8
2月は特に客足が遠のく季節だ。俺は凍える指で弦を押さえ、震える指でピックを握って、歌った。歌と一緒に白い息が空気に融け込んで行く。カップルが目の前に立ち、一曲聞いたところでビラを一枚、持って行く。俺は二曲目を歌い始めながら、頭を下げた。
俺の対面にある駅ビルの壁に凭れ掛かるように、キリが立っている。家で待ってろと言ったのだが、一緒に行くと言って聞き入れなかった。まだ開いている駅ビルに入っていって、どうやらバレンタインのチョコレートを買ったようだ。手には赤と白に飾られた小さな紙袋を持って戻ってきた。
つんざくような寒さの中、キリはフードを耳の辺りまで引き上げて、腕を組んで俺の歌を聴いている。相変わらず、棒立ちのまま、リズムを取る事もなく、じーっと俺の顔を見ている。
まだヨチヨチ歩きの子供と、年配の女性が歩いてきた。キリはそれを見て、身体に巻き付けていた腕を解いた。
年配の女性は俺の歌を目の前で聴いている。まるでキリが初めて会った時にそうしたように、俺の曲を聴く訳でもなく、俺の顔をじっと見ている。子供はビラを掴もうと女性から手を離し、女性は「だめよ」と頭をぽんぽんと軽く叩いた。それから再び子供と手を繋ぎ、俺をじっと見つめる。子供は所在なげにきょろきょろし、「あー、あー」と何か言っている。
曲が終わった所で女性は子供から手を離し、小さく拍手をした。俺は一礼する。
ふと壁に目をやると、そこにキリの姿がなかった。トイレにでも行ったのかと気にせず次の曲に移ろうとすると、女性が「あの」と遠慮気味に口を開く。子供は「あー、あー」と手を伸ばし、女性に抱っこをせがんだ。女性は「よいしょ」と声に出して子供を抱き、俺に「人を捜してるんです」と言う。
「は? 誰をですか?」
「堺桐子っていう」
壁に目をやる。いない。キリはこの女性を知っているのか。
「桐子さん、ですか。髪の毛がこんぐらいの痩せてる」
手で髪の長さを示すと、女性は俺のダウンジャケットを掴み「知ってるんですか!」と食って掛かる。もう一度壁に目をやるが、やはりキリの姿がない。
「あの、多分、僕と一緒に住んでる桐子さんだと思います、その人。家に帰ったかも。良かったら一緒に来てください。ここから十分ぐらいの所ですから」
俺は急いでギターをケースに閉まってビラはケースの中に散らばったままだったが、そのままフタを閉めた。
「こっちです」
そう言って歩き出す。
「何で俺の所に来たんですか? 目撃証言とかですか?」
女性は重たそうに子供を抱え直し「ソニックスの香山君はご存知ですか?」と聞く。あまりに唐突で、予期しない名前が吐き出された事に動揺しながらも、相手に分かるぐらいには頷く事ができた。
以前拠点にしていた駅で、香山さんは今関さんの近くでいつも歌っていた。途中から今関さんと組んでギターとボーカルとに別れ、今のソニックス、いや、以前のソニックスの前身が生まれたのだ。今関さんと話す時は必ず、香山さんもそこにいた。だから俺の事を香山さんは知っているだろう。だがしかし、この女性と香山さんに何の接点があるというのだ。それにキリと香山さんは何の関係があるのだ。
「桐子ちゃんを探し回ったんだけど見つからないって香山君に相談したら、散々心当たりを当たってくれた挙げ句、あなたの、桜井さんの所に行ったら何か分かるかも知れないって教えてくれたんです」
香山さんの事を「香山君」を呼んでいる事に違和感を覚え「あの、香山さんとはどういうご関係なんですか?」と怪訝気に問う。アパートまですぐそこだ。キリはドアの前にでも座っているだろうかと考える。
「私はソニックスの今関の母です。この子は健司の子」
彼女が抱いている男の子は、居心地の良い祖母の胸で眠りについてしまっていた。もう八時半を回っている。眠くなる頃合いだったのだろう。今関さんに子供がいた事は知らなかった。まだ一歳過ぎたぐらいの子だ。
角を右折し、アパートが見えてきた。俺の家の玄関の前には人影はなかった。ただ、ドアノブに、赤と白で模様が描かれた小さな紙袋が下がっていた。
キリは家の鍵を持っていない。家に入れるはずがない。ここにいないという事は、別のどこかに逃げているという事か。逃げなければならない理由は。
「あの、あなたと、桐子さんはどういうご関係なんですか?」
女性は再度孫を抱え直し、「娘みたいなものです」と言う。俺は自分の耳に狂いがないか、何か確かめる術を探した。
「正確に言うと、この子の母親なんです。今は私が預かってますけど」
アパートの前で立ち尽くし、頭の中に、沸騰した鍋の気泡のように次々にわいては消えて行く彼女との日々の断片が、おぼろげな夢でも見ていたかと錯覚するぐらい、夜の闇に消え去って行く。
「えっと、て事は、今関さんと、キリ、桐子さんは結婚してるんですか」
小刻みに震える唇を引き締めるように、俺は口を大きく引き延ばして話す。女性はゆっくりと大きく首を振った。
「籍は、入ってないの。約束はしてたんだけど」
約束はしていた。抱いている子供の露出している脚をしきりにさすっている事に気付き、「狭いですけど、部屋にあがりませんか?」と申し出た。
鼻でも詰まっているのだろう、超音波みたいな音をならしながら、子供は俺のベッドにうつ伏せている。母親の匂いが少しはするだろうか。
俺は湯を沸かして茶碗に注ぐと、粉末の緑茶を溶かし入れた。
「どうぞ」
湯気を立てる茶碗を手に持つと彼女は、「ありがとう」と一度俺の顔をじっと見て、それから緑茶に目を落とした。俺は彼女の対面に座り、彼女が何か口を開くのを待った。傍らに転がっているキリのナイロンバッグから、白い紙袋が顔を覗かせている。彼女は今日、眠れるだろうか。俺の隣ではなく、どこで眠るのだろうか。
女性は静かに話を始めた。
「健司が自殺したのはご存知でしょ」
俺は静かに頷いた。こういう時は御愁傷様ですとか、気の利いた言葉を吐いた方がいいのかどうか逡巡し、そしてやめた。もう一ヶ月以上も経っているのだ。
「あの頃にはもう、二人とも精神的にどうかしちゃってて、この子は私が面倒を見てたんです。桐子ちゃん、ご両親を亡くしてるから」
カレーに福神漬けを入れない家だったと語った。霧の向こうから、彼女の少し寂しげな顔が見えるような気がした。
「それで、二人は結婚してなかったっていうのは」
俺の言葉に彼女は無言で一度頷き、それから緑茶をすすると、口を開く。
「健司が急に忙しくなったっていうのも一因なんだけど、事務所が、結婚はNGだって言ったらしくて」
よく聞く話だ。特に男性アーティストの場合、結婚を公表すると女性ファンが離れるから、していても隠し通すか、事務所が結婚しないように言うらしい。今関さんとキリは、子供はいても入籍をせずにいて、キリは旧姓である堺桐子のままだったのか。
「一段落したら事務所を説得して結婚するって、健司はずっと言ってたんだけどね。桐子ちゃんともそういう約束をしてて。まぁ、でもあんな感じでずっと忙しくて」
ふぅっーと長い溜め息を吐いた彼女は、茶碗から顔をあげ、俺をじっと見つめた。
「ほんと、似てる。似てるね、健司に。桐子ちゃんがあなたの所に行ったっていうのは、何か分かる気がする」
「桐子さんは、何で僕の所に来たんですか? ずっと疑問だったんですけど、桐子さんからは話してもらえなくて」
傍にあるキリの鞄に目をやった彼女は、ふっと頬を緩め、目頭を少し押さえた。
「香山君に聞いたんだけどね。同じ駅で弾き語りをしてた後輩で、健司とそっくりな子がいるんだって。桐子ちゃんも多分、その事を知ってると思うからって。だからこそこうやって桜井さんの所に私が辿り着いた訳なんだけど」
俺の疑問に対する答えにはなかなか辿り着かず、少し苛立つ。しかしこの女性は息子を亡くしていて、目の前には息子にそっくりの男が一人。いなくなった義理の娘を取り逃がし、頭の中は混沌としているのだろう。じっくり話を聞く事にした。俺は頷いて先を促す。
「推測でしか言えないの。勝手な推測で、本当の事は桐子ちゃんに聞かなきゃ分からない。でも多分、健司を亡くしてぼろぼろになって、健司の影をあなたに求めに行ったんだと思う。外身だけでもいいから、健司を。凄く、なんと言うか、抽象的な表現になっちゃうけど、分かってもらえるかな」
そう言って自嘲気味に笑う。俺はまだ一度も口をつけていない緑茶に初めて口をつけ「そうですか」と言った。それ以外に言葉が見当たらなかった。本人に聞くしかないのだ。俺を求めてきたのはなぜなのか。今関さんとそっくりな俺と暮らす事で埋まる穴だったのか。
俺は傍らに置いたギターケースからビラを一枚取り出すと、隅の方に携帯番号を記入した。
「これ、僕の番号です。もし桐子さんが見つかったら連絡ください。僕ももし見つけたら連絡しますんで、連絡先聞いてもいいですか?」
女性にもう一枚のビラとペンを渡し、連絡先を記入してもらう。今関、と名前が書かれた。
「桐子ちゃんがどこに行ったかとか、心当たりはある?」
俺は頭を巡らせ「うーん、特には思い当たらないですね」と期待はずれの答えをする。
「でも、お金は沢山持っていたようですから、ホテルに泊まるとか、そういう事は可能かもしれませんね」
そう言うと、少し安心したような笑みで「お金持ってるなら心配ないかな」と言って立ち上がり、ベッドで寝ていた子供を再び抱えた。何か声を出したようだったが、女性の胸で再び寝息をたて始める。
「あの、駅まで送って行きましょうか?」
「いいの、桐子ちゃんがここに戻ってくるかも知れないから。桜井さんはここにいて、ね」
どことなく今関さんの面影があるその女性は、どことなくキリの面影がある孫を抱いて、駅に向かって歩いて行った。
部屋に戻ると、棚に置いた赤と白の紙袋が目に飛び込んできた。中を開くと、チョコが入っているのだろう小さな箱と、小さな二つ折りの手紙が入っていた。
『私だけの武人へ』
キリがいない布団の中は、いつにも増してひんやり感じ、まるで四方八方を巨大水槽で塞がれているような孤独感があった。神様が今、欲しいものを一つくれるなら、俺はまごう事なく「キリ」と答えるだろう。それぐらい、物悲しかった。彼女を欲していた。それは性的な意味ではなく、傍にいて欲しかった。俺の手の届く範囲にいて欲しいと思った。
キリのお腹の傷口から生まれたあの子供は、今関さんとキリの子供。俺は今関健司ではなく桜井武人だ。それなのにキリはなぜ、俺に身体を許したんだ。子供を残してまでなぜ、俺の元にとどまっていたんだ。
全ての答えは、キリが握っている。キリだけが、本当の事を知っている。知りたい。でも、知らなくてもいいのかもしれない。欲張るのはやめだ。
俺を求めるキリがそこにいれば、俺が求めるキリがそこにいれば、それでいいではないか。
月のクレーターに落ちる夢を見た。そのクレーターは人の背丈よりずっと深くて、俺はそこから這い出る事は不可能だった。何度か壁面に爪を立ててみるが、砂壁のようにぽろぽろとはがれ落ちる壁面に、なす術が無かった。
その時、頭上を何かが横切った。
とても細くて、棒のようだけれど、人の腕である事は分かった。その腕が、自分の守るべき物である事も。
「キリ」
そう言った瞬間、俺は目を覚ました。手を伸ばす前に、目が覚めてしまった。
「キリ」
部屋の中に響く程に声を出した。しかし返事があるはずもなく、喉の奥が締め付けられるようになって俺は項垂れた。