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「じゃぁ、気をつけて行けよ、病院」

「うん、いってらっしゃい」

 いつものように玄関まで見送りにきたキリは、久しぶりにワンピースを着て、薄ら化粧をしていた。いつもより幾分健康的に見える。今日は予定通り、病院に薬を貰いに行くとの事だ。

「あ、そうだ」

 俺は思い出した事があって玄関の呼び鈴を鳴らした。すぐにドアが開き、キリが顔を出す。

「今日、雨が降る予報だから、そこに折りたたみ傘あるから、持ってけ」

 靴箱の横に下がっている黒い折り畳み傘を指差して、俺は玄関を閉めた。


「降ってきたよ、桜井ぃ」

 まるで俺のせいで雨が降ってきたような口ぶりで先輩にそう言われ、窓の外に目を遣る。霞がかかったような霧雨が降り始めている。

「雨具常備の俺は勝ち組ですよ」

 俺の言葉に先輩はケタケタ笑って「俺なんて車だからな、勝ち組のなかの勝ち組だ」と言う。確かに、車なら乗るまでの数秒我慢すれば、あとは雨具なんて持っていなくても小さい部屋に入っているようなものだ。原付は雨具があっても、所詮は雨具。俺のヘルメットはハーフだから、顔が濡れるのは必至だ。だがそんなアナログな感じも気に入っている。雨が降ると最も困るのは、弾き語りの場所が限定されるからだ。駅ビルの一階の、ひさしがある場所というのは数が限られているし、ビルとビルの合間の通路では弾き語りが禁止されている。俺はあの駅では新参者の部類だから、どうしたって雨の日は場所がなくてあぶれてしまうのだ。何しろ、雨の日は人が立ち止まらない。半年前まで弾き語りをしていた駅には大きな歩道橋があった。所々に屋根があり、雨の日はそこで歌っていた。学生は傘をさしてでも聴いていてくれた。

「今日は歌いに行けそうもないですわ」

 外を見ていた視線を先輩に移すと「雨の日ぐらい休めよ」と言って苦笑いをしている。

「そうですね、そうしよっかな。じゃ、お先です」

 俺はゴアテックスの上下が擦れる音を残して、原付置き場まで歩いた。原付置き場でキリにメールをする。

『帰りますよ』

 もちろん返信を待つつもりはないから、スマートフォンをデニムのポケットにしまうと、原付にまたがり、走り出した。

 まだ霧雨だった。これから朝まで降り続く予報だ。本降りになる前に家に着こうと、少し速度を上げる。


 いつも通り、呼び鈴を鳴らす。しかし中から人が出てくる気配がない。再度呼び鈴を鳴らすが、忍び足みたいに軽い足音がするはずなのに、何の音もしてこない。

 まだ帰ってないのかと思い、俺はデニムのポケットからスマートフォンを取り出した。久々の外出で、見たい物が沢山あるのかもしれない。催促するつもりは毛頭なかった。

 先程のメールの返信がきていた。時間は、ついさっきだ。

『どこにいるのか分からない 助けて』

 どういう事だ? 一抹の不安を胸に抱えつつ、俺はキリの電話番号を表示させ、耳に当てた。呼び出し音がなるとすぐに途切れ、息を吸い込む音がした。

『もしもし武人』

「あ、キリ。どこにいんだよ」

 俺は少し苛立ったような声で言うと、向こうでまた、スッと息を吸い込む音がした。

『分かんない、ここ、どこだろう。今ね、学校があるとこにいるんだけど、迷っちゃった』

「は? 何で迷ってんの。駅から真っ直ぐ帰ってきたんじゃねーのかよ。どこに向かった?」

 俺はジャケットのフードを被ると雨の中に走り出た。

『市松小学校入り口って交差点に書いてある』

 俺は向かおうとした方向とは逆に身体を切り替えし、少し急いで歩いた。

「そこで待ってろ。動くなよ」

 電話を切った。そのうち勝手に身体は走り出し、顔が雨に濡れた。薬を飲んで凭れ掛かってきたキリを思い起こすと、時は一刻を争うのではないかと錯覚し、次第に全力疾走へと近づく。息が切れ始めた頃、遠くに濡れそぼったネズミみたいな人影が、街灯を背に立っていた。

 街灯に照らされたオレンジ色の雨が、彼女をふんわりと包み込んでいて、その情景はあまりに美しく儚く映り、思わず足を止めてしまった。まるで映画のワンシーンのようで、息さえ止めて見つめた。

 思い出したかのように走り寄ると、キリは顔をしかめながらも困ったように笑っていた。カーキのジャケットは雨が浸みて色を濃くしている。フードを飾るファーからは、水がぽたぽたと垂れている。

「何やってんだよ、傘はどーしたんだよ」

「忘れてた」

 俺はゴアテックスの上着を脱ぐと、キリのジャケットを脱がせ、代わりにゴアテックスを羽織らせた。俺はキリのジャケットを頭から被る。途端に、雨脚が強くなった。

「こっち側コンビニとかないから、このまま走って帰るぞ」

 そう言って俺は地面を蹴った。キリも俺の後ろを走ってついてくる。途中から息を切らせている様子だったが、歩いて帰るには雨脚が強すぎた。俺は少しだけ速度を緩めて彼女の手をとると、それでもキリを走らせた。ちらっと見たキリのワンピースの裾は、雨水でまだら模様を描いていた。


「鍵」

 俺がそう言うと、キリは何かを思い出したかのようにびくんと反応し、ショルダーバッグのポケットから慌てて鍵を取り出す。キリの身体側にあったのか、鍵は少し暖かかった。俺はドアを開くと先にキリを玄関に入らせ「上着脱げ」と言った。俺はゴアのパンツを脱ぐ。どちらも雨水に濡れていた。

「脱いだよ」

 キリの手にあったゴアジャケットを受け取ると、玄関前で振るって水気を切ってからドアをくぐった。キリは困惑した顔で洗面所の前に突っ立っているから「早く着替えしろ、濡れてんだろ」と急かすと、彼女はまた何かを思い出したみたいにびくんと反応し「うん」と服を取りに向かった。

 キリのジャケットは半分以上色が変わってしまったけれど、内側のボアまで水は浸みていなかった。ハンガーに吊るし、鴨居にかけると、ジャケットの重みでハンガーがたわむ。

 洗面所で部屋着に着替えたキリは、俯いたまま俺の所に歩いてきて「ごめん、なさい」と呟いた。

「何してたんだよ、あんなとこで。駅と真反対じゃねーか」

 キリは小さく頷いて、自分を抱きしめるみたいに腕を回したままベッドに腰掛けた。

「駅出たら雨降ってきたから、家に帰ろうと思ったんだけど、武人はバイクだから、雨大丈夫かなと思って、気付いたらあそこにいた」

 タイムスリップでもしたような、彼女の時系列に乗っ取った言い訳を聞き、俺は床に座り込むと、ちゃぶ台に肘をついた。手の平に顔を乗せ「もしかして迎えに行こうとか思ったわけ?」と視線をキリに向けた。キリは俯いたまま「多分そう」と呟く。

 がくりと項垂れた俺は、二回三回首を振り「バカか」と飛ばした。言われたキリは「うん、バカなんだと思う」と糞真面目な顔で頷いている。

 一度家に帰って、傘をさして迎えに行くという、正常な行動はとれないのだろう。そういう精神構造なのだろう、少なくとも今は。そもそも、原付で出掛けている者を徒歩で迎えに行くという考えが突飛だとも思う。

 でも、正直な所、そんな事をされて嫌な気持ちではなかった。俺を迎えに行きたい。雨に濡れたら困るだろう。感情の赴くままに行動してしまう彼女の精神構造なら、こんな風になっても仕方がないのだろう。逆に、俺は彼女に言わなければいけない事があるだろう。

「キリ」

「何?」

 顔を上げた彼女は呆けたような顔をしている。

「ありがとな」

 俺の言葉に、きゅっと口角を上げて目を思いっきり細めて、声に出さず頷いた彼女は、飛び切り可愛らしかった。


 それから二人で夕飯作りにとりかかった。

「二人でやると、狭いし、武人、邪魔」

 そんな事を言われ、結局俺はちゃぶ台に座ってニュースを見ていた。

『次の話題です。ボーカルの今関健司さんの自殺によって活動を休止していた人気バンドのソニックスでしたが、新たなボーカルを迎えて活動を再開する事が今朝、ギターの香山さんへの取材で分かりました。新しいボーカルについては』

 あまり観ていたくない話題だった。俺はリモコンを手にすると、チャンネルを変えた。すると画面の右上に「ソニックス」の文字が見えたので、更にチャンネルを替え、最終的にはテレビの電源を切った。

「好きじゃないんだね、ソニックス」

 ちゃぶ台に煮物が置かれた。俺は「別にぃ」と放って、付いていた肘を引っ込めた。

「嫌いじゃないけど、ボーカルが死んでさ、新しいボーカル入れるんなら、ソニックスって名前やめたらいいのにと思って。今関さんが作詞作曲するわけでもねーのに」

 ソニックスの曲の殆どが、今関さんの作詞作曲だ。今関さん中心で結成されたソニックスが、他人の物になるような気がして、酷く気に入らなかった。

「確かにね」

 サラダとみそ汁が置かれ「茄子がダメになりかけてたから今日のみそ汁は茄子いっぱいになった」とぎこちなく笑う。そこには不自然な要素が詰め込まれているのに、俺にはその一つの端も掴めない。

「なぁ、キリはソニックスのファンだったりするの?」

 食卓に箸を置く手をやにわに止め、表情を固め「何で」と低い声で問う。俺は全然変な事を訊いたつもりはなくて、彼女の反応に首を傾げた。

「別に何でって言われても、ただ訊いただけ。ほら、うちに来た日に今関さんに似てるとか、俺に言ってたし、ギターの練習してた時もそうだし」

 バカみたいに丁寧に箸をテーブルに置くと「そうだっけ」とわざとらしくとぼける。いや、本当に彼女は覚えていないのかも知れない。俺は彼女の精神構造が分からなくなる。またちぐはぐな会話になるのは避けたかったから、「うまそう」と言って俺は食事に手を伸ばした。

「キリはいつ料理覚えたの? 誰かいないと作らないとか言ってたよね」

 口に運んだ絹揚げを口の寸前で止めて「そんな事言ったっけ?」とまたとぼける。いや、覚えていないのか。

「私だって一応、人生色々あったから、そりゃ人にご飯を作ってあげる事だって、あったって事だよ」

 絹揚げを挟んだままの箸をぶんぶん振っている姿はどこか滑稽で、「早く口に入れろよ」と笑った。


「なぁ、病院はいつぐらいから通ってるの?」

 その「病院」が精神科なのか、心療内科なのか知らないが、きっとそのどちらかなのだろうという前提で訊ねた。

「三ヶ月ぐらい、四ヶ月ぐらい? 前からかな」

 アルミのパッケージから錠剤を押し出している。その度にテーブルに錠剤が転がる乾いた音が鳴る。病名を訊こうかどうか悩んだが、やめた。訊いた所で俺は何もしてやる事はできない。彼女の事は何も知らないのだ。それに、肝心な事はきっと、彼女は話さないだろう。そんな風に感じていた。

「ねぇ、武人はさ、すっごく寂しくなったりしない? 一人でいる時に何か、自分の中が空っぽで、何か考えようとしても何も浮かんで来なくて、誰も何も自分に近づいてきてくれないみたいな、そんな感じになった事、ない?」

「ないよ、そんな難しい状況」

 俺は苦笑しながらそう答えたが、薬をかき集めるキリの顔は大真面目だったから、俺も慌てて笑みを消す。

「キリはそういう事、あんの?」

「武人が仕事に行ってる時とか、武人が眠ってる時とか」

「俺かよ」

 我慢ならずにまた苦笑する。今度は彼女も少し笑った。片手を口に押し当てると、口腔内に錠剤がまき散るくぐもった音がする。喉が鳴り、薬が嚥下された事が分かる。俺は布団に入ったまま両手の平を枕にして天井を見つめていた。彼女が俺をまたいでベッドに乗ったので、上半身を起こして、電気の紐を引く。段階的に部屋の中は暗さを増し、オレンジ色になり、一瞬、雨に打たれるキリを思い出した。そして闇を作った。

「おやすみ」

 俺の言葉に「うん、おやすみ」と答え、寝返りをするようなもぞもぞとした音がする。寝心地が悪いのか寒いのか、なかなか落ち着かない。

 今日はいつもに増して冷えるな、そう思って俺は暗闇に慣れた目で押し入れまで歩いて行き、毛布を一枚取り出した。それをキリの布団の上から掛けてやる。キリがこちらに視線を向けるのが分かった。

「今日、何かやたら冷えるから掛けとけ」

 喉が鳴るみたいに小さな声で「うん」と返事をし、壁を向いている。俺は自分の布団に戻ると、寒さから身を守るために小さく丸まった。そして目を閉じた。

 しばらくして「ねぇ、起きてる?」とキリの声がする。俺は寒さでなかなか眠りにつけなくて「起きてるよ」と返事をすると、彼女はもぞもぞと動き、こちらを向いた。暗闇に慣れた目と目がかち合う。

「ねぇ、嫌なら嫌って言ってね」

「何が」

 冷気が入り込む肩の辺りに、ふんわりと布団を掛け直した時、彼女が口を開いた。

「一緒に、隣で寝て欲しい」

 俺は絶句し、暫く無音が続いた。きっと完全な無音ではなく、隣近所から何かしらの音がしていたのかも知れないけれど、それすら感じる隙がないぐらい、俺は何も言えなかった。

 それでも「嫌だ」という気持ちは微塵も沸かない。彼女がからっぽになって寂しくなるという難儀な時間が減ればいいと思ったし、俺が彼女に近づけば彼女はもっと色々な事を話してくれるかも知れないとも思った。俺は返事をしないまま枕を持って膝立ちになり、ベッドに近づいた。察した彼女は少し壁際にずれて、俺は少し暖まった布団に入り込んだ。

「ありがとう」

 俺は何も言わず、きっとキリには分からなかっただろうけれど、口元に笑みを湛えた。彼女は仰向けの俺に縋るみたいに腕を回す。その身体は、小刻みに震えている。

「寒い、の?」

俺の二の腕の辺りでぶんぶんと首を振っている。暫くその震えがおさまるのを待ったが、止まない。

「怖いとか? 俺の事」

 また首を振るのが分かる。俺は身体をキリの方に向けると、棒切れみたいに細くて折れそうな身体を抱き寄せる。

 キリは俺の胸の辺りに額を押し付けて、すすり泣きはじめた。忙しい女だ。俺にできる事は限られているから、できる限りの事をして彼女を安心させてやろうと模索する。

 彼女の首の辺りに手を回して腕枕の形をとり、更にきつく抱きしめる。

「匂いは、違うんだね」

 俺の胸に潰された彼女の声は確かにこう言った。匂いが違う。

「違う? 何と?」

 またぶんぶんと首を振って、話をうやむやにする。それで彼女が満足するのならいいだろう。しかし、「匂いは」違う。だったら何は違わないんだ。何は同じで何が違うのか。パズルのヒントがそこに隠されているような気がして、もう少しでそのヒントに手が届きそうな気がした。しかしヒントに手が届いた所で、パズルが解けるわけではないのだけれど。

 その体勢のまま、彼女は寝息を立て始めたので、俺は抱きしめる力を少し緩めてやった。腕枕なんて久しぶりで、寒い部屋の中で指先は凍えそうだったから、俺はスッと彼女の首から手を抜き出し、布団にしまった。それでも片腕は彼女を抱いたまま、眠りについた。俺と同じシャンプーを使っているはずなのに、彼女は俺とは違う、女らしい香りがした。


 その日以降、布団は押し入れにしまう事になった。シングルサイズの、俺一人でも狭いぐらいのベッドで、二人で寝ていた方が、彼女は空虚な感情にとらわれずに済むと言う。

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