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 日が経つに連れて、あの日々は幻だったのではないかとさえ思えてきた。俺の家にキリが来た事は幻で、一緒に暮らしていたなんて大嘘を今関さんのお母さんに言ってしまったのではないか。キリのナイロンバッグを目の前にしてさえ、そんな事を考える。

 そうでも思わないと、やってられない。あんなに満ち満ちた日々が突然途絶えるなんて、想像していなかった。彼女が望んで俺が望んだあの日々は、きっと幻だったのだ。

「きり」

 彼女が使っていた枕を抱きしめると、ふんわり、彼女の香りがした。鼻の奥がつんとして、俺は顔を横断する水の雫が自分の枕に吸収されていくのを感じた。


 何度かライブをやった事がある。ビルの十階に入っているそのライブハウスは「ビーチサンダー」という名前で、俺達は略して「びーさん」と呼んでいた。

「お願いしまーす」

 入り口を入ると声を掛け、すると中にいた人が一斉にこちらを向き、口々に「お願いします」と言う。

「桜井さんのリハは一番始めなんで、すぐ支度してくださいよー」

 下島君はバインダーに挟んだ紙を持って俺の肩を叩いた。

「うい」

 返事をしながらギターを取り出し、手元のチューナーでチューニングを始める。そこここで今関さんの曲を口ずさむ声が聞こえてくる。俺も「濃霧の向こう」以外の曲で、思い浮かんだ曲を歌いながらコードをつま弾いた。

 今日の出演者の中で最古参は俺らしく、しんがりを任された。しんがりならそれらしいポップチューンで終わらせればいいのに、と思わなくもなかったが、下島君の仕切りだから彼には文句を言わなかった。

「じゃ、桜井さん、お願いしまーす」

 下島君の声がステージの辺りから上がって、俺は「はいよ」と立ち上がり、楽屋と呼ぶには小さ過ぎる、ギターやベースで埋め尽くされた控え室を通ってステージに上った。まだあちこちにシールド類が散らかっていて、それでも俺はギター一本で歌うから、不便は無かった。今日はアンプを経由せず、生音でお願いした。

 歌はうやむやなままで、ギター中心に音を調節してもらう。何度もライブをやっているから、ここのPAさんとは顔見知りだ。大体の事は適当にやってくれると分かっている。

「ライトはどうします?」

「動かさないでいいよ、適当で。転調するあたりで色変えるぐらいで」

 適当、と言っておきながら注文をつけている事に気付き「あ、やっぱ全部お任せします」とマイクを通して言うと、どっと笑いが起こる。

「次はー、マクロハウスさんお願いしまーす」

 下島君は仕切り役で忙しそうだ。俺は「濃霧の向こう」の歌詞を眺めながら、なぜかキリの事を思った。

 深い霧につつまれた樹海の中で、彼女は裸足のまま、か細い脚で霧の奥へと走り去ってしまうイメージが頭から離れなかった。実際、「濃霧の向こう」という曲は、ハッピーチューンではなかった。

 今関さんが弾き語り時代に作った曲で、ソニックスではアルバムに収録されているが、シングルカットにはならなかった。歌詞が少し陰鬱だからだろう。弾き語りでなんて歌ったら、更に暗さが増しそうだが、今関さんはいつもさわやかに歌い上げていた。少し離れた所からこの曲が聞こえてくると、俺は次の曲に移るのをやめ、耳を傾けていたものだ。梅雨の雨のように、憂鬱でいて、しかし向こうに見えている夏を透かして見ているような、今関さんの不思議な声。あれを真似ようと思っても、俺にはできないだろう。だから今日、俺があの曲を歌ったとしても、今日こそは「声が似ている」とは言われないだろう。


 リハーサルが終わった頃、一人目のお客さんが入ってきた。それから続々と人が集まってきて、たちまちライブハウスは熱気に包まれ始める。俺はフロアの片隅、小さく切り取られたみたいなはめ殺しの窓から、十階分下にあるコンビニのあかりを見ていた。人が歩く姿を見ていた。

 ここから飛び降りたら、きっと死ぬのだろう。死ぬという事は、どういう感じなのだろうか。今関さんはなぜ、死を選んだのだろうか。その「死」を発見したのは、もしかするとキリなのかもしれない。何となく、そうだろうと確信できた。濃い霧の向こう側に歩いて行く今関さんを見つけたのは、きっとキリだったんだ、そうに決まっている。

 人が増えるにつれ、はめ殺しの窓がどんどん結露してくる。客が次々に入ってくる。曇ったガラスの向こう側に、コンビニのあかりに反射する自転車が通って行った。それを最後に、コンビニのぼんやりした灯りしか分からなくなった。人なのか車なのか自転車なのか、分からなくなった。

 大きなライブハウスではないから、出演者も客も、同じフロアにいる。先日直接ビラを渡した女性が、俺に気付いて近づいてきた。

「桜井君、今日は何の曲歌うの?」

 俺は「内緒です」と言って笑った。

「カウンター? あ、オーバードライブでしょ?」

「内緒です」今度は少し強めに押すと、女性はカラリと笑って「楽しみにしてるよ、頑張ってね」と俺の肩を叩いた。

 その後も同じような事を訊きにくるファンの方々を、同じように「内緒です」と言ってあしらった。


 下島君はスリーピースバンドで出演した。彼は独特の鼻にかかるような声をしていて、今関さんの声とは対局にあった。それでも下島君が歌った、ソニックスのなかではかなりポップな曲は、とても収まりが良かった。下島君も満足げに笑って「ありがとうございました。今関さんも、ありがとうございました」と礼を言った。彼らがしんがりをつとめたら良かったのに、そんな風に思わなくもない。それぐらい完成されていた。

 このライブにキリがいたら、彼女はどんな顔をするだろう。どんな風に思うだろう。自分の夫が汚されたと思うか? 自分の夫は幸せだと思うか? 後者だったらいいと思う。だが、彼女はここにはいない。もしかすると、この世にいないかも知れない。夫の後を追って、濃い霧の向こう側に歩いて行ってしまったのかも知れない。

 彼女が俺の家を訪れるのではないかと、淡い期待をしていた。このライブにも来て欲しかった。だから俺は毎日、玄関のドアにこのライブのビラを挟んでおいた。ライブの日程は知っていても、場所までは知らないキリに、場所と時間を知らせるために。しかしそのビラが動いた形跡があった日は一度もなく、もちろん誰かが持って行った形跡もなく、結局今朝も、昨晩差し込んだそのままの形で、ビラは残っていた。

「死んだのかな」

 バンド形式の演奏は音が大きいから、俺の声なんて掻き消されてしまう。だからこそ、わざとぼそっと呟いた。口に出してしまえば、現実を受け入れる準備ができそうだったからだ。


「今日はこんな素敵なイベントに誘ってもらえて感謝しています。本当にどうもありがとう、下島君」

 フロアから拍手が沸いた。顔見知りのファンは最前列で俺を見上げている。

「今日聴きにきて下さった皆さんも、寒い中どうもありがとう。俺はこのギター一本で歌いますので、ソニックスとは違う、今関さんが弾き語りしていた頃のバージョンになります。ソニックスファンの方、アルバム曲とは全然アレンジが違いますけど、ごめんなさい」

 クスクスと笑いが起こり、どこかから「なんでもいいよ!」と声が上がり、俺の頬が緩む。ストラップを掛け直し、一つ咳払いをした。

「ではいきます、濃霧の向こう」

 歓声と呼ぶには少し足りないぐらいの声と拍手とともに、イントロのコードを鳴らした。弾き語り時代を知らないソニックスのファンには、少し新鮮みがあるかもしれない「濃霧の向こう」を、俺は歌った。


 手を伸ばしてみるといい

 その向こうには見えない明日が

 舌を向けて走り出している

 手を伸ばしてみるといい

 霧は水となって君をまとい

 そこにあったはずの淡い白は 姿を消してしまう

 永遠に 永遠に


 転調を迎える直前、照明が切り替わった。ぱっと明るくなったフロアの一部にふと目をやると、ジャケットのファーに小さな顔を覆われた女性が、壁にもたれるように立っていた。

 それは見まごう事は無い、キリの姿だった。

 彼女は生きていた。俺が歌う、夫の曲を、腕組みしながら聴いている。

 夫に似た顔の、夫に似た声の男の、夫の曲を、聴いている。

 キリは何を思う? それでも夫の元へと向かうかい?

 俺が手を伸ばすとキリは、水になって消えてしまうのか?


 俺は最後のサビを歌い上げると、ギターをスタンドに置いた。マイクを通さず「今関さん、ありがとうございました」と叫んだ。視線の先には、キリがいた。

 拍手の音に頭を深々と下げ、顔を上げた瞬間にはキリの姿は無かった。

「下島君、あとで片付けるからごめん」

 俺は控え室にいた下島君に言葉を突きつけて、人で溢れるフロアを駆け足で抜けた。誰かが俺の肩に手をやったけれど、構っていられなかった。

 廊下に出ると、カーキ色をしたジャケットの裾が角を曲がった所だった。

「キリ!」

 俺は腹の底から叫び後を追ったが、角を曲がった先、俺の足音とは別の足音が走り出したのが分かった。意識的に走る速度を上げる。

 しかし無情にも、目の前のエレベーターは俺の数メートル前で口を閉じた。そこにキリの姿は見えなかったが、恐らくこのエレベーターに乗っただろう。踵を返し、ライブハウス側に戻り、隣にある非常階段を駆け下りる。十階分ある。相当な長さだ。だが仕方が無い。ここで追いつけなければ、彼女はもう戻って来ないだろうという確信に近いものがあった。

 遠目にも分かった。曲を聴くキリの口元が、歪んで今にも泣き出しそうだった。

 今、彼女の手を取らなければ、永遠に戻って来ないかも知れない。俺は階段の段をいくつも抜かして、飛ぶように駆け下りた。

 盛大に息を切らせて一階に到着し、俺はエレベーターホールに急いだ。目の前に表示された数字は「二」だった。間に合った。途中の階で何度か乗り降りがあったのだろう。上下する肩は意識してもなかなか元に戻らない。

 エレベーターの扉が左右に開き、中から人が何人か出てきた。その奥に、今にも消えてしまいそうな痩せ細ったキリの姿があった。俺と目が合うと、口元だけで薄ら笑みを浮かべた。

「キリ」

 俺は手を伸ばし、エレベーターから彼女を引っ張り出した。力なくしなだれるように身体を揺らす彼女の二の腕を掴み、いくらか乱暴に振った。

「どこに行ってたんだよ、死んだのかと思っただろ。ふざけんなよ、勝手に入り込んで勝手にいなくなって。連絡ぐらいよこせよ」

 俺が揺らした分だけ、キリは頭をぐらんぐらんと揺らす。口を開こうとはしない。

「心配したんだよ、俺も、今関さんのお母さんも、それから香山さんだって心配して探してた」

 視線を逸らすように、キリは足元に目を落とす。いつもの、バカみたいに色が浮いている赤いパンプスを履いている。

「どこにいたんだよ、それぐらい答えろよ」

「ホテル」

 安堵の溜め息を吐いた。雨風凌げる所で生きていた、それで十分だ。

「うた」

 キリは下を向いた間まま口を開く。

「健司が戻ってきたのかと思った。嫌かも知れないけど、凄く、似てた。弾き語りしてた頃の、健司にそっくりだった」

 言葉を紡ぐごとに震えを増す彼女の声を聴いていて、俺は正気でいられなくなり、乱暴なぐらいに彼女を引き寄せて抱きしめた。

 あの曲は、キリの事を思って作ったのかも知れない。本当は、自分の恋人を思う幸せな曲なのかも知れない。キリはその事を知っている。だからこそ今日、このライブに来た。

「これだけは教えろ。俺が今関さんに似てるから、今関さんの代わりになると思ったから近づいたのか?」

 吐息さえも震え、泣いている事は明らかなのに、俺は返答を強いた。それを訊かなければ、これからの俺の行動が決められないのだ。自分本位だという事は認める。だがそれを知らなければ、キリの事を守る事も手放す事も、できはしないのだ。キリは震えながら、震える声で息をし、俺のシャツをぎゅっと掴む。

「初めはそうだったよ。似てるから、それで埋められるんじゃないかと思ったんだ。でも、健司と武人は全然違う人で、でも武人の事が好きになっちゃって、でもそれってダメな事でしょ? 子供を、夫になるはずだった人の親に預けて、別の男を好きになって。それってダメな事だから」

 シャツを握る手も震えている。そのうち手を離し「約束したから」と言った。

「絶対に結婚するって、約束したんだから」

 離した右手は拳を作り、そこから離れた小指は、まるでそこに何かが巻き付いているかのように、弧を描いていた。キリのそこに巻き付いたものが誰の小指だったのかは容易に想像できる。

 俺はそこに自分の小指を絡ませた。何のためなのか、自分でもよく分からなかったが、彼女の小指を空のままにしておけなかった。

 もう十分だ。俺はこの後どうしたらいいか、おおよそ頭に思い浮かべる。

「ライブハウスに戻るぞ」

 そう言って彼女の二の腕を掴み、エレベーターに乗った。

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