第一部 11
第一部 11
台風一過、快晴、まだ腐っていない落ち葉の匂いが、地面から漂っていた。
「立村さん、ちょっといいっすか」
生徒玄関ロビーで直立不動の格好で待ち構えていたのは、新井林健吾だった。
二年B組、次期評議委員長の指名あり。すでにバスケ部キャプテンなり。
朝連の後なのか、髪が汗でしっとり濡れていた。
「話か」
あいさつもそこそこに上総は受けた。だいたい話の内容は予想がついている。昨日のことに決まっている。
「聞かれたくねえんで、ロビーでかまわないですか」
「いいよ」
柱周りに設置してあるやわらかい椅子に腰掛けた。一応は上総を評議委員会の先輩として敬う態度を取っている新井林、さぞ無理していることだろう。先に腰掛けた。新井林も玄関側寄りの隣に座り、ぴんと背筋を伸ばし上総に向き直った。
「立村さん、これから俺は、あやまらねばならないことがあるんです」
「あやまる?」
いきなり下手に出られて、戸惑った。昨日の放課後起こった出来事とその後の修羅場を、上総はすべて確認したわけではない。しかし新井林の心持ちを読み取れないほど鈍感なつもりもない。新井林にとって最愛の恋人・佐賀はるみがとんでもないどんでん返しの末、生徒会長に立候補してしまうという大事件。これを新井林はどう受け止めているのか。決して喜びあふれて応援したいというわけではないだろう。
「俺は、この半年、ずっと次期評議委員長になるってことでやってきたんですが」
無理している、舌が滑らかに動かない。途中でどもりそうになっているじゃないか。
「それを、少し早くやらせていただこうと思ってるっす、来週の評議委員会で、俺は評議委員長に立候補させていただきます」
──そうそう、それだな。
上総は無言で受けた。まだ八時前だ。生徒はまだ朝連の終わった体育系の連中しかうろついていない。込み入った話をするにはちょうどいい時間帯だった。
「そうか、わかった」
さらに何かを付け加えようとする新井林を上総は制した。
自分で用意してきたことを、伝えるだけに止めた。
「俺もたぶん、次期評議委員には選ばれる可能性がなくなったし、それがベストだと思う」
昨夜、風呂場でめいっぱい顔を洗いながら決めた言葉を口にした。
「評議委員会があるべき姿に戻るだけだし、異論はない」
「立村さん、あんた、いったい」
動揺して口を右、左とゆがめる新井林を、上総は静かに眺め、ゆっくりと頷いた。
「こんな役立たずの三年を先輩と立ててくれてありがとう。感謝する」
立ち上がり新井林に目で感謝を伝え、三年教室への階段を昇った。新井林の様子を振り返って見ようとも思わなかった。
──あるべき姿に戻るだけだ。
たぶん、新井林はこうくるだろうと思っていた。
佐賀はるみが思いがけない展開のよしなで生徒会長に立候補し、このまま信任投票で決定することはもう疑うこともない。昨日の修羅場をどのくらいの生徒が目撃していたかはわからないが、すぐに全校生徒へ情報は広まり、おそらく今日の帰りあたりにはつぶさに上総の過去と情けない現実があらわとなっているだろう。もしかしたら昨夜の段階で電話情報が勢いよく流れているかもしれない。そこまでは上総も読みきれてはいないけれども、女子中心の噂話ネットワークが早いことは想像がついていた。
現在評議委員の佐賀はるみが生徒会長になるということは、後期評議委員に任命されることがないというのとイコールだ。また来年以降評議委員長になる予定の新井林が仮にも半年間、自分の恋人より下の平評議委員として過ごすのを耐えられるとも思えなかった。男子の本音としてもそうだし、何よりも周囲の評価からしてそうなるに決まっている。
──たぶん、新井林は評議委員長に立候補するだろうな。
一応は後期評議委員長として本来なら上総の続投が決まっているはずだった。本条先輩の絶対権力がバックボーンだったのだし、よほどのことがなければひっくりがえることもないだろう。そう思われていた。
──でも、よほどのことが起こってしまったってわけだ。
朝八時をちょうど回ったところだった。荷物を置いてから一度E組に行ってこようか。杉本と顔を合わせて、にっこり返事をしてもらえるなんて期待は全くしていないけれども、様子伺いくらいは許されるような気がする。たいてい上総以外にこんな早い時間来る奴はいないはずだし、また一刺しされたとしても、他の生徒に聞かれる心配も今のところはない。
D組の教室に入ろうと、ドアノブに手をかけた。覗き込んだとたん、
「立村くん、おはよ」
美里が教卓の上に腰掛けていた。口もとを結んだまま、手を振っていた。
「清坂氏か」
「悪いんだけど今日、一時間目、さぼってもらえないかな」
「さぼるって、いったい」
「大丈夫よ。立村くん三年になってから学校一度も休んでないでしょ。欠席日数で怒られる心配ないわよ」
言われている意味がわからず。上総はまず自分の席へ向かった。かばんを机に置き、美里の座っている教卓へ近づいていった。教師の机に腰掛けるなんて非常識だなどと指摘するつもりはさらさらない。
「俺はかまわないけど、清坂氏は」
「ちょっとまずいかもしれないけどちゃんと菱本先生にメモで残しておくから。あとで私が説明しておけば、あの先生のことだもん、納得してくれるよ」
足をくねらせる格好で美里は上総を見下ろした。いつもながらつややかなおかっぱ髪だが、両耳の上をヘアピンで留めているせいか、顔が少しふっくらしたように見えた。
「どうせ立村くんも、話すことがあるだろうと思うし、放課後とか休み時間だったら盗み聞きされるかもしれないでしょ。私だってそのくらいのことわかってるんだから心配しないでよ」
──やはり、もう知っているんだな。
女子たちの情報網の早さを甘く見てはいけない。肝に銘じた。
「わかった。どこで話する」
「大学の図書館ロビーだったら、中学生がいても怒られないよ。あそこ前に、貴史と一緒に行ったことあるんだ。中学とか高校の人だったらいろいろと聞き耳立てるかもしれないけど、大学生は全然興味ないって顔して見ているだけだし、聞かれないですむよ」
大学図書館にはしょっちゅうひとりで出かけている。美里の言う通り、学校内で内密の話をするにはふさわしい場所だろう。全くのふたりきりではないけれども、他生徒からうるさくせっつかれることもないはずだ。かえって人目がある分、声を荒立てないですむかもしれない。
どちらにせよ、いつかは話さなくてはならないことだ。
騒ぎにならないうちに、早く。
美里はするっと床に下りた。スカートのポケットにピンクの財布を忍ばせた。
「じゃ、さっさと行こうよ。貴史たちに見られたらまたうるさいしね」
──羽飛にも話していないってことか。
判断が難しい。とにかく行くしかない。生徒玄関まで降りることにした。美里は上総を待たずにとっとこ駆け足で走っていった。
中学生徒玄関の砂利道をまっすぐ引き返す美里と自分を、怪しむ気配はまだそれほど感じなかった。たまたま知り合いと顔を合わせなかったのと、自転車置き場を避けて大学校舎へ向かったからかもしれない。昨日の出来事がなければ、おそらく「立村評議委員長、彼女の清坂さんと一緒におしのびデート」と噂される程度ですむだろう。先生たちにはあとで自習課題を山のように押し付けられるだろうが、生徒たちからの軽蔑視線は浴びないですむはずだ。
──清坂氏はどこまで知っているんだろう。
お互い、口を利かなくても不自然に見えないよう、美里が一メートル先を歩いた。
肩を並べあって歩くには、やはり抵抗がある。上総は美里の背中がさっき会ったばかりの新井林と同じく、ぴんと伸びているのに気が付いた。頭もお天道様に向けて、どうどうと髪の毛に光をたたえたままでいる。時折なびく髪の毛が、指先ひとつですぐに元に戻る。
──俺がやらかしたことを、どこまで知ってるんだろう。
美里にはどちらにせよ、きちんとけじめをつけるつもりでいた。生徒会役員選挙が無事に終った段階で、もう一度「俺は清坂氏とつきあいを終わらせたい」「けどそれは清坂氏が悪いのではなく、自分のような頭の悪い男子がふさわしくないことを良く知っているからなのだ」「それがあるべきすがたなのだ」と話すつもりでいた。こんなに早く、ではなかったけれども。同時に後期評議委員の件についても、もし美里が望むのなら自分は降りる覚悟もあった。たぶんそれはないだろうと思っていたけれども、振られた相手ともう最低限の会話しか交わしたくないというのだったら、それも当然のことだろうと思っている。
でも、昨日の出来事で今まで考えていたシナリオはすべて崩れた。
青空が気持ちよく広がっていた。今まで見たことないくらいの、朝の水色。
──あるべき姿に戻すだけなんだ。それが、少し早く来ただけなんだ。新井林も、清坂氏も。評議委員会も。
到着し、大学図書館の建物内に入った。青潟大学の図書館は大学校舎にくらべてかなり大きいものだった。中学生が大学図書館を使用する場合は、入館時に生徒手帳を提示する必要がある。また大学生以外入ってはいけないブースもある。
受け付けの前で美里が立ち止まり、上総を見上げた。
「どうする? 入っちゃう?」
「俺はそれでいいけど」
「でも、ちょっとまずいかなって思って」
誘ったのは美里の方なのに、なぜ迷うのだろう。上総はさっさと入ろうとして、生徒手帳を胸ポケットから取り出した。いきなり手でそれを抑えた。
「なんか、ここいや。ごめん立村くん、外で話そう」
「それならそれでいいけどさ」
美里は上総の腕をひっぱるようにして外へ引き出した。顔つきが少し怖かった。Tシャツとジーンズ姿の大学生たちが上総たちを見ては、
「若いねえ、可愛いねえ」
「恋してるねえ」
などと勘違いした言葉を口にしていた。やはり、そう見えるのだろうか。
図書館前のレンガ花壇側だった。ちょうど腰掛けるのにちょうどいい高さのレンガが重なっていた。上総は美里が座るのを待った。さっき新井林がしてくれたように。
「なんか、変だよ。なんで私が座るまで待ってるのよ」
「いや、一応、それが礼儀かなと思って」
「立村くん、変な礼儀にこだわりすぎだよ。いつも思うけど、なんか立村くんくだらないことばかり気にしてて、本当にしなくちゃいけないことに気が付いてないんだもん」
口を尖らせ、美里は上総の腕を無理やりひっぱった。
「一緒に座ろう。男女平等で」
そういうわけじゃないんだが。とりたてて反抗する必要はない。上総は言われた通り、美里と同じタイミングでレンガの上に腰掛けた。
「まず、私の方から話すね。立村くんも言いたいことあると思うけど、まずは黙って聞いててね。これ、評議委員としての私の意見だから」
一呼吸置いてから切り出すつもりだったのに、美里に先手を取られてしまった。
「まず、立村くん、これから一週間、何を最優先にすべきかを、まず考えてほしいんだ。きっと今まで立村くん言いたいことたくさんあったんだろうし、私も無神経なとこあったと思うけど、でも一番今やらなくちゃいけないことをね、自覚してほしいんだ」
びしびし、美里の口調が鞭になる。ききっと文句を言いたくなる。でもこらえた。美里は「つきあい相手」ではなく「評議委員」としての意見を言おうとしているのだ。前期評議委員の自分は、それを聞く義務がある。
「まず、杉本さんのことなんだけど。なぜ女子を生徒会長にしたくなかったわけ? 藤沖くんがむくれるから? それとも二年女子の生徒会役員たちがうるさかったから?」
──霧島さんたちに何か吹き込まれたか。
情報が霧島さんたちだとしたら、話は通じる。いくら元気がなくなった霧島さんといえども、可愛い後輩のために一肌脱ぎたい気持ちは残っているだろう。そこでたまたま、上総のつきあい相手である美里を含めて相談しないわけがないだろう。ただ、かなりの可能性で、話がこんがらがっている可能性があるけれども、だ。
「別に女子が生徒会長になってはいけないとは言ってない。杉本だとまずいと思っただけであって、それは」
どこまで話せばいいだろう。迷う。言葉を切った。美里がすぐに切り返してきた。
「杉本さんだといろいろ問題が起こるからだよね。頭が良すぎて嫌われちゃってるからだよね。それに今まで立村くんが計画してきた生徒会への大政奉還を邪魔されちゃうかもしれないってことだよね。そうだよねそうだよね! 立村くんはあくまでも生徒会と評議委員会のために、杉本さんの立候補を止めようとしたのよね!」
「ね?」と疑問形で終わらせるアクセントではない。
「ね!」と強調の感嘆符をつけている口調だった。反論したくて口を開いた。
「違う、もちろんそれはかなり大きな要因だけどさ」
「黙ってって言ったでしょ! とにかく、私の話を最後まで聞いてよ!」
美里はさらに「!」を連発した。
「いい? つまり立村くんは男子だから、評議委員会と生徒会のために命を賭けてたってことよ。次期評議委員長は新井林くんだし、杉本さんがもし生徒会に入ったりしたらせっかくうまくいったはずの、権力移行もぐっちゃぐちゃになっちゃうかもしれないよね。そのくらい私だってわかるわよ。だけど杉本さんは生徒会長やる気まんまんだとしたら、当然立村くん、止めるよね。評議委員長として!」
また「!」だ。どうしてこうも強調構文作りたがるのだろう。
「もちろん、俺は評議委員長だけど」
一週間後には新井林に代わっているはずだが、そこまでは言わないでおいた。
「でしょでしょ! 藤沖くんだって杉本さんが生徒会長になるのは歓迎してないに決まってるしね。だから当然、立村くんは杉本さんの立候補をじゃました、そういうことなのよね!」
「清坂氏、俺はいつ話、できるんだ」
上総はおもむろに尋ねた。このまま美里の「!」構文が続くと、完全に誤解の嵐になってしまうような気がしてきた。もちろん表向きの理由はその通りだし話は通る内容だが、そのことだけだったらもっと別のやり方だってあったはずだと言いたかった。
「私が話し終わるまで!」
美里はきっぱりと切り捨てた。
「つまりね、立村くんは評議委員長としての行動を取っただけなのよね! それであまりにも杉本さんがかたくなだからしかたなく、私とつきあいやめた振りして」
「清坂氏、それは違う。振りじゃない」
はっきり告げなくてはならない言葉を、上総は差し込んだ。
「そのことを俺は話したくて、ここにいるんだけど」
「立村くん、もう一度言うけど、今私はね、立村くんの交際相手として話してるんじゃないの。三年D組の評議委員として、今どうしなくちゃいけないかを話しているだけなのよ」
ここだけは「!」がつかない静かな口調だった。この言い方でどうして杉本のことも話してくれないのだろうか。やり込められてかなりむかついているが、もう少し我慢してあとで言いたいことを言い放とう。上総は黙った。
「男子側からしたらそうしたい気持ちはわかるわよ。私だって中立で見守りたかったもん。だけどね、私たち三年女子にとって、杉本さんは可愛い後輩なのよ。あんないきなりE組なんかに流されちゃって、誰も味方がいない中、たったひとりで戦ってるのよ。そりゃ、言い方まずいところがあったかもしれないし、いろんな人を傷つけてきたかもしれない。だけどね、杉本さん、私たち三年が卒業したら誰も守ってくれる人がいないんだよ。いい、立村くん、私たち、あと半年で卒業するんだよ!」
──わかってるってそのくらい! だから……。
「今、私たちが杉本さんにしてあげられるのは、三年以降あの子がいられる場所をできるだけこしらえてあげることじゃないかって思うのよ。これ、小春ちゃんやゆいちゃんもものすごく心配してたの。小春ちゃんは今だに口きけないし、ゆいちゃんは青大附高に進学できないし、手紙出して勇気付けてあげることはできるけど、苦しい時にたったひとりになっちゃうなんて、最悪じゃない! だから私、思ったの」
ここで美里は唇を一本に結び、ぐいと上総をにらみつけた。また早口で語りだした。
「たとえもし、評議委員会や生徒会が大変なことになったとしても、もし杉本さんが生徒会長になれば、同じ学年の生徒たちが周囲にいてくれるってことになるでしょ。杉本さんは問題ある子だって先入観があるから嫌われてるけど、私たちみたいにじっくり付き合えばあの子がいい子だってことみんなわかってくれると思うの。新井林くんも、もう佐賀さんがB組で守られてるんだから杉本さんのことをいじめるなんてこと、ないと思うの。ううん、新井林くんって絶対、いじめはしたくない性格だと思うのね。だから私、立村くんには悪いけど杉本さんを生徒会長に立候補させたくなったってわけなの」
「ちょっと待てよ。杉本を立候補させたいって、なんでそんなことになったんだよ」
話が読めず、引きずられて上総は美里に尋ねた。完全に美里ペース。予定外。
落ち着いたまま美里は、ゆっくりと答えた。
「立村くん、ずっと杉本さんに張り付いていたでしょ。杉本さん、なんだかおかしいと思っていたみたいなの。それで木曜日、私に電話してきてね、立村くんの行動が理解できないって相談してきたの」
──杉本が清坂氏に相談した?
美里の瞳を見つめた。嘘は言っていないように見える。まっすぐで時折辛くなる眼差しはいつもどおりだった。
「そう、夜だったかな。立村くんがしつこくくっついてきて、意味不明なことばっかり言ってくるけどどうしてなんだろうって。その時に生徒会長に立候補したいとも言ってたのよ。そのあたりでだいたい、そういうことなんだなって思って杉本さんの話を全部聞いたの。杉本さん、もう一度自分の価値を取り戻したいって、そればかり言ってたの」
「あいつそんなこと言ってたのか!」
価値なんて、一瞬だってなくなることないのに。杉本を捕まえてそう怒鳴りたい。美里の前でそれははばかられた。
「清坂氏、まさか、杉本に」
「誤解しないでよ。私、立村くんとどうのこうのって話をしたわけじゃないわよ。ただ、杉本さんはどうしても生徒会長になりたかったの。私とゆいちゃんと小春ちゃんはどうしても杉本さんに居場所を作ってあげたかったの。一年の頃と同じようにたくさんの人たちに応援されている杉本さんに戻ってほしかったの」
「それがまずいってどうして気が付かないんだよ!」
まずい、今度は自分が「!」構文を作ってしまった。美里は首を振ると、上総に向かい前かがみになり、何度も首を縦に振りながら、
「立村くんも、男子の立場で杉本さんを守ろうとしたんじゃないかって思う。こずえはそう言ってたよ。だから放っといたほうがいいって。だけど、私、そんなことおかしいと思うんだ。立村くんは男子だから守ってあげたいと思うかもしれないけど、来年以降はどうするのよ。杉本さん、E組に閉じ込められて一人ぼっちなんだよ!」
「だから俺は」
──杉本の隣に立つために。
「立村くん、杉本さんの力、女子の力を甘く見ちゃだめ! 杉本さんはどんなに頭を押さえつけられても、すぐに立ち直るだけの力持ってる子なんだよ! そんな子をね、男子の勝手な感覚で否定しちゃ絶対だめなの! 私、それだけは許さないからね! ゆいちゃんだって、小春ちゃんだって、それ気付いたからすぐに、杉本さんを立候補させようって全力尽くしたんだから。立村くんをないがしろにしたからじゃないの。あの杉本さんにもう一度、元気になってほしかったからなの!」
──違う、杉本はそんなに強くないんだ! 見かけだけなんだ!
上総は首を振った。
──女子でトップに立つ権利があるのは、最初から佐賀さんみたいに男子女子みな味方につけられる人だけなんだ。だからあの藤沖が納得して受け入れたんだ。男子を敵に回すしかできない杉本は、いくら佐賀さんになりたくたって、指くわえたまま悔し泣きするしかできないんだ。本条先輩みたいになりたいってあがいてきた俺が、よく知っている!
だんだん頭の中に展開が繋がって来た。美里はまだ喋りつづけている。ところどころつぎはぎしながら、ひとつの結論にたどり着いた。
──杉本が木曜の夜、清坂氏に電話をかけたのは本当だろう。俺がむりやり引っ張りまわしているのを不審に思ったんだろうな。清坂氏はそこで霧島さんと西月さんに声をかけて、杉本を生徒会長に立候補させるため俺を足止めし、杉本を生徒会室へ走らせたんだろう。
「けど結局杉本さんは、立村くんのせいで全校生徒の前で大恥かかされたのよ。これは反省してよ。杉本さんをそのまま立候補させたって、結局佐賀さんが対抗馬になったんだったら勝ち目ないのは私だってわかるもん。全校男子受けがいいのは、絶対に佐賀さんだもんね。けど決選投票でそれぞれ言いたいことを言い合うのもいいと私、思ったよ。杉本さんだって佐賀さんだって言いたいことを全校生徒の前で、堂々と言い放てばよかったのよ。そのチャンスさえ奪っちゃってどうするのよいったい!」
「ああ、そうだな、俺のせいだ、全部それは」
きりきり、錐で突付かれる痛み。一晩寝て忘れたはずなのにまた蘇る。
きつつき美里の言葉はさらにつんつん続く。
「立村くん、きっとこの問題の責任をとらなくちゃって思ってるよね。だから私と別れるとか言ったんだよね、だから杉本さんを守るため付き合おうと思ってるんだよね。それ、気持ちはわかるよ。しょうがないよ。私に価値がないっていうんだったらあきらめる。けどね、今、立村くんが私とつきあいやめて杉本さんに乗り換えたとしたら、一番傷つくのは杉本さんの方だってことも、忘れちゃだめなのよ!」
目をそらし、側の雑草をつまんだ。オオバコの幅広い葉が地面に密着し広がっていた。
「もし杉本さんに立村くんがこれからアプローチしたら、どういうことが起こると思う? 私、話にしか聞いてないからわかんないけど、立村くんは価値のない評議委員長だと女子たちから思われちゃったわけよ。今の二年生たちにはね。藤沖くんも誤解しちゃったようだし。今の段階で立村くんは評議委員長として最低の評価をされているわけよ。もしそんな奴と付き合うことになったら、これから先杉本さん、何て言われちゃうかわかる? 立村くんはいいのよ、卒業するんだもん。私とつきあいやめたって何が起こるってわけでもないもんね。だけど杉本さんは、立村くん程度の男子しか好きになってもらえないって傷つくだけなんだよ」
──そんな奴と付き合いつづけてきていた清坂氏はどうなんだろう。
ずいぶんな言われ方だったが、しかたない。黙って聞くしかない。
「だけどね、私は立村くんの価値、百パーセントわかってるつもりだよ。これからね、たぶんクラスにもどったら、昨日の話が全部流れていると思うんだ。もしかしたら私が聞いてないことが情報として流れているかもしれないし、立村くんは敵が多いから話に尾ひれがついてるかもしれないよ。へたしたら評議委員としても選ばれないかもしれないよ」
「あ、それは覚悟している」
上総は冷静に答えた。さっきの新井林と同じく、用意していた答えがあった。
「俺はたぶん、評議委員から降りることになる。後任は自動的に新井林になる」
さぞびっくりすることだろう。じっと美里の表情を伺った。絶句するんじゃないかと思っていた。違っていた。期待している答えとは全く違っていた。
「立村くん、あのね」
大きくため息をつき、美里は鋭く言い返した。
「杉本さんを守りたいんだったら、評議委員長でないと無理なんだってどうしてわからないのよ! あの子、水鳥の副会長さんのことしか考えてないよ。彼に匹敵する相手に守られるんでなかったら、かえって杉本さんにとっては迷惑だってこと、意識してよ。ほら、こっち見なさいよ、うつむいてないで!」
美里の言葉に真が含まれていることを感じていた。
──関崎と同等でない俺は、杉本に近づくことすら恥をかかせることになる。
畳み掛けるように美里は言い放った。
「今、一番最優先で考えなくちゃいけないことはなんだと思う? 私もね、正直、いきなりつきあいやめたいって言われた時はびっくりしたけど、でも立村くんのしたいことは杉本さんを守ることでしょ。水鳥の副会長さんじゃなくて立村くんを選べって命令することじゃないでしょ。最優先すべきことは、杉本さんをこれ以上悲惨なめに合わせないってことでしょ! 立村くんも、私もゆいちゃんも小春ちゃんも、それはよっくわかってるのよ。ほんとは私も、立村くんがどうして私のこと嫌いになっちゃったのか聞きたいけど」
「嫌いじゃないって」
「そういうのもどうだっていいの! 杉本さんが話を聞いてくれる男子になりたいんだったら、まずは後期評議委員長の座を守りきりなさいよ。それからよ話は。それと、もし私と別れたとしたら杉本さん、自分を責めてしまうと思うよ。立村くんと私の関係を悪くしたのは自分なんだって思って、罪悪感持っちゃうよ。立村くんがいくら杉本さんの味方になろうとしたって、心開いてくれなくなっちゃうよ。私、自分のことはどうだっていい。とにかく、今最優先なのは杉本さんの今後なの。それは私も、立村くんも、同じはずよ」
途中からもう話を聞いていられなかった。聞き流しながら上総は指先で土を掘りつづけた。小さなありが手の甲に這い上がってきた。振り落としても、またよじ登ってくる。
「私たちがこれから先どうするかは、中学卒業してからでも遅くないと思うの。はっきり言っちゃうけど、誰が好きで誰が嫌いとか、そんなねばねばしたことにこだわるよりも友だちづきあいしたいんだたら、それはそれでいいよ。けどね、評議委員長に再選されるためにはとりあえず私たち、このままでいたほうがいいと思うよ。もし立村くんが私のこと遠ざけたいんだったら話は最低限しかしないし、一緒に帰るのもいやだったら言い訳してもいい。けど、今の段階で別れたとか他の人に言っちゃ、絶対にだめよ! 杉本さん、そんな平の生徒に守ってもらったって、惨めになっちゃうだけなんだからね。まだ杉本さんは、立村くんの本当にいいところ、気付いてないんだから!」
美里の眼が潤んでいた。
「だから、これから先は私に任せて。絶対に私、立村くんを評議委員長にする! クラスのみんなが立村くんのことを馬鹿にしたって、小学校の頃のこと暴露したって、私は絶対に立村くんの味方なんだから、忘れないで!」
素早く手の甲で目をこすり、しらんぷりしてまた美里は唇を結んだ。
何もないまっさらな水色の空が広がっている。かすかに中学校舎の鐘の音が聞こえてきた。
上総が何も言わなくても、たぶんクラスの連中大多数が全校生徒が、そして評議委員会が。本来あるべき形にもどるため、すばやく形を整えていくことだろう。たとえ美里が上総のために心を尽くしてくれても、その動きがせき止められるとは思えない。
──清坂氏を泣かせた報いだ。
いつのまにか人差し指の爪の上まで昇ってきた蟻を、上総はうつむいたまま見据えていた。
──俺は、あるべき姿に戻るだけだ。