第9話 平焼きパン地獄と、ちぎる係不足
結び家の朝は、だいたい腹から始まる。
正確に言うと、腹が鳴った瞬間に「全員の善意」が立ち上がる。
「……ぐぅ」
ハルの小さな腹の音。
それは号令ではない。
号令ではないのに、結び家ではだいたい号令になる。
「鳴った!」
レンカが飛び起きた。
「鳴ったな!」
タケルも立った。
「鳴ったね!」
コトが笑った。
「……鳴りましたね……」
端っこでシノが小声で確認する。確認しなくていいのに確認するのがシノだ。
ユリネが布団を跳ね上げて、豪快に宣言した。
「生きてるなら飯! 飯の次に湯!」
今日はそのあとに一言、追加が入った。
「そして今日は! 平焼きパンだ!」
結び家の朝食の定番。手でちぎれる、平焼きパン。
ちぎれる、が大事。ちぎれると、子どもが強い。子どもが強いと、朝が回る。
回る。
回りすぎた。
台所の火は二つある。二つしかない。
二つしかないのに、今日はなぜか火が八つある気がした。
レンカが粉をこねる。こねる手が早い。早すぎる。早いと量が増える。増えると焼きたくなる。焼きたくなると火が欲しくなる。欲しくなると工夫が生まれる。工夫は善意だ。善意は暴走する。
「タケル! 鉄板!」
「おう!」
タケルが鉄板を運ぶ。運びながら、どこかで拾ってきた平たい石まで持っている。
「これも焼ける!」
「焼けるけど、それ焼いたら石も食うことになるよ!」
「石は食わねえ!」
言い合いながらも、置く。置くと焼ける。焼けると嬉しい。嬉しいと増やす。
コトはハルの手を引いて、粉の匂いがする方へ連れていく。
「ハル、きょう、ちぎる!」
ちぎる。助かる単語。ハルは頷く。頷けるのが嬉しい。
シノは台所の端で、例の「奪わない顔」で立っていた。立っているだけなのに、視線がどこか申し訳なさそうだ。申し訳なさそうな大人は、子どもの善意を煽る。
「シノも、食べるよね?」
レンカが言う。
「……え、ええ……」
「じゃあ焼く! 焼く分増やす!」
増やすな。
増えた。
ユリネが鍋にスープを仕込みながら、横目で火を見る。
「おい。誰がそんなに焼くって決めた」
「ハルの腹が鳴ったから!」
レンカが胸を張る。
「鳴ったから!」
タケルも張る。
「鳴ったね!」
コトも真似る。
ハルが小さく言う。
「……ぐ」
「ほら本人も言った!」
「言ってない!」
ユリネが笑った。
「よし。焼け。焼けるだけ焼け。結び家は腹で回る!」
家長が許可を出した。
許可が出た善意は止まらない。
パンが増える。
鉄板の上でぷくぷく膨らむ。
焦げ目がついて、香ばしい匂いが家を満たす。
満たしすぎた。
台所の棚に、パン。
皿の上に、パン。
籠の中に、パン。
欠け桶の横に、パン。(なぜ?)
「ちょっと待って!」
レンカがやっと異変に気づいた。
「焼きすぎた!」
「焼きすぎたな!」
タケルが頷く。
「パン、いっぱい!」
コトが喜ぶ。
シノが小声で言った。
「……食べきれますか、これ」
「食べきれる!」
レンカが即答した。
「食べきれるかどうかじゃない!」
ユリネが鍋のふたを叩いて言った。
「問題は、ちぎる係だ!」
そこで全員が止まった。
平焼きパンは手でちぎれる。
手でちぎれる、が武器。
でも武器は数が必要だ。
焼き係は増やした。
運び係も増やした。
皿係も増やした。
しかし。
ちぎる係を増やしていない。
ちぎるのは地味だ。
地味だから誰も“善意で増やす”対象にしなかった。
善意は派手な方向へ走りがちである。
「……ちぎるの、誰がやるの?」
コトが首をかしげた。
レンカが固まった。
タケルが視線を逸らした。
シノが「俺が」と言いかけて、言わずに飲み込んだ。奪わない人は出しゃばらない。出しゃばらないのに、必要とされると困る。
ユリネが腕を組む。
「ちぎる係、全員だ!」
そして、妙に真顔で続けた。
「これより結び家、緊急ちぎり会を開催する!」
開催するな、とは言わない。結び家において開催はだいたい飯と同義だからだ。
座敷に円ができた。
中央に山盛りの平焼きパン。
左右に皿。
湯気の立つスープ。
そして、全員の手。
「よし。ちぎれ!」
ユリネの号令で、ちぎりが始まった。
ちぎっ。
ちぎっ。
ちぎっ。
音が揃う。揃い方が怖い。けど、ここは怖くない。怖いのは神界の揃い方だ。結び家の揃いは、ただの作業音だ。
レンカが言った。
「ちぎるの、地味すぎる!」
「地味なのが強いんだよ」
ユリネが言い切る。
タケルが一枚を大きくちぎって、得意顔をした。
「俺、でかくちぎれる!」
「でかすぎ! ハルの口入らない!」
レンカが即座に叱る。
コトがハルの手を取って、小さくちぎる仕草を教える。
「ハル、こう。ちょっと、ちょっと」
ハルは集中して、指先に力を入れる。
ぱり、と小さな音。
ちぎれた。
ちぎれた瞬間、ハルの顔がぱっと明るくなった。
「……でき」
「できた!」
コトが先に喜ぶ。
「できた!」
レンカも喜ぶ。
「できたな!」
タケルも喜ぶ。
シノが端で、目を細めた。照れた。照れが出るのが早い。嬉しいが漏れている。
ユリネはそれを見て、ニヤッと笑った。
「ほらな。地味は強い。地味は生活だ」
そこへ、玄関の方から声がした。
「……朝から、いい匂い」
ミナギだった。いつの間に来たのか、回収担当は立ち位置が上手い。邪魔にならない場所に立って、現場が回ってるのを確認する顔をしている。
「ミナギ! 食え!」
ユリネが即答する。
「確認は済んだ。今日はただの寄り道」
ミナギはそう言いながら、座敷の“ちぎり会”を見て、眉を上げた。
「……現場が、パンで溺れてる」
「溺れてない! 泳いでる!」
レンカが言い張る。
「泳ぎ方、下手」
ミナギが刺す。
「うるさい! ちぎる係が足りないの!」
「足りてる。いま全員いる」
ミナギは淡々と言った。淡々が強い。淡々は余計な盛りを止める。
タケルが言った。
「でもさ、焼く方が楽しいんだよ!」
「楽しい方は増える。地味な方が詰まる」
ミナギが言う。回収担当は生活の詰まりを見抜くのが早い。
ユリネが笑った。
「聞いたか! だから結び家は順番だ!」
順番。
言葉が太いと、今日はそれで勝てる。
ちぎり会は続いた。
パンが減っていく。
皿が満ちる。
スープが回る。
笑いが回る。
やがて、パンの山が低くなった。低くなると、人の肩が軽くなる。軽くなると、朝が終わる。
レンカが指を粉だらけにしながら言った。
「結論! 焼き係は増やすな!」
「ちぎる係を増やせ!」
タケルが言った。
「ちぎる係は、最初からみんな!」
コトが元気に言った。
ユリネが鍋のふたを叩く。
「よし! 本日の教訓!」
全員が見る。見ると教訓が入る。入ると明日が回る。
「善意は派手に走る! だから地味を先に確保しろ!」
レンカが真顔で頷いた。
「次からちぎる係、先に決める」
タケルも頷く。
「俺、ちぎる係もできる」
シノが小声で言った。
「……俺も、端っこで、ちぎるなら……」
レンカが即座に返す。
「端っこじゃなくて真ん中でちぎりなよ!」
「真ん中は……」
「真ん中は、生活だよ!」
コトが笑う。
シノは照れた。照れて、でも少しだけ頷いた。
それだけで今日は勝ちだ。
ハルは最後のひとかけらを口に入れて、ふっと息を吐いた。
腹の音が、静かになった。
静かになった腹は、満ちた証拠だ。
ユリネが満足そうに言った。
「よし。今日も生きた!」
そして今日は、寝ろ、は言わなかった。
かわりに、指を鳴らして言う。
「さあ片づけ! 次の善意は、片づけで暴走しろ!」
「暴走しろって言うな!」
レンカがツッコんだ。
笑いが起きる。笑いは増殖しない。
結び家の笑いは、ちゃんとここで終わって、次の順番を呼ぶ。




