効果なしと出口
ユーリに手を引かれて角を曲がると、急に開けた場所に出る。
目の前の光景に、僕は思わず声を上げた。
「すごい……」
天井にある大穴からは太陽の光が降り注ぎ、洞窟内であるにも関わらず草や背の低い木が生い茂っている。蝶が羽ばたき、澄んだ水のせせらぎが心地いい。
殺伐とした洞窟の中で、ここだけが楽園のようになっていた。
「何度来ても綺麗なところだよね。もう少し先に進むとこの風穴の出口があるんだけど、今回の目的地はここだよ」
「じゃあこの水なんだね。精神の病に効果がある泉の水っていうのは」
水際にしゃがみこむと、その透明度がよくわかる。
底は浅く、手前はくるぶし辺りまで、一番深いところでも腰に届くかどうかというところだ。
「ボクもここの水にそんな効能があるなんて知らなかったよ。……ところでさ」
ユーリが言いにくそうに口を開く。
「その水を飲んで記憶が戻ったら、その後セツナはどうするの?」
その不安そうな顔を見て、僕はユーリが何を心配しているのか悟った。
あのときユーリは僕に、「記憶が戻るまで一緒にいよう」と言ったのだ。
「大丈夫だよ。たとえこの水で僕の記憶が戻っても、ユーリと一緒にいる」
「でも、それは記憶がないからそう言えるだけでっ」
いつになく食い下がってくるユーリ。
もしかしたらさっきの魔王然とした姿を見られたことが、不安に拍車をかけているのかもしれない。
だから、その不安を拭い去るために僕は言った。
「僕は、多分この世界の人間じゃないんだ」
「……え?」
「自分に関することはさっぱりだけど、自分がいた世界のことは思い出せる。僕はスキルや人間以外の種族のことなんて、ユーリに教えてもらうまで全く知らなかった。記憶が無かったからじゃなく、純粋に知らなかったんだ」
「それってどういう……」
一瞬驚いた表情を見せたユーリだったが、すぐに微笑んで言った。
「……いや、一緒にいられるなら何だっていいや」
ようやく安心した様子のユーリに、僕も微笑む。
そもそも、どうしても一緒にいたいのであれば僕をこの場所につれてこなければいいだけの話なのだ。
それでも僕をここまで案内してくれたのは、ユーリが自分よりも僕の気持ちを尊重してくれたということ。
嬉しい想いをかみ締めながら、泉の水を掌ですくう。
零れ落ちる水滴が、光を反射してキラキラと輝いた。
この水を飲めば、僕が今までどんな人生を歩んできたのか、そしてなぜこの世界にやってきたのかわかるかもしれない。
高揚と期待を胸に、掌を口に持っていき、ゆっくりと飲み干した。
澄み渡る清涼感。
不思議な程に心が落ち着いていくのがわかった。
思わず息を吐き出す。
「どう? 何か思い出した?」
ユーリの問いに、自分の記憶を探ってみる。
「……いや、全く。何も思い出せない」
「そっか……」
ユーリが複雑な表情をする。
僕の記憶が戻らなくて、安心する気持ちと残念な気持ちがあるのだろう。
微妙な雰囲気の静寂が流れる。
「……一度この先の出口まで行こうか。ここもそうだけど、景色の綺麗な場所なんだ」
ユーリの後に続いて風穴を抜ける。
そこは大きく開けた山の上だった。
眼下には遠くまで草原が広がり、青空は高く澄み渡っている。
左右と後方には直角に近い山の斜面が続いているが、それがなんだか庭のように思えて僕は気に入った。
吹き抜ける風も温かくて心地いい。
「いいところでしょ。ここに来るまでの道が道だから人も滅多に来ないし、ボクのお気に入りの場所なんだ」
ユーリがどこか誇らしげに言う。
「確かにいいところだな……」
広い草原の向こうには、うっすらと森が見える。下を見ると足がすくむような高さだったので、すぐに視線を遠くに戻した。
「あのあたりだよね。ボクたちが出会ったのは」
そういうユーリが指差す方向を目で追うと、確かになんだか見覚えのある場所があった。
細く流れる小川、人の足で踏み固められた茶色の小道。視点が違っても、あそこが僕らの出会った場所だとすぐにわかった。
僕が昨日、あの場所で目を醒ましたとき、もしユーリがいなかったら。
レークの洞窟で盗賊に襲われても何もできなかっただろうし、さっきの大トカゲには確実に殺されていた。
いや、そもそも自分のいる場所すらわからずに、今見ているこの草原のどこかで死んでいたかもしれない。
「……ユーリ。僕に身の守り方を教えてくれないか」
「え?」
気がつくと、僕はそう口に出していた。
「これから先、ずっとユーリに守ってもらうわけにはいかないと思うんだ。さっきみたいに、ユーリとはぐれたときに自分の身くらいは自分で守れるようになりたい」
僕の言葉に、ユーリは寂しそうな、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべる。
遠くのほうを少しの間眺めると、僕に向き直った。
「よしっ! そこまで言うなら仕方ない。まがりなりにも魔王が一柱、ユーリ・ミノユイア様がみっちりしごいてあげるよ! 生まれてきたことを後悔させてやる!」
そう言って輝くような笑顔を見せる。
「お、お手柔らかに……」
そんなユーリの姿に、僕は安心と不安を同時に抱いたのだった。