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ただいま

作者: ニィギンヤ
掲載日:2026/04/27

 チャイムが鳴った。


⸻


 ——ピンポーン。


⸻


 その音が、やけに長く残った気がした。


⸻


 玄関の前で、私はしばらく立ち尽くしていた。


⸻


 帰ってきた。


⸻


 そう思った。


⸻


 帰ってきた、はずなのに。


⸻


 鍵は、かかっていなかった。


⸻


 ドアノブに触れる。


⸻


 少し湿っている。


⸻


 手汗か、雨か、それとも——。


⸻


 考えるのをやめて、回した。


⸻


 開く。


⸻


 空気が、ぬるい。


⸻


 誰もいないはずの部屋に、

 生活の温度だけが残っていた。


⸻


「……ただいま」


⸻


 声を出した。


⸻


 誰もいないのに。


⸻


 返事なんて、あるわけがないのに。


⸻


 でも。


⸻


「おかえり」


⸻


 返ってきた。


⸻


 奥の部屋から。


⸻


 間違いなく。


⸻


 あの声で。


⸻


 喉の奥が、ひくりと震えた。


⸻


 足が動かない。


⸻


 でも。


⸻


 逃げる理由も、なかった。


⸻


 靴を脱ぐ。


⸻


 揃えない。


⸻


 揃えなくても怒る人は、もういないはずだから。


⸻


 廊下を歩く。


⸻


 一歩ごとに、床が鳴る。


⸻


 覚えている音。


⸻


 覚えている距離。


⸻


 覚えているはずのない感覚。


⸻


 ドアの前で止まる。


⸻


 開ければ、いる。


⸻


 開けなければ、いないまま。


⸻


 どっちでもよかった。


⸻


 もう、どっちでも。


⸻


 手をかける。


⸻


 開ける。


⸻


 そこに、いた。


⸻


 あの人が。


⸻


 椅子に座って。


⸻


 テーブルに肘をついて。


⸻


 こっちを見ていた。


⸻


 笑っていた。


⸻


 あの日と同じ顔で。


⸻


「遅かったね」


⸻


 言われる。


⸻


 普通に。


⸻


 何事もなかったみたいに。


⸻


「……仕事、長引いて」


⸻


 口が勝手に答える。


⸻


 違う。


⸻


 そんな日じゃない。


⸻


 今日は。


⸻


 そんな日じゃない。


⸻


「そっか」


⸻


 あの人は頷いた。


⸻


 あっさりと。


⸻


 疑うこともなく。


⸻


 責めることもなく。


⸻


 ただ。


⸻


 受け入れるみたいに。


⸻


 それが。


⸻


 少しだけ、気持ち悪かった。


⸻


 いや。


⸻


 違う。


⸻


 気持ち悪いのは、私だ。


⸻


 分かっている。


⸻


 全部。


⸻


 分かっている。


⸻


 ここにいるはずがない。


⸻


 もういない。


⸻


 いないはずなのに。


⸻


「ご飯、冷めちゃうよ」


⸻


 あの人が言う。


⸻


 テーブルを見る。


⸻


 湯気は立っていない。


⸻


 でも。


⸻


 温かい気がした。


⸻


 手を伸ばす。


⸻


 触れる。


⸻


 冷たい。


⸻


 やっぱり。


⸻


 冷たい。


⸻


 なのに。


⸻


 視線だけが、温かい。


⸻


「……なんでいるの」


⸻


 聞く。


⸻


 ようやく。


⸻


 やっと。


⸻


 ちゃんと。


⸻


 あの人は、少しだけ首を傾げた。


⸻


「なんでって」


⸻


 笑う。


⸻


 少しだけ困ったみたいに。


⸻


「帰ってきたからでしょ」


⸻


 ——。


⸻


 息が詰まる。


⸻


 そうだ。


⸻


 帰ってきた。


⸻


 私は。


⸻


 ここに。


⸻


 帰ってきた。


⸻


 あの日から。


⸻


 ずっと避けていた場所に。


⸻


 ようやく。


⸻


 やっと。


⸻


 帰ってきた。


⸻


 だから。


⸻


 いるのか。


⸻


 ここに。


⸻


 まだ。


⸻


 残っているのか。


⸻


「ねえ」


⸻


 あの人が言う。


⸻


「今日は、ちゃんと食べてくれる?」


⸻


 その言葉で。


⸻


 全部、思い出す。


⸻


 あの日のことを。


⸻


 あの夜のことを。


⸻


 冷めたご飯。


⸻


 触れなかった箸。


⸻


 無視した声。


⸻


 苛立ち。


⸻


 沈黙。


⸻


 そして。


⸻


 音。


⸻


 鈍い音。


⸻


 落ちる音。


⸻


 それから。


⸻


 何も言わなくなった声。


⸻


 何も動かなくなった体。


⸻


 何も返ってこなくなった日常。


⸻


 全部。


⸻


 全部。


⸻


 ここに残っている。


⸻


 消えていない。


⸻


 何一つ。


⸻


「……食べるよ」


⸻


 言う。


⸻


 小さく。


⸻


 ゆっくりと。


⸻


 椅子に座る。


⸻


 向かい合う。


⸻


 あの人と。


⸻


 同じ距離で。


⸻


 同じ目線で。


⸻


 箸を持つ。


⸻


 震える。


⸻


 少しだけ。


⸻


 口に運ぶ。


⸻


 冷たい。


⸻


 味がしない。


⸻


 でも。


⸻


 吐かなかった。


⸻


 全部、飲み込んだ。


⸻


 あの人が、満足そうに笑う。


⸻


「よかった」


⸻


 その顔が。


⸻


 少しだけ。


⸻


 歪んで見えた。


⸻


 涙かもしれない。


⸻


 視界が。


⸻


 ぼやける。


⸻


「ねえ」


⸻


 あの人が言う。


⸻


「今日は、ちゃんと帰ってきてくれたね」


⸻


 頷く。


⸻


 何も言わずに。


⸻


 頷く。


⸻


 それでいい気がした。


⸻


 それだけでいい気がした。


⸻


 ここにいる理由も。


⸻


 ここにいる意味も。


⸻


 全部どうでもよくなった。


⸻


 ただ。


⸻


 この時間だけが。


⸻


 終わらなければいいと。


⸻


 そう思った。


⸻


 思ってしまった。


⸻


 だから。


⸻


 私は。


⸻


 もう一度、言う。


⸻


 最初と同じように。


⸻


 何も知らなかった時みたいに。


⸻


「ただいま」


⸻


 チャイムが鳴った。


⸻


 ——ピンポーン。


⸻


 その音が、やけに長く残った。

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