其之参―だれかのはつげん―
逢魔が時の藍の空。響くは祭囃子の音。
待ちに待った夏祭り。可愛い我が子に両親が、不安を隠せず見据えてる
「明るいうちにお帰りよ」とお父さんが
「灯あるうちお帰りよ」とお母さんが
少ないお駄賃握りしめ、提灯のように揺れ歩く
「可愛いべべ着たお嬢ちゃん」
呼ぶ声振り向きゃ見世物小屋の、籠の中には手招く老婆がにたりと笑う。
腕は枯れ木のようだと思うていると、老婆が語るは童の話。そのお伽噺は嘘か真か。
桜が咲き誇る芽生えの季節、雲一つない青空は清々しいほどに澄み渡っている。
春の暖かな風が爽やかに吹いて、森の木々も若葉を気持ちよさそうに揺らしていた。
桜並木に面した真新しい道路の緩い坂道を同じ制服を着た子供たちが歩いてる。
足取りが軽やかな元気な子がいれば重く引きずる子もいる。
彼らは新しくできた町の学校に通う事になる大切な生徒たちだ。
何もかも新しく素晴らしい学園生活がこれから始まるぞっ
と言う気持ちの良い空気に包まれた最高の舞台なのだが
そこには到底似つかわしくない異様な雰囲気を身にまとう数人の子供たちが
バス停から現れた。
彼らはこの町が出来るより随分昔からある村に住んでいる子供たちだ。
新しくできた町の町長の計らいにより、この学校で町の子供達と一緒に
勉学に励む事になっているのだ。
村の一人の少女が口を開く。
「さぁ、新しい学園生活。沢山の友達を作りましょうね」
「はい」と彼女の後から降りてきた子供たちは嬉しそうに笑って返事をする。
しかし彼女の隣に立つ少年はつまらなそうな顔をし、蔑んだ目で彼女を睨んでいた。
これだけでは村から出て来た子供たちが新しい友達ができる事を楽しみに
しているように思えるのだが、
初めに言った異様な雰囲気というのとは別物である。
彼女らの異様な雰囲気、それは始めに言葉を発した少女から
作り出されているものである。
彼女はお面を付けていた。白く透き通った陶器のお面。
子供の顔ではあるが惚れ惚れするほどに美しい顔をしており、
口元はうっすらと微笑みを含んでいる。
しかし不気味にも目は全く笑っていない。
気持ちのいい返事をした子供たちも張り付いた笑顔を引きつらせている。
そのあまりにも不気味で不可思議な村の子供たちに、
町から来た元気に歩く生徒たちや気怠そうに歩く生徒たちは
一瞬、歩みを緩めて遠目に彼女らを物珍しそうに眺める。が、すぐに
我に返って足早に学校に向かった。
誰一人として彼女らに関わりたくないと思ったのだ。
そんな周りの目などを気にせずに彼女らは颯爽と校門をくぐり、
入学手続きの時に言われた教室に向かうのであった。
彼女らは楽しそうに会話し笑いあっている。
しかし、先頭を仕切る彼女の隣で相変わらず
つまんなそうな顔をする少年がいた。
彼の名は仮にAとしておく。彼は先頭を仕切る女性の双子の
兄弟で弟である。しかし彼は実の姉である彼女の存在をあまり
良く思ってはいなかった。
なぜなら彼女はこの村の慣わしを受け継ぐ使命を任された巫女のような人だったからだ。
村の慣わしとは山と山に住むカミを熱心に祀る者達によってつくられたもので、
彼らを取りまとめる彼女、青葉も崇拝される対象であった。
少年も幼少の時は村の慣わしを信じ、姉を誇りに思って山を崇拝していた。
隣町ができるまで陸の孤島であった村ではその教えしか存在しなかったのだ。
しかし数年前、外へ嫁いだ者が村に一度帰省した時があった。
その時彼は奇妙な乗り物に乗っていた。それは車という乗り物で
小さな村には存在しない誰もが初めて見る物だった。
初めは村人誰もが興味津々で車を見ていたが村には不必要なものだと分かると
次第に興味が消え失せて、みんな車から離れていった。
しかしA一人はすっかりその車の虜になっており、車の持ち主が家にいる間は
何度も彼の元に訪れて外の世界の話を聞きだしていた。
車以外にもたくさんの新しい文明が外の世界にある。
ラジオや電車いろんな便利なものが外にはある。電話しか電化製品を知らなかったAは
それ以降、新しい物や科学的なものなどが大好きとなった。
その心に対するように今まで信じていた村の慣わしを全て蔑み馬鹿にするようになってしまった。
耕した畑でご飯が食べられるのは山のおかげ、木々がざわつけば山が怒っている。
山はいつでも村の人たちを見守っているというお伽噺など
ちゃんちゃら可笑しい。そんな非科学的で理論的でない存在があるものか。
山に住まうカミなど弱い人間が作り出した想像上の怪物だ。
そう思い込んだ彼は自分の作り出した教えに従い続けているのであった。
つまりは山のカミを崇拝する要となっている彼の姉、青葉の存在はあってはならぬものなのだ。
しかし彼はそれを大声で公言はしない。したくともできないのだ。
何せ彼の家はカミの社を手厚く守る一族であったからだ。
一言でも姉や自分の家の暴言を吐いてみろ。
たとえ実の弟であっても村人全員が鉈を持って襲いかかってくるだろう。
そんな野蛮で恐ろしいことが安易に想像できる村なのだ。
話は戻り、彼らは割り当てられた教室へと向かう。
Aと青葉は姉弟だからかクラスが違った。
青葉は「あら残念ね」と感情を乗せない独り言を、隣のAに聞こえる程度に呟いた。
だが彼は清々すると心無いことを思いつつ「残念だね」と言って
自分に割り当てられた教室にさっさと逃げ込んだ。
そして何事もなかったように黒板に書かれた座席表通りの席に着く。
黒板正面の列ではあるが一番後ろの席。前の人の座高が高ければ
授業中の昼寝が安易な場所。窓際の席が一番の当たり席だと
思っていた彼はその真実を知った時、一人小さく喜んだ。
しかしその喜びもつかの間、緊張じみた声が隣の席から話しかけてきた。
「は……始めまして。私、アリカと言います」
かけられた声の方へ目をやると、身だしなみを綺麗に整えた少女がこちらに
震える手を差しのばしている。彼も印象良く自己紹介をし、優しく彼女と握手した。
「南雲君って、村から来てるのでしょ。送迎バスがあっても遠いよね?
朝早そう……私は朝が弱いから早起きできるなんて凄いな」
緊張している割には随分とおしゃべりな女だ。都会から来た子は皆そうなのかと
驚く彼は村の女達から感じない洒落た都会の女らしさにすっかり興味を持ってしまい
彼もまた楽しそうに彼女と話をした。
しばらく話をしているうちに彼女は町長の娘だということを知った。
村の子供が学校に通うのにAの祖母と彼女の父との間でいざござがあったと聞いていたし、数人の生徒の間では噂話になっていた。
それで彼女は自分に対して緊張しているのだろうとAは一人納得し、吟味するように彼女を見る。
「そんな畏まらなくていいよ。
私たちは南雲君たちの村に無理矢理押しかけてきた……言わば侵略者だから」
侵略者とは彼女なりの比喩なのだろう。しかし彼からすればそれは事実。
その事に気づいた彼女は少し頬を赤めながら「ごめんなさい」と言う。
彼女の返事にAが口を開けて話しかけようとした時だ。予鈴の鐘が彼の言葉を遮った。同時に担任となる教師が教室に入ってくる。
生徒達は自分たちの話を慌てて中断し、教師の方へと向く。
その間のごった返した音に紛れるようにAは「気にしなくてもいいよ」と
笑って彼女を慰めるような言葉を言うとちゃんと受け取ったのか
彼女も笑って小さく会釈をした。
気にせずともいい。むしろ彼女達の侵略を彼は感謝しているぐらいだ。
この日は始業式の日でもあったため授業らしきことはせずに、
一通りの予定を終わらせると生徒たちは各々の荷物をまとめて帰り支度を始めた。
「みんな席に着け」と担任の号令がかかり朝の朝礼と変わらぬ帰りの挨拶を始めようと、明日からの予定が書かれた手紙を数え分ける。
すると、教室の扉が急に開かれた。
青葉だ。彼女は何事もなくA達の教室に入ってきた。教室中の者たちが
突然現れた青葉に注目し、見つめるもすぐにその不気味なお面に恐怖して
目をそらす。だが彼女はただ一点Aの方を向いていた。
その眼差しにハイハイっと言ったようにAは重く腰を起こした。
我に戻った担任教師が帰りの挨拶がまだだと警告を出すも
それを無視してAは「お先に失礼します」と教室の者たちに一礼した。
教室の中は何だ何だと淀めき、担任も未だに席に戻る様にと怒鳴り声を出す始末。
二人は野暮ったいと言った感じで教室に背を向けた。
「南雲君、また明日ね」
Aの背中にかかる柔らかい彼女の声。振り向くとアリカが小さくにっこりと笑っていた。Aも小さく口元を笑わせると二人は教室を後にした。
「また明日って言った子、あの子は誰?」
青葉の純粋な疑問。
「隣の席の子、村長の娘だってさ」
その答えに「あら、面白そうね」と妙に上機嫌に彼女は答える。
「なあ姉ちゃん。わざわざ教室に迎えに来なくってもいいよ。
俺から迎えに行くから今度からは自分の教室で待ってろよな。
皆の顔見ただろ!恥ずかしかったんだぞ!」
「驚きの顔だったわね」
Aが怒鳴るも、青葉は相変わらずケタケタと笑い声を出してごまかした。
無表情のお面のから聞こえる彼女の笑い声が気味悪い。
「別にいいじゃない。うちの担任がグチグチうるさくってね。
飛び出してきちゃったの」
「グチグチって?」
「お面を取れと……」
その言葉を最後に二人の会話が止んだ。
まだ他の生徒たちが教室にいる中、誰もいないバス停の椅子に並んで座りながら
風に揺れる木々のざわめき音を聞いている。
「それで……」
Aが堰を切る様にまた話し出す。
「それで、なんて言ったの?」
「村の慣わしには触れないという約束での合併ですよね?
それとも先生は、宗教的な理由で肉が食べられない生徒に肉を食えと言って
無理矢理食わせる人なのですか?」
言ってやったりといった感じの彼女に、最悪な返し方だと
Aは顔を小さく引きつらせた。
こんな廃れた村の気持ちが悪い土着信仰を、誰もが知っている宗教で例えるだなんて
おこがましいにも程がある。
心の中で吐き捨てながらも口先では「おう、そうだな。なるほど」と
興味がないといった風に上面で彼女を肯定しておいた。
お面越しに青葉の瞳がAを見つめている。
彼女としては何かしら反応が欲しかったのだろう。
しかしそんな要求に気づかぬ弟にそれ以上何も声をかけることはなかった。
また二人は正面を向いて遠くから聞こえるエンジンの音に聞き耳を立てて
バスが来るのを待っていた。
それからの学園生活と言えば傍から見れば何の面白味もない
平凡で平和的なものであった。
しかしAたち村の子供たちは少しずつではあるが
学校の生徒と馴染んで自然な笑顔を見せるようになっていた。
他の生徒と一緒に本を読む者、勉強をする者、隣の席の友達と話をする者。
彼らは各々で十分に学園生活を満喫していた。
しかし言わずもかな、青葉だけは相も変わらず授業中でも朝礼中でも
好き勝手し放題で教師達は彼女に注意しようにも、青葉やお面には手を出すな
口を出すなと村と町長から釘を刺されていたので困り果てていた。
青葉に注意できない指導できないと鬱憤が溜まる教師たちの矛先を一身に受けた
Aもいい加減、姉の所業に滅入っているようで隣の席のアリカに
自然と愚痴をこぼして相談したりしていた。
だがAはそんな学園生活に嫌気などを感じているわけではなかった。
教師たちは青葉についてよくAに当たり散らすが、ちゃんとA自身の事を見ているし
勉強の相談に乗ったり、心配してくれるので嫌いにはなれない。
村しか知らなかった子供たちにも外の世界の友達ができて
とても刺激的な体験をしていると満足していた。
Aがアリカに感謝し、求めていた外の世界に通ずる人たちとの接点や、
興味のある物に対して知らなかった事を知る事が出来る充実な時間に
彼は十二分満足しており毎日が楽しくって仕方がなかった。
そんな毎日が何事もなく進んでいく。これほどの贅沢が他にあるものか。
いつまでもこんな日々が続けばいいと思うも時間はどんどん進んでいく。
桜が全て散り緑の若葉が芽吹き出す。次第に鬱陶しい雨が降り出して
梅雨の季節が訪れた。
梅雨の季節になると村から来ている生徒たちは何かそわそわしだして
青葉も一か月前から学校を休むようになった。だが誰も理由を聞きには来ない。
他の生徒らが村の夏祭りの準備か何かだと噂をしていたが、まさにその通りだった。
Aの大っ嫌いな村の行事の一つで七月の終わりごろに開かれる夏祭り。
その準備のために青葉は山に籠ったりと忙しくって学校には来れていないのだ。
丁度、学期末のテストと重なるも教師たちは彼女に関しては何も触れなかったので、
Aにとっては比較的平和な一か月を過ごすことが出来た。
そしてしばらくすると期末テストの終了を告げる予鈴が鳴り
一学期も終わりが近づいてきた。
「ねえA君、今度町で夏祭りをするんだ。一緒に行かない?」
アリカからの誘いに一瞬Aはドキッとする。新しくできた町において
何かしら行事が欲しいと思ったアリカの父が最も早く行動に移せて名物にできる物と
考えた結果、第一回町内会の夏祭りを開くことになったのだと言う。
娯楽の少ない町に少しでも楽しい行事を作り、工場で働く従業員の鬱憤を
取り除いてあげたり、彼らの家族にも楽しんでもらいたいと彼女の父親らしい
周りの人を思っての理由であった。
Aはその話を聞き、と言うよりもアリカとのデートを考えると心を弾ませて
誘いにのろうとした。が、何かを思い出したように彼の顔は一瞬にして曇っていく。
「……その日は、俺の村でも祭りがあるんだ」
「え! 噂じゃなかったの?! どんなお祭り?」
「アリカのお父さんがやるような立派なものじゃないよ。
村の人が社にお供え物を置いて、その日一日家に引きこもるお祭り」
よく聞く夏祭りのイメージとかけ離れた説明だ。
彼の話し方は別に何かを隠しているようにも聞こえない。
「それだけ?」
「それだけ。一か月前から姉貴が準備してて学校にも来てないけど、
村の人たちが参加するのはそれで終わり」
「面白いお祭りね。あっ、ごめんなさい」
アリカは発した言葉を止めようと自分の口に手を抑えるも遅すぎていた。
出過ぎたことを言いすぎた。いくら馬鹿にして言った訳ではないにしても、
村の大切な仕来りを面白いと言ってしまった。ましてや、そのお祭りで
持ち上げられている青葉の弟に。彼女は申し訳なさそうに口を閉ざした。
だが彼女の心配とは違いAの反応はそっけなく
「別にいいよ。俺もそう思っているし」などとアリカに賛同した。
それでもやはり関係者の親族だという事で、町の祭りには行けないと
彼はとても残念そうに断っていた。
外の世界の夏祭りとはどんなものか興味のあったAは悔しそうに家に帰宅する。
すると、なんと青葉が久しぶりに山の社から下りてきていた。
「いいんじゃない、夏祭り。行っておいで」
夕食を取りながら今日アリカと話した町の祭りを話してみると
予想もしなかった返事が返ってきた。思わずAは驚きのあまり
咳き込んで口にしていたご飯を苦しそうに飲み込む。
「でも。俺も家にいた方がいいんじゃないの?」
「当日、お社に絶対居なきゃいけないのは私とお婆ちゃんだけだし
Aちゃんは大丈夫でしょ」
学校の教科書を読んでいた青葉はパタリと本を閉じるとAの頭を叩くように撫でて
おやすみと自分の部屋へと消えていった。
まるでお前は必要ないと馬鹿にして、子供のをあしらう様に。
Aはムッと口を曲げて残りの夕食を口にかきこんだ。
そして村のありがたい青葉様から頂いた許可の通り、明日は町の夏祭りに行こうと
アリカに連絡するため受話器を取った。
約束の日当日。夏雲が浮かぶ青い空、絶好の祭り日和。
祭りの準備に追われる大人たちをよそに自転車を優雅に漕いでやってきたAは
夏の温かくもしっとりとした風を顔いっぱいに受けとめて、途中
町の中を寄り道しながら待ち合わせの校門の前に向かっていた。
「アリカ、ごめん。待った?」
「わ! A君? びっくりしたよ」
まだ準備中であった屋台で見つけた狐の面を気に入り、早速買って被るAは
その面でアリカを驚かせようと校門の陰から飛び出してみせたのだ。
彼女はAの思惑通りに驚き彼は満足したように笑う。
「狐のお面似合うね」
「そうかな?こういうの初めてだから」
「南雲君のお家は、神様を祀ってるんだよね。狐のお面ってことは
……やっぱりお稲荷さん?」
「いや、狐の面はさっきそこで買ったんだよ。俺んちは土着信仰って言うのかな。
アオオビ様を祀ってるんだ。気持ち悪いだろ」
おどろおどろしく言って怯え上がらせようとするも、彼女は自慢げに「全然」と返事を返してみせた。こっちの方は思惑通りにはいかなかったようだ。
「昔からの伝統を守っているなんてすごいなって思う」
何も知らないアリカのお利口さんな言葉に、少々Aの悪戯心に火が点いた。
「それじゃあさ、今から村に行ってみる?」
気持ちが今までにないほどに浮き上がっている今日のAは
普段なら絶対にしない誘いを彼女にしてしまった。
「町の祭りは夕方からだろ?村のはもう朝からやってて、
六組目のお供えが終わった頃に家を出たんだ。
村まで徒歩だと大体四十分ぐらいかかるけど、いいよね?
行って町に戻った頃には夕方で丁度いいよ」
急の提案に初めは驚き、不安がるアリカもAの嬉しそうな顔と見知らぬ祭りに
興味が湧いてきて、話が終わる頃には目を輝かせながら今すぐ行こうと話しに乗っていた。
村まで約四十分の道のり。綺麗に整えられた道路を二人の影が行く。
その間アリカの方は常に村はどんな場所か雰囲気かとAにしつこく質問し、
早く見てみたいと嬉しそうであった。
Aの方も、何もないつまらない自分の住む村にこんなにも興味を示すアリカを
可笑しいと思いつつも可愛いなと好意的な感覚に浸っていた。
「そうだ。山奥にある洞窟の前に社があるんだけどさ、そこに
ホオズキの大群があるんだ。滝とか川も流れててすっごく綺麗なんだよ」
アリカの知らない、人のいる町とは違う自然に囲われた世界。
自分の知る村の唯一のとっておきな場所を教えようとAは張り切りアリカの気を引こうとした。話を聞くだけで楽しみだと言うアリカは突如、肝心な事を聞き忘れていたと彼に話を切り出した。
「ところで、アオオビ様ってどんな神様なの?」
「俺も昔、婆ちゃんから聞いた昔話でしか知らないんだけどさ、簡単にまとめると……
昔々そのまた昔、この山には悪い鬼たちが住んでいたんだとさ。
俺たちの先祖はその鬼に怯えながら静かに暮らしていた。
逃げると鬼に食われたらしい。
ある年、原因不明の災いが村にふりかかった。
畑は枯れ、病気が流行り沢山の人が死んだ。
だが鬼たちは何事も無く、むしろ山の幸を堪能して自由気のままに暮らしていた。
どうやら村の畑や山の栄養を鬼たちが奪っていたらしい。
怒った村人は、村一の美人をやるから鬼退治をしてくれと
山に住むカミ様に頼んでみた。
その娘は青く輝く艶やかな黒髪をしていて、カミ様はそれを大層気に入った。
約束通りカミ様は鬼退治に向かったのだが鬼は思いのほか強くって、
何とか倒しても鬼の邪念が巣窟に残ってしまった。
邪念がまた鬼になって村を襲うと予感したカミ様はそれを巣窟に封印する。
しかし強すぎる念にカミ様はそこから離れることが出来なくなってしまった。
カミ様は娘を呼び出してこう言った。
『鬼は何とか倒せたが鬼の邪念が残ってしまった。
自分がこのまま封印していなくては、また村に災いが降りかかるだろう。
村人とは鬼退治という約束だけだったが、村にまた災いが降りかかれば
お前は悲しむのだろ。
私はお前を好いている。だからお前が生きている間はこの邪念を封印しよう』
そして一年に一度、元気な姿を自分に見せに来るようにと約束させた。
娘は言われた通り一年に一度欠かさずカミ様の待つ巣窟に会いに行くが、
やっぱり人間だから死ぬんだよね。
娘から話を聞いていた村人は、娘が死んだ事をカミ様が知ったら
巣窟の封印が解かれてしまうと焦った。
急いで娘のお面を作り、似た黒髪の娘に同じような事をさせた。
そして今もそのカミ様を騙して皆で村の平和を守っています。いちげさもうした」
「つまり、その娘がアオオビ様?」
「そう。元々はアオオビ様とカミ様両方を祀っていたんだけど
今じゃアオオビ様だけだ。
アオオビ様が居る限りカミ様は村を見放さない。
アオオビ様が死ねばカミ様は村を見離す」
思っていた事と少し違う昔話。村人と神様の温くて優しい絆の物語があるのだと
思っていたアリカはどこか悲しげに俯いた。
「まぁデタラメなお伽噺さ。他にも村が信じる死後世界観、死んだら山に還るってのが
あるんだけどこれを当てはめると初代のアオオビが死んだのカミ様にバレてると思うんだよね。
そういう矛盾もあるし何度か不作や獣害などの災いもあった……侵略者も来たしな」
慰めているのか茶化しているのか、いつかアリカが言った侵略者と言う言葉でからかうAに「そうだね、ごめんね」と彼女は気まずそうに返事を返だけだった。
冗談が通じない彼女に冗談だと説明するとアリカは反応に困ったといった感じに
小首を傾げて小さく笑うのであった。
しばらくすると村の入り口に着いた。日はまだ高く明るい。
二人は民家の陰を縫うようにコソコソ隠れて歩いていった。
「この前も言ったけど、社にお供え物を届け終わった家は今日一日外へ出てはいけない日だ。
アリカは町の子供だからカミ様もアオオビ様も免除してくれると思うけど……
ホオズキの大群を見るついでに村の祭りに参加してみる?」
またも突然の提案にアリカは目を丸くした。どうしようかと考えこんでいると
社の方角から提灯を持った村人がゆっくり歩いて帰っていくところ二人はみつけた。
暗く険しい顔立ちの人たちが灯りの点いていない提灯を揺らして自分の家に帰っていく。
アリカはその人たちの異様な雰囲気に当てられ体を小さく振るわせた。
「A君、村に来れただけでもう十分だよ。町のお祭りが始まっちゃうから帰ろう」
怖気づいたアリカはAの裾を引っ張り町の夏祭りへと興味を促す。
だが彼はもうアリカの為にと言いながら、自分のかっこよさを彼女に見せつけようと
目的を忘れて自分のために動き始めていた。
「折角だし参加してみなよ。ほら、次の家の奴も帰ってきた。
よし、まず俺の家に来て何かお供え物になるようなものを持ってこよう」
彼はもう彼女の言葉には聞く耳を持たないのだろう。気が進まないアリカを
急がせるように「さあこっち」と少し屈んだ姿勢で二人は彼の家へと向かった。
無事にAと青葉の家に着き、手頃な果物を見つけるとそさくさと社に続く山道へ向かった。
村に到着してしばらくたったが、まだ空は明るい。
しかし山の中は木々が生い茂りとても暗かった。
暗く不気味な山道が部外者であるアリカに威圧感を与えており
彼女はすっかり怯えてしまった。Aはそんな事にも気づかず嬉しそうに山道を行く。
「ねえA君。私、もう帰らなきゃ。今帰らなきゃ町の祭りに間に合わないし、
お父さんも心配してるかも」
もう一度抵抗する。今でなくてはもう間に合わない。だがその希望も受け入れられなかった。
「あとちょっと、どうしてもアリカにホオズキを見せたいんだ。
姉貴にも久しぶりに会いたくないか?」
何かに憑りつかれた様に嬉しそうに歩くA。あまりにも嬉しそうだったので、
ついにアリカは根気負けしてしまった。
呆れるように「……青葉ちゃんとホオズキを見たら町に行こうね」と念を押すも
彼の耳に無事届いたのか分からなかった。
山に入り、鬱蒼と生い茂る木々をかき分けながらしばらく坂道を行くと
水が少し高い所から流れ落ちて岩に叩きつけられる音が二人の耳にはっきりと響いた。
開けた視界の先には澄んだ川の上に建てられた社が姿を現す。
とても美しく神秘的な場所。
川縁に生える高い木々のせいで周りは夜のようにとても暗いのだが
飛び交うホタルの光がとても美しく輝いて見えた。
ホオズキの大群に青や白の可愛らしい山の花々もホタルの光を浴びて輝いている。
ホタルの光が綺麗に見えるほどに暗いが、ちょっと上を見ると天然の天窓が開いており
まだ空が明るく夕暮れを目指す黄色くすんだ色をしているとうかがえる。
「ここで清めてから奥にある巣窟へ向かうんだ」
Aは目の前に咲いていたホオズキの花を折るとアリカの髪に優しくさした。
恥ずかしそうに照れ笑う彼女は目の前に広がる美しい光景に小さく吐息を漏らす。
彼が意地になってまで見せたかった風景。
それはすっかり彼女の心から恐怖の焦りを振らいのけてしまった。
「あ、姉貴だ」
Aの声が言う方向へ目をやると彼女は障子に映る影を確認した。
影は小さくぼんやりと動いている。
彼の場所からではちゃんと中の様子が窺えるようだが、
アリカの場所では影だけで中まで見ることが出来ない。
そのうえ蝋燭のような小さな灯しか点いていないのかその影も少々見えずらいのだ。
もっとよく見えないかと姿勢を正して背筋を伸ばそうとした時だ。
カサッとホオズキの茂みが揺らしてしまった。
「誰だ!」と老婆の声が社から響く。
「やばい!」小声で言ったAはアリカの腕を力強く引っ張り
二人は山道を転げ落ちるように駆けて行った。
慣れない山道にアリかは何度も足を取られそうになるが懸命にAの後をついていく。
彼女は驚きのあまり、誰か後を追う気配が無いかと振り向き最後に社の中へ目をやった。
何とか逃げ切った二人は肩で息をしながら民家の少ない道を選び、
無事村の入り口まで逃げて来た。
「だれも……来てないな……」Aが振り向き確認する。誰もいない。
すでに太陽は山の向こうへ沈もうとしていて、雲もピンク色に染まり藍色の空と
対照的にふわりと浮かぶ風景だけがそこにあった。
「青葉ちゃんの……顔をみた」「え?」
逃げだすその一瞬、襖から覘く青葉の素顔をアカリはしっかりと見ていた。
茫然と立ち尽くすアリカは怖がることも喜びとも感じられない呆けた表情をしている。
「顔を見た?! どんな顔だった? どういう表情をしていた!」
アリカの肩を掴み揺するA。実は彼は自分の姉の顔をよく覚えていなかったのだ。
青葉が慣わしとしてお面を付けたのはだいぶ昔の事、遥か昔に見ただけで
今の姉の顔を彼は見たことが無い。
好奇心に囚われたAは何とかアリカから姉、青葉の顔を聞きだそうとした。
しかし彼女は思いのほかすんなりと答える。
「A君と瓜二つの顔だったよ」
その答えに彼は何故だか顔から血の気がすっと抜ける感触に襲われる。
自分は何と答えてほしかったのだ。美しい顔か醜い顔か。
双子であるからに当然かもしれない答えであったが、男女の違いや育った環境の違いが
多少なりともあって、他人の目からはっきりと映ると思っていた。
しかし彼女は瓜二つと言った。
アリカは嘘を吐くような子ではない。自分と瓜二つのほどに似ているのか。
顔が凍り付くような気味悪さを感じてしまう。
「とても綺麗な顔だった。ずっとお面を付けてるなんてもったいない。
一年に一度のお祭りだけにしか使わないのなら、その時だけでいいんじゃないの?」
「……カミ様は鼻が利くとかで一日アオオビ様は見透かされるってよ。
それに山を通してカミ様は村のものを見ているから急にその日だけアオオビ様が現れるのが可笑しいんだとさ」
心はどこに行ったのか、今度はAが呆けた顔をして感情のない口調で淡々と
人から聞いた話を説明する。
「婆ちゃんの二、三前の代はあのお社に次のアオオビ候補が生まれるまで隔離されていたってよ。これでも昔よりは簡約化されているんだって。
……もう町に戻ろう、祭りが終わっちゃう」
やっと町に行く気になった、と言うか村から逃げたいと言った感じに二人は無言で
町への道のりを歩いて行く。
幸いなことにまだ夏祭りは終わっておらず、アリカは急いでAに今日のお礼にと
屋台でいくつか夕食を買ってきたくれた。
彼は未だに感情のこもらない「ありがとう」を小さく呟くと手渡されたイカ焼きをちまちまと食べはじめた。
目の前では町の人たちが慣れない盆踊りを楽しそうにぎこちなく踊っている。
その人たちの影が先ほど見た襖に映る姉の影とダブると、
次第に苛立ちを隠せない眼差しでその輪を見つめた。
「アリカ。そんなに姉貴の顔、俺に似て……」「おぉ! アリカ。
南雲さんの坊ちゃんもどこに行ってたんだ?」
Aの言葉を遮り、町長のアリカの父が二人の所へやってきた。
「A君に町を案内してたの。町の中は学校以外見たことないって言うから……」
アリカの苦しい言い逃れ。父は笑顔でそうかと納得し、祭りを楽しんでいるかと
嬉しそうに二人に聞いた。
実際、祭りを楽しんでいる余裕は二人に残っていないが二人は楽しいですと言う他なかった。
「南雲さんの息子さんに楽しんでもらって何よりだ。もう遅いから私の車で送るよ。
夜道に自転車は危ない。自転車は私の家にとめといて明日届けに行くよ」
初めは村人に、Aが自分の家にいない事がばれると思って町長の配慮を断った。
それでも諦めない町長の言い分に仕方なく折れたAは、村の人に問われても
姉から許可をもらったと言って誤魔化そうと思いついていた。
町長が自転車をとめに行くと言って一旦家に戻っている間、暗い顔をしながら
アリカに貰った夕食を食べていた。食べ終わる頃には町長は戻ってきていたが、
何と車に乗って迎えに来たのだった。
流石町を取り締まるほどの人である。普段のバスとは違う個人乗用車に乗れる喜びを
隠そうにも隠し切れずに嬉しそうにAの口がにやけだす。
その顔を見たアリカは安心したようにまた明日学校でね、と笑顔で彼に手を振った。
今日、二度もアリカと歩いた村への道を車はあっという間に走っていく。
崖の下の暗闇が底なしの穴のように口を開いて手招きし、
山の木々は静かに眠って無音の世界が続いている。
普段と何も変わらぬ夜の山。しかし今日は何故だが心が騒めく。
これが自分が知っている山なのか。自分が今まで暮らしてきた山と同じものなのか。
何と彼は今まで馬鹿にしていた山に対して疑いと恐怖心を抱いていた。
今にでも山から何か飛び出して自分を襲いに来る。
青葉の、あのお面が木々の間からきっと今も自分を覘いている。
見えぬ幻影におびえてしまい、折角車に乗れたという喜びを噛みしめる間もなく
車は村の入り口にたどりついてしまった。
「すまないがここまでだ。南雲さんに村には入るなと言われてるんでね」
申し訳なさそうに言う町長は気を付けてねとAの身を案じ、菓子折りを持たせた。
何と感じのいい人だ。アリカもその父と似て誰にでも優しく接し、温厚的でまじめな
良い子だと改めて思う。
愛想のない自分たち村の子供たちにも平等に語りかけてくれた。
しかしその彼女を危ない目にあわせてしまった。それが申し訳なく彼は恐縮してしまう。
このまま駄々をこねて町に戻りたい。そしてできる事なら町に住まわしてもらいたい。
できもしないお願いを頭の中で駆けまわらせていると、忘れ物だと言って
狐のお面を渡された。
そしてさよならの挨拶をすると町長は町へと帰っていった。
狐のお面を見つめて思い出す。姉の顔が自分と瓜二つ、その事実と恐怖する山の存在。そして憎悪するアオオビお面の土着信仰とがそれぞれ絡み合って気持ち悪くなったAは顔を歪ませる。
恐ろしい。お面が恐ろしい。村の前にある沼に、あんなにも気に入っていた狐のお面を
捨てると急いで家へと帰っていった。
誰にも見つかることなく家の玄関までたどり着き、一つ息を吐いて呼吸を整えた。
大丈夫だ。まだ家には誰も帰ってきてはいない。自分ただ一人だけだと気を落ち着かせ、玄関を開けて居間に入ろうと襖を開けた。
が、その期待はいともたやすく裏切られてしまう。
「A、そこに座りなさい」
Aの帰宅を待ち構えていたように彼の祖母が居間に正座し彼を睨んでいた。
想定外の事に思わず身を引く。
「お前、山に入ったかね?」
「い……いいや、今日は町の祭りに誘われていたから、そっちに行ってた」
歳にふさわしくない鋭い目つきがAを捕らえて離さない。
本心すらも見透かされそうなその眼光にいやな汗が垂れた。
嘘の通じないこの目つきが昔から大の苦手なAは、
大人しく祖母の言われたようにする他なかった。
「……ごめんなさい」
「A、お前さんがこの慣わしをよく思っていないことは知っておる。
意味も分からない馬鹿な祭りだと考えていることも。しかし、しかしだ。
この村にいる限りはこの慣わしをけなし、怠ってはならぬ。
この村で生きていく限りはな」
村に生き続ける気などはない。さっさとあの優しい人たちが住む町に逃げ出したい。
そうと反論したくともすることが出来ずにもただ静かにうなずき俯いた。
これから自分はどんな罰を与えられるのだろうか。Aは小刻みに体を震わせた。
一体何をすれば赦される。目一杯のお供え物ならすぐにでも準備をしよう。
土下座で許されるのならば今の自分であれば勢いで出来てしまうかもしれない。
自分の安い誇りを捨ててまで償う逃げの覚悟を持ったAは
祖母の口が開かれるのを怯えながら待っていた。
しかしまだ祭りの最中なので家から出るなと注意されるだけであった。
拍子抜けするような罰に安堵し、Aは逃げるように自分の部屋へと駆けていく。
「罰は明日決める」
Aの背中に祖母の最後の言葉が突き刺さる。
彼は心臓を跳ねあがらて部屋に戻ると勢いよく布団の中に潜り込んだ。
またあのアリカの言っていた姉の顔を想像してしまう。
何とも言えぬ気持ち悪さと憎悪。
今日の事を忘れようと早く眠れと暗示しながら眠りについた。
次の日の朝、目が覚めると祖母が相変わらずの威厳を持ってAを起こしに来ていた。
「学校の時間だよ。遅れてしまう」
学校には行ってもいいのかと不思議がるAに、青葉が熱で休むと学校に言付けをするためにわざわざ呼ばれたのだった。
「他の子供に頼んでもいいのだが、祭りの翌日にアオオビ様の家の者が二人とも休むと
村の者達が騒ぐだろう。お前も昨日のことを他の者に知られたくはないだろう。
だからお前が行け」
「姉ちゃん……病気なのか?」
「なに軽い熱さ。すぐ冷める」
そう言うだけ言うと祖母は青葉の部屋の方へと消えていった。
急いで学校の支度を終えて送迎バスに乗り込む。
他の村の子供たちは変わらず楽しそうにお喋りをしている。
夜、あんなにも恐ろしかった町と村を繋ぐ道のりは何事もなかったように
明るい木の葉の光で煌めいていた。
そこにAの恐れる物はどこにもなくなっていた。
一体自分は何に怯えていたのかと疑うほどに。
「青葉ちゃん、風邪ひいたの?」
学校に登校し、上履きに履き替えていると早速アリカが心配そうに聞きに来た。
大丈夫だと彼女を安心させようとしたが、どこか様子が変だった。
優しく気をつかっているように見えたのだがそれとは違う、
ほっと安心した表情を一瞬浮かばせたのだ。
それだけではない。教室に向かう短い廊下の間で彼女は何度も辺りを見回していた。
まるで何か恐ろしいものに目をつけられて警戒しているように。
机に着き、授業の準備を始める。といっても明日には夏休みに入るのだから
特にやることも無い授業の為に鉛筆や教科書を開いていると、
アリカは何か決意したように頷いてヒソヒソと小さく彼に声をかけてきた。
「あのね、昨日のあの後なんだけど……お父さんがA君を送った後、村の人が迎えに来たんだ」
そのことにAは目を丸くしアリカの方を向いた。
授業開始の乾いた鐘の音が頭の中に不気味に響き渡る。
「そんなはずない。だって、昨日の、あの時間帯、はもう……
村人は外にいないはずだ」
「うん。でもね……」
「コラ!そこの二人。何をひそひそ話してる! 聞かれて悪いことを話しているのか!」
いつの間にか教師が教室に入っていて二人に注意した。
話を中断した二人は申し訳なさそうに会釈するも、しばらくするとAからまた小声で話かける。
「それで?どんな人だった?」
「人がよさそうな男の人だったよ。A君の迎えに来たって言ったから
私の父が送りましたって言うと、分かりましたって言って帰っていったの。
それでね、お父さんが帰って来た後に村の人に会ったか聞いたら、
そんな人に会っていないって……なんか怖いよね」
「はははっ、そうだね。もしかしたら山のカミ様かもしれない」
もう彼の癖なのか、アリカを冗談で怯え上がらせる。
それに彼女も相変わらず信じたように怯えてみせた。だが怯え方が普段よりもだいぶ酷いものだった。
誰かの小さな咳払いも鉛筆を落とす音さえも、椅子を引く音や教師の黒板に文字を書く音でさえどんな物音にも彼女は怯えているようだった。
逆にこっちが心配するほどに怯えきったアリカにAは優しく助言する。
「何か気になるようだったら、帰りに向かいをよこしたら?」
「そうしようかな……」
彼女は本気で迎えに来てもらう様にと思い詰めていた。
アリカは、Aに話したこと以外にも何か彼女を脅かす事が今でも起きている。
そう思ったAも辺りを見回してみた。しかし彼としては時に変わったと思えることがない。
アリカの怯え具合と比べて自分が鈍感なだけなのかと心配になる程、周りは普段通りだった。
そもそも彼女の思い過ごしなのではとAはアリカの動きに不信感を抱いてしまった。
それどころか昨日あんなにもガタガタ震えて、誇りを捨てるほど怯えていたのに
外が明るいってだけで元の平常心を彼は取り戻していた。
心に余裕ができた彼は、昨日感じた山とアオオビに対する恐怖心を嘘のように無くしており昨日の自分の滑稽な姿に腹を立たせて、惨めな姿を晒させた奴らが憎いとより
憎悪の心を膨らませるほどには心の体力は回復していた。
だが昨日何度も山道を往復した疲れがまだ残っていたのか、
授業中に何度か居眠りして教師に怒られてしまった。
明日には夏休みに入るのでこの日も午前授業であったが、
彼は何も悪びれることなく仮病を使い、一時間目が終わると颯爽と早退していった。
バスに送ってもらい、何事もなかったのように家に帰ると
居間で青葉も何事もないように出かける準備をしていた。
「あらAちゃん今日は学校早いのね。これから町へ氷菓子でも
買いに行こうとしてたのだけど、一緒どう?」
珍しく買い物に誘われるも、昨日の祭りで疲れているから
少し眠ると言い訳を言うと自分の部屋に籠った。
朝から変わらぬ汚い屋の中、引かれたままの布団に飛び込むと
睡魔に任せるがまま深い眠りに彼はつく。
だがその休息は彼を休ませる気など全く無く、悪夢を見せるのであった。
長いトンネルを潜り抜けるような感覚、いつまでも続く暗い闇に襲われる。
ついに出口の光を見つけたが、その先に手をかざすも誰かに引き止められてしまった。
目の前にある出口の先、そこは白く煌めく雪山の景色が広がっていた。
凍える風の音が恐ろしく吹いている。
銀世界だと思った目の前には赤く染まった雪が溶けて
自分の足元に流れていた。その情景に恐怖で胸が締め付けられ、目を強く瞑る(つぶる。
次に目に見た物は石造りの壁の前だった。暗い暗い壁の中、壁は川の中に建てられており
自分はその壁に閉じ込められている。
膝の少し上まで川の水に浸かっており、素足の自分には水が氷のように刺さっていた。
息は白くまだ温かい。しかし指先はかじかんで紫色に変色している。
足の感覚ももうない。
ここはどこか夢なのか、それすら分からなくなるほどに鮮明な情景が彼を襲った。
今は夏で暑いはずなのに凍える寒さに体を震わせる。
また一度瞬きをすると顔のない男たちがAの顔色をうかがうように覘いていた。
真っ黒に塗りつぶされた男の顔。その男が手に持つ鋭い刃物をAの耳の後ろ、
肉の柔らかい部分に突き立てた。
ちくりと刺された感覚が耳の後ろに感じられる。さらに深く刃物を突き立て、
鈍く銀色に光らせながら勢いよく下の方へ引いてみせた。その瞬間、
あまりにも恐ろしすぎる夢に悲鳴を上げてAは文字通り飛び起きた。
夕焼けで赤く空を染まっているも、まだ暑さは和らいでおらず
湿気が鬱陶しい夏の空気が部屋の中に漂っている。
頬を伝って汗が一滴、背中はじわりと溢れる汗がいくつも流れて気持ち悪い。
今の夢は一体……今でも鮮明に思い出される悪夢に未だに心臓は早く鼓動を打つ。
だがそんな彼を休ませまいと現実の世界でも彼の元に悪夢の知らせが届いてくる。
襖の向こうから落ち着きを失った足音と子供の声が聞こえた。
聞き覚えのあるその声は隣の家に住む一つ年下の男の子のもので、
少しばかり得意気にも取れる興奮した声でAを呼んだ。
「Aくん大変だ。町長さんと娘さんが死んじまった」
「……え?アリカが死んだ?」
突然舞い降りた意味の分からぬ知らせにAはわが耳を疑う。
何が何だが分からない。突然すぎる。全く状況が飲み込めない。
Aはただ口をぽっかり開けて男の子を見ていた。
男の子は変わらず興奮したまま語っている。
「二人が乗った車が村に行く途中の道で崖の下に落っこちたんだ。
しかも娘さんの方は顔の皮が剥がれてどっかに行っちまったんだとさ。
本当だよ。大人たちは見せてくれなかったけど
Aちゃんのお友達が見たって言ってたよ」
そんな馬鹿な、ありえない。男の子の声を上っ面に聞いて彼は立ち上がり外に出ようとする。
「きっと神様が怒ってんだ。勝手に村に近づい……」「違う!!そんな事があるものか!!」
思わずAは声を荒げてしまった。男の子は目を真ん丸と見開き、きょとんとAを見つめている。
違う、違う、違う。そんな事があるものか、あってたまるか。彼は急いで外へと飛び出した。
自分の目で確かめなくては。今日の朝、一緒に言葉を交わした彼女が亡くなった。
不安そうな表情を浮かべた彼女の顔がなくなったなんて、そんなの嘘だ。デタラメだ。
Aの足取りは迷うことなくあの山道へ向かう。
思った通り社の道には数人の大人たちが集まっていた。
何年か前にも見た光景。それが未だに山に住まうカミをAに信じさせている要因なのだろう。胸を締め付けられるような苦しさを感じたまま大人たちをかき分けて社に向かおうとする。
だが彼らをかき分けた先には青葉が立っていた。
彼女はAを待っていたかのように彼の両肩を強く掴んで受け止めた。
「だめよAちゃん、この先は」
「止めるな姉さん!この先に何か見ちゃいけないものでもあるのか?!」
「お前さんは行っちゃいけないよ」
「アリカか?! アリカが居るとでもいうのか?! そんなの嘘だ!
俺は俺の目で見たものしか信じない! ここを退け!!」
強く青葉を弾き飛ばし先に向かおうとした。
が、彼女はAの右足にしがみ付いて彼の侵入を拒み続けている。
蹴り飛ばしてでも向かおうとする勢いのAであったが、
彼は青葉の腕が小さく震えている事に気づいた。
それと同時に我に返って周りを見てみると、
取り巻く大人たちの異様な眼差しを感じた。
まるで汚いものを見るような、蔑み恨みを感じる眼差しがAに突き刺さる。
この村の者にとってアオオビ様である青葉がどれほど大切な者か。
自分は十二分に分かっていたはずなのにと、静かに後ずさりした。
立ち上がる青葉は大人しくなったAの両手を取り、大人たちにも聞こえる声で言う。
「Aちゃん、これからお前さんのお祓いをするよ。アリカさんは残念だけど、
お前さんは許してもらうようにお願いしよう。ね、
私もついてるから大丈夫だよ。一度家に帰ろう」
二人は手を繋いで家に帰った。その間も大人たちの冷たい視線がAの後ろ姿を見つめている。
「アリカが死んだのは本当かい?」
「……ええ、そうよ」
「死体を……みたのかい?」
「…………ええ、そうよ」
聞きたくもない答え。淡々とした青葉の声も恐ろしい。
しかし繋いだ手から感じる彼女の震えが真実なのだと納得させられる。
外の世界から来た初めての友達だった。明るく誰にも優しい子。
Aは学校に行けば必ず何かしら彼女と話をした。授業の内容も、どうでもいい会話も。
居るのが当たり前だった彼女の死を未だに受け止められずにいる。
対して青葉は彼女と仲良く趣味趣向といった会話を交わしたわけではない。
しかし弟Aの友達であるアリカとは、他の人たちよりも共有する時間は長く存在したし
赤の他人と言うわけでもなかった。
それに、同じ歳の子が死んだ衝撃はいくつになっても辛く耐え難いことなのだろうとAは青葉の手の震えを静かに感じ取りながら自分も泣きそうな眼を堪えていた。
無事家に帰ると、Aは自分の部屋でしばらく待つようにと言われた。
アリカの最後のお祓いを済ましてくる。終わったら迎えに来るから
それまで待つようにと言われて青葉の帰りを静かに待つことにした。森がまた不安を煽るように騒めいている。
誰かの視線を感じる。朝アリカガ言った言葉を思い出して意識すると本当に
誰かに監視されている幻覚に捕えられてしまった。嘘だ。思い込みだとなだめるも
本当にいるのではないかと辺りを見回してしまった。
しばらくしたら青葉が社から戻ってきた。どうやらお祓いが済んだようだ。
しかしAの方はその間もう恐怖に心を押しつぶされて自己暗示の思考回路に
頭の中が雁字搦めになっていた。
青葉が何やら話しているのだが上手く内容が頭の中に入ってこない。
おそらくお祓いの手順だとか、注意事だとかそれらを話していたのだろう。
何となく聞き受け入れて、話が終わったなと思う沈黙が続いた。
そして彼女はAの予想だにしない話しをしだした。
そこから何故か、より一層Aの記憶はひどく曖昧のものとなっていた。
彼女の言葉に理解が追いつかない。今まで否定されていた事を急に肯定され、
禁句の道に誘う彼女の言葉に余計頭を混乱させる。
今までに見せた事のない落ち着きを失った彼女の言動に彼は声を荒げて
彼女に罵声を浴びさせる。そして悲劇的になり己を可愛がるような言葉を吐くと
彼女は静かに頷いた。
「分かったわ。ちゃんと、お祓いをしましょうね」
その言葉にAは安堵し、先に社に行くようにと言われたので一人静かに山道へと向かった。
社に向かう間も怪しい気配に後をつけられ、監視される感覚を味わう。
だが森の中に入るといつの間にかそれらの気配は消えていた。
昨日と同じ川の澄んだせせらぎとホオズキの大群に迎えられて社の前に訪れた。
祖母もお祓いの準備をすでに済まし、彼の到着を静かに待っていた。
小さな部屋に通されると青葉に注意された事を思い出して、お祓いが始まるのを
まだかと落ち着かない様子で待つのである。
だがいつになってもお祓いが始まる気配を感じない。
青葉がまだ来ないと言う祖母の声を聞いてAは次第に苛立ちを感じだしていた。
それから数十分は立っただろうか、外は既に夜になり外から人の歩く足音が聞こえて来た。
ついに来たかと腰を上げ、襖を開けようと手をかけた時だ。
何か異様な事に気が付いた。蝋燭の明かりが消えている。
祖母のいる大部屋だけに点されている蝋燭の火が消えているようで
襖の向こう側が何故かとても暗かった。
自分の後ろからさす微かな月光だけが部屋の中を照らしている。
山の神様だ。きっとそうに違いない。
そこまで来ているんだと情けなく腰を引いて一歩後ずさりする。
畳の上を足が滑る音が微かに鳴ったその時だ。
目の前の襖が勢いよく開くと、男の影がAを見るや否や
その手に持っていた凶器でAを切りつけた。
その一瞬の間、Aは男の顔を見て恐怖に己の顔を歪ませていた。
退屈そうな顔立ちに人を蔑むような目。何とその男は自分と瓜二つの顔をしていたのだった。
〈つづく〉
最後までお付き合いいただきありがとうございます。正直これからが本編です。
もうしばらくお付き合いいただけると嬉しいです。