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第一話

 西に沈んで行く太陽を橋の欄干にもたれながら私は見ている。

 雲一つない空には、水平線の途切れるところまで紅色が広がっている。ふと溜息が漏れる。

「今日も何もしなかったな」

 羽織っているジャケットから煙草を取り出して火をつける。紫煙を肺に吸い込んだ瞬間、盛大に噎せしまった。久し振りにタール値の高い煙草を買ってしまったことを、今更ながらに後悔した。欄干の下に広がるのは今では、空同様に紅に輝く海面。途切れなく揺蕩(たゆた)う海面にタール値の高い煙草を放り投げる。勿体無いとも思ったが、苦痛を伴ってまで吸う煙草に何の意味があるのだ、という気持ちが勝ったが故に私は煙草を放った。勢いよく放り投げたせいか、煙草は空中に弧を描きながら落下して行く。

 

 海面でポチャンと音が鳴る。それを聞き流しなら、再び煙草に火をつける。銘柄はキャスター。未成年の内から吸い始めた煙草。二十歳を超えた現在では立派にニコチン依存者の仲間入りを果たしている。この煙草は、ほのかにバニラが香る。私は一瞬でその香りの虜になってしまった。五ミリという低いタール値も私の体には合っていたようだ。先程投げ捨てた煙草の銘柄はセブンスター。セッターなんて愛称で呼ばれる煙草だ。一時期友人に勧められて嫌々ながらに吸っていた時期があったのだが、美味しいと感じた事は一度も無かった。喉が焼けるような、刺激が私には合わなかったのだ。でも、当時の私はその刺激を求めていたのかもしれない。


 今の私は、当時の私の精神状態と似た状態に陥っている。仕事が無いのだ。こんな事を言えば、仕事なんて探せば幾らでもある。お前は選り好みしているだけか、はたまた本心では働きたくないと思っているのだろう、何て厳しい言葉を浴びせられるかもしれないが、これがまた、当たらずと雖(いえど)も遠からずというか、ほぼ当たっている。


 そう。単純な話、私は働きたくないのだ。何故かと問われれば、面倒だから。この一言に尽きてしまう。

 高校を卒業して進学することなく、事務職に就いた私は、入社して二日でバックレをかましてやった女である。両親には勿論のこと口煩く説教をされたが、馬の耳に念仏とも言われているように、最初から聞く耳持たぬの私にとっては、両親のヒステリックな説教など耳には一切合切入って来なかったし、心に響くものなど勿論皆無だった。

 

 それからは、本当に怠惰な日々を過ごした。夕方に起きて朝方に寝る。起きている時にする事と言えば、当時はまだ煙草を覚えていなかったので、ベッドに横になっているか、PCでネットサーフィンをするか。そして空が白み始めてきた頃に寝る。これの繰り返し。完全にルーチンになっていた。そして私は廃人だった。無気力無感動。働けとがなり立てられても何も感じない。

 そんな堕落した生活が半年も続いた。流石に業を煮やした両親は私を家から放り出した。それでも勘当されなかっただけマシと考えるべきなのかもしれない。実に慈悲に満ちた両親である。


 私は無一文で放り出されたので、安いホテルに泊まる事も出来ず、結果として路頭に彷徨う事になった。

 でも不思議と苦では無かった。夜の帳が降り、人気(ひとけ)の絶えた公園のベンチで満点の星空を眺めたり、時には駅前のベンチで眠り、巡回の警官に職質されたりと、流浪の生活な刺激に満ち満ちていた。家に閉じ籠ってネットに氾濫する情報を、ただぼんやりと眺めているだけでは絶対に味わえない高揚感と悦楽がそこにはあった。


 だが、そんな生活も長くは続かなかった。現実とはさも厳しいもので、尚且つ、私は実家という温室でぬくぬくと育ったクズ女だったから、いかに刺激に溢れた流浪の生活とは言え、風呂にも入れなければ、ろくな食事にも有り付けない。そんなサバイバルに私のようなクズ女が耐えられる筈がない。家を追い出された時点で分かっていた事だった。そしてあの時一言謝りさえすればよかったのだ。そりゃあ、そう簡単に許してはくれないだろう。でも、こんな現実だけは確実に回避出来た筈だった、と思う。

 全ては後の祭り。今更、家に置いてくださいなんて頼めないし。これが人生の詰みなのかと思った。それでも一縷の希望があった。私には会社勤めで、しかも一人暮らしの独り身の友人がいたのだ。私は事前に連絡も入れる事なく彼女の家に突撃をかました。その夜、築うん十年は経過しているであろう、木造ボロアパートに罵詈雑言の暴風が吹き荒れる事も知らずに。


 私は歳柄もなく号泣した。ワンワンと泣いた。彼女の剣幕と罵詈雑言は両親を遥かに凌いでいたからだ。馬の耳に念仏は通用しなかった。私が不思議に思ったのは彼女が泣いていたからだ。高校生の頃、私と彼女は親友だった。でも高校を卒業して以来、彼女はとの交流は一切無くなっていた。私が事前に彼女の近況を知っていたのも、他の友人からの情報提供があったからだ。

 新しい環境に身を置いた彼女は、私の事なんて一切合切忘れていると思っていた。でもそれは違かった。彼女は私の事をずっと覚えていたという。最近何やってるのかな? 連絡してみようかな? 何度も思ったそうだ。そして久し振りに再開を果たしたと思ったら私はこの様だ。怒るのは当然だろう。でも泣く意味はないのではないか? どうしても私には彼女の涙の理由が理解出来なかったので、彼女自身に聞いてみることにした。


「何で、カナが泣くの?」嗚咽交じりに私が言うと、すかさずビンタが私の頬に炸裂した。カナは滲む涙を手で拭ってから、放心している私に向かって怒鳴り散らした。


「あったりまじゃない! バカなのあんたは!? 私がどれだけあんたの事を心配してたと思ってる!? 親友だったんだよ、私達。それが一切音沙汰も無くなって……久し振りに会えたと思ったら、この体たらくぶりだし……情けないにも程があるわ」


 当然ながら私は何も言い返せない。カナは今本気で怒っている。もう半年以上も会っていなかった過去の親友に向かって何の遠慮も無しに怒鳴り散らしている。

「ごめんね、カナ……」そう呟くのがやっとだった。

「はぁ……」と深い溜息を吐きながら、カナは私の髪を撫でた。

「ベッタベタじゃない。それになんか臭いし。何日シャワー浴びてないの?」その声音からは、つい先程まであった棘は感じられない。柔和な声音と言っても過言ではないかもしれない。

「二週間位かな……はは……」自分の事ながら、情けなさすぎて言葉の端に自嘲が混ざる。本当に自分という奴は情けない。よくもまぁ、こんな無様な姿を親友に晒せたものだなと、今更ながらに、羞恥心が溢れ出してきて、彼女の前から逃げ出したくなる。

「二週間!? よく我慢出来たわね」そう言って、目の前の親友は豪快に笑う。どうやら怒りは完全に消失したらしい。

「うん。サバイバル生活がね、思っていたよりも楽しくて、つい」

「つい、じゃないわよ。この馬鹿たれが」頭を小突かれる。私は本当に馬鹿者であるらしく、頭に当たったカナの小さな拳に愛情のようなものを感じてしまった。つい笑みが零れる。その笑みには、先程のような自嘲は含まれいなかった、かもしれない。

「何笑ってんのよ、気持ち悪い。兎に角あがんなさいよ。話は尽きないけど、続きはシャワーの後でゆっくり聞かせてもらうことにするわ」そう言って、カナは私を部屋の中へ促す。一瞬の迷い。私をは本当に彼女の部屋に足を踏み入れていいのだろうか? 私のような馬鹿者でどうしようもない女に、その資格があるのだろうか。一度生まれ出た葛藤は中々消えてくれず、割れるのを待つ風船のようなに膨らんで行く。

「ほら、さっさと入る! 言っとくけど、私が怒ってるのは何も、あんたが、どうしようもない程に馬鹿だから怒ってるんじゃないのよ」

「え?」葛藤に支配されていた意識がカナの、その一言で現実に引き戻される。

「あんたは、親友である私に対して、卒業以来連絡の一つ入れないどころか、そんな状態になるまで相談もしてくれなかった……! 私はそれに腹が立ってるの。あぁ、もうムカつくわ! 兎に角あがんなさいったら!」

 顔を真っ赤に紅潮させながら、カナはフローリング張りの床を踏み抜かんばかりの勢いで歩いて行く。

「は、はい!」有無を言わさぬ、カナの剣幕に対し、私は敬語で返しながら、二週間に及んだサバイバル生活でドロドロに汚れた靴を玄関に脱ぎ、カナの後を追う。勿論、ちゃんと並べて置いた。私だって、それ位の常識を持っているのだ。カナに聞かれたら殴られてしまうかもしれないが。


 二週間振りに浴びるシャワーはとても心地が良かった。身体に付着した汚れは勿論の事、高校卒業以来積もりに積もった心の汚れも、綺麗さっぱり落ちて行くような感じがした。

 薄い仕切りを挟んだ脱衣所から声が聞こえてくる。

「タオルときがえ置いておくからね。後、あんまり出しっ放しにしないでよ。節制してるんだから」

 最後の一言は予想していなかったので、私は勢いのまま吹き出してしまった。

「あっ?」と、ドスの聞いた声が浴室まで響いてくる。背筋に悪寒が走り、浴室に籠るシャワーの熱気が原因ではない、別な類の汗が全身の毛穴という毛穴から吹き出る。折角シャワーを浴びたのが台無しになってしまった、と思う隙も与えないかというかのように、脱衣所から怨嗟に満ちた声が響いてくる。

「聞こえなかったかしら? 流しっぱなしにしないーー」

「は、はい!」カナの言葉を最後まで聞くことなく、矢継ぎ早に返事を返して、蛇口を閉める。

「聞き分けがよくて何より。風邪引くから早く出なさいよ」柔和な声でそう言い残し、脱衣所から、まるで悪魔のような親友うの気配が消える。

 ホッと胸を撫で下ろしながら、眼前にある鏡に目を向ける。当然の事ながら、そこには私の顔が映っている。思えば、高校を卒業して依頼、まともに鏡を見ていなかった。久し振りにに見た自分の顔は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。シャワーのおかげで、確かに汚れは落ちているが、積もりに積もった疲弊までは洗い落ちてはいないようで、目の下にはくっきと隈が浮かび、頬は、まるで鋭利な刃物で削ぎ落としたかのよう痩せ、硬い頬骨が浮き出している。唇も青みがかり、肌の血色も悪い。二週間という短い間ではあるものの、劣悪な環境下に身を置いていた事に変わりはない。人間という生き物は、こうも簡単に変わってしまうものなのかと平板な胸に手を置きながら私は思った。


 脱衣所に置かれた籠の中には、どこか見覚えのある上下お揃いのジャージが丁寧に畳まれた状態で入っていた。手にとって広げてみる。

「これ」見覚えがあるも何も、そのジャージは私とカナが半年前まで通っていた高校のジャージだった。青を基調とした生地に、ローマ字で高校の名前が刻まれている。お世辞にも洒落ているとは言えないジャージだったが、私の涙腺を崩壊させるには十二分だった。ジャージを身体に通す。不思議な事にサイズはピッタリだった。そこで思い出す。高校時代、私とカナの体格が同程度だった事を。


 脱衣所を出ると、眼前には闇が広がっていた。リビングらしき部屋から漏れる明かりを頼りに私は歩みを進める。『リビングらしきと表現したのには理由がある。玄関で靴を脱いだ私が最初に通された部屋が脱衣所だったからだ。故に私は脱衣所と浴室以外の間取りを知らないのだ。カナ曰く『汚らしい身体のまま、リビングに入れるわけにはいかない』だそうだ。実に辛辣極まりない話である。曲がりなりにも私は花も恥らうお年頃の乙女なのである。そんな私に対して、汚いから入るな、なんて、それこそ汚い言葉をよくもまぁ吐けたものだ。私は崩壊寸前の涙腺を何とか締めながら、脱衣所に一人残った。


 暗く狭い廊下を、まるで覚束ない幼子のような足取りで歩く。前方の扉からは淡い明かりが漏れている。断言は出来ないが、おそらくここがリビングなのだろう。

 リビングへ続く扉を軽くノックする。すると、間髪いれずと言った感じに、「はーい、どうぞー」という間伸びした声が返ってきた。出来るだけ音をたてないように扉を開け、私はリビングへ入る。

 途端に私は絶句し、その場で動けなくなってしまった。カナは裸体のままソファに横になり、煙草を吹かしながらテレビを観ていた。

「どうしたん、馬鹿みたいに突っ立って? こっちきなよ」テレビに向けていた視線を僅かに私に向けながら、カナは言う。

「う、うん」何とか、それだけ紡いで、カナが横になっているソファの向かいにある一人掛け用のソファに腰を下ろす。煙草の匂いが時折、私の鼻腔をくすぐってくるが、不思議と不快な気持ちにはならなかった。というよりも、この時の私には、煙草の匂いなど些細なものでしかなかったのかもしれない。目の前に全裸の女性がいれば、たとえ同性だとしても目を奪われてしまうのだなと、そんな益体のないことを考えていた。


 カナの肢体は成熟しきった大人の女性のようであった。頭の天辺から爪先に至るまでの一つ一つのパーツの作りは全て緻密でいて繊細。整い過ぎていて、逆に人間味を感じない。まるで冷たい石膏で造られた人形のようだと私は思った。だが、そんな彼女の完璧過ぎる身体に不釣合いな一つだけある。それは大きく肥大しきった脂肪の塊。スレンダーな彼女の肢体と、その脂肪の塊は噛み合わない歯車を思い起こさせる。たぶん、私だけかもしれないが。仮に私が男性だったとしたら、この瞬間に劣情の思うがままに行動していたことだろう。。あの塊には、男性の理性を瓦解させる何らかの魔術的な効果があるのかもしれない。それにしても育ちすぎだと思う。物事には往々にして限度があるものではないだろうか。高校時代は私と対して変わらなかった筈なのに。

 カナの胸に釘付けになっていた視線を自分の胸元へと向ける。危うく涙腺が崩壊するところだった。


「カナさん、カナさん」

「どうしたの?」テレビに視線を向けたまま、俄然せずと言った感じにカナは答える。

「えーと、今から詳しい話をするわけだけど、その、その格好は如何なものかと……」

「さっきまでのあんたの格好に比べればましよ」そう言って、私とカナの座っているソファの間にあるガラス製の四角いテーブルの上に置かれている、これまたガラス製の灰皿に短くなった煙草を押し付けると、私の方に視線を向ける。

「は、はい」それだけ言って、私はカナの視線から逃れるように未だに火種が燻っている灰皿の中へと視線を落とす。衰えることなく立ち昇る紫煙に気付いたのか、カナは再び煙草を掴み、今度は先程よりも強く押し付ける。

「煙草吸うんだね」

「気晴らしにね。社会人ってのは、あんたが思ってるよりも、ストレスが溜まるもんなのよ。全く嫌になるわ。私だって本当は働きたくないのよ。でも働いてお金を得ないことにはね。先立つものがないと、色々と不便でしょ?」

「うん……」

 カナの言っていることは確かにその通りだ。そこには反論の余地など微塵も存在しない。でもどうだろう。それを当然の事だと結論付けるのは誰にだって出来ることだ。でも、そう出来ない、どう努力しても社会に、人間が形成する輪の中に適応出来ない、入って行くことの出来ない人間が少なからず存在する。それも歴とした事実なのである。私の場合はただの甘えでしかないかもしれないが。と言うか甘えなのだが。

「それで、これからあんたはどうしたいの?」

「どうしたいんだろう……よく分からないけど、でも、このままじゃ駄目だって事だけは分かる」

「それだけ分かれば十分じゃない? あんたが変わりたいと本気で思っているのなら、私は幾らでも力になってあげる。微力ながらね」

「ありがとう」私の口から出たのはその一言だけだった。彼女の言葉にはきっと嘘偽りはないだろう。だから私は一抹の罪悪感のようなものを感じてしまった。私の語った言葉には偽りがあった。正直に言うと、私は今の状況に甘んじている事が本当に駄目なのかどうか自分の中でハッキリしていないのだ。それ程に私という人間は堕落してしまったのだ。駄目だと分かっていても、心に身体が追いつかない。それが今の私なのだ。こんな人間が変われるのだろうか? そもそも私は変わりたいと思って、カナの家を訪れたのだろうか? 今の私には全てが不明瞭で漠然としている。

「カナは変わらないね、あの頃から、何も」

「どういうこと?」

「そのままの意味だよ。高校の頃から何一つ変わらない。恰好いいカナのまま」

「人間そうそう変わらないわよ。でもあんたは変わらなきゃ駄目。私のところに逃げ込んできたからには絶対に更正させてやるわ。あんたの甘えきったその性根を叩き直してやるから、覚悟してなさい」そう言って微笑むカナの表情は、やっぱり高校時代から何一つ変わっていないように思えた。


 それからカナはシャワーを浴びると言って、艶やかな裸体を惜しげも無く披露した後、リビングから出て行った。危なく鼻血でリビングを血の海に変えてしまうところだった。


 何処からともなく、急に寂しさが込み上げてきた。カナが居なくなっても、リビングには確かにカナの体温が残っていたが、どうやらそれだけでは足りないようだ。私は実感した。人が持つ温もりに、どれだけ飢えていたのかを。だが、家族に会いたいとは微塵も思わなかった。私の中で家族とは、血の繋がった他人の集まりでしかないのである。

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