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第一部 10

第一部 10



 杉本梨南の目の前で、指を突き刺しわめき出した女子を、上総は記憶から呼び起こそうとした。二年であることは間違いない。評議、規律、その他の委員がらみで記憶に残っている女子だったかどうか。こんな個性的な髪形している女子には、全く思い当たる節がなかった。全く荒れようとしない杉本の態度に安堵しつつ、上総は様子を見守った。片手を杉本の腕に置いたままでいた。

 ──風見さん、ってどこのクラスだろう。


「あんた、悪いけど立候補して、勝てると思ってるわけ? あんた自分が先生に評価されて立候補するつもりでいるだろうけど、大嘘だってことここにいる生徒会関係のみんな知ってるって知らないわけ? ほーら、やっぱりだまされてるのね。みんな知ってるのよ。あんた以外みんなよ。へたしたら一年だって知ってるわよ」

「何様のつもりかしら」

 全くトーンの変わらないまっすぐな声が響く。

 大丈夫だ。ぶっちぎれてぱちんとひっぱたくなんてことはないだろう。いざとなったら無理やりでも引き離そう。腕に当てた自分の手に力が入った。

 細い目でその女子はじっと杉本をにらみつけた。鼻の穴を膨らませるように笑った。

「杉本って言ったわよね、あんた。つくづく思うんだけど、あんたオペラが好きだとか音楽が好きだとか勘違いしたこと言ってるけど、自分の声、一度でも録音して聞いてみたことがある?」

 息を呑んだのは上総だけだったようだ。杉本は全く揺れなかった。

 ──誰も口に出さないことを、どうして。

「とてつもない音痴だってこと、みんな知ってるからあえて知らないふりしているのにね。だからピアノを習おうとしても覚えられなかったんでしょう」

 上総は杉本の横顔を覗き込んだ。動揺しているかどうか、事実を明らかにされたショックが浮き上がっていないかを読み取ろうとした。いつもだったら必ず、震えんばかりに切ない表情が浮かびあがるのに、全く驚く気配もなかった。上総の中に、ひとつの答えが出た。

 ──杉本は本当に、自分が音程を正確に取れないことに気付いていないのか。

「有名よ。音程取れないからでしょ?」

 そっと後ろの連中が反応するさまを覗き込んだ。いつのまにか風見という女子の背後には、藤沖生徒会長が立ちはだかっているのが見えた。様子をうかがいにきたのだろうか。生徒会長の権限を持ってこの女子を黙らせてほしい。でも自分だって、評議委員長の権限を振りかざしても効果ないとわかっているのだ、しかたない。

「あの、学校祭にきた男子タイプがあんたにはお似合いなのに、何馬鹿みたいに頭のいい人ばかり追いかけてるんだかって、みんな馬鹿にしてるのよ。それも知らないで可哀想に。この前学校祭で追っかけてくれた男子いるでしょう。ああいう男子だったらいくらでも好きになってくれるのにねえ」

 側に上総がいることを全く見ていないかのようだった。

「立村程度の相手があんたにはお似合いなのよ。こいつみたいな奴を相手にして、人目につかないところでこっそりいちゃいちゃしてればいいのよ。ハルやナミーや他の人たちの迷惑にならないところでね」

 呼び捨てされるまでは。

 ──一応、二年だよな、この子。

 きりっと上総の方をねめつけた後、風見という名の女子は、杉本を指差したその手を上総に突き刺した。ちらと目が合った。ばしっと音がしたような気がした。


 かすかに杉本は反応した。上総の手を振り払うようにして、抑揚のない声で答えた。

「それは失礼じゃないかしら。私を馬鹿にしているとしか思えない言い方だわ、それにどんなに不細工で頭の悪い先輩であろうとも、一年上である以上は先輩と呼ぶべきよ」

 かばってくれたのだろうが、上総としては全く嬉しくない。だけど言い返せない。いったいなんでこの女子は、一応評議委員長たる人間を呼び捨てにしようというのだろう。何か、意味があるはずだ。ここで「ちょっとそれは先輩に対してよくないんじゃないのか」と言い返したくなるのを、ぐっと飲み込む。

 風見はわざとらしくせせら笑った。舞台に立っているようにだった。

「あんた馬鹿ね。先生たちがあんたを立候補させようとした理由、本気で能力を買ってくれたからとおもいこんでるわけ? あんたの鼻をいいかげん明かしてやるために、落として痛い思いさせて反省させるために決まってるじゃないの。そんなこともわからないわけ? きっと駒方先生けしかけたんでしょうねえ。学校祭の喫茶店やった時みたいに、すごいすごい、あんたしかできないとか言って。悪いけどそんなの、他人に迷惑を掛けさせないようにするためならいくらでも嘘八百言えるのよ。わかってないわね。ほんとにあんた、十四歳? 病院に行って調べてもらった方がいいんじゃないの?」

 そっと杉本の横顔を伺うと、唇を突き出すようにして何かをいおうとし、ふと上総の手に気がつき改めて肘を振った。離したくなかった。上総は指に力を込めたまま、杉本の側に張り付こうとした。とたん全力で突き飛ばされそうになり、尻餅をつく寸前でなんとかこらえた。その隙に杉本は風見の前に立ちはだかり、冷たく告げた。

「時間がないわ、どいて」

 熱いのは風見の方だった。さっきまで上総が抑えていた杉本の腕を力いっぱい殴りつけた。その場所を杉本は片手で抑えるようにし、きゅっと見返す。慌てて上総も背後に立つ。

「どかないわよ。先生たちの狙い通り、悪いけどあんたが立候補した段階で落選確実のシナリオはちゃーんと組まれているってわけ。今、空いているポストはね、書記と副会長だけどそんな人の下に立つようなのいやなんでしょ。わかってるわよ」

「選挙は役員を選ぶために存在するのよ。対抗馬が出てどこが悪いわけ。こんなところで自由な選挙を邪魔して、いんちきをやり遂げようとするなんて、腐っているわ、生徒会」

「会長に立候補する? ふうん、そうなの。勝ち目ある? 悪いけど会長候補はね、今のところ一年の霧島くんか、もしだめなら副会長の渋谷ナミーよ。いい、どっちが立候補しても、あんたがぼろ負けするのが目に見えてるわけよ」

 風見は左端で言い合いをしている男子と女子ふたりを指差して見せた。その影に佐賀はるみが隠れている。上総にはそれが見えた。見られていると気が付いたのか、わざと腰低く隠れようとしている。

「そんなことないわ」

 言いながら、杉本の視線はちらちらと腕時計の方に向かっていた。

 ──この風見さんって人、何が目的なんだ? まさか藤沖の差し金かよ。

 いや、そんなわけがない。応援団志望の藤沖会長が、いくら杉本の立候補を歓迎しないとはいえ、手下を使って追っ払うなんて姑息な真似をするわけがない。風見の真後ろで仁王立ちしている藤沖に視線を送った。目が合った。無言だった。

 ──もしかして、あの渋谷さんって女子、あの人か。

 黄色いヘアバンドをした額の広い女子と一緒に、やたらと顔の整った男子が、

「だから言ったでしょうが、俺のどこが会長に問題あるっていうんですか!」

「だから私とさっき話したじゃないの!」

 言い合いしている。たぶんあいつが、霧島さんの弟だろう。一度しか顔を見たことないが、霧島姉と瓜二つ、すぐにわかる。

 ──つまり、杉本を会長に立候補させないために、渋谷さんという女子が風見さんに杉本を攻撃させたってわけか。

 わからない。たったひとり、どう判断すればいいのだろう。明らかなのは、杉本がこのままでは口撃の末、大恥かかされて追い出されるだけだという事実のみ。風見という女子は杉本が見せる本当の姿をすべて見抜いている。誰もが口に出さないように気遣っていたことを、あらわにしていく。しかもここは、杉本が入るべき場所ではない。誰もかばう人もいなければ、必要とする人もいない。ただの異分子だ。杉本が必死に纏おうとしてきた、「完璧な自分」をあっさりと剥ぎ取られてしまうだろう。風見にはそれだけの力が十二分にある。それに、さらに、奥には。

 ──絶対に杉本が勝てない、あの人がいる。

「杉本、だからやめろ!」

 もう一度上総は杉本の腕を引っ張ろうとした。こうなったらあとは力づく。手を伸ばした瞬間、 

「そうだ、言っとかなくちゃ」

 かすかに笑みを浮かべると、風見はゆっくりと上総を指差した。

「あんたのことをね、私は先輩だなんて少しも思っていないから、隠したいだろうけど言わせていただくわ。悪いけどお似合いすぎるわよね」

 ──あんたってことはないだろ、いくらなんでも。

 上総は制そうとした。もう、残り時間はわずか。風見に言いたいことを言わせておいて、その間に上総が杉本を抑えていれば時間稼ぎができる。それまで耐えようと決めた。

 耐えられると思っていた。

「私、品山小学校に五年の時までいたのよ」

 

 ──品山小学校。

 上総の、すべての謎が解けた。


「いっこ上の、救いようもないくらい泣き虫で、犯罪者で、人でなしで、あの浜野先輩を再起不能の大怪我させた馬鹿男の話を全部知ってるわけよ。聞きたい?」

 ──泣き虫。犯罪者。人でなし。浜野。馬鹿男。

 単語がばらばらに上総の脳裏を飛び交う。目の前には風見以外にもまだたくさん人が並んでいるはずだ。なぜ何も見えないのだろう。風見の三角屋根頭すら、上総にはただの図形にしか見えなかった。確かに感じるのは隣の杉本と、手から感じるあたたかいぬくもりだけだった。放たれる風見の言葉には、上総が三年前あのサイクリングロードから放り投げた記憶がすべて、織り込まれていた。

 ──なぜ、追っかけてくるんだよ、浜野。


「サッカー部のスターだった浜野先輩のこと、忘れるわけないわよねえ。私、浜野先輩の妹の友だちと仲良かったから全部聞かされたわよ。浜野先輩って、いじけ虫のあんたがこれ以上いじめられないようにっていろいろかばってくれてたそうじゃない? ずっといじめられていて、それが本当は当然だったのに逆恨みして、クラス全員から総すかんくっていたあんたのことを、『俺がかばってやる!』って懸命に仲間に入れてあげようとしてたの、知らないで! 有名よそれ」

 ──無理やりドッジボールの輪の中に放りこまれて、一方的にボールぶつけられて、脳震盪起こして保健室に運ばれて「たかがこのくらいで泣くなんて男らしくないよねえ」とか言われて笑われた俺が、馬鹿だっていうのかよ!


「誰にも遊んでもらえなくて、ちょっと話し掛けたらすぐ泣き喚いて、それでしかたなく放置してたらまわりからいじめをやったと思われて、みんなうんざりしてたってね。ひとりぼっちで本読んでいて淋しそうだから、一緒に探検ごっこに入れてやろうとか、サッカーに混ぜてあげようとか、いろいろしたみたいよ。可哀想な馬鹿男子のために、今日はあれやろう、明日はこうしてやろうって、一生懸命考えてただって!」

 ──放課後、十人がかりで捕まえられて、原っぱに連れて行かれて、服を脱がされて見られたくもないのにじろじろ見られて笑われて、その後無理やり浜野のその手の話を聞かされて、最後にキーパーの練習をしろとか言われて、ずっとボールをゴール前でぶつけられてたあんなことこんなこと、全部、善意だったとでもいうのか? 逃げちゃいけないのか? 自分の身を守るために必死に走って家に戻るのが、そんなに許されないことなのかよ!


「なのにね、最後の最後にね、どんなに一生懸命遊んであげようとしても、結局どうしようもなくて、しかたないからみんなで静かに青大附中へ送ってあげようってしてたのに、あんた何したわけ? なんであんなことしたわけ? なんで、浜野先輩を土手から突き落として、足にものすごい怪我させたわけ?」

「怪我って、それは」

 目の前で弾丸をぶつけてくる風見に、何も返せない。

 浜野が大怪我をしたという話も、知らないわけではなかった。

 恋人の杉浦加奈子からその話はすべて聞かされていたから。

 でもどのくらいひどい怪我だったかは、覚えていない。

 聞きたくもない。

 上総が品山小学校のグラウンドで昼休みにぶつけられたドッジボールの球と同じ程度の痛みなのだろうか。。

 三百六十度飛んでくるボールを避けられず、腰を抜かしてへたり込んだあの時と同じだった。あの時と違うのは、泣き叫んでいないことだけだった。

「浜野先輩と卒業式に決闘したっていうのは、見方を変えれば男らしいって言われるでしょうね。恩をあだで返されたってことさえしらなければね。一生懸命仲間に入れてあげようとして、結局しっぺがえし食わされたら普通恨むわよ。浜野先輩って本当の男だわ。『あれは男同士の決闘だったんだ、だから、もうあのことは忘れろ』って、同じクラスの連中に話したんだってよ。ふうん、そうなんだ、足のどこかわかんないけど、ひどく痛めてしまって、サッカー部でいまだレギュラーに入ることができなくなったって噂聞いたけど、それって、誰のせいなのかなって思ったわ。みな、その話聞いた人、口を揃えて言うわよ。あの逆恨みの馬鹿男のせいで、将来はオリンピックのサッカー選手になれるはずだった浜野先輩が、人生棒に振ったってね」

 言い返せない。何一つ、叫びたくても叫べない。三年前のように、声張り上げて泣きじゃくっていた立村上総には死んでも戻りたくない。青大附中の生徒たちの前で、そして、杉本梨南の前では、殺されたって戻りたくない。

 ──青大附中入試までずっと「立村は落ちるに決まってるだろ、こーんな頭悪いんだもんな。いまだにものを指で数えてるんだもんな。青大附中に受かるわけねえよ」とか毎日浜野に言われたよ。受かったら受かったで、「お前、俺の友だちがな、いっぱい青大附中に行くんだ。だから、立村、俺から逃げられると思うなよ」とか脅されて、俺はどうすればよかったんだよ。あんな奴らに最後の最後まで追いかけられて、地獄の中学時代を待ってろって言うのか? ここで復讐しないで、どこでやれっていうんだよ! それ以外の方法なんて、あったら教えろよ。もしあの時、あいつのカンペンケースを落っことさないで、そのまま言うこと聞いて青大附中に行くことになってたら、俺の中学時代三年間はすべてずたずただったに決まってる! 逃げちゃいけなかったのか? 自分の身を守って、どこがいけなかった? どうすればよかったんだよ!

 杉本はずっと上総の眼を見つめたままだった。たったひとり、顔の輪郭がはっきりと映っている。上総の側で、冷たい視線をそのままにして、ゆっくりと呟いた。 

「先輩、本当ですか、人間として、そんな、最低なこと」

 ──俺と浜野と、どっちが人間として最低なんだよ、杉本。俺のほうなのか? お前が見ても、俺がやっぱり間違っているのか? 

 喉がかれるほど叫びたい。でも、評議委員長たる立村上総には何も言い返せなかった。

「とっくに知ってるだろう」

 唇をゆがめて悪ぶるのが、今の上総には精一杯だった。


 耳元で藤沖の声が聞こえた。いつのまにか風見の前にすっと滑り込み、上総を真正面から見下ろした。背が高い。大柄な藤沖。両腕を組み、

「立村、今の話、事実か」

 尋ねた。

 今まで隠されていたことが、本当は奇跡だったのだ。覚悟を決めよう。

 上総は藤沖の眼を見つめようとした。だが、その瞳が見つからなかった。杉本以外の人間の顔が、すべて曖昧模糊なものとして映っている。目の前に映る景色も背後で噂しているであろう男子女子連中も、ただのどんぐりにしか見えない。藤沖と認識する方法は、太いがらがら声だけだった。

 自分の声が、情けなく震えている。

「事実は、事実だ」

 どういう答えが返ってくるかも、上総は覚悟していた。

 たとえどんなにいやなことであっても、嘘をついたり汚い手を使ってまで遠ざけることはしない藤沖。杉本に正々堂々かかってこい、とメッセージを送った藤沖だ。自分の保身のために手段を選ばなかった上総を、許すわけがない。

「悪いが、もうお前とは、話をしたくない。理由はわかっているだろう」

 上総は頷いた。藤沖の口元がくしゅっとゆがんだように見えた。すぐに背を向け、藤沖は生徒会の引き戸を閉めようとした。半分くらい閉めかけたところで後から風見が片手をかけ、すべりこみ、音を立てて隙間なく閉めた。

 杉本はその戸をちらりと見つめ、もう一度上総と真正面に向かい合った。

 なぜか杉本の目鼻立ち、輪郭ははっきりと上総の眼に映っていた。

 まっすぐで、突き刺さるような大きな瞳。

 襟元の赤い蝶結びリボン。

 ほつれ毛一本も落ちていないりりしい耳元。

「私も、もう二度と立村先輩と話をすることはありません」

「杉本、俺はただ」

「いいかげんにしてください、立村先輩。あなたは人間として、もう近寄りたくない人です」

 一本調子の言葉で杉本は上総に、縁切りを告げた。

「立村先輩と一緒にいたら、私の価値はなくなります」

 杉本は戸を一気に全開した。半分跳ね返ったのを指先で抑えると、生徒会室の中へ向かい、高らかに言い放った。

「申し訳ないのですが、あと一分あります。生徒会長に立候補したいのです。もう一度言います。私は生徒会長に立候補したいのです。申し込み用紙をお願いします」


 ──品山小学校。

 風見の発した言葉を耳にした瞬間、杉本以外の顔がみな、同じまとまりにしか見えなくなった。本当だったら杉本を追いかけて首根っこ捕まえて引きずり出したい。上総は腕時計を覗き込んだ。あと一分弱で四時を回る。あと一分、どうして持たなかったのか。一歩、足を踏み出した。しかし見えるものはただの「人」の塊だけだった。杉本の背中だということはわかる。顔がないので取り押さえていいのかどうかも判断できない。足がすくむ。奥で藤沖らしい黒い塊が見える。周囲の連中がわやわやと騒ぎ立てているのが聞こえる。音だけは聞こえるのに、姿がつかめない。水の中に沈んだ国を見ているようだ。立つだけで精一杯だった。

 とたん、すばしっこく右側から女子らしい塊が走り抜け、杉本の前に立ちはだかった。何か白いものを突きつけている。

「はるみ、あんたなんでそこにいるの」

「もちろん、立候補するためよ。梨南ちゃん」

「あんたなんかが、何できるというの」

「私、会長に立候補することに決めてたの。今出すわ」

 ──佐賀さんだ。

「もし梨南ちゃんが会長に立候補したら、私に勝てると思う? 周りはみな、梨南ちゃんのことをいじめた悪い子だと思い込んでいるし、二年はみな梨南ちゃんの敵に回るわ。もしかしたら立村先輩たちが三年の票を取りまとめてくれるかもしれないけどそれだけよ。それに、もし副会長か書記か、それに立候補してだまって信任投票となったとしても、私の下で梨南ちゃんがまんできる? 私なんかの命令を聞く気になれる? 私なんかに命令されて、がまんできる? 私、梨南ちゃんがそんな恥ずかしいことがまんできるなんて思ってないわ。だからお願い、ここから出て行って。これ以上、人を傷つけないで。早く、立村先輩に謝ってあげて。今、味方でいてくれるのは、立村先輩と秋葉くんだけなのよ」

 高らかに告げた佐賀はるみの勝ち誇った声が、びんびんと上総の鼓膜を叩いた。

 たぶん、他の女子たちからは聞いたことのない、自信に満ちた言葉だった。

 清坂美里からも、他の三年女子評議からも、そして杉本からも、落ち着きはらったその声を耳にしたことはなかった。

 ──杉本、戻ってこい。もう勝ち目ないんだ。

 両手をこぶしにし、上総はうつむいたまま祈った。

 ──佐賀さんに手を伸ばそうとしたことが、杉本、すべての間違いだったんだ。

 まだ戻らない識別力。

 上総は目を閉じた。浮かんでくるのは小学校卒業前、決闘申し込み直前にぶつけられた、、あいつの言葉だった。


 ──立村、お前な、そんなうじうじしてるんじゃねえよ。ったくなあ、こんな何にもできねえ馬鹿な奴がどうして青大附中に受かったんだろうな。あそこにはまだ毛も生えてねえしなあ。どうしてお前、逃げるんだ? 俺たちが怖いのかよ。ふーん、怖いんだな。ばっかだなこいつ。俺たちとまっとうに話もできねえくせに、青大附中の連中とさしで話できると思ってるのか? お前の母ちゃんの尻にくっついて、追っ払ってもらえると思ったら大間違いだぞ。いいか、立村、このままだったら青大附中行ってもべそかいていじけてるのが関の山って奴だろ? 俺から逃げられると思うなよ。青大附中で逃げられると思うなよ。どんなにお前が、自分の都合いいように言い訳したって、見てる奴はみんなわかってるんだ。俺は青大附中結局受けねかったけどな、塾のダチは結構受かってるんだ。お前のこと、みーんなお見通しなんだ。そいつらにお前のこと、よっく言っとくからな。いいかげん、立村、逃げるんじゃねえ! ぶん殴りたいんだったら、いいさ、いつだって、俺が受けて立ってやる!


「あのー、すでに四時過ぎたんですが、いいですか。締め切って」

 生徒会室から女子の声が聞こえた。杉本も、佐賀も言葉を発しない。かわりに藤沖らしきいがらっぽい声が、杉本を相手に引導を渡していた。

「もう用はないでしょう。外には立村がまだ待っているようだから、帰った方がいいでしょう」

 杉本の肩を軽く押すようにして、藤沖らしき塊は杉本を戸口までエスコートし、敷居すれすれまで押し出した。上総は杉本の顔を見上げた。唇をかみ締め、かすかに腫れたように見える頬の赤さ。触れたらそこから膿があふれて崩れ落ちそうだった。

 振り返ろうとする杉本の鼻先で、戸が派手な音を立てて閉められた。跳ね返って隙間が開くことはなかった。生徒会室の中は閉じられた。もう杉本の入る隙間は、どこにもなかった。

「杉本、あのさ」

「近づかないでください!」

 上総は廊下をぐるりと見渡した。杉本以外識別できない自分の眼が、まだもとに戻っていないようだった。周囲に立つ野次馬生徒たちはみな、灰色の制服色をした円壁に見えた。その中を背筋ぴんと伸ばし、歩いていく杉本を上総は追おうとした。たったひとり、見分けのつく相手は杉本だけだった。と、ぐいと肩を捕まれた。男子だった。息が荒かった。かすれた声だった。首一つ高い相手。識別できた。

 新井林健吾だった。

「立村さん、今、何があったんですか」

 かろうじて「ですます体」を使ってくれている。

「新井林、なぜここに」

「こんな騒ぎになってたら、誰かが知らせるに決まってるだろうが!」

 最低限の敬語もなく、新井林は吐き捨てた。杉本とすれ違ったのだろうか。

「杉本を今、見ただろう」

「まさかあの女が生徒会に立候補?」

 上総は首を振った。それだけはできた。

「どういうことっすか立村さん! 答えろよ、おい!」

 どうせわかることだろう。だんだん包囲されている壁が、ひとりひとり異なる顔に映りはじめた。ようやく識別能力が戻ってきたようだった。歯の麻酔がかかったままのような、痛くしびれるような感覚の中で上総は告げた。

「佐賀さんが、生徒会長に立候補した」

「冗談やめてくださいよ、何言ってるんだよ」

 丁寧語とため口を混ぜて新井林が笑おうとする。上総は首をもう一度きつく振った。

「本当だ。たった今、佐賀さんが生徒会長に立候補した。来週の信任投票で決定だ」

「ざけんなよ、おい、あんた、正気かよ」

「嘘だと思うなら、中に入って確認してみた方がいい」

 上総のネクタイを、新井林が興奮のあまり握り締めひっぱり出そうとした。その手を静かにはずし、上総は背を向けた。

 もう杉本の姿はなかった。ざわめいていた野次馬の人壁もひとり、ふたりと消えていた。背中で聞いたのは、生徒会室の戸を壊さんばかりに開け閉めした新井林の怒鳴り声だった。

「佐賀、ちょっと来い!」

 それ以上何が起こったのかはわからなかった。人垣の間から洩れるささやき声、

「ちょっとちょっと聞いた? 立村委員長って……」

「有名な話じゃんかよ」

「いやー恥ずかしいよね、恥かかされてるよね。美里もあんな馬鹿と付き合うのやめればいいのにね」

 ボールが三百六十度、一気に集中攻撃してくる痛み。

 あの頃と違うのは、へなへなと崩れ落ちて泣き喚くことができないこと。

 すでにすべての人たちの表情を読み取ることができる眼を取り戻していた。

 せせら笑われる日々が明日からやってくることを、今の上総は読み取れた。

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