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 夏はいいんだ。夜になれば暑さはやわらぐし、夏の夜は出歩く人間の数が増える。夏休みに入れば学生が遅くまでたむろしている事も多い。駅前の一角にいれば、音に釣られた人々が自然とこちらを向き、足を止める。運が良ければビラを持って行ってくれるし、もう少し運が良ければギターのハードケースに「臨時収入」が入る事だってある。

 反対に、冬は厳しい。寒さ凌ぎに手袋でも装着したいところだが、手袋を付けるとギターが弾けない。凍える指先に力を入れてピックを握り、弦を押さえる。稼働域を狭めた肩をギリギリと動かして腕を上下し、ストローク。弾き語りだし、そんなに難しい事はやっていないから、ストロークさえできればいいんだ。ただ、ピックを持つ指先の感覚がどんどん消失していく事が辛い。弦を押さえる指先の感覚が消失していく事が辛い。寒さで声が震える事が辛い。何より辛いのは、人通りが少ない事だ。あっても、足を止める人は稀だ。それでも歌い続けているのは、やっぱり俺は音楽が好きだという事だろう。ギターが好きで、歌を歌う事が好きで、それを人に聴いてもらう事が好きなのだ。

 この駅で弾き語りをする人は多い。沢山の鉄道が乗り入れているターミナル駅で、最近になって新しい出口ができたりして、また弾き語りの場所が増えた。そこらじゅうで音楽が聞こえてくる。それだけ規模が大きな駅なのだ。俺はその中では新参者の部類で、ほんの数ヶ月前までは別の駅を拠点に活動をしていた。転居とともにこちらの駅で活動を始めた。しかし、路上仲間で集まって企画するライブでは、一応名前だけは通っているからか、この駅で「常連」と言われる人達に良くしてもらっている。その「常連」が決めた取り決めがある。二十一時で音出しは終了。近隣の店舗などからの苦情で弾き語りができなくなる事を未然に防ぐために、防衛策として敷いている。

 駅ビルの壁にとりつけられたデジタル時計にちらりと視線を送る。黄色の光と背景の黒が、蜂を思わせる色だといつも思う。あと十分。二曲やって終わりだろうか。今日はビラを持って帰ってくれた人は三人だった。足を止めてくれた人はもう少しいた。この季節の平日としてはまずまずだろう。

 ふと目を向けた、駅に通じる通路から、一人の女性が歩いて来た。上着を羽織っていても分かるぐらいに痩せていて、お世辞にも小綺麗とはいえない服を身につけ、出がけに急いでまとめたようなボサボサの髪。メイクも殆どしていないように見える。もしかすると近づいて見たら化粧をしているのかもしれない、だがしていたとしても恐らく薄化粧だろう。少し大きめのナイロンのバッグを肩から下げている。ヒールのないパンプスの赤色だけが、妙ちくりんに浮いている。その赤が大人の妖婉さの赤なのか、赤い靴の少女の赤なのか、判断に迷うような女だ。歌いながら珍妙な動物でも見るように彼女を観察していた。その視線に彼女は気付いたのか、彼女もこちらに視線を向けた。慌ててぺこりと頭を下げる。

 彼女は薄らと口元だけで笑みを浮かべ、そのまま真っ直ぐ俺の前まで歩いてくると、ギターケースからビラを一枚、マニキュアも何も塗っていない細長い指でつまむようにして取り、しかしそれには目もくれず、その場にしゃがんだ。何の飾りもないグレーのワンピースを抱えるようにしてしゃがみ、俺を見上げている。カーキのジャケットについたファーが、彼女の顔を取り囲んでいる。マフラーをしていない、丸出しのデコルテが寒いのか、ジャケットの前を片手でぎゅっと握りしめた。

 曲を聴いているのではない。俺を見ているように思う。曲を聴いているお客さんは大抵、リズムをとったり拍手をしたり、何かしらのアクションがある。時々、腕組みをして棒立ちのまま曲を聴くお客さんもいるが、そういう人の殆どは、離れた場所から眺めている。こんなに近くで凝視され、俺は手の平にじわっと汗をかくのが分かった。彼女は微動だにせず、やはり口元だけの、少し寂しそうな笑みを貼付けている。


 二曲を歌い終え、遠くで聴いてくれていたかも知れない人に届くように、大きな声で「ありがとうございました」と叫ぶ。俺は彼女の目の前で、ケース内に散らばったビラをひとまとめにしてクリアファイルに突っ込み、ギターと一緒にケースにしまった。フタを閉め、金具を止める。俺が片付けをしている間も彼女は、その場にしゃがんだまま、じっと俺の顔だけを見ている。

「あの、もう今日は歌いませんけど?」

 俺がそう言うと、彼女は笑いを貼付けたまま「うん」と声だけで頷く。

 怪訝気な顔を向けそうになるが、相手は曲を聴いてくれたお客さんだからそんな風にあしらうわけにもいかず、「ありがとうございました」と再度頭を下げ、俺はギターケースを担いだ。すると彼女もスクッと立ち上がる。やっと動く気になったらしく、ボストンバッグを肩に掛け直している。「じゃぁ」と言って俺は自宅の方に向かって歩き出した。交差点はタイミング良く緑色を光らせている。

 背後から、ペタ、ペタ、と一定のリズムで足音がついてくる。音ははっきりしているのに、まるで重さを感じない。骨張った足首とくるぶしが目に浮かぶ。まさか思って顔を後ろに向けると、グレーのワンピースにカーキのジャケットを羽織った彼女が、カーテンのような裾を蹴りながら歩いている。相変わらず、薄らと笑っている。赤いパンプスが前後する。

「あの、家、こっちなんですか?」

 俺の質問に「ううん」と否定しながらも、歩みを止めない。

 信号待ちでは俺の斜め後ろで信号が青になるのを待ち、俺が右に曲がると右に曲がる。途中の狭い路地を右に入ると彼女も入る。付けられているとしか思えない。試しに別の道に入ってみたが、彼女は俺の歩く後ろを黙ってついてくる。

 遂には自宅のアパート前まで到着してしまい、俺は思い切って後ろを振り向いた。

「あの、何なんですか? 家、こっちじゃないんですよね?」

 口角だけをきゅっと引き上げ「こっちじゃないよ」と語尾を上げて答える。肩に掛けたバッグを重そうに掛け直し、そして「うん」と意味なく頷く。要領を得ない。

「僕に用事でもあるんですか?」

 すると彼女は「ふふっ」と小さい声で笑い、その瞬間だけ頬が緩んだのが見えた。「用事があるって言ったらさぁ、家に入れてくれる?」と首を傾げ、俺を見上げる。彼女は小さいが、垂直に近く見上げなければならない程、彼女が俺に近づいている事に気付き、一歩後ろに引く。凄く澄んだ声だ、と場違いな事を考える。他者に取り入ろうとするような甘えた声ではない。樹海の木々の合間からさす日の光のように、真っ直ぐで澄んだ声をした人だ。そんな事に思考を占拠され、次に言うべき言葉を探し回る。彼女が言っている整合性を欠いた話を再度思い出し、俺は食って掛かる。

「は? 何で知らない人を家にあげなきゃなんないんですか」

「知らない人、んふふ」

 何がおかしいのかさっぱり分からなかったが、彼女は笑っている。伏し目がちなその目の中の、瞳までがしっかり笑っているかどうかは、俺の知る所ではなかった。クスクス声に出して笑う彼女の声に俺は少し苛つき、遂にはまくしたてた。

「何なんですか、俺の家までついて来て、家にあげろ? ストーカーですか? 警察に言いますよ? 通報しますよ? 交番まで行きますか?」

 主語が「僕」から「俺」に変わっている事にすら気付かないぐらい、俺は苛立っていた。しかし俺がそう言う間にも口元の笑みは微塵も消さず、「ねぇ」と俺をじっと見る。

「あのさ、ソニックスの今関に、似てるって言われた事あるでしょ?」

 俺は驚いて瞠目した。何度か、いや、何度も言われた事がある。ソニックスというバンドのボーカル、今関健司に似ている、と。いや、今になっては「似ていた」になるのかも知れない。

 ソニックスは俺が以前拠点にしていた駅で、弾き語り仲間同士でバンドを結成し、のし上がった、いわば俺達の憧れのバンドだ。今関さんは俺よりも五歳ぐらいは年上で、あっという間にメジャーデビューを果たした。今関さんと会話した事は何度もあるし、ライブもいくつか一緒にやった。

「俺達、ほんっと似てるよな」

 本人にそう言われたのだ。勿論、自分でも自覚していた。髪型は違えど、顔はそっくりだったのだ。骨格が似ているからなのか、声も似ている。憧れの人に似る事は喜ばしい事ではあるが、同じ音楽の業界で、同じような顔をしていると、どう頑張ったって俺は二番煎じになってしまう。だから、似ている事は嬉しくても他人から「似てるね」と言われる事はあまり嬉しい事ではなかった。

 しかし、今ではそんな事を言う人も少なくなった。

 今関健司は、一ヶ月程前に自宅で首を吊って死んだ。風呂場の物干棒にネクタイを引っ掛けて死んでいたらしい。横浜の自宅で、家族によって発見されたという。遺書らしい物もあり、自殺と断定された、とテレビのニュースでキャスターが喋っていた。

 久しぶりに「似ている」と言われ、俺は意味もなく動揺した。

「に、て、ますけど、それが何なんですか」

「あぁ、眠い」

 そう言うと彼女はいきなり棒倒しの棒みたいに凭れ掛かって来た。俺は担いでいたギターを危うく落としそうになりながら、彼女の身体を支えて「ちょぉっとっ!」と少し大きな声を出す。

 しかし閉じられた彼女の目蓋は、身体を揺すっても頭を叩いても頬をつねっても開かない。かろうじて、息をしている事は分かる。仕方がないので彼女の身体を引きずるようにして玄関まで歩き、一旦ギターを玄関先に置くと、鍵を開けて部屋に入った。電気を付ける事もままならないまま、彼女を俺のベッドに横たわらせた。スプリングなんてない、布団敷きのベッドだけれど、構わず乱雑に放った。放る事ができる程、軽かった。固いベッドに放った衝撃で目を覚ますかと思ったのだが、身体を仰向けたまま寝息を立てている。

 彼女が持っていたはずのナイロンのボストンバッグが見当たらず、一度外に出てみると駐車場に転がっていた。すぐに回収し、ギターと一緒に部屋に持ち込む。

 俺はベッドサイドに突っ立ったまま、彼女の寝顔をじっと見つめる。全く見覚えのない顔だった。音楽関係で知り合った人ではない。少ないがついてくれている俺のファンの中にも、この顔はないはずだ。勿論親戚でもない。だとしたら、誰だ? なぜ俺に声を掛け、俺の家について来たんだ?

「もしもーし?」

 もう一度身体を揺すってみたけれど、履いていた靴がベッドの足元に転げただけで、起きる気配はなかった。靴を脱がせ忘れていたのかとその時になって気付き、赤いパンプスを玄関に運んで行った。

 もしかすると物取りかもしれないと考え、念のため、貴重品は風呂場に持ち込んでシャワーを浴びたが、彼女が動いた形跡はなく、それどころか寝返りすら打っていない。俺は首を傾げながら、来客用の殆ど使った事がない布団を床に敷き、財布を握りしめて横になった。布団はベッドの横のスペースに敷ききれず、端を折るような形になったが、他に寝る場所がないので仕方が無いと諦める。

 彼女の鞄の中に身分証明書になるものがあるだろうかと考え、探ってみようかとも思ったが、それこそ物取りのようで気が進まない。

「あ」思い出したように俺は立ち上がり、彼女の足元に丸まっている掛け布団を、肩の辺りまでしっかり掛けてやると、俺は再び布団に横になった。

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