其之伍―かれのきょうげん―
おっとう、おっかあ。私は元気です。ただ一人が寂しいだけです。
一つ聞きとう事がございます。彼等の言うまほろばとは何処ですか。
私はそれの場所の見当がつかず、毎日苛められてばかりです。
おっとう、おっかあ。まほろばとは何ですか。
素晴らしき都だというのなら、
私はおっとうとおっかあがいる場所がまほろばだと思います。
憎い。この面が憎たらしい。偽物まがいのカミサマめ。
これこそバケモノ、怪物よ。今すぐ剥ぎ取り割ってしまいたい。
だけどこの子も被害者なのだ。可哀想なこの子もまた、両親と離れ離れになり
無理矢理神として崇められている。
彼女の人生を共に歩んだこのお面。青葉は自分の顔に着けられたお面の頬を
子供をあやすように優しく撫でた。
「私までもがお前に頼ってしまいごめんなさい。
でも、どうしても今だけはこの願いを口に出して言いたいのです」
流した涙がお面の間に流れて彼女の頬に張り付いた。
「お父さん、お母さん。今どこにいるのですか?また皆と一緒に暮らしたいよ……」
彼女の願いは空しくも静かな空間の中に吸い込まれて消えた。
しかしその後に続くすすり泣く声だけは部屋の中に響くのであった。
小さな壁時計が時刻を知らせる鐘を鳴らす。我に返った青葉は時計と窓の外を見た。
先までは真っ赤な夕焼け空だったのに、外はすっかり夜になっていた。
辺りは暗闇に支配されている。
もうこんな時間、社に行かなくては弟のアキヒロが痺れを切らして苛立っている頃だ。
青葉は急いで立ち上がり、弟の待つ社へと向かおうとした。
「痛っ!」
一、二歩歩いたところで彼女は何かの欠片を踏んづけてしまった。
足をどかしてよく見ると、白い陶器のような小さい欠片が落ちている。
血が付いたその欠片を拾い上げて辺りを見回し、割れたものが無いかと探してみるも何もない。
次にふっと部屋の電気が落ちた。
外の数少ない街灯も明かりがついておらず、夜空の星たちだけが暗闇を頼りなく照らしている。
山奥に孤立したこの小さな村では停電などよくある事。
青葉は停電に関して特に気にもせずに急いで玄関に向かったのだった。
外履きを履いて玄関の引き戸に手をかけた。その時だ、悲鳴のような小さな声が外から聞こえた。
その声に驚き、何事かと恐る恐る引き戸を少しだけ開ける。
ゆっくりと外を覗いてみるも、暗闇に包まれた世界では何も見えない。
それでも尚か細い悲鳴や叫び声が聞こえる。
暗闇に目を凝らす青葉が当たりを見渡していると、
緩い坂道の上にある民家から人影が出てくるのを見つけた。
人影は懐中電灯を持っており、そこだけが明るい。
影はふらふらと道を照らしてこちらに向かってくる。
途中、ふらついて電柱にもたれると懐中電灯を持った手で汗をぬぐう仕草をした。
その時ほんの一瞬だけ影の顔が照らし出された。青葉は我が目を疑った。
なんとその人影はアキヒロだった。
アキヒロは山奥にあるアオオビ様のお社にいるはずなのになぜ?
だがそれよりも、もっと恐ろしいものを見た気がした。
より凝視しアキヒロの行動を観察すると、次に彼は
さっきお邪魔した民家のはす向かいの家へと入っていった。
その家も停電のために窓の向こうが真っ暗だ。一体彼は何をしているのだろうか。
あの家には彼の親しい友人や知人はいないはずだ。
青葉がそう思っているとまた悲鳴が聞こえた。
今度ははっきりと老婆や子供の悲鳴が響く。が、すぐにそれらの声は消えてしまった。
一体何なのだ。彼は何をしている。
恐怖と焦りに胸を揺さぶられた青葉は外を見るのをやめて引き戸に背を当て座り込んだ。
何が起きているのか。何故悲鳴が聞こえるのか彼女の頭の中は混乱していた。
あの一瞬に見たアキヒロの姿を思い出し体を震わせる。
彼の顔は凍りついたように表情が無く、まるでお面の顔のようだった。
そして青葉の見間違いであると思うが、彼の頬には赤いシミが付いているようにみえた。
あの赤いシミと民家から聞こえる悲鳴。在りもしない最悪な想像が頭をめぐる。
きっと気のせいだ。アキヒロだと思っているあの人影は別の誰かなのだと
確認しようと、またわずかに開いた引き戸から外をのぞいてみた。
丁度その時、目の前の道を若い村人が走って行った。
どうやら彼も悲鳴を聞きつけて民家の様子を見に来たらしい。
坂を上り、民家から現れた人影と鉢合わせすると村人は急に大声で疑問の声を怒鳴りちらし
人影に攻めよった。青葉と同じように何だ、何故だと繰り返す。
アキヒロなら五月蠅そうにその声をあしらってこの場から立ち去ろうとするだろう。
しかし人影は逃げも隠れもせず堂々と村人に立ち向かう。
「お前もカミを信じる口か? 人殺しの加担者か?」
青葉は背筋を震わせ、目を丸くした。彼の声、紛れもなくアキヒロの声だった。
彼はドスの利いた低い声で村人を脅す。
その気迫にやられた村人は肩を強張らせて首を横に振った。
「嘘を吐け。お前は三年前に俺の親友を馬鹿にしただろ。
ユウコに恋煩いしていた俺の親友を、罰当たりなおこがましいと罵り
彼が死んだら清々したと笑っていた口だろが!」
言い終わるや否や村人の首にもう片方の手に持っていた物を刺した。
それは黒塗りの柄が滑らかに光る匕首で、村人の首に深く刺さると
それを勢いよく横にひいた。
上手く呼吸管を切ったのか村人は悲鳴を上げることも出来ずに苦しそうに自分の首を抑える。
倒れ込むようにしゃがんだ村人をアキヒロは容赦なくめった刺しにした。
怒りのままに刀を振るう姿に恐怖した青葉はすっかり怯えてまた玄関の陰に隠れて震えた。
彼は何故急に村人を殺しているのだ。
気でも触れてしまったのか。それほど追いつめられていたのか。
村人にとどめを刺した彼は荒れた呼吸を整えることもせず、またこちらの方へと向かう。
今の彼には青葉の求めていた逞しく、堂々としたアキヒロの姿がある。
弱々しく逃げていた彼はいない。
「だけどこれは違う。嘘でしょこんなの」
これじゃあ町長とアリカを殺した村人と一緒だ。
アキヒロの親友を殺した村人と一緒じゃないか。
只々、涙、涙、涙。彼女の涙が止まることはなかった。
これは嘘なのだ。悪い夢なのだ。青葉は自分に言い聞かせて涙を流す。が
そんな中、彼女は先ほどアキヒロが言った言葉を思い出した。
『俺の目で見たものしか信じない』
いつまでも嘘だと口にして思い込み、目の前の惨劇を無視することはいけない事ではないか。
これでは過去の村の過ちと一緒だ。
彼にばれないように低い位置から外を覘くと彼は家を素通りして坂の下へと歩いていた。
疲れ切っているのか先よりも大きく肩で呼吸をし、歩みも覚束ない。
手には血のりの付いた懐中電灯と匕首。他にも腰にいくつか武器のようなものを差している。
照らされる彼の足元の後ろには赤くかすれた足跡が。
我が目で見た彼の姿。これは本当の事なのだ。紛うことなき事実なのだ。
何故にどのようにしてこのような事が起きたのか、理由も何もわからない。
しかし彼を止めなくては、と彼女は最後の涙を流すと腹をくくって立ち上がった。
===
アキヒロは自分の歩む先を照らす電灯の光を虚ろな目で見つめていた。
匕首の刃は刃こぼれしており、もう使い物にはならない。
腰に差した小さな鎌にも沢山の血のりがこびりついている。
次の目的地へと向かうように彼は道を歩くが途中で蹴躓いてしまった。
膝と両手を地面につき、荒い呼吸を飲み込むと「まだだ……まだ立ち止まれない」と呟いた。
虚ろだった目には熱い闘志がどす黒い炎のように燃え上がり、怪しく光っている。
一度呼吸を落ち着かせて彼はまた立ち上がろうとする。
「いけないよ……」
「誰だ……!」と振り向いた彼の顔には村人の返り血と、驚きの表情がこびりついていた。
その顔はなんとも表現できない。恐怖と喜びと悲しみとが混ざり合っている。
泣き出しそうな眼を堪えているようにも見える。
「いけないよ、アキヒロちゃん。みんな死んでしまう」
このままでは大事な貴方がバケモノになってしまう。
お前がバケモノになるくらいならば私がその罪を背負って全てを断ち切ろう。
青葉はアキヒロの首にゆっくりと手をかけた。
彼は抵抗も何もしない。ただ静かに彼女の顔の面を見つめている。
「あぁ、夢か幻か。姉さんなのですか……?」
彼女のか細い腕からは想像できないほどの力が込み上がり、彼の首を撫でるように絞める。
姉は強く優しく弟の首に手をかけて彼の息の根を止めた。
一人取り残された彼女。
『アキヒロちゃんがお前を助けてくれる』
消えた両親の残した言葉。その言葉が彼女の胸に染み渡る。
もう父もいない、母もいない。
そして大切な大切な愛おしい弟をこの手で殺めてしまった。彼はもうこの世にいない。
彼女の着けたお面が血の涙を流す。それは地獄に垂れる赤い糸のよう。
「あぁ! 悲しき姉弟愛。夢なら醒めてと願ってみるも
どれも真でどれか嘘。それを決めるは貴方次第。
姉たち手にした糸と糸。さぁさ! どちらの地獄に落とそうかと、それを決めるは彼女たち次第」
老婆の語りが終わる頃、お天道様は山隠れ
提灯の灯りがともされた人が賑わう祭りの夜。
母さん呼ぶ声振り向けば、窓の手前で呼んでいた。
「明るいうちにお帰りと、お父さんとの約束覚えてる?」
嬉しそうに手を引かれるお嬢さんに籠の目の向こうの老婆が彼女に問うた
あんたはどちらの地獄からおいでなすった?
<つづく>