ただいま
チャイムが鳴った。
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——ピンポーン。
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その音が、やけに長く残った気がした。
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玄関の前で、私はしばらく立ち尽くしていた。
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帰ってきた。
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そう思った。
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帰ってきた、はずなのに。
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鍵は、かかっていなかった。
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ドアノブに触れる。
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少し湿っている。
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手汗か、雨か、それとも——。
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考えるのをやめて、回した。
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開く。
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空気が、ぬるい。
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誰もいないはずの部屋に、
生活の温度だけが残っていた。
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「……ただいま」
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声を出した。
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誰もいないのに。
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返事なんて、あるわけがないのに。
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でも。
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「おかえり」
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返ってきた。
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奥の部屋から。
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間違いなく。
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あの声で。
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喉の奥が、ひくりと震えた。
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足が動かない。
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でも。
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逃げる理由も、なかった。
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靴を脱ぐ。
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揃えない。
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揃えなくても怒る人は、もういないはずだから。
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廊下を歩く。
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一歩ごとに、床が鳴る。
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覚えている音。
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覚えている距離。
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覚えているはずのない感覚。
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ドアの前で止まる。
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開ければ、いる。
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開けなければ、いないまま。
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どっちでもよかった。
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もう、どっちでも。
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手をかける。
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開ける。
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そこに、いた。
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あの人が。
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椅子に座って。
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テーブルに肘をついて。
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こっちを見ていた。
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笑っていた。
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あの日と同じ顔で。
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「遅かったね」
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言われる。
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普通に。
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何事もなかったみたいに。
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「……仕事、長引いて」
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口が勝手に答える。
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違う。
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そんな日じゃない。
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今日は。
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そんな日じゃない。
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「そっか」
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あの人は頷いた。
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あっさりと。
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疑うこともなく。
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責めることもなく。
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ただ。
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受け入れるみたいに。
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それが。
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少しだけ、気持ち悪かった。
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いや。
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違う。
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気持ち悪いのは、私だ。
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分かっている。
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全部。
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分かっている。
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ここにいるはずがない。
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もういない。
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いないはずなのに。
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「ご飯、冷めちゃうよ」
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あの人が言う。
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テーブルを見る。
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湯気は立っていない。
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でも。
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温かい気がした。
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手を伸ばす。
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触れる。
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冷たい。
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やっぱり。
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冷たい。
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なのに。
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視線だけが、温かい。
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「……なんでいるの」
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聞く。
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ようやく。
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やっと。
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ちゃんと。
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あの人は、少しだけ首を傾げた。
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「なんでって」
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笑う。
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少しだけ困ったみたいに。
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「帰ってきたからでしょ」
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——。
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息が詰まる。
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そうだ。
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帰ってきた。
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私は。
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ここに。
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帰ってきた。
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あの日から。
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ずっと避けていた場所に。
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ようやく。
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やっと。
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帰ってきた。
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だから。
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いるのか。
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ここに。
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まだ。
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残っているのか。
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「ねえ」
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あの人が言う。
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「今日は、ちゃんと食べてくれる?」
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その言葉で。
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全部、思い出す。
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あの日のことを。
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あの夜のことを。
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冷めたご飯。
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触れなかった箸。
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無視した声。
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苛立ち。
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沈黙。
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そして。
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音。
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鈍い音。
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落ちる音。
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それから。
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何も言わなくなった声。
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何も動かなくなった体。
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何も返ってこなくなった日常。
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全部。
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全部。
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ここに残っている。
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消えていない。
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何一つ。
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「……食べるよ」
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言う。
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小さく。
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ゆっくりと。
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椅子に座る。
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向かい合う。
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あの人と。
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同じ距離で。
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同じ目線で。
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箸を持つ。
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震える。
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少しだけ。
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口に運ぶ。
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冷たい。
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味がしない。
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でも。
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吐かなかった。
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全部、飲み込んだ。
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あの人が、満足そうに笑う。
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「よかった」
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その顔が。
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少しだけ。
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歪んで見えた。
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涙かもしれない。
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視界が。
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ぼやける。
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「ねえ」
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あの人が言う。
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「今日は、ちゃんと帰ってきてくれたね」
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頷く。
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何も言わずに。
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頷く。
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それでいい気がした。
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それだけでいい気がした。
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ここにいる理由も。
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ここにいる意味も。
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全部どうでもよくなった。
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ただ。
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この時間だけが。
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終わらなければいいと。
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そう思った。
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思ってしまった。
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だから。
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私は。
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もう一度、言う。
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最初と同じように。
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何も知らなかった時みたいに。
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「ただいま」
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チャイムが鳴った。
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——ピンポーン。
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その音が、やけに長く残った。




