、いいかげん新しい空気を吸い込みたかったからだった。

 いつもながら南雲の格好は派手だった。銀のジャンバーに漂白したジーンズ、髪の毛はわざと乱した風にブローされている。かすかに銀粉がかかっているようにも見える。見るからにきらびやかだ。いや、どうみても高校生以上に見える。

「今日はどうする? まずはなんか昼飯、食う?」

「そうだね」

 上総は言葉少なく同意し、駅の奥まったところにある焼肉屋へ向かうことにした。

「りっちゃんなんだかエネルギー足りないから、肉とか食って体力つけたほういいよ」

 南雲の助言も、今は重たい。


 初詣客の姿はほとんどなく、高校生くらいの集団があちらこちらでたむろって居るのが目についた。青大附属の連中がいるかもしれないと危惧したけれども、それは心配なさそうだった。南雲の歩いていく方面はどちらかいうと青大附属の表向きイメージ「優等生」と相反する場所に思えたからだった。小路も狭く、また店も少し重たい雰囲気の通りだった。上総は一人できたことがあまりなかった。

「よくこの辺で遊ぶのか」

「うん、昔なじみの連中とさ。結構陰では俺もワルなもんで」

 青大附属中学・規律委員長の南雲はにこやかに答える。

「けどさ、この辺結構うまい店が多いのと、あまりうちの学校の連中と顔合わせることもないのとでさ、気楽なわけなんだよね。ほら、いろいろ顔合わせるとうるさいじゃん? やっぱ、肩書の重さって言うのかなあ」

 ──肩書の重さ、か。

 もう自分にないものを、改めて思った。

「だけど、ここに来ると軽く、好きなことできるってとこがあるんだよなあ。ま、今日は軍資金もそれなりにあるし、りっちゃん、少しここいらでリフレッシュしましょうや!」

「ありがとう」

 言葉がうまく出てこない。人前でしゃべることがこの秋以降、ほとんどなくなってしまったのだから自然といえば自然なのだけども。

「ほら、あすこの焼肉屋、ランチが五百円なんだけどさ、すっげえ量あってうまいったらねえの。りっちゃんいこ、いこ」

 自分よりもげんこつひとつ背の高い南雲を、上総は黙って見上げた。言い返すことはせず、そのまま黙ってくっついていった。すれ違う男子集団が、ちらと南雲に目を向けて、うさんくさそうな眼差しでにらんでいるのが気になった。やはり、この街でも目立つのだろう。


「さ、食おう、食おう」

 いかにも街の食堂という感じの場所だった。細い小路一本入って、両隣にスナックと飲み屋が並んでいるという場所で、昼間入るのはなんだか場違いという雰囲気だった。南雲曰く、

「でもこういうとこって結構、いまの時間帯、穴場なんだよ」

だそうだ。一番奥の座敷が空いていた。黙ってそこに通された。鉄板に火を入れてもらい、油を引いてもらうのを上総はぼんやりと眺めていた。

「何にする?」

「同じでいいよ」

「じゃあ、お任せ五百円ランチで!」

 手際よくにこやかに注文する南雲。最初ぶっきらぼうだった四十代くだいの女性店員が、思わず微笑んだ。上総の方を一切見ずに、すぐに厨房へ戻っていった。

「あーあ、けどよかったあ。りっちゃんいねかったらどうしようと思ったよ。だってさみんな、どっか行っちまってて遊ぶ奴いねえんだもんなあ」

 鉄板が温まるまでの間、南雲はジャンバーを脱ぎ思いっきり伸びをした。白い荒編みのセーターのみ、さっきまでのワルっぽい雰囲気が消え、どこぞの「白馬の王子さま」に生まれ変わったかのようだった。この姿、青大附属の南雲ファン女子に見せたらすぐプロマイドをこしらえたがることだろう。ぼんやり上総は考えた。口には出さなかった。

「正月って、つまらねえよな。どこも行くとこないし、公立の連中は受験で忙しいって言うしさ。ほんっと淋しいったらないよなあ。な、りっちゃん。肉、来たよ」

 さっきの女性店員が片手に野菜の盛り合わせ、もう片方に切り落とし肉の山を抱えてもってきた。南雲に笑顔で「先に野菜を焼いたほうがいいですよ」と一声かけ、上総を一瞥した後また戻っていった。

「じゃあどんどん焼こうよ焼こうよ。まずは、野菜からだなあ。俺、野菜よりも肉食いたい気分なんで、りっちゃんが遠慮してたらさっさと取るから、その点ご覚悟のほどを」

「いいよそれで」

 また簡単に答えると、上総はおずおずとキャベツとにんじんの千切りを黒い鉄板に並べていった。一枚ずつ丁寧に肉を並べていき、箸を持つ手を止めた。

「最近、あの人とは会ってないのか」

「あの人?」

 上総が指した「あの人」とは、決してクラスメートの奈良岡彰子でない。

 すぐに勘付いたのか、南雲は大きく頷いた。

「あの人はさ、今正月にやってるどっかの応援で駆りだされてて留守」

 ──チアリーダーやってるんだよな。

 去年、何気なく聞いた話を思い起こし、上総は黙って肉をひっくり返した。まだ赤く、火が通っていなかった。


 食欲旺盛な南雲に追いつかず、上総は結局野菜だけにとどまった。 

「あーあ、俺ももう腹いっぱい。けどりっちゃんなんも食わないのはなんで?」

「食欲ないから」

 焼肉のタレにたまねぎをつけ、残りの野菜を処理することに専念した。もちろん全く食べたくないわけではない。ただ、どうしても肉に手が伸びなかった。腕が重くてならなかった。

「そうなんだあ。ま、俺は遠慮なくいただいたんで、あとは全部食っていいよ」

「うん、食べるよ」

 腹いっぱいといいながら、さっきの女性店員さんに、

「すいませーん、アイスクリームお願いしまーす!」

 なんて注文している南雲の胃袋、どうなってるんだろう。

「それにしてもさ、公立の奴らほんっと大変みたいだよなあ」

「らしいな」

「三月六日が公立高校の受験日だったっけ?」

「そう、二月十五日が青大附属高校の受験日」

「そうだよなあ」

 南雲はさっそく届いたバニラのアイスクリームをさくさく食い始めた。

「ま、俺たちは三年前に地獄の受験を終らせたおかげでただいま楽な日々を過ごしているわけですしねえ」

「三年前?」

「そ。俺もあの時ばかりは、まじで勉強したからなあ。塾にまで行ったよ」

 小学六年のお正月は確かにそうだった。上総も母・沙名子によってびしびししごかれつつ、泣きじゃくりながら机に向かったことを思い出した。あまり、楽しい思い出ではない。

「ご存知の通り、俺は高校進学後、地獄のような男子寮生活に入るわけだから、せめて三学期は思いっきり羽を伸ばしたいと思ってるわけ。りっちゃん頼む、お遊び、付き合ってちょうだいな」

「付き合えるところまでなら」

 さくさく、たまねぎとにんじんをかみ締める上総。

「けどさありっちゃん、英語科に決まったのはいいけどさ」

 南雲はあっという間にアイスクリームを食い終わり、上総が手をつけようとしていた野菜にまで手を伸ばした。食欲、留まることを知らない。

「古川さんとも一緒だろ? うわあ、りっちゃんしっかり姉さんに仕込まれそうだなあ」

「図らずも、だな」

 去年の十一月、青大附属高校・各学科へ、三年全員それぞれの行き先が発表された。

 上総が英語科に進学できたのは周囲からするとむしろ当然、というところがあったらしくそれほど驚きもなかった。むしろもうひとり、あの「下ネタ女王」古川こずえがしっかりと英語科切符を手に入れたことの方が衝撃だったらしい。確かに英語の成績は悪くなかったのだが、それでもまずは友だちの多い普通科に進むだろうと思われていたのだが。

「古川さんにその点インタビューした?」

「なんで、とは聞いたよ」

 英語科に行くということは、またも上総と三年間同じクラスになるということとなる。高校の先輩から聞いたところによると、普通科の場合は毎年クラス替えがあるらしい。しかし英語科の場合は一クラスしかないこともあって、自動的に持ち上がりとなる。

「単純に、外国へ留学したいからなんだって言ってた」

「まさか海外の裏ビデオとかチェックしたいってことじゃあないかねえ」

「その辺はわからないけど」

 ひとりで大笑いして、南雲はにっこりしたまま上総に尋ねた。

「あとさ、英語科行く奴って誰だっけ?」

「よくわからないよ。たぶん英語で学年十位以内に入る奴はみな、自動的に流れるんじゃないかな」

 上総の覚えている範囲内で言うと、A組の片岡、B組の藤沖、あとはわからない。またもうひとつ付け加えると、

「もし水口が試験滑ったら、自動的に組み込まれるという噂も聞いているよ」

「ああ、あいつなら大丈夫だろ、あっさり受かるに決まってるって」

 それまで上機嫌だった南雲が、いきなりがりりとキャベツに食いついた。口の中をもごもごさせながら呟いた。

「あれだけびっちり、勉強してる奴がな」

 ──奈良岡さんとな。


 南雲が現在ほれ込んでいる恋人が、同じクラスの奈良岡彰子であることは周知の事実である。その一方で心が冷め、二学年上の女子先輩と付き合っているというのは影での事実でもある。上総は昨年の七月前後からそのことに気付いていた。同時に南雲からもそれらしいことをちらと匂わされた。

 ──うっかりここで奈良岡さんを振ることになると、今度は他の女子たちからのアプローチが激しくなるし、一度は惚れこんだ奈良岡さんに苦しい思いをさせることにもなる。いろいろ考えた結果、卒業までは現在の関係を「演じて」いくつもりなんだろうな。

 上総なりに南雲の説明を聞かせてもらい、納得した。

 もっとも奈良岡彰子は一切勘付いていない様子で、毎朝笑顔で「あきよくん、おはよ!」なんて言いながら手を振っている。もちろん南雲も「おはよっす!」と返し、取り立ててトラブルはない。上総からしたらずいぶん見え透いたことしているもの、そう感じるのだが肝心の奈良岡彰子は全く想像すらしていないらしい。

 現在、こっそり交際しているらしい二年の女子先輩とは、青大附属から離れた場所で会い、喫茶店で話をしたりしていると言う。やはり知り合いと顔を合わせるといろいろと面倒だということもあり、いわば日陰の付き合いだ。このあたりの事情については上総もあまり詳しいことは聞いていなかった。聞く必要も今のところは取り立ててなかった。

 関係あることといえばひとつだけ。奈良岡彰子が二月中旬に医学部進学専門の高校へ進学が決まれば、きれいにフェードアウトになるだろうということ。そして奈良岡彰子と一緒に同じ学校を目指し、日々ガリ勉に燃えているのが、かつてのクラスの赤ん坊・水口要だということも。ほとんどの生徒がエスカレータ−式で青大附高に進学決定している中、ふたりは手と手を取り合い図書室で理数系の問題集をにらめっこしている。

 自然と、南雲もその場に入ることなく「見守り」ポジションのまま、楽な位置につけている。


「そういえばさ、本条さんと正月会ったんだよなあ」

 口を手で拭いながら、南雲は茶をすすった。頼みもしないのに今度はお茶が出てきた。まずは南雲に、そして上総には湯のみの底が濡れた状態でどすんと置かれて。

 ──本条先輩か。

「あの人も演劇部の雰囲気が性に合わないって言ってたんだよなあ。なんでも高校演劇の世界ってお約束ごとが多いのと、コンクールが目標になっちまうからどうしてもつまらん台本を選ぶ羽目になっちまって、なんだかうんざりしたんだと。で、これからなんか別のことやろうってことで、二学期終了後、退部届を出してきたんだって。りっちゃん、聞いてた?」

 上総は首を振り、そのまま目を焼肉のタレに受けた。油が浮いていた。

「そっか。やっぱりそうだよなあ。一度青大附中・評議委員会仕込みの乗りを経験したら、そう簡単に妥協はできねえよなあって俺も思うよ。ほら、本条先輩の『忠臣蔵』すげかったもんなあ。衣装もセットも手作りとはいえ本格的だったしさ。ビデオカメラだってばりばりだったしさ」

「ああ、あれ、結城先輩の家で用意してくれたものばかりだったから」

 二学年上の評議委員長だった結城先輩は、芸能プロダクションかなにかを手がけている家の息子だとかで、なぜかその手の設備は整っていた。原因はいまだにわからない。

「それがさ、本条さんいうには、まず高校演劇の場合『感動・お涙ちょうだい』この路線で行かないと青潟地区の大会を突破できないんだって。よそはどうだかわからないけど、とにかく反戦ものだとか、もんぺはかまはいたような物語が受けるんだと。本当は本条先輩、とことんテレビドラマチックなエンタメを目指してたんだけど、そんなことしてたら制限時間一時間ばりばり越えちまうし、それ以上に審査員受けが悪いってことで即却下。部員もみんな、やっぱ、地区大会優勝したいだろってことで当然、同意。本条さん孤独、ってパターン」

 ──本条先輩が孤独?

 絶対にありえないパターンに思えた。

「まあ、話聞いてみるといろいろあったみたいだよ。やっぱし裏方の技とかそういうのは青大附属上がりの本条さんの方が断然分があったみたいだし、かといって他の部員たちからしたらそういうのは目の上のたんこぶみたいなもんだしってね。俺もそのあたり、わからないわけじゃあないけどさ。想像つかないよ。本条先輩が、舞台の上でだらだら涙流しながら、『戦争はいやだー!』なんて叫んでるところなんでさ」

 ──絶対に、考えられない。

 上総は頷いた。呟いた。

「それならこれから、どうするつもりなんだろう」

「さあ、だからさ、俺も言ったの。『本条さんそれだったら、今度生徒会あたりに立候補して、かつての青大附属評議委員長としての敏腕振るったらいかがっすか』ってさ。そしたら、なんか歯切れ悪くてさあ。やっぱり、いろいろあるのかなって思った次第」

「いろいろ?」

「やっぱし青大附属とは全然、立場も状況も違うみたいだしさ」

 南雲はそれ以上詳しいことを言わなかった。上総からしたら初耳のことが多かった。でもそれほどショックは受けなかった。すでに十一月以降、上総は本条先輩から連絡を断っていた。義務的に年賀状だけは出したけれど、返事はなかった。もう、一介の評議委員に降りた自分には、もう本条先輩に現在の評議委員会状況を説明する義務はない。


「じゃあ腹もいっぱいになったとこでさ。その辺のゲーセンにでも行ってみる? ばしばしとシューティングでもやってみるとかさ。かなりストレス解消になると思うよ」

 南雲が膝を崩し、お茶を飲み干そうとしている。

「この辺にあるのかな」

「あるよ。ただこの辺ってさ、ちょっと怖い人も多いから駅の方に戻った方がいいかもなあ」

 通ってきた道を思い返してみた。やたらと饐えたにおいのする小路の道端。なぜか店の裏口が目立つ通り道。その中になぜか違和感を感じさせる、ピンク、もしくはオレンジ色の建物。冬なのにミニスカートでうつむいてあるく女性たちを数人見かけた。

「なぐちゃんひとつ聞きたいんだけどさ」

 厨房で上総たちの様子を伺っている女性店員に聞こえぬよう、上総は前かがみになり南雲の耳まで口を近づけた。

「あのやたらと立派な建物あるだろ、あそこどこ」

「ああ、りっちゃん知らなかった? 本条さんも連れてきたことないの?」

 南雲の返事は、上総の予想していたものとほぼ同じだった。

「いわゆる連れ込み、ラブホテルって奴」

 さらりと、なんのてらいもない。食事した後でよかった。全身が妙に熱くどきまきしてしまっても、変に思われないですむ。上総の顔を不思議そうに眺めたあと、南雲は片膝を立てたまま、

「見かけは立派だけどさ、部屋は修学旅行の時使ったホテルの方がずっときれいだと俺は思うなあ」

 ──比較、してるのか? それ以前に、使ったこと、あるのかよ?

 相槌が打てなくなった上総に、南雲はにっこり続けてくる。いつもの南雲の口調で軽く、

「たった二時間で三千円もするなんて、もったいないよなあ。ここの定食六回分食えるじゃん」

 ごちそうさま、そう言って手を合わせ、一礼した。


 ──経験してるんだ。

 南雲に促されて五百円払い、雪解けでびちゃびちゃした通りを歩いた。

 靴は大雪に備えて底の厚いスニーカーで決めてきた。歩くのに支障はない。

 冬の晴れた空からはかすかに細かい雪が舞い降りてくる。でも冷たさを感じるほどではない。

 上総はそっと自分のコートを羽織り直した。なんだか身体の中で何かがはじけてくるような感覚があった。南雲の歩いていく方向には、話題に登場した例の「ラブホテル」が並んでいるのが見えた。まだ昼過ぎたばかりのせいか、入っていこうとするものは誰もいなかった。そこの従業員らしい男性たちが雪かきしている姿だけだった。

「あのさ、なぐちゃん」

「ほいな」

「こういうところって、入る時、どうなのかな」

 目でちらちら見ながら、変に思われないよう上総は尋ねた。

「やはり、いろいろと年齢チェックとかされるよな」

「されないよ、よそはどうだかわかんないけど、俺はされなかった」

 ──俺は、って、やはり?

「ってかさ、こういうところって、顔が見えないようになってることが多いんだよね。お金を払うところだけ、手が出てくるんだ。そうだなあ、縁日のお化け屋敷みたいな乗りなんだよね。それであとは部屋を選んで、GOって感じで」

「中はどうなってるのかな。やはり、この前の修学旅行と同じ感じなのかな」

「そうだなあ。天井に鏡が貼り付けられてたり、あとやらしいビデオの番組を見ることができたり、そのくらいだよ、違ってるとこは。あ、そうそう。風呂はすっごくでっかい。足思いっきり伸ばせてその点はいいかもしれないよ」

 南雲の口調は実にあっさりしている。ちっともねばっこいところがない。たぶん目の当たりにした正直な感想なのだろう。

 ──それを受けてる俺の方が、ずっと汚い奴じゃないか。

 もう一度振り返り、ピンク色の建物を眺めた。すぐに目をそらし、足元を見つめた。

「時間的には、二時間くらいなのか」

「それ以上いると延長料金取られるしね」

「それですべて間に合うのか?」

 言葉に詰まった様子の南雲が、上総をいぶかしがるように見る。

「すべてって、ああしたりこうしたりってことだよね」

 湿気のない言葉だからこそ、頷くことができた。南雲はすぐにやわらかく答えてくれた。

「終わるよ。まあ、俺もよく入ったのが去年の夏前までだから、あまり先輩っぽいこと言えないけど。たまたま年上の人だったってのもあるのかもなあ」

 ──年上?

 もしや、あの、例の先輩とだろうか? 足がすくむ。

「あ、違う違う。通りすがりの人だったけどね。今思えば俺もずいぶんとんでもないことやっちまったなって思うよ。けど、まあ、することは基本的に同じだってことわかったし、だからどうってのもないしさあ」

 ──通りすがりの人?

 いくらなんでも正月真昼間からするような話題じゃない。

 声が出ず、動けないまま上総は南雲をじっと見上げていた。

「おーい、りっちゃん、どうした?」

 呼びかけるように、おだやかに南雲が声をかけてくれたけれど、上総にはそれに続く言葉が見つからなかった。


 ──やっぱり、みんな、経験してるんだ。

 中学三年、十五歳。決してありえないことではない。

 実際、修学旅行二日目朝にも、評議委員仲間の天羽から経験者としての感慨を打ち明けられていた。天羽の場合は中学二年の夏だったという。相手は当時入会していた宗教団体の女性信者で、三十四歳だったという。ちなみに上総の母と同じ歳。そちらの方にまず、衝撃を受けたことを覚えている。

 天羽の場合はその後の宗教団体脱退よしなも絡み合っていて、事情を聞く限りしかたのないことだったのではという気がしていた。目の前でふたりきり、露骨に誘われたとしたら、大抵の男子は落ちるだろう。

 しかし、南雲の場合は違う。

 街を歩く見知らぬ女性と、自分の意志でもって、ピンク色の建物に入り、二時間それなりのことをしたという。しかも、一度や二度ではないという。

 本条先輩くらいだろう、そういう奴は。今まではそう思っていた。

 でも、今、上総の周りではごく自然と、みな、自分なりの肉体的元服式を迎えている。

 自分が知らないだけで、もしかしたら他の連中も、どこかで。

 ──取り残されてるのかよ。 


「なぐちゃん」

 ようやく歩く気力を取り戻し、上総はコートの襟を閉め直した。

「経験した後、何か感動みたいなの、あったのか」

「感動?」

 戸惑いつつも、一度「そうっすねえー」と呟き、南雲は空をまっすぐ見上げた。銀粉のかかった髪の毛に、少し大きめの雪が降り、すっと溶けた。

「理屈じゃないなってとこかなあ。ほら、やっぱりその時の格好が格好だろう?」

「格好?」

 すぐにイメージしてみる。

「なんてっか、『こんなもんかな』ってのと『俺は男なんだ』ってのとが入り混じったみたいでさ、もう何が起こってもどんとこい、って自信とさ」

「自信?」

 感情の繋がる意味がますますわからない。上総の顔にそれが現れていたのだろう。南雲はかすかに笑い声を立てた。

「変な言い方だけど、いろんなしがらみから自由になった。それが一番大きいなあ」

 ──自由。

 

 しばらく南雲と一緒にゲームセンターでふらふらした。やはり青大附属の生徒とすれ違うことはなく、かといって怖いお兄さんたちとぶつかることもなく、言われるがままにゲームに興じていた。

 一番恐れていたのは本条先輩と鉢合わせすることだったが、それもなかった。

「りっちゃん、俺、コーラ買ってくるけど、どうする?」

「同じでいい、頼む」

 南雲に百円玉を渡し、上総は外のガードレールに腰かけた。食事してからまだ三時間くらいしか経っていないのに、もう夕暮れ、薄暗い。雪もまた一降りしそうな気配がした。煙草のにおいと熱気で酸欠すれすれだった上総には、外気の冷ややかさがむしろ心地よかった。コートを着たまま、まだ残る汗の滾りを感じていた。

 ──天羽も、なぐちゃんも、みんな、自由なのか?

 ひとり、心に問うた。

 ──だから、俺みたいなどうしようもない奴に、よくしてくれるのか?

 年越し前、終業式後、三年男子評議と顔を合わせた時のやり取りを思い出した。

 ──こんな奴を、今でも立ててくれてるのか? もしかしたら新井林も、だからそうなのか?

 そうだろうきっと。上総が天羽の立場だとしたら、とてもだけどそんな余裕は持てそうにない。すでに天羽は後期評議委員会を自分なりのベストに組み替えした後、評議委員会のプライドを持って生徒会側と接触している。杉本を含んだ生徒会役員立候補直前のトラブルも、天羽には直接関係なかったこともあり、全く問題も起こらず進んでいるようだった。「ようだった」と推測の表現しかできないのは、上総がすでにその事情を知ってはならないと戒めているからだった。顧問の先生からもたまに、

「立村、お前、余計な口出しするな。天羽の自由にさせてやれ」

 そう助言されたりもする。自分でもそのくらいわかっている。でも、どうしても前期評議委員長としていろいろ感じずにはいられない。つい、

「本条先輩だったらこうしてるかもしれないな、どうかな」

とかささやいてしまう。もちろんあとで、自己嫌悪。天羽が笑顔で

「まあいいってことよ。立村ちゃん、どうもな!」

と受け止めてくれるたび、自分の脆弱な心に腹が立つ。

 新井林も、上総が評議委員長から滑り落ちた段階で、一切つっかかってこなくなった。眼中にない、といえばいいのだろうか。天羽の判断で副委員長に置かれていることもあり、ポストそのものに不満はないようだった。もちろん佐賀はるみの生徒会長という現状には複雑なものもあるようだが、もともと委員会自体が三年生の仕切りとなっている以上実質的な次期委員長であることには変わりない。上総にも、一礼をする程度の礼儀はわきまえてくれているようだし、それ以上のことを求めはしない。天羽も新井林にはそれなりの凄みを利かせて接しているようだし、上総が口を出す必要は一切ない。

 そして南雲。現在、規律委員長。当然再任。

 「青大附属ファッションブック」冬号を発行し、その一方で規律委員会なりの仕事もきっちり行っていた。学校内の制服規律についての生徒たちの不満、および教師たちの主張、それぞれをまとめたアンケートを行った。その上で壁新聞をこしらえ、生徒たちからファッション画を募集、「別冊・青大附属ファッションブック」を発行しようとしている。教師受けのする行動と同時に、自分らのやりたいことをしっかり行っている。

 これは南雲の女子受け人気におんぶしたものではなく、「規律委員長」としての南雲の手腕を評価したものだった。二学期終了段階において、南雲規律委員長は歴代規律委員長の中でも歴史に残る存在として記憶されるのではないか、そうささやかれている。

 かつての、本条評議委員長のように。


 やはり、彼らはそれなりに「自信」を持っているからだろう。

 上総がどんなに欲しくても、手に入れられないものを確固とつかんでいるからだろう。

 でもどうすれば、それが手に入るのだろう?

「立村なんかが落ちるのは当然よね。もともと他の先輩たちも天羽先輩を一押しで評議委員長にしたいって言ってたんでしょ? それを本条先輩が無理強いしたんでしょ? やはりあるべきところにおさまってるのよ、みんな」

「ううん、根本的にね、なんで一年の段階で立村が評議委員に選ばれてしまったかってのが一番の謎なのよ。順当だったら羽飛だよねえ。それがどうして回りまわって立村になったのかってのが、不思議」

「自分に親切にしてくれた相手を逆恨みして、闇討ちして、それで平気な顔して青大附属に入学してくるんだもの、最低よね。まあ退学させる必要はないかもしれないけど、本来入るべき人がひとり落とされているってことは、自覚してほしいよねえ」

 同級生、同学年、下級生、すべての女子からささやかれている言葉が、聞きたくなくても耳に入りこだました三ヶ月間だった。クラスの男子たちが今まで通り接してくれるだけでもありがたいことと思わねばならないのに、なぜ女子たちの態度をさらりと流せないのだろう。やはり、自信がないからだろう。自信なんて、どこで手に入れればいいのだろう? どこかで買ってこれるものでもなし。いや、

 ──もしかしたら、手に入れられるのか?


 上総は缶コーラを二本握り締めて戻ってきた南雲を、立ったまま迎えた。礼を言って受け取り、口をしめし、

「あのさ、なぐちゃん」

 舌にぴりぴりくる感覚を、全身に広げるように感じながら、

「どうやったら、通りすがりの女の人と、そういうこと、できるのかな」

 小声で尋ねてみた。

「ええっ?」

「きっかけはやはり、こうやって、歩いている人に声かけて、お茶を飲んで、それからあそこに向かう、って感じなのかな」

 言葉もなく、ただ唖然と見つめている南雲を、上総はもう一度しっかり見返した。

 

 上総の真意をどこまで察したのかはわからない。ただ、断るにも断れないものを感じたのは確からしかった。しばらく口篭もった後、

「あれ、持ってる?」

 まず必需品の確認を上総にした。

「あれって?」

「だから、いわゆるエチケットの、あれだよ」

 まさか、今思いついたことなのだから、準備なんてしているわけがない。南雲はため息をついた。

「じゃあ、それを手に入れてからでないと無理だよ。だって、どんな相手かわからないんだしさ。やはりそれは男側としてのエチケットではないかなと」

「どこで売ってる?」

 上総はすぐに切り返した。もし南雲の話している相手が本条先輩とか天羽とか難波だとしたら、即、「じゃああれ、買ってくるか」と楽しく行くだろう。なんだか南雲の態度は、上総にその行動をあきらめさせようとしているように思えてならなかった。それが癇に障る。

「自動販売機、あるのかな。それとも薬局に行ったほうがいいのかな」

「薬局行くと、顔がばれるけどなあ、りっちゃん、それでもいい?」

「かまわない」

 言い切った。南雲より前に歩こうとして、一瞬滑りそうになる。慌てて追いかけてきた南雲に肩を捕まれた。ポケットから一枚、ビニールに入ったうすっぺらい包みを渡された。

「りっちゃんそんなにあせりなさんな。わかったわかった。俺、持ってるから一枚やるよ」

「でも、それはまずくないのか?」

「今は使うことないしさ」

 ──相手探し、急ぐ必要ないもんな。

 毒づきたかったけれどもそれはこらえた。南雲も、本条先輩も、新井林も、そういう経験ができる相手に不自由することはないだろう。自分がそうしたい、男としての自覚を味わいたい、そう思った時にすぐ手を伸ばせるだけの自信にあふれている。

 でも上総はそうではない。

 どんなに英語の勉強をしても、天羽や南雲や美里に気遣いされても、得られないもの。

 今、この勢いがなくては、きっと永遠に手にできないだろう。

 一瞬でいい。本当に、今だけでいい。

 ──その記憶さえあれば、俺は生きていけるかもしれない。


 夕闇は濃くなっていていた。だんだん身体の奥から冷え切り、凍っていきそうだった。

 上総は南雲とふたり、さっきの焼肉店近くに位置するナイトクラブ通りで、ガードレールの上に座っていた。こうしているとなんとなく、自然と声をかけてくるのだという。

「たぶん、ひとりかふたり、声かけてくると思うよ。青潟でも有名なとこだしさ、ここ」

「有名なのか?」

 南雲は大きく頷き、小指で隣側のカップルを指差した。顔は見えないので年代はわからないが、女性が高校生っぽい男に声をかけたらしく、なにやら盛り上がっている。

「どうもあの二人も、逆ナンパされたばかりみたいだしさ」

「逆ナンパ?」

「俺たちは女性たちに選ばれるのを待ってりゃいいの。そうしたら軽く声かけられて、食事かなんかおごってくれるかもしれないしさ。その段階でどうするか、りっちゃん判断すりゃいいよ」

 じゃあひとりで待ってるよ、そのくらい言えればいいのだろう。

 そのくせ、南雲が一緒にいることにほっとしているなんて、軟弱もいいとこだ。

 ──こんな奴だから、俺は。

 上総はポケットの中に手を突っ込み、もう一度ビニールに包まれたものを握った。使い方は知っている。家にも父からほとんど手付かずのまま渡されたものがある。そして、その時の快感がどんなものかも、ある程度想像はつく。ただ目の前できちんと、手順通り進められるかどうかが心配ではあった。

「まあ、ナンパされたあと、ほんとにお茶おごってくれるだけかもしれないし、話合わないなと思ったら逃げればいいし。そんなもんだよ」

「でもそういうのって、立場としては反対なんじゃないか?」

「そうでもないよ。あまりおおっぴらには言えないけど、俺たちくらいの年代好きなおばさん、結構多いんだよ」

「三十代以上?」

「も、いるね」

 ──母さんより年上の歳の人だったらいやだな。

 せめて、二十代であることを祈りたい。

「けどさ、りっちゃん、いやだったらやめにしようよ」

「いや、いい」

 唇をかみ締めた。こんなことだったらもっときちっとしたスーツを着てくればよかった。今日上総が選んできたのは、ネルの青いチェックシャツに、厚めのチノパンだった。

 

 お声かかりは思ったよりも早かった。ちょうど街のネオン放送が入れ替わった頃だった。南雲の方に、ベージュのロングコートを羽織った女性ふたりが立ち止まり、手招きをしていた。ただ明らかに南雲目当てだというのはありありと伺えた。

「なぐちゃん、呼ばれてるよ」

「ああ、黙ってこっちにくるのを待とうよ。こっちから行くと、いかにももの欲しそうに見えるし。やっぱしこの辺は、臨機応変で」

 南雲は落ち着いている。全く慌てる気配がない。そのくせしっかりと女性の品定めはしている。年代はたぶん二十代前半、OLさんらしい。かなり金かけてる格好らしい。髪の毛も巻いているし、たぶん本命の彼氏探しっぽい。

「ま、最後まで行くとは思えないけど、友だちになるのだったらそれでもいいかな、って感じだよね。もし声かけられたら、一緒に行くか?」

「最後まで行かなくても、いいのか?」

「うん、それでもいいじゃん」

 ──俺はそうもいかないんだけどな。

 したくてならない、そういう気持ちがあふれているわけではない。

 そういう感情はむしろ、ひとり部屋の中に篭っている時の方が強い。

 ただ、このままだったら自分が何もできなくなる、怖いのはそれだけ。

 このまま三学期が始まり、他の自信持った男子たちに圧倒されたくない。

 せめてそのための、烙印がほしい。

 上総の思いをどこまで汲み取ってくれたのかわからないが、南雲はひょいとガードレールから飛び降り、彼女たちの元へ近づいた。最初、もの欲しそうに見えるから近づかないとかなんとか言ってたくせに、結局は近づいていった。上総も一緒に行こうとしたが、南雲に手で制された。

「いいよ、りっちゃん、ちょっと待ってて」

 待つ間もなく、その女性たちは南雲めざして二人、通路の真中に立ちそこで一度、上総の方に目を向けた。次に南雲に。そして最後に南雲に「交渉」し始めた。

 二、三分くらいだろうか。交渉は決裂したらしい。南雲に名残惜しそうな流し目を送り、最後に上総の方を見てふたりは聞こえよがしにささやいた。

「だめよ、ひとりが高校生でも、あの子明らかに中学生じゃないの。犯罪よ、犯罪」


 上総は夜の街に背を向けた。南雲にも呼び止められなかった。

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