魔王のいない場所
長らくお待たせしてすみませんでした。
本日より、第二章開幕です!
目を開けると、そこは森林だった。
「……え?」
まだ覚醒しきっていない頭をフル回転させて、この状況を把握しようとする。
ここはどこだろう。
周囲を見渡すと、生い茂っているのは高層ビルと見紛うかのような太く高い巨木たち。水を打ったような静けさとはこのことで、自分が息を吐く音すら聞こえてしまいそうだった。
太陽光は頭上を覆う木々の葉で和らぎ、どこか神秘的な雰囲気を纏って地上へと降り注いでいる。
どうしてこんなところで寝ていたんだろう。
「……あ、そうだ。確か、ユーリとライラーク風穴に行って、それで……そうだ! ユーリは!?」
今更ながら、この状況がいかに異常か認識する。
まず、身体は……なんともない。どうやら僕はまだ生きているらしい。
僕がこうして生きているということは、おそらくあの赤い魔法陣は物を破壊する魔法ではなかったのだろう。僕の今置かれている状況から考えるに、転移魔法のようなものだと思う。
次に、今居る場所は……わからない。皆目見当もつかない。
前にユーリと行ったレークの森より木々の密度が高いし、見た目からして中々に深そうな森だ。
まあもしかしたらここがレークの森の奥の方って可能性も無くはないんだけど……
「……誰か、誰かいないのか? ユーリ! ライオ! レスティアさん!」
叫んだ声は、森の静寂に溶けて消えていく。
鳥のさえずりも、木の葉が擦れる音すら聞こえない。
なんだか世界に自分しか存在していないような気がして、だんだんと心に焦りや恐怖が渦巻き始める。
「ミース! マオ! フォードさんっ! ……誰か、いたら返事してくれっ!」
ガサッ。
その瞬間、この場で初めて僕は自分以外が発する音を聞いた。
ど、どこだ!? 今の音はどこから聞こえた!?
慌てて周囲を見渡してみるが、景色は今までと一切変わらない。
右も、左も、前も、後ろも……となれば。
「上か!」
ばっ、と上を見上げると、頭上にかかる太い木の枝に、小さな白い獣耳が見えた。
その下にある二つの赤目が、こちらをじっと見下ろしている。
「マオ!」
見覚えのある人の姿に、さっきまでの不安が晴れてゆく。
飛ばされたのは僕だけじゃなかったんだ……
でもあの枝、結構高い位置にあるな。
あそこまで自力で登ったとも考えにくいし、運悪く転移先があの場所だったのだろう。
「マオー! 降りられそうかー?」
僕がそう尋ねると、マオは無言でしがみついていた枝から足を下ろす。中空に投げ出された足はぷらぷらとおぼつかない。
一体何して……まさか、飛び降りる気か!?
そんな僕の予想を裏付けるように、マオは枝から手を離す。
「え、ちょ、まっ――!」
異世界でも物理法則は変わらずこの世を支配しているようで、支える物の無くなったマオの身体は引力に従って地面へと落ちてゆく。
とにかく受け止めなければと、とっさに落下地点へ先回りして腕を伸ばす。
次の瞬間、受け止めたマオの身体に働く慣性力が僕の視界を揺らした。
「がはっ!」
三半規管が狂い、数瞬の間自分が立っているのかどこを向いているのかわからない時間が過ぎて、僕は後頭部に強い衝撃を感じた。
しばらく頭の痛みに悶えた後、目を開くと、仰向けに横たわる僕の上でマオの赤い瞳がこちらを見下ろしていた。
その無感情な表情は、僕を嘲っているようにも心配しているようにもとれる。
「け、怪我は無いか? マオ」
そんな僕の問いにマオが返すのは、相変わらずの無言。
僕は苦笑しながら、とりあえずはそれを肯定の意なのだろうと思うことにした。
「おーい! 誰かー!」
その後周囲を探し回ってみたけれど、結局マオ以外誰も見つけることはできなかった。
それでも、迷子になったときの鉄則"できるだけその場を動かない"は忠実に守り、周辺を散策した後はこうやってひたすら返答の期待できない呼びかけを繰り返している。
でも、いい加減喉が痛くなってきた……
「…………」
マオはというと、相変わらず無言のまま僕の傍らに佇んでいる。
さっきまで神秘的だった風景も、日がだいぶ落ちてきて薄暗い。どちらかというと不気味な感じだ。
風も出てきて、がさがさと木の葉の擦れる音がより一層この雰囲気を引き立てていた。
どうしよう……このまま完全に日が落ちる前に、今夜の寝床を探すなり何か手を打たないと。でも、マオのように近くに他の誰かがいる可能性もあるし、むやみに動き回るのは得策じゃないよな……
「くそっ……こんなときユーリがいてくれれば……」
思えば、この世界に来てからユーリの手を借りない日は無いと言ってもいいほど、僕はユーリに助けられていた。
あの白銀の少女は、幼い見た目と裏腹に、経験も知識も僕よりずっと豊富だ。
ユーリがいないと、僕ってここまで何もできなかったのか……
自らの不甲斐なさに歯軋りする。
そんな僕の服の裾を、マオがくいくいと引っ張った。
「ん……? どうした、マオ」
僕が尋ねてもマオは案の定無言だったが、普段と違って頭上の獣耳がピクピクと動いている。
そして、その視線は前方の草むらへと注がれていた。
「……誰かいるのか?」
もしやと思い声をかけてみたが、草むらからはなんの応答も無い。
けれど、あのマオが自ら意思表示をするくらいだから相当のことなのだろうと思い、確認のために僕の背丈ほどもある草むらのほうへと歩いていく。
次の瞬間、草むらの向こうから狼のような獣の凶暴な牙が襲い掛かってきた。
「くっ……!」
とっさに右手が腰の黒剣へと伸びたのは、我ながら奇跡のようだと思う。
脊髄反射で後ろへと仰け反った上半身が牙との距離を稼いでくれている間に、黒剣を掴んだ右手で狼の喉元を一閃する。
切り込みが浅いのは戦闘経験の少ない僕にもわかったが、やはり急所だけあってかなりのダメージを相手に与えたようだ。
「マオ、走れっ!」
狼型の獣がひるんでいる今の隙に、とにかく距離をとろうとマオの手を引いて走り出す。
すると、僕らを逃がさないと威嚇するかのように、背後から遠吠えが鳴り響いた。それに呼応して四方八方からも同じく遠吠えが聞こえてくる。
「嘘だろ……いったい何匹いるんだよ」
姿の見えない襲撃者への恐怖に、心臓の鼓動が速くなる。日も地平線の向こうに沈んでしまったのか、闇が急速に深くなっていき視界を遮り始めた。
幸いだったのは、マオの足が予想以上に速いことだ。瞬生種の血か獣人種の血か、あるいはその両方なのか。とにかく、その幼い体躯に見合わず僕と同等の速さで走ることができている。
しかし、相手は四つの足で地を駆る獣。背後から湿り気を帯びた荒々しい吐息が聞こえてくるようになるまで時間はかからなかった。
一瞬だけ後ろを振り返ると、不気味に光る瞳が6つ。つまり追っ手は3匹ということだ。
急速に酸素を消費してゆく身体に鞭打って全力疾走を続けるが、逃げ切れるはずもなく、側面に回り込んだ獣がこちらへと飛び掛ってきた。
走りながら剣を振り回してそれを切りつけ、どうにか一時撃退するが、ダメージは与えられなかったようで変わらず荒い吐息は背後から迫ってくる。
やがて、剣を持っている僕よりも狙いやすいと判断したのか、狼達はマオへと襲い掛かった。
「…………っ!」
「マオ!」
倒れこむマオに覆いかぶさる獣。
人間の大人ほどもある大きな体躯に、マオの小さな身体では抗えないようで。
その光景に、今までの恐怖が一転、身体が燃えるような錯覚を覚えるほどの怒りが沸いてきて、獣の腹をこれでもかというほど思いっきり蹴り上げる。
吹き飛んでゆく獣の姿に我ながら大胆なことをしたと思うが、すぐに残りの二匹が僕らを逃がさんと距離を詰めてくる。
立ち止まってしまった以上、今から走り出そうと背中を向ければ、すぐさまあの爪と牙の餌食だろう。後ろにマオも控えているし、僕が取れる選択は一本の短い黒剣で眼前の獣たちと戦うことだけだ。
……怖い。どうしようもなく。
ユーリがいない。ただそれだけで、僕は誰かを守るどころか、自分の命すら落とそうとしている。
じりじりと距離を詰めてくる獣たち。逃げ道は無い。やるしかなかった。
「う……うおぉぉぉっ!」
二匹いる獣の片方に狙いをつけて、全力で走る。
ユーリから貰った黒い剣を頭上に掲げ、思いっきり振り下ろした。
しかし、頭頂部を貫こうとしたそれを獣は軽々と躱してみせる。
そしてその勢いを保ったまま、隙だらけになった僕へと突進する獣。
あっけなく押し倒されてゆく自分の身体。衝撃で手を離してしまった短剣が宙を舞うのを見て、思う。
――ああ、僕ってこんなにも……弱かったんだ。
ドサッ。と身体が地面に打ち付けられた音で、一瞬スローになっていた時間が動き始める。
狼型の魔物は、やっと捕らえた獲物の首を食いちぎろうと、その牙を開いて迫ってきた。
僕はその少し下、狼の首元辺りを掴んで最後の抵抗を試みる。
「ぐぅっ……だめ……か」
しかし、相手は厳しい野生の世界を生き抜いてきた獣。ついこの前まで異世界の、それも命の危険とは縁遠い場所で暮らしていたこの身体で、まともに抗えるわけもなく。
相手が筋力に物を言わせて振り下ろしてくる牙を、首を横にずらして間一髪回避する。
でも、こんなのがいつまでも続くはずがない。
駄目だ、殺される……!
せめてあの黒剣があれば抵抗できるかと思い、狼の首元を掴む腕から右手を離して付近を手探りで捜索する。
相手の牙を抑える力が半分になって、先ほど以上に切羽詰った状況になったが、あの剣は最後の希望だ。
仰向けに押し倒されているのでまともに地面は見えないが、必死で、がむしゃらに腕を動かす。
そのとき、偶然触れたズボンのポケットに、何かが入っている感触があった。
あれ……? 僕、ポケットに何を入れてたんだっけ。
死に瀕している脳は、その答えを刹那の時間で導き出す。
深く考えるより先に手が動いていた。
ポケットから中に入っていたものを取り出し、思い切り地面に叩きつける。
その瞬間、夜の闇を切り裂くような閃光と、キーンという耳を劈くような甲高い音が辺りを支配した。
その音に三半規管を狂わされながらも、突然のことにひるんでいる身体の上の獣を、懇親の力をこめて突き飛ばす。
視界が回転するような感覚に襲われながらもどうにか立ち上がると、手に2つ残っていた『それ』を、続けざまに投げつける。
ライラーク風穴で摸倣種と出会う直前、ユーリから手渡された3つの閃光玉。
あの時は使うことの無かったその玉が今、全く想定していなかった場面で役立っていた。
あまりに強い音と光に、使った僕自身ですら耳を塞いでよろめく。
しかし、襲撃者である四足歩行の獣達は耳を塞ぐ手段を持たない。
彼らがこの音から逃れるには、尻尾を巻いてこの場所から逃げ去るしかなかった。
去っていく襲撃者の後ろ姿が見えなくなってしばらくしてから、僕はようやく安堵のため息とともにその場に座り込んだ。
「い、生きてる……助かった……」
ポケットに入れた閃光玉に気付けなければ、今頃僕はあの狼達の胃袋の中に収まっていたことだろう。
また、ユーリに助けられてしまった。
緊張の糸が解けて呆然とする僕に、マオが歩み寄ってくる。
「……マオ、怪我は無いか?」
僕が振り向いてそう尋ねると、マオは無言でこちらを見つめていたが、しばらくしてこくんと小さく首を縦に動かしてくれた。
見た感じ、目立った傷も無さそうだ。
「そっか。よかった」
ひとまず安心するが、問題はここからだ。
がむしゃらに走ってきたので、さっきの場所に戻るのはまず無理だろう。日が完全に落ちていて、森の中は黒いペンキをぶちまけたように真っ暗だ。この中を歩き回るのは危険すぎる。
かといってこのままここに居るのも、今みたいに獣に襲われる可能性があって危険だ。
どこか安全な場所があればいいんだけど、こんな森の中じゃアテなんてあるはずもない。
途方に暮れる僕の手の甲から、ふと冷たい感触が伝わる。顔を上げると、僕の頬に一滴の雫があたって弾けた。
「……雨か」
静かに降り始めたそれは、やがてサーという音を伴って夜の闇に霞を作り出す。
だんだんと強くなっていく雨脚は、僕らを追い立てているかのようだった。




