「霧が晴れたら、湖の女神様に婚約者を返してもらうわ」と聖女様は仰いましたが、湖の測量記録は十二年ぶんありますので、そろそろ事実を申し上げます
「——霧が晴れ次第、ミレーヌ嬢との婚約は破棄する。神がそう示されるはずだ」
晴れ祭の前夜。わたしの観測小屋の、建て付けの悪い扉が蹴り開けられた。
入ってきたのは王太子ユリウス殿下。その隣に、純白の祭服の聖女ソフィア様。
湯気の立つ鍋の前で、わたしは玉杓子を持ったまま立っていた。
「明日の朝、湖の女神様がわたくしを選びます」
聖女様が微笑む。完璧な角度の微笑みだった。計算された、というより、練習された、という感じの。
「ですから——霧が晴れるのを、少しだけ『待って』くださいね」
待って。
神の御業を、待たせる。
わたしは玉杓子を鍋の縁に置いた。手を拭いて、机の帳面を引き寄せる。鉛筆の先を、ちょっと舐めた。
「記録のため伺いますが」
二人が、揃って怪訝な顔をした。
「『少しだけ』とは、何刻何分でしょうか」
沈黙。
聖女様の指が、祭服の袖の内側で組み替えられた。右手の親指が、左手の人差し指の付け根に。わたしはそれも帳面の端に書いた。癖というのは、観測対象として優秀だ。毎回同じ条件で現れる。
「……何を言っている」
殿下が襟元を正した。
「明日の朝、どの刻に霧が晴れるかを伺っています。婚約破棄の執行時刻が霧の消散時刻に紐づくのでしたら、記録簿に『推定何刻』と書かねばなりません。公文書ですので」
「霧番ごときが刻を測れるものか」
殿下が鼻で笑った。
「神の御業だぞ」
わたしは帳面を、静かに閉じた。
「十二年ぶん、測っております」
小屋の中で、鍋がことことと鳴っていた。
殿下はわたしを見なかった。見るほどの価値がある人間だと思っていないのだろう。彼は部屋をぐるりと見回して、壁一面の棚を指さした。
「この黴臭い紙束か。暇な役人の落書きだ」
「はい。十二年ぶんの落書きです」
「——では、明日の朝、湖畔に出るな。神事の邪魔だ」
「わたしは霧番です。晴れ祭の朝、湖に出ないという選択肢がありません。記録が途切れますので」
「記録が途切れて、誰が困る」
わたしは少し考えた。本当に考えた。
「十二年後のわたしが困ります」
殿下は理解できなかったらしく、聖女様を促して出て行った。
扉が閉まり、隙間風が入って、ランプの炎が揺れた。
わたしは鍋に戻って、固くなったパンを一つ割り、スープに浸した。浸して、少し待つ。急いで食べると、中が固いままなのだ。
待つのは得意だった。
十二年、毎朝、夜明け前に起きて、何も起きないことを確認して帳面に書く。そういう仕事をしてきたのだから。
——正確には、二度めの十二年だ。
前世のわたしは、日本という国の、山の上の気象観測所にいた。湿度計と睨み合い、霧の発生時刻を一分単位で記録して、誰にも読まれない月報を綴じ続けた。十二年。そして、雪の日に転んで、頭を打って、それきりだった。
気がついたらこの世界にいて、驚いたのは剣でも魔法でもなく、別のことだった。
この国には『神託』はあるのに、『観測』がない。
誰も、測っていない。
だから、わたしは測ることにした。それしか取り柄がなかったし、それが一番、落ち着いたから。
パンを噛みながら、わたしは一つのことを考えていた。
ミレーヌ様のことだ。
公爵令嬢ミレーヌ・ド・ヴァリエ。王太子の婚約者。そして、わたしの唯一の友人。
明日の朝、彼女は十九回目の晴れ祭を、人混みの一番後ろで、何も見えないまま迎える。
歓声だけを聞いて。
……そういうことに、なるのだろうか。
わたしは帳面を開き直して、明日の日付の欄に、まだ何も書かれていない空白を見た。
空白は、これから埋めるためにある。
*
翌朝ではなく、その晩のうちに、彼女は来た。
扉が、遠慮がちに二度叩かれる。
「リーネ、いる?」
声でわかる。わたしは扉を開けた。
ミレーヌ様が、外套の肩を夜露で濡らして立っていた。銀灰の髪が湿っている。彼女は入口の段差で一度つまずきかけて、それから慣れた手つきで壁を伝い、いつもの椅子に座った。
十八年ぶん、同じ椅子だ。だから彼女は迷わない。
「湯、沸いてる?」
「沸いてます。白湯でいいですか」
「いいわ」
わたしは碗を二つ出した。彼女の手の、ちょうど指が触れる位置に置く。彼女は探らずに取る。十八年の共同作業だった。
「聞いたわ。殿下が来たって」
「来ました」
「破棄するって?」
「霧が晴れ次第、と」
ミレーヌ様は白湯をひと口飲んで、ふう、と息をついた。
「そう」
それだけだった。
わたしは彼女の顔を見た。彼女はわたしの顔を見ない——見えないから——けれど、声のするほうへはちゃんと向く。
「怒らないんですか」
「怒ってどうなるの?」
「なりません」
「でしょう」
彼女は小さく笑った。
「わたくし、王太子妃には向きませんもの。六年、婚約していて、一度も殿下のお顔を覚えられなかったのよ。晩餐会で、別の方に話しかけてしまったことが三回あるわ」
「相手が悪いです」
「隠していたわたくしが悪いの」
彼女は碗を両手で包んだ。指先が赤い。外は冷える。北風だ。
「公爵家の娘が目が見えないなんて、言えないじゃない。言った瞬間、家ごと値踏みされるもの。……十年以上、見えているふりをしてきたのよ。もう、慣れてしまったわ。諦めるのって、慣れるのね」
わたしは何も言わなかった。
慰めの言葉を、わたしは持っていない。持っていないものを出すふりはしない。それは観測員として最低の行いだ。
代わりに、わたしは帳面を開いた。
「ミレーヌ様」
「なあに」
「晴れ祭の朝、霧が晴れる瞬間を、見たことはありますか」
彼女の手が、止まった。
「……ないわ」
「十八回」
「十八回。いつも、人混みの後ろ。わあって声が上がるの。それで、ああ、晴れたんだなって。わたくしが顔を上げたときには、もう——ただの明るい湖なのよ。剥がれていく途中が、一度も見られたことがないの」
彼女はそこで、自分で自分の声に驚いたように口を閉じた。
「ごめんなさい。こんなこと」
「いえ。記録しておきます」
「記録するの?」
「はい」
わたしは鉛筆を舐めて、帳面の隅に書いた。
『ミレーヌ・ド・ヴァリエ。十八回未見。本人希望あり』
彼女はポケットから、平たい石を出して机に置いた。かつん、と小さな音。
「今日の石。水切り、五回だったわ」
「風が強かったので」
「言い訳させてくれてありがとう」
二人で笑った。
それから彼女は帰っていった。外套の肩が夜露で濡れたまま、迎えの馬車のほうへ、壁を伝って。
わたしは扉を閉めて、ランプの芯を少しだけ上げた。
棚の、十二年ぶんの帳面を見る。
背表紙に、わたしの字で年が書いてある。全部で十二冊。誰にも読まれたことがない。宰相閣下が十二年前にこの職を作って、以来、提出先の部署は一度も問い合わせてこなかった。
読まれない記録を、十二年。
——でも、今夜は読む。
わたしは一番古い冊子から順に抜き出して、机に積み上げた。
湯を足して、鍋を火から下ろす。長くなる。
晴れ祭の朝の頁だけを、十二枚、並べた。
*
結論から言うと、神託は毎年ほぼ同じ刻に起きていた。
晴れ祭は春の第三週、同じ日に行われる。同じ季節、同じ湖、同じ地形。
ならば、霧の消え方も同じになる。
霧というのは、神秘でも奇跡でもない。水が温かくて、空気が冷たいとき、水面のすぐ上で水蒸気が冷やされて、小さな粒になる。それが霧だ。
だから、消えるのは——空気が温まるとき。
日が昇り、気温が上がり、水温との差が縮まる。差がなくなれば、霧は作られなくなる。あとは風が運んでいって、おしまい。
十二年ぶんの記録。
晴れ祭の朝の消散時刻は、日の出から六分の一刻〜三分の一刻の間に収まっていた。ばらつきの原因は二つ。前夜の水温と、当日の風向。
北風が強い年は遅く、南風の年は早い。
当たり前だ。北風は冷たいのだから。空気が冷たいままなら、差は縮まらない。
わたしは紙に表を書いた。縦に年、横に水温・風向・消散時刻。
数字が、きれいに並んだ。
神様の気まぐれの顔をして、十二年、同じ法則で動いていた。
「……神様に祈るのは自由ですが」
わたしは呟いた。
「祈っても、水温は下がりません」
外へ出た。
夜の湖は黒い板のようだった。風が、頬の右側から当たる。北北東。明日もこの風だ。前線の抜け方からして変わらない。
水温計を沈める。引き上げる。ランプに近づけて読む。
——おかしい。
平年より、一・二度高い。
わたしはしばらく、その数字を見ていた。
春先の湖の水温は、そう簡単には上がらない。水は、空気の千倍くらい温まりにくい。一日や二日の陽気で一・二度も動くものではない。
上流。
わたしは湖畔を北へ歩いた。水の音を聞きながら、流れ込みの方向へ。
右岸に、灯りが二つあった。
葦の陰に伏せて、見た。
小柄な女が、荷車から麻袋を下ろしている。袋の口から、白いものが湯気を立てて湖に滑り落ちた。じゅう、と音がして、水面が一瞬だけ白く濁る。
石灰だ。焼いた石灰。水に入れると、激しく熱を出す。
なるほど、と思った。
聖女様は、湖の水を温めようとしている。
水が温かければ霧は早く晴れる——と、誰かに吹き込まれたのだろう。あるいは自分でそう思いついたのだろう。
湯気が立つ。湯気が立てば、晴れる。そういう直感。わかりやすい。子どもの頃のわたしも、たぶんそう思っていた。
でも、逆なのだ。
霧は、水が温かくて空気が冷たいときに「できる」。
水を温めれば、差が広がる。差が広がれば——
霧は、濃くなる。
しかも明日は北北東の冷たい風だ。空気のほうは温まらない。
聖女様は、自分の手で、明日の朝の霧を分厚くしている。
「……ソフィア様、これ、濁ってきています。湯気が、さっきより多いような」
痩せた娘の声がした。荷運びのほうではない、麻袋を抱えているほうだ。
岸の上で、白い影が答える。
「湯気が立つなら温まっている証拠でしょう。温まれば晴れるの。余計なことを考えないで、次の袋を」
「……はい」
わたしは葦の陰で、帳面を開いた。暗くて見えないので、指で行を押さえながら書いた。
『二十三時四十分頃、上流右岸に灯り二つ。小柄な女性一名、荷運び一名。白色粉末を投入。推定・生石灰。水温、平年比プラス一・二度』
書き終えて、顔を上げた。
荷車の娘が、水面を覗き込んでいた。
灯りが下から顔を照らしている。十八か十九くらいの、痩せた娘だった。
彼女は、怯えた顔をしていた。
水面に浮かび始めた白い靄を見て——指先で、自分の喉元を押さえていた。
(……この子、気づいてる)
霧が、濃くなってきていることに。
彼女は一度、岸のほうを振り返った。何か言おうとするみたいに。
それから、何も言わずに、次の袋を持ち上げた。
わたしは帳面に一行、足した。
『従者、投入後に水面を観察。表情に動揺あり』
小屋に戻る道で、わたしは少しだけ、怒っていたと思う。
怒りというより、気持ち悪さに近かった。数字が合わないときの、あの感じ。
神様を騙すのは、勝手だ。
神様がいるかどうかも、わたしは知らない。いるなら騙されればいいし、いないなら誰も困らない。
でも。
「わたしの帳面を騙すのは、困ります」
声に出したら、思ったより静かな声だった。
小屋の灯りが見えてきた。
わたしは明日の頁を開いて、予測を書いた。
『消散予測——日の出より四半刻後。風向、北北東。水温異常により平年比で遅延』
四半刻。
聖女様が足場に立つ予定の刻より、ずっと後だ。
そして、それから——わたしはもう一通、短い手紙を書いた。
ヴァリエ公爵邸、ミレーヌ様宛。
『明日、四半刻だけ遅れて湖に出てください。石の桟橋、三本目まで。足元の板が一枚だけ浮いていますから、数えて』
*
晴れ祭の朝。
湖畔には、国中の人間が集まったように見えた。桟橋の両脇に貴族席、その後ろに幕、幕の外に民衆。警備の近衛が等間隔に並び、その中に一人、黒髪の長身がいた。
近衛副長オリヴァー・ハルト。『氷の騎士』。
彼は湖のほうを見ていなかった。
正確には、見ようとして、見られずにいた。霧の壁をまっすぐ見つめて、瞬きが多く、呼吸が浅い。剣の柄を握る手が、白い。
わたしは帳面に書いた。『近衛一名、発汗あり。気温六度』
六度で汗をかく人間はいない。だから、それは霧のせいだ。
日の出。
法螺貝が鳴り、聖女ソフィア様が湖面の足場へ歩み出た。白い祭服が、白い霧に溶けて、首から上だけが浮いているように見えた。
神々しい、と誰かが言った。
彼女は両手を広げ、湖に向かって祈りの言葉を唱えた。よく通る声だった。
「——湖の女神よ、どうか、御姿を」
霧は、晴れなかった。
待つ。
人々は待った。祈りが二度繰り返され、三度繰り返された。
霧は、晴れなかった。
むしろ、濃くなった。
朝日が昇り、空気が温まる。けれど北北東の風が冷たい空気を運び続け、一方で水は——昨夜の石灰で温められた水は——盛んに水蒸気を吐き出している。
温かい水。冷たい空気。
霧製造機だ。
足場の聖女様の輪郭が、にじんでいく。白が白に溶けていく。
貴族席がざわつき始めた。
「どうなっている」
王太子殿下の声。襟元を正す音まで聞こえそうだった。
「去年はもう晴れていたぞ」
「殿下、お静かに」
宰相アルベリク閣下が、老眼鏡を押し上げて湖を見ていた。
聖女様の声が、揺れ始めた。
「女神よ……どうか……」
人々の視線が、全部、彼女に刺さっている。
白い祭服の袖の内側で、指が組み替えられるのが見えた。右の親指が、左の人差し指の付け根に。一回。二回。三回。
観測対象として、優秀だ。
「なぜ」
彼女が言った。小さく。
「なぜ晴れないの」
静かな朝だった。湖というのは音をよく運ぶ。水面が音を跳ね返すのだ。
だから、その声は、はっきりと桟橋の端まで届いた。
誰かが息を呑む音がした。
聖女様は振り返った。霧の中、岸辺にいる従者の娘のほうへ。
そして——叫んだ。
「石灰を、もっと流しなさい!」
会場が静まり返った。
法螺貝も、祈りも、ざわめきも、全部止まった。
聞こえるのは、水が桟橋の杭にぶつかる音だけ。
岸辺で、痩せた娘が麻袋を抱えたまま、立っていた。
動かなかった。
動けなかったのではない。わたしには、そう見えた。
彼女は昨夜、水面を覗き込んで、気づいていたのだ。霧が濃くなっていることに。
その一秒の硬直が、全部を決めた。
「ペトラ! 聞こえないの!」
娘は、麻袋を地面に下ろした。
とさ、という音がした。
王太子殿下が、何度も襟元を正していた。
「……誤解だ。聖女殿は、その、儀式の作法として——」
「殿下」
宰相閣下が静かに言った。
「聖地の水に、異物を」
「違う! 違うのだ、あれは——」
わたしは、帳面を開いた。
鉛筆の先を、ちょっと舐めて。
「——失礼いたします」
声を張った覚えはなかった。ただ、静まり返った湖畔では、小さな声のほうがよく通る。
全員が、振り返った。
袖口の擦り切れた、灰青の役人外套。インクで汚れた指。亜麻色の髪を無造作に束ねた、国で一番地味な下級役人。
「エレド湖、霧番。リーネ・アルムフェルトと申します」
わたしは一歩、前に出た。
「記録のため、申し上げます」
*
「本日の霧が晴れない理由を、申し上げます」
誰も止めなかった。止められる人間が、誰もその理由を持っていなかったからだ。
「霧とは、水が温かく、空気が冷たいときに発生します。温かい水から立ちのぼった水蒸気が、冷たい空気に触れて粒になる。それが霧です」
帳面をめくる。紙の音が、湖面に響く。
「したがって、霧が晴れるのは——空気が温まり、水温との差が縮まるときです」
「何を言って——」
殿下の声を、わたしは遮らなかった。ただ、続けた。遮る必要がない。わたしは数字を読んでいるだけだから。
「十二年ぶんの記録がございます」
「晴れ祭当日、日の出時刻。前夜の水温。当日の風向。霧の消散時刻。——読み上げます」
読み上げた。
十二年ぶん。年、水温、風向、消散時刻。四つの数字を、一年につき一行。
十二行。
短い。たった十二行だ。
でも、十二年かかっている。
読み終えたとき、群衆は妙な静けさに包まれていた。退屈ではなく、呑まれている静けさだった。数字というのは、繰り返されると音楽になる。
「北風の年は遅く、南風の年は早い。水温が高い年は遅く、低い年は早い。——十二年、例外はございません」
わたしは顔を上げた。
「神託は、毎年、同じ条件のときに、同じ刻に起きております」
人をかき分ける音がした。
宰相閣下が、前に出てきた。皺だらけの指を伸ばして、
「見せたまえ」
わたしは帳面を渡した。
閣下は受け取ると、まず背を見た。綴じ目を。糸の通し方を。
「……綴じ目が揃っている。十二年、同じ手で」
それから老眼鏡を押し上げ、頁を繰った。
繰って、繰って、止まり、
「……なるほど」
小さく、しかしはっきりと、呟いた。
「数字が合っている」
空気が、変わった。
群衆のざわめきの質が変わる音が、わたしには聞こえた。『神秘』が『事実』に置き換わる音だ。
「続けたまえ」
「はい」
わたしは帳面を返してもらい、昨夜の頁を開いた。
「本年の異常について。昨夜二十三時四十分頃、湖の上流右岸にて、灯り二つを確認。小柄な女性一名、荷運び一名。白色粉末の投入を確認。推定、生石灰。——生石灰は水に触れると熱を発します」
王太子殿下の顔から、色が引いた。
「その結果、本朝の湖水温は平年比プラス一・二度。本日の風向は北北東、気温六度」
わたしは湖を見た。
「水が温かく、空気が冷たい。——霧は、濃くなります」
「っ、ちがう」
足場の上で、聖女様が声を上げた。
「違うわ、温めれば晴れるのよ、だって、湯気は——」
「湯気が立つ、ということは」
わたしは言った。
「霧を作っている、ということです」
聖女様は、何も言えなかった。
「あなた方は、霧を晴らそうとして、霧を増やしました。昨夜から今朝にかけて、この湖の霧は、人の手で分厚くされています。——ですから、今日の神託は、自然より遅れます」
わたしは帳面の予測欄を開いた。
「本日の消散予測時刻は、日の出から四半刻後。風向、北北東」
日時計を見る。東の空を見る。頬に当たる風の向きを、確かめる。
「——ただいまより、数えます」
十。
声に出した。
九。
八。
「……数えて、いる」
警備の列の中で、黒髪の騎士が呟いた。
七。
六。
五。
「終わる刻が、わかるのか。霧に」
彼が息を吸うのが見えた。深く。浅い呼吸が、整っていく。彼は初めて、霧をまっすぐ見ていた。
終わりの刻がわかっているものは、怖くない。
四。
三。
二。
——一。
風が、変わった。
頬の右側が、ふっと軽くなる。
湖の東の端から、白が、剥がれた。
薄い布を引くように。誰かが端をつまんで、すうっと持ち上げるように。
白が、滑っていく。
水面が現れる。黒い鏡。そこに朝日が落ちて、金の帯が一本、湖の真ん中を走った。
歓声は、上がらなかった。
上がる前に、全員が、ある一点を見てしまったからだ。
桟橋。
三本目。
そこに、人が立っていた。
銀灰の髪。朝露に濡れた外套。足元の板を一枚ずつ数えて歩いてきた、公爵令嬢ミレーヌ・ド・ヴァリエ。
霧が剥がれ、朝日が、彼女の顔に当たった。
彼女は、湖を見ていた。
白が、金に、剥がれていく途中を。
十九回目にして、初めて。
ミレーヌは、何も言わなかった。
*
歓声が上がったのは、たっぷり十秒ほど経ってからだった。
その十秒のあいだに、王太子殿下は三回、襟元を正した。
「……待て」
彼は足場の聖女のほうへ、それから桟橋のミレーヌ様のほうへ、視線を往復させた。
「湖面に立っていた者が、神意に選ばれた者——」
「はい」
宰相閣下が答えた。「それが制度でございます」
「だが、しかし、それは——」
「殿下」
わたしは帳面を閉じた。
「昨夜、こう仰いました。『霧が晴れ次第、ミレーヌ嬢との婚約は破棄する。神がそう示されるはずだ』と。記録してございます」
「——」
「霧は晴れました。湖面に立っていたのは、ミレーヌ・ド・ヴァリエ様です」
「あれは、あの女が勝手に——」
「では、神意ではないと」
わたしは言った。
「神意でないのでしたら、昨夜の婚約破棄の根拠も、同様に失われます。殿下は、神がそう示す『はずだ』と仰いました。示されなかった場合の規定を、わたしは伺っておりません」
殿下の口が、開いて、閉じた。
「神が選んだのでしたら、神にお返しください。神が選んでいないのでしたら、——そもそも、婚約を破棄する理由が、どこにもございません」
殿下は、わたしを見た。
六年間、婚約者の目が見えないことに気づかなかった男が、国で一番地味な役人の顔を、初めてまともに見た。
何も言わなかった。言えることが、何一つ残っていなかった。
あとは、制度の仕事だった。
「聖地の水への異物投入。神託の偽装。祭祀の管理責任。——以上、審議に回します」
宰相閣下は感情を一切込めずに、しかし一つも漏らさずに、それらを読み上げた。四十年、数字と書類だけで国を回してきた男の手つきだった。
最後に、閣下は殿下のほうを見ずに付け足した。
「殿下。襟は、十分に整っておられます」
聖女ソフィア・レンヴァルは、足場の上で膝をついた。白い祭服が水を吸って、灰色になっていた。
従者の娘——ペトラは、麻袋のそばに座り込んだまま、動かなかった。
誰も彼女を責めなかった。責める者が、まず自分を責めなければならない場面だったからだ。
桟橋の三本目から、ミレーヌ様が戻ってきた。
板を数えながら。一枚、二枚、三枚。浮いた板のところで、きちんと足を止めて。
わたしの前に来て、彼女は言った。
「リーネ」
「はい」
「見えたわ」
「はい」
「剥がれる途中が、見えたの」
彼女の目から、涙が一粒落ちた。目が弱くても、涙は普通に出る。当たり前のことなのに、わたしはなぜか、その当たり前にひどく胸を打たれた。
「記録しておきます」
わたしは鉛筆を舐めて、帳面に書いた。
『ミレーヌ・ド・ヴァリエ。十九回目。——見た』
そのとき、横から何かを差し出された。
黒髪の、長身の騎士だった。無表情だった。手に、布包みがある。開くと、まだ温かいパンが二つ。
「……」
彼は何も言わなかった。
「パンが、二つ」
わたしは一つを、ミレーヌ様に渡した。
彼の手が、ほんのわずかに震えていた。でもそれは、もう怖いからではなかったと思う。
彼は湖のほうを向いて、やっと、言った。
「……霧は」
「晴れました」
「……そうか」
国内随一と呼ばれる剣士が、ゆっくりと、深く息を吐いた。
*
三日後、わたしは辞表を出した。
宰相閣下の執務室は、書類の壁でできていた。
閣下は辞表を受け取る前に、まず綴じ目を見た。それから中を読み、老眼鏡を外した。
「引き止めたい」
「はい」
「本気で引き止めたい」
「光栄です」
「君の帳面は、我が国の唯一の『測られた事実』だ」
わたしは少し、考えた。考えてから言った。
「記録は残します。王国に、全部」
「ならば」
「——ただし、読める方がいれば」
閣下は、長いこと黙っていた。
それから、インクの染みた指で、机の端をこつ、と叩いた。
「十二年前、この職を作ったのは私だ」
「存じております」
「『どうせ誰もやらん仕事だ』と思っていた」
「正しい見立てです。誰もやりませんでした」
「——君がやった」
「はい」
「褒められたことは」
「一度もございません」
「それでも、毎朝」
「毎朝です」
閣下は、小さく笑ったようだった。笑うところを初めて見た。
「わかった。辞表は受理する。……恥ずかしい話だが、受理する以外に、私にできることがない」
わたしは一礼して、辞表の最後の頁をめくり、一行だけ書き添えた。
『水温の異常に最初に気づいたのは、従者のペトラです。記録しておきます』
閣下はそれを読んで、頷いた。
「……ふむ。ならば、罪一等を減じる理由になる」
*
一年が、過ぎた。
噂は、湖の北岸まで流れてくる。
聖女ソフィアは偽装の罪で、北の修道院へ送られた。
王太子ユリウス殿下は、聖地管理の失態と神託偽装の黙認により、継承順位から外された。公式の文書には、感情的な表現は一つもなかったという。宰相閣下の文章だ。制度は、怒鳴らない。
そして——今年の晴れ祭。
霧が、いつ晴れるか、誰にもわからなかった。
法螺貝を吹く刻がわからない。祈りを始める刻がわからない。神官たちは湖を見つめ、民衆は待ち、そのまま、三刻が過ぎた。
三刻遅れて始まった神託に、もう誰も息を呑まなかった。
神託は、権威を失った。
失ったというより——晴れただけ、になった。
わたしは、それを少し気の毒に思う。
霧が晴れるのは、本当にきれいなのだ。
きれいなものを、きれいなまま見るためには、本当は、測る人間が要る。
王宮の書庫には、十二冊の帳面が置かれている。
誰も、読まない。
読めない。
数字の意味がわかる者が、一人もいない。
宰相閣下がこっそり湖の北岸まで足を運んできたのは、晴れ祭から十日ほど経った朝のことだった。
馬車を道の手前で降りて、杖をついて、泥の道を歩いてきて、小屋の扉を叩いた。
「……茶を一杯、いただけるか」
「白湯しかございません」
「結構だ」
閣下は椅子に座り、湯気の立つ碗を両手で持って、窓の外の霧を見た。
「あれは、いつ晴れる」
「日の出から、六分の一刻です」
「……なぜわかる」
「測っているからです」
閣下は、ふ、と息を吐いた。
「教えてくれんか」
「六十二歳からですか」
「六十二歳からだ」
わたしは鉛筆を舐めて、新しい帳面の、一頁目を開いた。
「では、まず、水温計の読み方から」
*
湖の北岸、新しい観測小屋。
夜明け前に起きる。火を熾す。湯を沸かす。昨日の固くなったパンを、スープに浸す。浸して、少し待つ。急いで食べると、中が固いままだから。
毛布を畳む。
外へ出て、水位を読む。水温計を沈める。風向を確かめる。帳面に書く。
それだけの朝。それだけの人生。
誰にも褒められないまま続けられる種類の仕事を、わたしはまだ続けている。
扉が開いた。
杖の音。足音。段差で一度、慣れた手つきで壁を伝う音。
「おはよう」
「おはようございます」
ミレーヌが入ってきて、いつもの椅子に座った。椅子の位置は、去年の小屋とまったく同じにしてある。だから彼女は迷わない。
彼女は公爵家を出た。婚約の話が全部消えたあと、「もう、見えるふりはやめます」と言って、湖畔で薬草を育てている。日に焼けて、指がいつも土で汚れている。
「今朝の霧、何刻に晴れる?」
「日の出から六分の一刻。だから、まだ座ってて」
「はぁい」
白湯を二つ注いで、彼女の手が触れる位置に置く。彼女は探らずに取る。
二人で飲む。窓の外は真っ白で、何も見えない。
けれど、あと少しで全部見えると、二人だけが知っている。
「ねえ、リーネ」
「はい」
「ペトラが、昨日も来てたわ」
「来てました。糸の長さが、毎回違います」
あの娘は、湖の水質管理の下働きとして残った。
毎朝、不器用な手つきで水温計を湖に沈めている。糸の長さが毎回違うので、わたしはそのたびに「同じ深さで」と言う。
「……同じ深さで、ですよね。はい。明日こそ」
彼女は毎朝そう言って、翌日また違う深さに沈める。
それでも、毎朝来る。
この国で、今のところ、二人目の『測る人間』だ。
扉が、二回叩かれた。
開ける前から、誰かはわかっている。
「……今日の霧は」
黒髪の、長身の男が立っている。無表情。彫像のよう。手に布包み。焼きたてのパンが、二つ。
一年、一日も欠かさず。誰にも頼まれていないのに、最初から二つ。
「日の出から六分の一刻で晴れます」
「……そうか」
彼は小さく頷いて、それで安心したみたいに、肩から力を抜いた。
わたしは帳面を開き、鉛筆を舐めて、隅に書く。
『オリヴァー・ハルト。三百六十五日目。パン二個』
「……何を書いている」
「記録です」
「……そうか」
彼は照れもせず、恥じもせず、ただ椅子に座って湖を見ている。終わる刻がわかっている霧を。
ミレーヌがポケットを探って、平たい石を机に置いた。
かつん、と小さな音。
「はい、水切り用。七回跳ねたの」
「七回」
「数えたもの。音で」
わたしは笑って、帳面の隅に書き込んだ。
『石、七回。良い朝』
窓の外。
白が、ふっと軽くなる。
東の端から、薄い布を引くように——




