第一部 13
第一部 13
一応、本条先輩から「万が一」に備えて、複数候補者が出た場合の対応についてはメモに残していた。立候補者が予想に反して二人以上となった場合は、まず予備投票を行い上位二人に絞り込むこと。その上で一騎打ち、結果を出す。
──もし、予備投票の段階で圧倒的にひとりが引き離していたら、それで決めてもいいんじゃないでしょうか?
──だからお前は甘いっていうんだよ、よく聞け。
頭を小突かれながら、上総は本条先輩の話を聞いた。
──いいか、仮に一人勝ち状態だったとしてもだ、票が分散されるってことは、やっぱり票数が細かくなっちまうってことだろ? 大抵、立候補者は自分に票を入れるから、よっぽどのことがない限りゼロってのはありえんわけだ。百パーセント納得済み、って結果ではないっつうわけだ。
よく理解できなかった。もともと上総は数字に弱いのだ。
──人間、三人以上分散しているとあっちゃこっちゃ迷っちまうけどな、二人にびしっと絞ったら、あとはイエスかノーかのどちらか選べばいい。二者択一の方が、判断もしやすい。数字もはっきりと分かれる。となるとだ。
本条先輩は上総を何度もちらちら見ながら、
──お前、本当に理解してるのか?
繰り返した。
──よくわからないです。
──まあいっか。しゃあねえな。そんなことはまずねえと思うし、そういうやり方もありだってことで認識しとけ。つまりだな。
全く不安材料もないって顔で本条先輩は続けた。
──どうせそれほど僅差の結果になるなんてこたあねえよ。二者択一の場合はまず、ひとり強い奴に票が集まる。圧倒的多数ってことになったら、十分周囲に見せしめができるってわけだ。つまり権力を握った奴が誰かをしっかり念押しする役割を果たすってわけだ。選挙ってのはな。とにかく、ここで俺に逆らうものはただじゃあおかねえ、そういうことを評議委員全員に伝えるってのが、決戦投票一騎打ちの心よ。
全く理解できないまま、聞き流していた。
どうして天羽、難波、更科はそのことをしっかり覚えていたのだろう。
わからない。上総は黙って閉じたままの「評議委員会ノート」を見下ろした。
「では、開票、更科頼む」
「それでは行きますよ、えっと、立村、新井林、立村、天羽……」
よどみなく更科が、小さな箱に収めた評議委員全員の票を広げつつ、候補者の苗字を読み上げていった。難波が聞きながら「正」の字を黒板に書き込んでいく。二年男子たちが露骨に聞こえる声で、
「だから新井林、やめとけっていっただろうがよ!」
「なんで下克上やりたがるんだか、黙ってても来年委員長だろが」
おそらく他の評議委員たちも納得の理由を挙げ、責めている。
「うるせえ」
沈み込んだ声で、それでも新井林は言い返し、唇をかみしめたまま黒板を見上げた。三年連中の並んでいる列を眺めようとはしなかった。
一方、一年評議たちの様子をうかがうと、なんだか戸惑っているようにも見えた。
──半分、新しい面子に代わっているもんな。
上総がざっと見わたした段階で、知らない顔がだいたい半分くらいいた。
──やっぱり、「評議委員部」としての機能はなくなってきてるんだよな。
二年評議も、男子はともかく女子の顔ぶれが全員前期とは異なっている。2Bのように、佐賀はるみの離脱というのもあるだろうが、それにしても、新入りさんの多さはなんだろうか。
「えっと、立村、新井林、立村、天羽、天羽、天羽、立村……これでOK」
「ということで、結果は明らかだな」
──新井林健吾 二票
──天羽忠文 十一票
──立村上総 十一票
難波は腰に手をやりながらめがねのつるを指先で持ち上げ、
「予備投票の結果、立村と天羽が同数ってことで、決戦投票に移ります」
同時に轟さんが手早く、第二の投票用紙を先頭席に配っていった。
隣の美里は轟さんを鋭い目つきでにらみつけている。気になるが今口を聞くべきではない。美里だって言ったではないか。「今日はあんたと口利く気ないから」って。
天羽が両手をぱん、と打った。
「みなさん、どうもありがとうござんす。十一票、十一票、二票かあ。これはかなり厳しい戦いになりますぜ旦那、どう近江ちゃん、俺もなかなかやるだろ?」
「どうだか」
また無関心な態度に戻った3A評議の近江さんは、頬杖をついたままくるっと美里に顔を向け、
「みんな、ひまよねえ、清坂さん、終わったら一緒に帰りましょ」
さらっと笑顔を見せた。すぐに机に向かい決戦投票用の紙に向かい、書き込みを始めた。
上総は新井林にじっと意識を向けた。目だけではなく、喉の奥から呼びかけるようにしてみた。新井林、お前、どう思う?と。テレパシーを使う能力が上総にはあるわけない。全く身動きしないままの新井林、じっとうつむいたまま、拳骨をこしらえ、二度、こつこつ椅子を叩いていた。それでも露骨に天羽や上総に向かい噛み付いてこなかったのは落ち着いていた証拠だろう。二年評議たちが、
「しゃあねえだろ、来年があるだろが。それにお前、冬場バスケ部の方を優先するって言ってただろうが!」
などと慰めの言葉を掛けている。様子を見る限り、二年連中の票はほとんど、天羽か上総に流れたと判断していいだろう。これは一種の義務だ。無記名が原則であっても、名前をシャープで書く以上は、筆跡がしっかと残る。すぐに投票用紙を処分するとはいえ、更科と難波は誰に入れたかをしっかり覚えている。口が堅いとは言いがたいあのふたり、これからの評議委員会において天羽派、立村派、新井林派という風にチェックを入れるに違いない。特に難波、あいつはまさに青大附中のシャーロックホームズ。筆跡鑑定はお手の物。
──難波が開票に回ったことで、救われたんだろうか。
天羽が上総に振り返り、さっきの近江さんのように一声、
「立村くーん、終わったら一緒に学食しましょ!」
品を作って呼びかけてきた。気色悪い、やめろと言いたいところだがそんな気にはなれない。無言で上総は無視しておいた。
「それでは、次の決戦投票、みなすべて書き込んだら、この箱に入れるように」
難波がティッシュボックスを指差した。その脇にまとめてあった予備投票用紙を素早く丸め、数回破ってごみ箱に捨てた。
更科が腰をかがめてまず自分の投票用紙を四つ折りにして入れ、それをもったまま一年、二年、三年の列をめぐりはじめた。
上総は投票用紙に、「天羽忠文」と書き込み、黙ってそのまま入れた。隣の美里も一心不乱に書き込んだ後、はっと顔を挙げ、
「ちょっと、更科くん」
堅い口調で呼びかけた。
「なに?」
「次の開票作業やるの、誰?」
「ええと、俺たちだけど、なんか?」
「それってまずいと思わない? 連続して同じ開票係っていうのは、私納得いかない」
美里は立ち上がり、更科の持っているティッシュの箱を引ったくると、そのまま教壇まで向かった。待ち構えていた難波は、自分の投票しようとした用紙を慌てて四つ折りにし丸めた。
「難波くん、投票したら?」
「なんで清坂、お前が割り込んでくるんだ? 俺たちだと納得いかないのか」
「いかないわけじゃなくって、公平な選挙だったら男子だけじゃなくて、女子も入るべきだと思うんだ、だから、次、私やりたいんですけどいいですか、先生?」
──顧問を混ぜるか。
美里の場合、青大附中の教師には受けがいいのをうまく利用し、困った時には顧問に一声掛けるという技を持っている。小学校時代は羽飛とコンビ組んで担任教師とトラブルばかり起こしていたらしいが、上総からしたらそんなの信じられなかった。現に、今も、存在を忘れられていた顧問を交えることで、自分の立場を強化しようとしている。
上総には死んでもできない裏技だった。
「そうだな、清坂。男子だけだと平等でないよな。よし、じゃあ清坂、あと誰と組む?」
「近江さんは?」
すっと轟さんが片手を上げた。美里は首を振った。
「悪いけど、琴音ちゃんは難波くんたちと同じ立場にいると思うんだ。全く関係ない人とやるべきだと思う」
「けどそんなこと言ったら美里も」
すぐに言い返した轟さん。その声が上総には妙にはっきりと聞こえた。普段だと歯の間から不調和な息が洩れて、卑屈に見えてしまい損をすることが多いのだが。やはり美里と轟さんとの間には何かいざこざがあったに違いない。あとで、轟さんに聞いてみる必要がある。
「いいわよ、私そんな面倒なことしたくないし。ひとりでやっていいんじゃないの? 轟さんでも」
「ううん、でもそっか、いきなりじゃ面倒よね。わかった、じゃあ私、一緒に開票する人を指名しますがいいですか?」
言葉を一度止め、美里は難波に教壇をおりるよう、人差し指で地面を指した。
「ああ? どういうことだ? 俺にどうしろっていうんだ」
「難波くん、悪いけど早く投票して席に着いて」
有無を言わさぬこわばった表情に、難波も言葉を返せなかったのか、箱の中に丸めた用紙を押し込み、おとなしく三年B組指定席に戻った。隣で轟さんと目と目で合図しあっている。言葉は交わさない。更科もすでに上総の前に座り、難波に、
「ホームズ、なんとかなるって」
ささやきかけていた。ふたりとも、上総と天羽、どちらにも声をかけなかった。
顧問教師が指でOKサインをした。見届けて美里は、二年の列を小首傾げたまま眺めていたが、やがて新井林へ声を掛けた。。
「新井林くん、悪いけど手伝ってほしいんだ、やっぱり一番適任だと思うんだ。公平さを考えたらね」
うつむいていた新井林が、いきなりびしっと直立不動のまま立ち上がった。
今にも敬礼しそうな勢いだ。
「俺、俺がですか」
あごをひくつかせ、美里の返事を待たず、ロボット歩きでぎくしゃくと教壇の上に昇っていった。美里がかすかに笑いかけ、さっきまで難波が手にしていた白いチョークを手渡した。
「今から私、全部読み上げていくね。『正』の字で書き込んでってね。じゃあいくわよ。
ティッシュケースの口からほんの少し顔を出していた用紙を手に取った。
小さく丸まっている紙だった。難波が最後に投票したものだと、上総はすぐに気がついた。
しわしわの紙を全員の眼に見えるよう片手に持ったまま、美里は読み上げた。
「天羽くん一票」
──難波が天羽に入れたのか。
耳にきんと響く、衝撃らしき音。
ひび割れていく、自分の耳。
上総は動かなかった。新井林が増やしていく「正」の字をじっと見据えていた。
美里が票を読み続ける。
「天羽くん、天羽くん、天羽くん、立村くん、天羽くん、天羽くん……」
天羽の列にはいつのまにか「正」の字が三個並んでいた。その隣には「立村」の苗字に票を入れた人の数が。まだ半分も開票していないはずだ。なのに、もうすでに天羽は、評議委員三学年計二十四人中半数以上の票を獲得している。
「立村くん、立村くん、天羽くん、天羽くん、立村くん……」
黒板に向かっている新井林が、チョークを持った手をぶらんと下げた。見咎めて美里が厳しく注意をした。
「結果が出てても、最後まで書いてちょうだい」
「すみません」
一年評議たちがひそやかにしゃべりはじめる。誰も止めるものはない。二年男子たちは無言でただじっと新井林の背中を見詰めている。二年女子だけが、「やっぱりねえ」と納得顔で呟くのが、上総の席から丸聞こえだった。なにせ隣の列なのだから。
轟さんがちらと上総に目を向け、次に天羽へとそのまま流した。つられて上総も天羽の様子をうかがうと、丸まった背がだんだんぴんしゃんとしてきているのが遠めでもわかった。
──だから最初からそうなることに決まってるって、言っただろ。
──これがあるべき姿なんだ。評議委員長はこうでなければならないんだ。
「正」の字を形作ることができなかった「立村」の列。
「正」の字は四個、一本の線もあまることなく、形作られた「天羽」の列。
──天羽忠文 二十票
──立村上総 四票
本条先輩の言う通りだった。
決戦投票、二者択一は、完全なる権力の見せ場。
圧倒的多数。完璧に勝負あり。
デットヒートすら、演じることができなかった。
「以上、開票の結果、次期評議委員長は天羽くんに決まりました」
美里の声は冷静だった。ヒステリックにとんがることもなく、上総を壇上からにらみつけることもなかった。そのまま開票した用紙をまとめて新井林に渡し、
「新井林くんに一応票数が間違っていないかどうか確認してもらって、それで決定となります。それと、投票用紙なんですけど、すぐにやぶいて捨てて、ごみ捨て場に持っていきますから安心してください」
壇上から降り、美里はゆっくりと自分の席に戻っていった。通りすがりに轟さんを、そして難波をちらと見て、最後に上総へ視線を走らせた。運悪く、目が合ってしまった。
──何が言いたいんだよ。
言葉が見つからない。前に座っている更科がまた難波に何かを話し掛けているが、その言葉すら聞き取れない。音声は聞こえるのだが、その意味が繋がらない。これがいわゆる「ゲシュタルト崩壊」というものなのだろうか。横の二年女子列から向けられるぶしつけな視線と、聞こえよがしのおしゃべり、
「だよね、やっぱりそうだよねえ」
「納得って感じ?」
──そうだよな、納得だよな。
上総はひたすら、そのままじっと黒板の結果を見据えていた。
天羽が立ち上がり、一礼した。まばらな拍手。気まずい雰囲気。髪の毛を掻き毟るようなしぐさで笑いを取ろうとしているが、うまくいかないようだった。一瞬のうちに引きつった表情が上総に向けられ、すぐに笑顔をこしらえた。
「ま、今回に関しては、俺の一世一代の大勝負ってとこでしたが、票を入れてくださったみなさん、どうもありがとうございますってとこで、ちょっと俺もエキサイト状態なんで、今日のところはこれでお開きってことでどうでしょうか、ねえ先生」
声が震えていた。いつもの天羽ではない。顧問の方が生徒たちよりもずっと上総に目を向けているというのが鬱陶しい。
「そうだな、立村、お前もよくやってくれたがな、惜しかったな」
──惜しいだと? 圧倒的多数じゃないか!
「いやいや、とにかく俺としても、これから立村には全力でサポートしてもらわねえと、にっちもさっちもいかねえし」
慌ててフォローしようとする天羽を、顧問は勘違いした言葉でさらに墓穴を掘る。
「いや天羽、お前はやはり評議委員長向きだと思うぞ。やはり半年、お前の活躍ぶりを見て評価したんだから、それはありがたく受け止めろ。それと、立村も本当によくがんばったが、ここで少し一息入れたほうがいいぞ。本当に立村、お前は限界まで努力したのを誰もが認めているんだからな」
──限界まで努力? 半年しかやってないってのにか?
こっくり頷くしかなかった。途中からその声も、上総の耳には聞き取れなくなってきた。あの時と同じだった。杉本の前で自分の過去を暴露されたあの瞬間、周りの言葉が聞きなれない外国語を聞いているのと同じくなってしまった。天羽のしょげ面と、うつむいたまま視線を合わせようとしない難波と更科。美里のきりりと引き締まった口元。すべてが上総には、刃として突き刺さっていった。
「そいじゃ、まずはこれで第一回評議委員会終了いたしますってことで! ではこれからも皆の衆、どうぞよろしゅうに」
最後まで笑いが一切起きないまま、評議委員長選挙は終了した。
「悪い、今から男子評議だけで、集合を掛けていいか」
顧問、一年と二年評議が立ち去った後、手を挙げたのは難波だった。
すでにC組の新しい女子評議は轟さんに連れられて廊下に出た後だった。残っているのは男子三年評議四人と、美里、近江さんの女子ふたりだけだった。
「なんで女子は関係ないの」
「俺個人で言いたいことがあるからだ。女子には関係ない」
「関係なくないと思うけど」
美里が噛み付いた。抑えた方がいいだろう、上総は厳しい声で制した。
「やめろよ、評議としてではないんだったら、関係ないしさ」
「立村くんは黙ってて。私、言いたいことあるんだけど」
かばんを机の上に置き、美里は難波を三秒ほど、じいっと見据えた。
「なんで、予備投票では立村くんと天羽くんが同点だったのに、最終結果、こんなに引き離されたってわけ? ふつうに考えれば、新井林くんに回った二票がどちらかに振り分けられるだけだから、あんな圧倒的大多数で決まるなんてこと、考えられないじゃない」
「違う、清坂氏、そういうわけじゃないんだ。本条先輩が言ってたけどさ」
二者択一形式でこそ、本心があらわとなるもの、説明をしようとした。さえぎられた。
「そんなのどうだっていいの。私が知りたいのは、なんで天羽くん、いきなり立候補しようとしたの? なんでそのあとの投票準備を琴音ちゃんが準備してたの? なんでいきなり予備投票とか決戦投票とか思いついたわけ? 私、そんなの全然知らなかったのに」
「いや、俺もやっぱしさあ、近江ちゃんに男ってとこ、見せたくってなあ」
明らかにごまかしだ。上総にもわかる。美里には通じない。ぴしゃっと言い返された。
「ふざけないで! 難波くんと更科くんがいきなり開票係に立候補した時も、手際良すぎるって思ってたの。ああいう場合、なんでいきなり立村くんを引き摺り下ろしてふたりでやろうとするわけ? 男子と女子で組むのが自然じゃない?」
「関係ないぞそんなのは。そんなことよか男子だけで話を少しさせてくれ」
ぶっきらぼうに難波が振り切ろうとする。美里が食い下がる。上総は立ち上がりかけて、思わず天羽と目が合った。首を振る合図に、まずは留まった。
「天羽くんなんで立候補したのか、私、だいたいわかってるよ」
「はて? なんでやんしょう」
また調子外れのおちゃらけ口調で答える天羽だが、美里には全く通じなかった。つかつか近づいていった美里は、近江さんにだけか細い声で、
「ごめんね近江さん」
しおらしく謝った。きょとんとしている近江さんを背にして、天羽に向かい、
「天羽くん、新井林くんを蹴落としたかったんでしょ。三年だけで決戦投票に持ち込むためにしたんでしょ」
「おい、やめろよ清坂氏」
このままだと天羽が激昂してしまうに違いない。あいつが切れた時の怖さを、西月さんの事件で上総は重々承知している。美里はその激しさを知らない。だからそんなこと言えるのだ。傷つくのは天羽もそうだが、美里も同じだ。
「立村くん、しつこいようだけど黙ってて。天羽くん、もしかして、立村くんを委員長にするために、わざと立候補したんでしょ」
「言うなよ!」
もう抑えきれず、上総は美里の肩を揺さぶり引き戻そうとした。天羽は荒れない。笑ってはいないが、鼻の頭を掻きながらうつむいている。難波も、更科も同じだった。ひとり近江さんだけが退屈そうに足をぶらんぶらんさせていたが、
「清坂さん、私もそう思ったんだけど、こういう面倒な話は男子同士でさせたほうが楽よ]
美里の側に近寄り、肩に手をかけた。されるままになっていた美里も、
「ううん、でもここできちんと話をつけておかないと、あとで困るもん」
しずかに振り切った。上総に向き合うと、
「なんか予備投票の段階でなんか変だなと思わなかった? 立村くん。それとも気付かない振りしてたってわけ?」
「気付かないったってさ」
「私だってわかったんだよ。立村くんと天羽くんがぴたっと同じ票になるわけないって」
「でもなったんだからしょうがないだろう」
上総も言い返した。だってそれ以上言いようがない。不正でもしたとすればそれはまずいだろうが、実際問題は難波と更科が取り仕切ったわけだ。決戦投票も当の本人、美里が新井林を引っ張り出してきて行ったのだから、間違いはないはずだ。
「いい、こういうことじゃないの」
美里は上総を見捨てて次に天羽に近づいた。もう一度近江さんに、
「ごめんね」
謝り、その後正面から続けた。
「立村くんと新井林くんとだったら、票が割れるかもしれないけど、天羽くんが加わったら自動的に三年ふたりが上位に来る計算になるじゃあない? 私がもし一年二年だったら、あとあとのこと考えても怖いから、ちゃんと三年に投票するよ。立村くんにするか天羽くんにするかどうかは決戦投票まで迷うかもしれないけど、二年には絶対入れないよね」
上総は天羽を覗き込もうとした。視線を逸らす。いやな予感がした。まさか、そんなわけがない。
「でも、決戦投票に回った場合、たぶん立村くんが今までの実績で票を集める、そう計算したんじゃない? 天羽くん、自分のこと、それほど力がないって思ってたんじゃないの?」
「いやいやそんなあ、俺は近江ちゃんから愛の一票もらえれば」
鼻先でふん、と無視の姿勢でいる近江さんに視線を投げた。
「ふざけないでよ! それとね難波くん、私ね、予備投票の用紙、捨てる前にちらっと見たんだけど、白紙の投票用紙が二枚混じってたのはどういうこと?」
「白紙?」
思わず問い返してしまった。難波と更科は互いに顔を見合わせ、
「そんな証拠あるのか?」
開き直るような口調で答えた。素早く美里も切り返す。
「まだ用務員室のごみ箱に投票用紙残っているはずよ。今から取りに行くけど、いいの?」
息を呑んだ上総の前で、三年男子評議は無言のままうつむいた。
「お前たち、どういうことだよ」
声に力が入らない。みなぎっている美里の言葉が、ずきずき痛い。天羽、難波、更科が顔を見合わせたが、それ以上口を利かなかった。上総もさらに尋ねるしかなかった。
「つまり、俺を委員長にするために、票の操作、したなんてこと、ないよな」
「立村くん、だからお願い黙ってよ!」
揺らぎなく美里は言い放った。上総の眼をしっかと見据えたまま。
「私、決戦投票の用紙読んだ時、だいたい誰が票を入れたか筆跡でわかったの。誰が誰ってここでは言わないけど、立村くんに入れたのは四票だけだったの。これは本当よ。新井林くんにも確認してもらったもん。だからなおさら予備投票がこんなに票ずれるなんてこと、ないって私思ったのよ。天羽くん」
「はあ」
力なく天羽が答える。
「つまり、予備投票の段階で、立村くんは天羽くんに水をあけられていたってことじゃないの? 最初から、評議委員過半数の意志って天羽くんを評議委員長にしたい、そう思っていたってことじゃないの?」
頭の中が混乱していく。目の前の男子評議連中が何を考えていたのか、読めそうで読めない。なぜそんなややこしいことをする必要があったのだろう。
「清坂、どちらにしても新井林の票は最下位だった。上位二人が決戦に進んだ。それだけじゃ問題あるのか」
難波がようやく言葉を発した。美里も受け答えた。片手で机を叩いた。
「そうだね、私もそれは確かだと思うんだ。立村くんと一対一だったらどうなったかわかんないけど、天羽くんが対抗馬だとしたら、もう新井林くんに勝ち目ないと思うよ。だから、新井林くんあんなに元気なかったんだよ。けどね、どうして立村くんと同点決戦にしたかったのかなって、それが不自然に思えてならなかったの。最初から天羽くんが圧倒的票数を取ってたとしたら、その段階で決戦なんてする必要ないはずだしね。だから難波くんと更科くんの二票分を、天羽くんか立村くん、どちらか足りない方にまわせるようにってことにしたんじゃないのかな。本来は天羽くんが天羽くん十一票、立村くん九票、新井林くん二票、棄権二票。本来はそういう結果なんだよね」
「清坂氏、つまりこういうことか」
割り込み上総は、思いつくまま繰り返した。
「この選挙は俺を評議委員長に再選するための、出来レースだったってことなのか」
上総には一切答えず、美里は天羽に問い掛けた。
「結局みんなは天羽くんを選んだってことよね。難波くんも更科くんも」
ぐいと顔を挙げ、美里は上総に目一杯見開いた瞳でもって、訴えた。
「最初からみんな、こうしたかったんだもんね、しょうがないよね立村くん、あきらめようよ」
沈黙の中、上総も、天羽も、難波も、更科も口を利けずにいる。
近江さんが美里の肩を抱き寄せ何かを耳にささやいた。聞こえなかった。
「うん、そうね。そういうこと」
怪しく微笑んだ近江さんは天羽くんにさらっと言葉を投げかけた。
「悪いけど、これから清坂さんを預かっていくから、よろしくね。委員長も悪いけど」
はっと口を抑えた。空気がこわばったのがさすがに近江さんにも伝わったのだろう。
「立村くん悪いけど、清坂さんお借りするわよ」
──もう、委員長じゃない。
ふたりの女子が教室を出て行くのを見守り、さらに数秒間、空白のまま男子評議四人衆は立ち尽くしていた。
「今の話、本当なのか」
上総が口を切った。言葉を抑えようとしても、震えているのがわかる。今にも口汚く罵りそうで怖かった。三人をひとりひとり見つめ直し、
「もしそうなら、どうしてそんなことした?」
「悪い、立村。俺の手回しが悪すぎたせいだ」
天羽は両手を机の上におき、深く頭を下げた。ゆっくり、そのまま額がつくぐらい。とうとうしゃがみこみ繰り返した。
「申し訳ねえ。俺の読み違いだ。許してくれ、頼む、頼む」
三回目の「頼む」に、かすかな涙の揺れを感じた。上総は動けなかった。
「清坂ちゃんの言う通りだ」
そのまま天羽がしゃくりあげるのを見つめていた。
「難波、更科、お前ら、どうして立村を最後までフォローしなかった? 約束しただろが!」
「天羽、お前もいいかげん、本音を出せ」
難波が言い返した。
荒れるでもない、ただ拳骨はこしらえたまま。めがねをはずし、片手に握り締めた。
次に上総を正面から裸眼で見た。
「立村、お前はもう、限界までやっただろ」
──限界なんて、そんなまさか。
首を振る。全然、そんなの全然、やってない。本条先輩の求めるほどには何もしていない。難波のあとを引き取る形で、更科が続けた。
「あのさ、天羽。俺とホームズのふたりでさ、いろいろ話をしてたんだ。お前が立村を絶対評議委員長にしたいっていって、トドさんの提案で話がまとまった時にさ。どうして天羽は自分で立とうとしないのかなってさ」
難波がうつむき、背中を三人に向けた。更科の声が明るく響く。
「まあ冴えたやり方だとは思ったけどなあ。あまり票差を出さない形で決戦投票まで持っていけば、立村に自然と流れるだろうってことで。けど、ホームズも、俺も、それなりに考えたんだよ。けどさ。立村が百パーセントやるところを、天羽、お前なら千パーセント出しちまうんじゃないかって、俺もホームズもその点、同じ意見だったんだよね」
──俺が百パーセントで、天羽が千パーセントかよ。
難波がそのままうつむいて、めがねを壊しそうなほど握り締めている。更科はあっけらかんとさらに続ける。
「もちろん、新井林と立村の決戦投票に持ち込まれたら、俺たちはなんも考えないで立村を推したよ。これはほんと。けど立村と天羽。選べといわれた場合、どんなに天羽がいやがったって、評議委員長向きの奴を押したくなるのが、本音じゃないかなって、俺思うんだよね」
「お前らやったこと、裏切りだぞ裏切り!」
「違う!」
机をひっくり返し、難波が机の脚をがたんと蹴った。
「天羽、お前ほんとはずっと前からトップに立ちたかったんだろ? 結城先輩にひいきされてたころから、本当は評議委員長やりたかったんだろう? 立村がへまばかりしているところみて尻拭いしてて、ほんとは自分だったらもっとやれるって思ってたんだろ? 俺たち三年間一緒にやってきたんだぞ。それを気付かないほど、節穴かと思ってたのかよ! 青大附中のホームズをなめるなよ!」
「なんだと、言い方もう少し考えろ!」
「いいか、天羽」
難波は口調に激しさを増し畳み掛けた。近づき、あわや一発張り倒されるかもしれない距離まで天羽に頬を近づけた。
「清坂に見られていたのは計算外だった。けどな、予備選挙の段階で天羽の圧倒的勝利は確定してたんだ。けどあのままだったら立村の立場がねえってことであの時は俺と更科の二票分上乗せした。約束通りな」
「お前立村を目の前にしてそこまで言うか?」
難波は上総ににふたたび顔を向けた。天羽の肩に手を置き、少しやぶにらみ気味に目を細め、頬にむりやりえくぼをこしらえた。もちろん、笑ってはいない。
「立村、お前、ほんとによくやったと思う」
大きな瞳が上総を射た。
「俺も見てて、ここまでやらせるか本条先輩って思ったぞ」
首を小さく振って、上総に語りかけた。
「だがな、努力してできることと素質でもってやれてしまうこととは違うんだ。更科が言った通り立村が百パーセント死ぬ気でやり遂げたことを、天羽は千パーセント軽く越えられる、それだけの違いが、俺には見えてる」
「だから、天羽に投票したのか?」
上総の目の前で繰り広げられている光景。すべてが異様に映っていた。難波は答えの代わりにしっかと上総の眼を見据えたまま、静かに告げた。
「本条先輩だってここまでお前がやったこと、絶対認めてくれるに決まっている。最後の半年、本来任務につくべき男に席を譲れよ、立村」
涙目で激しく難波へ食ってかかる天羽。
苦味ばしった顔で「真実」を正面から突きつける難波。
間を取るかっこうで、それでも一切揺るがず言い放つ更科。
──俺はどうすればいいんだろう。
取り残された上総は、ぼんやりしたまま三人の様子を目に留めていた。
──こんなことになるはずじゃなかったのに。
責任を取る。そう天羽と轟さんに断言したのは自分自身だというのに、その「責任」がいいかげんなやり方過ぎて、本来巻き込むべきでない奴まで巻き込んでいる。最初からそうすべきはずだったのにこだわってしまった挙句、この三人をずたずたに傷つけた。
──いや、こいつらだけじゃない。
わんわん叫びながら、目を潤ませて去った美里の訴え。
上総に裏切られたと思い込み、激しく憎んでいる杉本梨南の怒り。
──俺は、責任を取らなくてはならないんだ。
上総はかばんから黒い手帳を取り出した。父から譲り受け、読まれてはまずいところをフランス語の筆記体で書きこみ、評議委員関連のデータ関連は日本語でと使い分けている。
「天羽、これ、コピーしろよ」
肩を叩き、天羽の手に持たせた。力のなかった天羽の指先が、手帳の革表紙に触れたとたん息を吹き返したようだった。ぴんと伸びた。上総を驚いた風に見下ろした。
「立村、どういうことだ?」
「本条先輩から教えてもらったこと全部この手帳に入ってるからさ。一応、後期の予定も含めて、評議委員長として必要なことは詰め込まれているはずだから。わからなかったらあとで電話くれれば、いくらでも教える」
「おい、お前」
言いかける天羽に上総は首を振り、難波と更科、ふたりにも頷いてみせた。
「お前たちの言う通りだと思う。たぶん、俺が同じ立場だったとしても、選択は同じだったと思うんだ。だから、もう、いいだろ」
言葉を波立たせないように呟いたつもりなのに、なぜか喉の奥が詰まってくる。まずい、こんなところで醜態なんぞ見せられない。小学校時代の泣き虫なんかじゃない。一度は評議委員長まで上り詰めた立村上総が、こんなところで膝ついて泣きじゃくるわけにはいかない。
「先に帰る」
「立村、待てよ」
難波と更科が同時に呼びかけた。低音と高音が重なり、微妙な響きを耳に感じた。
「話は終わっちゃいないだろ? まだ話すべきことがあるだろ!」
「そうだよ立村。あと半年、俺たち評議でやることたくさんあるんだよ。何もお前の能力がないって決め付けたわけじゃないし」
振り返ると、ふたりが交互に頷いている。上総は横に首を振った。
「俺が最初から気付いていればよかったんだ、申し訳ない」
A組の扉を後ろ手で閉めた。これ以上天羽たちと会話を交わしたら、一気に小学生に戻ってしまう。ひとりになりたい。駆け出そうとした。でもできなかった。
廊下の窓際に、美里が背中をぴくぴくさせながら、近江さんの胸に顔をうずめていた。、
「ああ、委員長」
自然と口からこぼれてしまった、過去の肩書。訂正するのも忘れているようだった。
上総は軽く会釈ですませようとし、背に近づいた。
美里は顔を向けようとしなかった。その背中を、近江さんは指先で何度も撫でた。
喉に詰まったものを上総はゆっくりと飲み込んだ。ぎりぎり揺れないですむ程度の低い声を絞り出した。
「近江さん、清坂さんをよろしくお願いします」
一礼し、もう一度美里の髪の毛を見つめた後、上総は階段を降りていった。
──ひとりで泣く権利なんて、俺にはない。
第一部 終