奴隷少女とミース
「取引をやめたいとはどういうことだ! こちらはわざわざラスティアート公国から馬車を使ってやってきたのだぞ!」
広々とした応接室。実用的な家具と主張し過ぎない程度に置かれた調度品が、絶妙な居心地のよさを作り出している。
そんな部屋に、オーガンの怒声が響いていた。
「こちらとしても、こんなお話はしたくないのです。ただ魔王に、それもあのユーリ・ミノユイアに目を付けられたとなると……」
向かい合って座る小太りの商人の言葉に、オーガンは声を詰まらせる。
「ま、魔王にはきちんと謝罪して、お許しも頂いた! 何も問題はない!」
「しかし……」
言葉を濁す商人に、オーガンは大げさな手振りで言う。
「七災は各地を放浪する魔王たちの呼び名だ。この街にいる期間もそう長くはないだろう。それに、魔王によって本来この街に降りかかるはずだった災厄を私が一身に受けたと考えれば、感謝すらされてもいいはずだ!」
開き直ったようにそう語るオーガンを前に、商人は手を額に当てる。
「……この際だから言わせて頂きますが、ラウラエル家の品物は品質が悪いと、大変不評なのです。未成熟の物が混ざっているのはまだしも、痛んでいたり虫食いがあったりするものがあまりにも多い。それだけでなく、納期になっても荷物が届かなかったり、量が合わなかったり。こちらが改善を要求しても、何か手を打つと言ったっきりで何も変わらないではないですか」
「そ、そんなのは私の責任ではない! 現場の者達がきちんと働かないのが悪いのだ!」
今まで溜まっていた不満をぶちまける商人に、オーガンは必死でそう弁解する。
商人がオーガンに向けるまなざしは、もはや取引相手に対する物ではなくなっていた。
呆れたようにため息を吐くと、商人はさらに続ける。
「オーガン様ご自身に対する悪評も少なくはないのですよ。奴隷が推奨されていない、それどころか奴隷の使役を忌避すらしているこの街で、やってくるたびに奴隷を虐げているそうではないですか。それもわざわざ大衆の面前で」
オーガンは何か言い返そうと言葉を探すが、言われていることは全て事実。拳を握り締めてわなわなと震えることしかできない。
「魔王に目をつけられたというのは、あくまでこの話を切り出すきっかけでしかなかったのです。この話、なにとぞご理解を――」
「なぜこうも上手くいかないのだ! ただでさえ金に困っているというのに、大口の取引先さえ失ってしまった! なぜだ! なぜなのだっ!!」
商人とのやり取りを終えたオーガンは、宿泊している宿の一室でそうわめいていた。
貴族としてのプライドからみじめな宿ではないものの、他の貴族たちが使うような豪華絢爛な宿でもない。あえて言うならば普通。せいぜいが中の上程度の宿だ。
もともと目立ちたがり屋で他人より上に立っていたい性格のオーガンには、この状況がたまらなく不愉快だった。それに加えて、立て続けに起こる不快な出来事。
苛立ちはすでに最高潮に達していた。
「くそっ!」
悪態を吐くと、オーガンは部屋を飛び出す。
早足で歩きながら向かったのは、奴隷用の馬車だった。
「おはよう。いい朝ね」
薄暗い馬車の中。
朝日など差し込まず、酷く不衛生な車内。
そんな場所で、ミースは言った。
「…………」
ミースが声をかけた相手、猫耳赤目の少女は何も答えない。
昨日と全く同じ体勢で昨日と同じ場所を見ているが、起きたばかりだからなのか目は半分ほどしか開いていなかった。
「本当に動かないのね……」
呆れとも感心ともとれる口調で、ミースは言う。
今まで自分が寝ていた場所から立ち上がると、昨日と同じく少女の近くに腰掛けた。
「あら……傷がもう治ってきてる……瞬生種や獣人種って、こんなに治りが早いのね。それとも、あなたが特別なだけかしら」
かすり傷などはほとんど消え、目立つ傷も治り始めている少女の身体を見てミースは驚きの声を漏らす。
「……それでもやっぱり痛々しいことに変わりはないわね」
少女の首元にある切り傷に触れようとして、ミースは手を伸ばした。
しかし、馬車の外から聞こえてきた足音に気がついて、その手を止める。
足音の主は馬車の前までやってくると、鍵を外して扉を開けた。
「ほら、朝飯だ。ありがたく食えよ」
やってきた男はあからさまに面倒そうな口調で言って、昨日と同じ果物を放り込む。
男が鍵をかけなおして去っていくと、奴隷たちはよろよろと立ち上がり、果物を拾っていった。
ミースも立ち上がり、自分と、動かないままの少女の分の果物を拾おうとする。
「あら……?」
しかし、そこに果物は一つしかなかった。
周りを見ても、他の果物は転がっていない。奴隷たちをみても、皆一つずつしかもっていなかった。そもそも、喧嘩になれば余計な体力を消耗するだけだとわかっているので、誰も他人の分を横取りなどしようとしないのだ。
おそらく男が数を数え間違えたのだと、ミースは結論付けた。
仕方が無いので目の前の果物を拾って少女の元に戻る。
少女はやはり動いていなかった。
目の前にミースが座っても、視線すら動かさない。
「そういえばあなた、旅してる間も時々食事を摂り損ねてたわね。お腹が空かないスキルでも持ってるの?」
「…………」
もう慣れたのか、何も答えない少女を気にする様子のないミース。
手に持った果物をじっと見た後、目線を少女に向ける。
果物は決して大きくなく、ミースを含め旅の間この果物だけを食べていた馬車の中の誰もが、これ一個では腹が膨れないことを知っていた。
「はぁ……自分で取りにいかないあなたが悪いんだからね」
そう言ってミースは自分の手に持った果物にかじりつく。
そして、やはり無反応な少女を横目に見ながら、果物のかけらを口に含まず、手の上へと出した。
それを、昨日と同じように少女の口元へと持っていく。
「半分ずつよ。お腹は空くだろうけど、食べられないよりマシでしょ」
そうしてミースが少女の口が開くのを待っていると、少女が目線を動かした。
はっきりとミースに焦点を合わせ、口を開く。
「……あ」
少女が一瞬だけ発した声は、ミースが押し込んだ果物によって掻き消えてしまった。
「あら? いま、何か言った?」
ミースが問いかけるが、少女は視線を元に戻し、もぐもぐと口を動かすだけ。
しばらく見つめても何の反応もない少女に、ミースは何度目かわからないため息を吐き、食事を再開したのだった。
最後のひとかけらを少女の口に放り込み、ミースは朝食を終える。
一口が長い少女の食事を手伝うのは時間がかかるが、仕事が与えられない間はすることがないミースにとっては苦にもならなかった。
「もしも私に妹がいたら、こんな感じなのかしら」
少女が食べ終わったのを見届けると、ミースはぽつりとそう漏らした。
「…………」
少女は答えない。
「もしかしたら本当にいるかもしれないけどね。私は奴隷の子。仮に妹がいても、その子もどこかに売られているはず。私がそうだったようにね」
どこか遠くを見るような目で、ミースが言う。
「だから、こういうのってなんだか新鮮。まあ私が一方的にやってるだけなんだけれど……」
そこで、ミースは言葉を切った。
再び馬車の外から聞こえてくる足音に気がついたからだ。
そしてそれは、先ほどの男のものとは違う明らかにいらついた足音だった。
馬車の中の皆がこれから起こる出来事を察して、空気が凍りつく。
がちゃがちゃと鍵を開ける音。
大きな音とともに、扉が開かれた。
オーガンは馬車の中を見渡すと、奥のほうにいる少女の元へと歩いていく。
ぼろぼろの服の胸元を掴むと、乱暴に引っ張り上げた。
そして、怒りに染まった顔で拳を振りかぶる。
「…………っ!」
しかし、その拳が振り下ろされることはなかった。
少女の持つ赤い瞳が、オーガンの目に映る。
明後日の方向を向いた空虚な目だが、それは大魔王ユーリの瞳と同じ色をしていた。
オーガンの身体に、怒りから来るものではない震えが走る。
「くそっ!」
悪態を吐いて、少女を投げ捨てる。
身体の震えが収まるのを待ってから、オーガンは再び馬車の中を見渡した。
そして、近くにいた黒髪の女性に問いかける。
「貴様、純血の人間種か?」
問いかけられた人間、ミースは短く答える。
「はい。おそらくは……」
その答えを聞いたオーガンは、ミースの胸ぐらを掴み、馬車の外へと放り投げた。
「うぁっ!」
受け身もとれず、頭から地面へと落下するミース。
オーガンは馬車から降りると、頭を抱えうずくまるミースを見下して言った。
「おそらくだと? 貴様は一言、はいとだけ言えばいいのだ! 余計な言葉を発するな!」
「も、申し訳ありま……っ!」
返答を待たず、オーガンがうずくまるミースの腹を蹴り上げる。
ミースの軽い身体は一瞬持ち上がり、再び地面に叩きつけられた。
「うぅぁっ……」
力なく呻くミース。
額には大粒の汗を浮かべ、苦しげに目を見開いている。
「やはり反応があるほう殴りがいがあるなっ!」
口端を吊り上げ、楽しそうに笑うオーガン。
必死で痛みをこらえているミースの髪を掴んで持ち上げると、そのみぞおちに拳を叩き込んだ。
「がっ!」
短い悲鳴とともに、ミースの目線が明後日の方向を向く。
息ができず苦しむミースから手を離したオーガンは、続けざまにかかと落としを食らわせる。
「かっ! ぅぁぁ……」
もろに食らったミースは倒れ、その意識を手放そうとする。
「≪痛覚≫」
「ぎっ!? きゃあぁぁぁぁっ!!」
しかしミースの腕を掴んだオーガンが一言呟くと、ミースは閉じかけていた目を見開いて絶叫した。
その様子を見たオーガンは残虐な笑みを一層深め、再びミースをいたぶり始める。
繰り返される暴力に、ミースは「やめて」とは言わない。
一言そんな言葉を口に出そうものなら、「私に命令するな」と言われ、より酷い暴行が待っていることを知っているからだ。
ミースはひたすらに無言で、終わりの見えない苦痛を耐え続ける。
そんなミースの悲鳴が響いてくる馬車の中で。
ただ目を開いて横たわるだけの少女が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ眉をしかめたことに、誰も気づかなかった。




