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寒さで目が覚める。仕事は休みでも、仕事がある日と殆ど変わらない時間に目が覚めてしまう。不眠の気があるのだろうか。一度ぐっと伸びをして気付く。ベッドの上に座っている、女性に。
「おはよ」
彼女はまるで日常に融け込んでいるみたいにひらりと手を挙げて朝の挨拶をする。
「あぁ、まだいたんですか」
俺は寝癖だらけであろう髪をグシャっと掴み、「いつまでいるつもりですか」とあくびを交えながら無愛想に訊ねる。
「いつまでならいてもいい?」
「何いってんスか、あんた」
俺の言葉にまた「ふふ」と笑い、腹を折っている。
「帰る所がないの、暫くここにいさせて。って言ったらいさせてくれる?」
そこには、昨日と同じ、口元だけに作られた寂しげな薄い笑みが浮かんでいる。彼女の声が甘えに富んだねちっこい声だったら俺は即刻外に追い出すのだが、彼女の澄んだ声を聞くと、本当に彼女は困っているのではないかと錯覚してしまう。俺は困惑して掛け布団を半分に半分に折っていき、これ以上折れなくなった所で「帰る所がないって、じゃあどこから来たんだよ」と反撃した。
「どこからだろう。気付いたら君のギターの前に座ってたから。ねえ、名前教えてよ、桜井君」
面食らったように瞬きをし、自分の苗字を知られている事に一瞬恐怖を覚えたが、そういえば昨日俺のビラを一枚掴んだんだったと思い出す。
「ビラ見たんでしょ。桜井武人。あなたは?」
俺は敷き布団の上にあぐらをかいて、彼女と対面した。
「私は、桐子。キリって呼んでね」
「いや、呼ばないし。つーかもう帰ってください」
俺の声なんて耳に届いていないみたいに、軽い足取りでトイレにたち、それから戻ってくると、俺が座っている布団の隣に座り込んだ。自分のバッグに手を突っ込み、探っている。奥の方から、個性的な柄の財布が出てくる。
「当面のご厄介費」
そう言って、やけに分厚い札入れから数枚の一万円札が出され、布団の上に広がった。
「あの、困るんで、帰ってもらえますか? 金も持って帰ってください。厄介だと思ってるなら余計に帰って下さい」
彼女は俺の声なんて完全に無視して財布をしまい、ベッドに飛び乗ってうつ伏せになると、傍にあったリモコンでテレビをつけて、見始めた。俺は困惑で頭がおかしくなりそうだった。布団に散らばった一万円札は十枚あった。とりあえず一発、溜め息を盛大に吐いて、それから札をひとまとめにしてちゃぶ台に置いて、俺は布団を畳み押し入れに運んだ。今夜はベッドで眠れるだろうかと不安になる。
「あの、キリさん、本当にここにいるつもりですか?」
「さん、はいらないよ。同じ歳だよ、武人君」
年齢が知られている事に驚き、次に口にしようとした言葉が喉につかえる。
「お金だったら沢山あるから。使い切れないぐらい。あと、料理もできるよ。迷惑かけないから」
「いや、もう既に迷惑なんスけど」
彼女に目をやるが、こちらを見る事もせず、ずっと薄く微笑んだままでテレビを見ている。
何を言っても帰りそうもない彼女に「俺、朝飯買ってきます」と告げて上着を引っ掛けてから家を出ようとし、思い出したように引き返した。押し入れの衣装ケースからボーダーのカーディガンを取り出すと「寒いでしょ、着てください。それから勝手に外出ないで下さい」と言って彼女にカーディガンを投げつけた。
「菓子パンですけどいいですか、あとインスタントコーヒーいれますから。飲んだらすぐ帰ってくださいね」
ベッドに向かってそう言う。返事が来ないのは承知の上だった。俺は薬缶で湯を沸かし、コーヒーをいれた。そろそろインスタントコーヒーを買って来なければと頭の中にメモをする。
俺のカーディガンを羽織った彼女、キリはベッドから這うようにしてちゃぶ台まで来て、それから「いただきます」と言って菓子パンの袋を叩いて破り、食べ始めた。破裂音で俺は危うく声を上げそうになった。
彼女に渡したのは百八十センチの俺が着れるようなカーディガンだからサイズがぶかぶかなのは当たり前なのだが、巨大なケープでも掛けたようなシルエットになっていて、彼女の華奢な身体が痛々しかった。
「ねぇ、武人君は仕事してるの?」
「してますよ、今日は休みだけど」
ふーん、と言ってクリームパンを一口かじる。
「キリ、さん、は仕事してないんですか」
「だって私お金あるもん、使い切れないぐらい」
「あっそ」諦めたように俺はそれだけ言い、黙ってパンを食らった。
「ねぇ、同じ歳だから、ため口にしようよ。今日は何が食べたい? とりあえずお昼」
パンを頬張りながら、首を傾げてみせる。細い首は今にも折れそうに見え、そこが限界のように思えてくる。
「あの、本当にここに居座るつもりなの?」
俺はさぞ迷惑そうに言ったつもりなのだけれど、彼女はそんな事は勘定に入れず「居座るつもり」とサラリ言う。
きっと何を言っても、脅しを掛けても、彼女はここに居座るつもりなのだろう。偶然駅の前で歌っていた俺を見て、人畜無害で簡単に部屋にあげてくれそうな顔だとでも思ったのだろうか。もし俺ではなく、もっと乱暴な奴だったら、彼女はレイプでもされていたかも知れないのに。そんな危険性を一切考えていなかったのだろうかと疑問に思う事は次々と湧き出てくる。
ひょんな切欠でうちに来て、きっとひょんな切欠で出て行くんだろう。「気が変わったから出てくね」とか、平気で言ってのけるタイプなのかもしれない。そうに違いない。
タイミングよく、半年前に彼女と別れてから新しい彼女はできていないし、友人が頻繁に訊ねてくるような家でもない。金も払うと言っているぐらいだ、しかも受け取った事になってしまっているし、ある程度は信用しても大丈夫だろう。
「キリ、携帯持ってる?」
キリはクリームパンの最後のひとかけらを口にくわえたまま鞄の中に手を突っ込み、携帯を取り出す。真っ赤な金魚みたいな携帯だった。
「赤、好きなの」
「うん」
最後の一口をもぐもぐとしながら、今度はマグカップに指を引っかけている。
「一応、何かあったときのために電話番号教えろ」
「何かって、何か私が悪い事すると思ってる?」
「分かねぇだろ、そんなの。俺キリの事なんてなんも知らねぇんだぞ」
俺は口を尖らせてそう言い、自分の電話番号を表示させたスマートフォンを彼女に向けた。
「ここにかけて」
彼女は少し伸びた爪が引っかかる音を立てながらキーを操作し、俺のスマートフォンを鳴らした。「きりこ」と入力し、登録する。
「昼は、俺が焼きそばでも作るから。夜はキリが作れ」
彼女は口元にだけ浮かべていた薄い微笑みを、一気に広げてにっこり笑うと「うん」と大きく頷いた。
「キリは暴力団の女だとか、そういうオチはないよな?」
彼女が作った筑前煮の里芋を箸で突き刺して口に運びながらそう訊ねると、可笑しそうに彼女はケタケタ笑った。
「ないよ。多分、武人が心配してるような事は一切ないから、大丈夫」
キリの料理の手際は極めて良かった。まるで今まで誰かのために夕飯を作る事が日課だったかのように、さっさと野菜を切り刻み、冷蔵庫をざっと眺めて必要な物を取り出して味噌汁を作ったり、棚の中を覗き込んで水切りボウルを見つけると、それを取り出してサラダを作った。小さなちゃぶ台の上はおかずでいっぱいになった。
「キリは料理が得意なんだな」
思ってもないぐらい、感心しきりの声が出る。
「そうでもないよ。食べてくれる人がいなければ絶対作らないし。自分一人のためには絶対に料理なんてしないから」
目尻を下げて笑う。昨日、俺の傍に寄って来た時に感じた、少し寂しそうな薄い笑顔は消え去って、今は目一杯笑っているような気がする。これが通常のキリなのか、昨日の幸が薄そうな感じの笑顔が通常のキリなのか。今の所、俺には判断ができなかった。
「じゃぁさ、うちにいてもいいから、夕飯は作れよ。それが条件な」
「武人、彼女は?」
やにわにそんな事を訊かれて、手から箸が転げ落ちた。
「いないよ、そんなもん」
慌てて箸を拾い、傍にあったティッシュで拭う。「ゴミ」と彼女が手を伸ばして来たので、骨と皮でできたみたいな彼女の手の平にティッシュを乗せると、背後にあるゴミ箱に捨ててくれた。
「私の事、彼女みたいに思えとは言わないけど、家政婦みたいに何でもするから、言ってね」
俺はケタケタ笑って「家政婦かよ」と言うと、彼女も同じように「ご不満ですか?」と笑う。
昼間のうちに、近所の大型スーパーに食料品の買い出しがてら、彼女の部屋着を調達しに行った。ワンピースと下着はそれぞれ三着持って来ているが、部屋着はないというからだ。さすがに俺の服は大き過ぎるから、スーパーの安物でも良いから女物の部屋着を買えと言って買わせた。金は彼女から渡された中から使った。
赤と白のドット柄のパジャマは、安物だけど彼女にとても似合っていた。赤が似合うのは、思っている以上に彼女の顔の作りがしっかりしていて、色に負けていないからだという事に気付く。肌の白さもあるだろう。初めて見たときは捨て猫のようなイメージを抱いたが、今はそれがない。
「シャワーで悪いな。バストイレ同室だと湯船はる気になんねぇから」
彼女は濡れた髪をタオルでゴシゴシと乱暴にこすりながら「いいよ」と言う。俺がドライヤーを持って目の前に差し出すと、びっくりしたようにそれを見て、「ありがとう」と微笑んだ。
「風邪ひかれたら困るし。じゃ、俺シャワー浴びてくるから」
そう言って俺は着替えを一式持って風呂場に入った。
不思議な女だ。昨日と今日では別人のようだ。昨日は感情を殆ど表に出さないように、ずっと口元だけに笑みを貼付けたままで俺に接していたのに、今日、ここにいてもいいと許してからは、人が変わったかのようにケタケタ笑い、表情を変え、まるで今までこの部屋に住んでいたかのようにリラックスしている。
会った事があるのか? 自分で気がついていないだけで、キリは気付いているとか?
思い当たるフシはないのだが、彼女のリラックスした顔を見ていると、昨日や今日知り合った仲のようには思えないのだ。ここに住んでいる俺よりも、彼女のほうがずっとリラックスしている。
そんな事を考えながらシャワーを浴び終え、トイレのフタの上に置いた部屋着に着替える。風呂場の折りたたみ戸をガシャリと開けると、俺は一瞬息を止めてしまった。
ドアのすぐそこに、キリが座っていた。
「何、してんだよこんなとこで」
「人の雰囲気がないと寂しくって、シャワーの音聞いてた」
少し困ったような顔で笑ったキリは「あはは」とこめかみを掻いている。
「うさぎかよ。俺明日仕事なんだからな。家に誰もいなくなるぞ。キリはどっか行くの?」
「行かないよ。武人が帰ってくるの待ってる」
その場に片手をついて立ち上がり、俺を見上げる。
「あっそ。鍵かけないで勝手に出掛けられても困るから、出掛ける日は出掛けるって言えよ」
うん、と呟きながら俺の後ろをついてくる。本当にウサギかなにか、小動物のように思えてくる。
俺はちゃぶ台の前に腰掛けて、ドライヤーのスイッチを入れた。温風に当たる部分の髪を、手櫛でといていく。ドライヤーの向こうで、キリが何か言っているのが口の動きで分かったので、俺はドライヤーを止め「何?」と訊き返す。
「弾き語りはいつ行ってるの?」
「仕事が休みの前日の夜」
それだけ言って、またドライヤーをかけ始めた。俺が弾き語りに行く時、彼女はついてくるのだろうか。昨日の雰囲気を見ている限りでは、俺の歌に興味があるようには見えなかった。だったら何に興味があったんだ?
ドライヤーのコンセントを引き抜くと、まだ熱を持ったままの本体にコードを巻き付けながら「なぁ、何で俺だったの?」と訊ねた。彼女は一瞬目を見開いたかと思うと、それを急速に細めて「そこに、武人がいたからだよ」と言って、昨日のように口元だけで笑う。
「そこにいたって言ってもさ、もしそれがすげー悪いやつで、変態で、変な事されたらどーすんの」
張り付いた笑顔はそのままで、じっと俺を見つめる。その瞳は、やはり少しの寂しさを抱えているように、俺には見えた。
俺は、いくら付き合っている女がいないからといって、昨日知り合ったばかりの彼女をどうにかするつもりはなかったし、彼女だって俺とどうにかなる気はないのだろうという事は分かっていた。しかし、脅しのつもりで彼女の肩をつかむと、押し倒した。まるで何の抵抗もなくその身体は床と平行になり、驚く。もっと驚いたのは、彼女が顔色を一つも変えなかった事だ。
「武人ならそういう乱暴な事しないって分かってたから」
「分かってたって、俺ら知り合い? 俺全然知らないんだけど」
彼女の真上から声を浴びせ、彼女の返事を待ったが、彼女は暫く間を置いてから「私も知らない」と答えた。
「訳わかんねぇ」
俺は彼女をそこに捨て置いて立ち上がると、ドライヤーを棚に置き、押し入れから布団を取り出した。
「あ、私が布団で寝るから」
彼女はそう言うと立ち上がったが、「いいから」と制した。
「俺、朝早いから。食パンがそこの棚の上にあるから、適当に朝ご飯食べて。昼飯も適当に」
言いながら俺は布団を敷き終えると、台所に置いてある歯ブラシを手にして歯を磨き始めた。それを見たキリも鞄からごそごそと歯ブラシを取り出し、「私もここに置いておいてもいい?」と顔を覗き込むので、俺はこくりと頷いた。
俺が口をゆすぎ終わると、キリも同じように口をゆすぎ、それからそのコップに水を汲むと、調理台の上に置いた。俺は何も言わずにこれから繰り広げられる彼女の行動が何なのかを、布団の上からじっと見ていた。
鞄の中から白い袋が三つ程出てきた。更にその中から出て来たのは複数の銀色のシートで、そこから一つずつ、ちゃぶ台の上に押し出している。そのうちの一つが転がって、俺の近くに落ちた。
「何の薬、これ。つーかそれも」
俺は綺麗な青をした薬をテーブルに戻すと訊いた。
「睡眠導入剤とか、抗うつ剤とか、安定剤とか。私、そういう系なんだ、自分では認めたくないけど」
「そういう系ってどういう系だよ」
彼女はちゃぶ台に散らかした薬を手の平で端に集めると、もう片方の手の平に落とし、それを一気に口の中に放り込むと、台所に置いてあった水をごくごくと飲んだ。
「薬ないと眠れないの?」
歩いてきてベッドにすとんと腰掛けると「そうだね」と頷いた。「不眠症だから」
昨日は薬を飲んだ上で出歩いていたのか。随分と危ない事をする物だと思う。いや、歩いている間に飲んだ可能性だってある。
「薬飲んで出歩いたら危ねぇぞ。昨日みたいにふらっと眠っちゃったら周りにいる人、救急車呼ぶかもしんねぇよ」
カラリと笑って「救急車って」と言い、そしてまた笑う。
「薬飲んだだけじゃ暫く眠くならないんだ。結構気持ちが安定してからとか、薬が完全に効くまで切羽詰まってからじゃないと眠れないの」
「じゃぁ俺と話してた時は切羽詰まってたって感じ?」
全く見ず知らずの俺を見て安心する訳がない。となると薬の限界だったと考えるしかないだろう。しかし彼女の答えは違った。
「ううん、武人の顔見たら安心して眠くなっちゃった」
俺は首を捻って「意味分かんないです」と言い、電気から下がるコードを引っ張った。
「多分今日もすぐ寝ちゃうと思うよ」
「意味分かんないです」
俺は出勤時間に合わせてスマートフォンのアラームをセットし、それからニュースのサイトをざっと流し見る。そのうちにベッドの方から静かに寝息が聞こえて来た。本当にすぐに寝てしまったのだなと苦笑し、スマートフォンの液晶を消した。