第8話 役所の確認係は飯で沈む
結び家の朝は、音が多い。
多いのに刺さらない。刺さらないのは、誰かがちゃんと回してるからだ。
平焼きパンをちぎる音。
鍋のふたが鳴る音。
桶に水が落ちる音。
タケルが走る音。
レンカが叱る音。
コトが笑う音。
ハルの腹が鳴る音。
「……ぐぅ」
「お、今日も報告が早いな!」
ユリネが豪快に笑った。
「生きてるなら飯! 飯の次に湯!」
毎日同じことを言っているのに、言うたびに家が整う。言葉が太いと、順番が勝手に生まれる。順番が生まれると、人は困りにくい。困りにくいと、噂が来ても飲み込める。
噂は来る。
しかも今日は、噂だけじゃなくて、噂の“火元確認”が来る日だった。
庭先の欠け桶の目印の前で、コトがハルの手を引っ張っていた。
「ハル、ここ! ここ、しるし!」
しるし。短い言葉は助かる。助かると、ハルは頷ける。
その“しるし”の向こう、柵の外から足音がした。町の足音。山頂の足音じゃない。町の足音は規則的で、少し硬い。
カナメが門の脇に立って、淡々と言う。
「来た」
スズが裏口から顔を出して、顔だけで慌てた。
「来たって誰!? まさか噂が!? 噂が人の形になって来た!?」
「役所」
「役所ぉ……!」
スズは役所という単語だけで息を詰まらせた。役所は、息を詰まらせる場所だ。神界じゃないのに、役所はどこも似ている。
門の外に立っていたのは、背筋がやけに真っ直ぐな人だった。年は若くもなく、老いてもない。服は地味にきちんとしていて、靴が泥を嫌っている。
手には板。板の上に紙。紙の上に紙。紙の角がぴしっと揃っている。
角が揃っている人間は危ない。
スズが小声で言った。
「……角が……揃ってる……」
「言うな」
カナメが止める。言うと噂になる。噂は増える。
ユリネが門へ出た。出方が豪快だ。豪快は役所に強い。豪快は紙の角に負けない。
「おう! 何だい、朝から顔が固い!」
「霞根町役所の者です。確認のため参りました」
確認係は名乗らない。名乗ると仕事が増えるからだ。役所の人は、名前を仕事にする。名前が出ると責任が出る。責任が出ると紙が増える。紙が増えると角が揃う。角が揃うと怖い。
ユリネは笑った。
「確認? うちの確認は早いぞ。生きてるか?」
確認係が一瞬だけ黙った。質問の種類が違う。
「……ええ、生きておられます」
「よし! 生きてるなら飯!」
「えっ」
「えっ、じゃない!」
ユリネは門を開けて、確認係をぐいっと中へ入れた。入り方が強い。強いのに乱暴じゃない。乱暴じゃない強さが結び家だ。
「確認は飯のあとだ。順番がある!」
「い、いえ、職務としては先に状況を」
「状況は腹だ!」
ユリネが指をさす。指の先にはハルがいる。
「この子、腹が鳴ってる。つまり生きてる。以上!」
「以上では……!」
確認係が反射で板を抱え直した。その瞬間、紙の角がぴしっと揃った。
レンカが後ろから覗き込んで、目を輝かせた。
「すご! 紙が整列してる!」
「触るな!」
確認係が即座に言った。
「触らないよ! でもすごい!」
「すごいと言われるほど、厄介なことが起きているのです」
確認係の声が苦い。苦い声は紙の味がする。
タケルが走ってきて、確認係の靴を見て言った。
「泥つくよ! ここ、生活の泥あるよ!」
「生活の泥……?」
「うん! あと湯気の泥もある!」
「湯気に泥はありません!」
「あるよ!」
タケルはあると言った。タケルは現場の人間だ。現場の「ある」は強い。
コトがハルの手を引っ張った。
「ハル、いっしょ、ちぎる!」
ちぎる。助かる単語。ハルは頷いて、パンの方へ向かう。歩けるのがご褒美。ご褒美があると機嫌がいい。機嫌がいいと泣かない。泣かないと上が盛れない。上は知らない。知らないでいい。
確認係は、その光景を見て、一瞬だけ板の上の紙をめくるのを忘れた。
忘れたまま、口から出た言葉が素だった。
「……紛れている」
ユリネが笑った。
「そうだ。紛れたら勝ちだ。さあ座れ!」
「座るのは調査のあとに」
「調査は座ってやれ!」
ユリネが豪快に言い切った。豪快が勝つと、役所の論理が少しだけ柔らかくなる。
確認係は、渋い顔のまま座った。座ってしまった時点で負けだ。役所の人は、座ったら生活に飲まれる。
飲まれた。
レンカが皿を置く。
「はい、皿」
「いえ、私は」
「はい、皿!」
レンカの手が早い。早い手は断りを追い越す。
コトがパンをちぎって、確認係の前に置く。
「はい」
「……はい?」
「はい!」
はいが二回来ると、人は受け取るしかない。
タケルが水を置く。
「飲む!」
「……飲みます」
確認係は飲んだ。飲んだ瞬間、眉間のしわが一ミリ薄くなった。水は偉い。水は紙を柔らかくする。
ユリネが鍋をどん、と置く。
「スープ!」
「……これは」
「具だくさんだ! 生きてるなら具!」
「具という概念は職務に」
「具は職務だ!」
ユリネは堂々と言い張った。
結び家では、堂々と言い張る方が勝つ。
確認係は、スープを一口飲んだ。
その瞬間、肩が二ミリ下がった。二ミリは事件だ。役所の肩が二ミリ下がるのは、書類が一枚減ったのと同じくらい尊い。
レンカがにやにやして言った。
「ねえ、役所の人。角、揃えなくていいよ?」
「揃えます」
「なんで」
「揃えないと、落ち着かないのです」
「落ち着かないの、かわいい」
「かわいくありません!」
確認係の声が少し大きくなった。大きくなると、結び家の空気に近づく。近づくと、もう戻れない。
スズがこっそり耳打ちした。
「……ね、カナメ。今、役所が生活に負けてる」
「負けてる」
「いいの?」
「いい。噂が燃える前に鎮火する」
カナメは淡々と言う。見張り番は火の扱いが上手い。火は水で消すより、飯で鎮火することもある。
確認係は、板の上の紙を見た。見たまま、スープの湯気が目の前を横切る。湯気が“贅沢にもっくもく”ほどじゃない。ほどほどの湯気だ。ほどほどが一番助かる。
「……確認事項、第一」
確認係がようやく仕事に戻ろうとした。
ユリネが即座に答える。
「生きてる!」
「第一、山頂の現象について」
「山頂は山頂だ!」
「現象の内容を」
「音がきれいだったり、匂いが良かったり、湯気がもっくもくだったり!」
レンカが横から言った。
「それは結び家です!」
確認係が即座に訂正した。
「でも全部、ちょっと良すぎ!」
レンカが言った。
「良すぎは危険です」
確認係が言った。
「危険なの?」
コトが首をかしげる。
「危険というか……噂が増えます」
確認係が言った。
「噂、増えるよ」
タケルが当たり前みたいに言う。
「増えたら困るのです」
「困るなら、順番だ!」
ユリネが言った。
「順番を回せば、噂は回る場所を見つける。回る場所がない噂だけが燃える。燃えるなら飯だ。飯を食え。食えたら湯だ。湯のあとは寝ろ!」
言い切った。
確認係は、板の上の紙を見た。見たまま、ペンを持ち上げて、書いた。
カリカリ、と音がする。
紙の角が、少しだけズレた。
ズレた角は、なんだか安心する。
「……報告書の文言が難しい」
確認係がぽつりと言った。
「難しいなら短くしろ!」
ユリネが言った。
「短くすると、上がうるさい」
確認係が言った。上とは町の上司のことだ。神じゃない。神ではない。ここ大事。
「うるさいなら、もっと短くしろ!」
ユリネが豪快に笑った。
確認係は、結び家の空気に押されて、結局こう書いた。
『結び家、生活機能により受け入れ良好。噂はあるが、順番により鎮火傾向。現場介入は不要。継続観測。』
真面目な文章なのに、なぜか「飯」が行間から漏れている。
確認係は書き終えて、板を抱え直した。角を揃えようとして、ふと手を止めた。
揃えると、また固くなる気がした。
固いのは仕事。
でも固いままだと、ここでは息ができない。
息ができないと、腹が鳴らない。
腹が鳴らないと生きてないみたいで、結び家が怖い。
確認係は、角を揃えるのをやめた。
レンカが目を丸くする。
「やめた!」
「やめてません。今日は……ほどほどにしただけです」
「ほどほど、偉い!」
「偉いと言われると困ります」
「困ったら飯だ!」
ユリネが即答した。
確認係は、二口目のスープを飲んでしまった。
負けだ。完全に負けだ。
ハルは、その様子を見て、ふっと笑った。
笑いは増殖しない。結び家の笑いは、ちゃんとここで終わる。
終わる笑いは、また次を回せる笑いだ。
確認係は立ち上がった。立ち上がり方はまだきちんとしてる。でも眉間のしわは薄い。
「本日は、確認しました」
「確認できたな!」
ユリネが胸を張る。
「生きてる!」
「生きてますね……」
確認係が小さく負けを認めた。
門の外へ出る前に、確認係は欠け桶を見た。欠けた角。目印。
「……あの桶は」
「うちの目だ!」
ユリネが言った。
「目があれば迷子にならない。迷子にならなきゃ泣かない。泣かなきゃ飯がうまい!」
理屈が強い。強すぎる理屈は、もう宗教だ。宗教じゃない。生活だ。
確認係は、最後に一言だけ言った。
「……噂は、燃えていました」
「燃えたら飯だ!」
ユリネは揺るがない。
確認係は、苦笑して帰っていった。紙の角は揃っていない。揃っていない角が、町へ帰っていく。たぶん、町の役所でまた揃えたくなる。揃えたくなるけど、結び家のスープの味が邪魔をする。
それでいい。
噂は、今日も来る。
でも、結び家は今日も回る。
回るなら、明日が来る。
ユリネが鍋のふたを叩いて言った。
「よし! 生きてるなら、もう一回飯!」




